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「お土産は?」「チョコレート」・・・堀口大学
2008年09月24日

「お土産は?」「チョコレート」・・・堀口大学


あの、作家三島由紀夫が若い頃もっとも強い影響を受けたのが堀口大学が訳したレーモン・ラディゲの『ドルヂェル伯の舞踏会』(昭和6年/白水社刊)だったといわれています。堀口大学は大正14年(1925)、フランスの66人の詩人の340の詩を「ただ訳してこれを国語に移しかへる快楽」のためというだけの理由で、自分の感性と好みとを物差しにして選び訳した『月下の一群』(第一書房刊)で、日本の近代詩に圧倒的といえる影響を残しています。

その堀口大学が46歳の昭和13年(1938)夏、野尻湖畔のホテルで1人の少女に出会います。少女はホテル経営者の遠縁の娘で当時18歳。大学はこの少女に一目惚(ぼ)れしてしまいます。

秋風の立つころ、東京へ帰らなくてはならない大学は少女の両親に、一生しあわせにするから迎えに来るまで結婚させないでほしい、と申し込みます。
 少女の両親はもちろん大反対です。両親は娘のために許婚者(いいなづけ)を決めていました。しかし少女は兄1人に見送られて先生を(大学をたずねて野尻湖にやって来る弟子や書生にならって「先生」と呼んでいたのです)追って上京します。
 少女が大学と結婚できたのは、それから1年ほどたってからでした。大学には当時、一緒にくらす女性がいたのです。
 後年、「30才近くも歳の違うひととどうして結婚する気になったの」と娘にきかれた母親になった少女は答えます。
 「金色夜叉の宮さんはダイアモンドに目がくらんだけれど、私はチョコレートに目がくらんだのよね」
 湖畔のホテルに滞在していた大学はときどき帰京することがあり、そのたびに「お土産は何がいい」と少女にたずねました。少女の答えはきまって「チョコレート」だったのです。すると先生は大きな板チョコを100枚もかかえて帰ってきたそうです。

参考: 堀口すみれ子 『虹の館---父・堀口大学の思い出』 かまくら春秋社
               『日本近代文学事典』 講談社


at 06:00 | Category : チョコレート人間劇場
食の大正・昭和史 第二回
2008年09月24日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年--- 第二回

                              月守 晋

■明治天皇崩御と大正時代の始まり
 
志津さんがあと2ヶ月で満1才になる(当時は数え年だったので、正月を越したところで2才と勘定された)という7月30日、天皇が崩御(ほうぎょ)された。嘉永5(1852)年9月22日(太陽暦では11月3日)生れだから61年の波瀾の生涯をおくられたことになる。20日の『官報』号外で宮内省が発表した病状は「37年以来の糖尿病、39年以来の慢性腎臓病、現在は尿毒症」というものだった。

明治天皇のご葬儀(大喪)は東京青山葬場殿で9月13日に行われたが、その当日、陸軍大将・伯爵・学習院長乃木希典(のぎ まれすけ)夫妻が遺言を残して殉死(じゅんし)した。生方敏郎(1882?1969)の『明治大正見聞史』には天皇崩御と乃木夫妻の殉死に一般の人びとがどのように反応し、一方で新聞がどのように報道したかを具体的に書いていて興味深い(中公文庫昭和53年刊)。
 
■大正時代の開幕

明治天皇が午前0時43分に崩御されると、皇室典範によって嘉仁皇太子が践祚(せんそ)された。践祚式は午前1時に終わり、元号も「大正」と改められ、新しい時代が始まった。

この年7月は連日猛暑が続き、明治天皇崩御前後の十数日はセ氏32°?34°という異常高温だったという。前年から続く米の騰貴は修まらず、7月には1升(=1.5kg)が31銭8厘と過去最高を記録した。小学校では弁当を持参できない児童がふえ、弁当の盗難が多発した。近頃中学生で“ホームレス”になったお笑い芸人の告白本がベストセラーになったけれど、大正初期には低所得者層の家庭が生活を維持できなくなり、一家離散に追いこまれるケースがふえている。

この年雑誌「婦人の友」が老人1人、夫婦に8歳と5歳の子供2人の5人家族、1日の献立費用35銭という条件で1週間の献立を作るという懸賞募集をした。1等賞金5円というこのコンクールの入選作が6月号に発表されたが、1等の献立は味噌汁、豆腐、魚のほかジャガイモのバター焼き、コロッケ、キャベツの漬物などバランスのとれたものだったという。

日露戦争(明治37.2?38.9)の影響が物価にも強く残っていて、明治33年の値段を100として、45(大正元)年には米177、大豆142、小豆176、味噌181、鰹節125、鶏卵130というぐあい。下がっているのは醤油93、牛乳84、たくあん77くらいのものだった。(東京物価品別平均指数/商業会議所調)

当時、大工の日当が80銭で、左官は少しよくて83銭。仮りに大工の家庭で食費に1日35銭かけるとすると、エンゲル係数は44パーセントということになる。家賃や衣服代、水道やたきぎ・炭代など他にも生活経費はかかるので、とても食費に35銭などかけてはいられないだろう。

銭湯の入浴料金が東京で大人が3銭、全国の49都市に普及したガス料金は1立方メートル6銭4厘だった。(『値段の明治・大正・昭和風俗史』朝日文庫)

さて神戸は、1868(慶応4=明治元)年に外国との貿易港として開港して以来、外国文化が居留地の外国人と共に入りこんだために生活文化の面でも“日本最初の”と形容される事柄が多々ある。例えば明治17年に日本初のミネラルウォーター「平野水」が売り出されたし、ゴルフ場はイギリス人たちが六甲山に36年に開設したのが最初である。

  参考: 『神戸と居留地?多文化共生都市の原像』 神戸新聞総合出版センター
       『新聞集成大正編年史』


食の大正・昭和史 第一回
2008年09月10日

食の大正・昭和史 --- 志津さんのくらし80年 --- 第一回


■ 誕生

志津(しづ)さんは明治44(1911)年9月23日、当時の表記で神戸市林田区金平町でこの世に生を受けた。父傅(でん)治、母みきの 6女として10月2日に出生届が出された。

この年1月18日、大審院(最高裁判所)は幸徳秋水(こうとくしゅうすい)ら大逆事件(天皇の暗殺を企てたという冤(えん)罪事件)の被 告24人に死刑判決を下し翌日12人を無期に減刑、24日に11人を、25日には被告人中ただ1人の女性囚だった菅野スガ(31才) を処刑してしまった。年明け早々から波瀾ぶくみの年だったのだ。

この年も前年に引きつづき、米価が高騰して人びとの生活を苦しめた。43年には天明の大飢饉(天明3年<1783>から7年までの5年間)以来といわれる大水害が東北・関東・関西・九州を襲い、米の収穫量が700万トンを割った。

※日本人の1人当たりの米の消費量は、明治30年代に2.8合(ごう)(1升(しょう)=10合=1.5kg)になったという。年間に 直せば1石(こく)=150kgだ(本間俊朗『日本の人口増加の歴史』)。
[※1人当たりの米の消費量は、大正時代の後期にピークをむかえ3.1合に達した(前掲書)]
 
収穫高が減る一方で消費量が増えれば、当然価格は上がる。おまけに取引市場で儲けをねらう買占めが横行し、相場は高騰、暴騰をつづけ 、ついに7月、政府は取引中止を命令する。一方で外国米の緊急輸入を実施、高い国産米を買えない貧困層を救うために輸入外米を売り出した。

明治中期ころから東京では残飯屋という商売が繁盛した。残飯の供給先は士官学校の厨房(ちゅうぼう)や竹橋・赤坂・麻布などに置かれていた陸軍聯隊の兵舎の調理場だった。
朝8時、昼12時半、夜8時と1日に3回担い桶(にないおけ)や醤油樽を大八車にのせて仕入れに回る。買い値は残飯15貫(貫≒3.75kg、15貫≒56.25kg)が50銭。売り値は1貫5?6銭。買い手はどんぶりや小桶を持参して1銭分、2銭分と買ってゆくのである。

味噌汁や漬け物、煮しめなどのお菜も引き取って帰り売りさばいた(『最暗黒の東京』松原岩五郎/岩波文庫)。外米にも手の出ない極貧に苦しむ人びとが買い手だった。ちなみに当時、国産米1升が23銭から
25銭、サイゴン (ベトナム)米はその半値ほどだった。

戦死者だけでも12万人、國の税収の5年分以上を費やした日露戦争(明治37?38年)の影響も強く残っていたし、社会一般のくらし はハードなものだったけれど、いろいろな人がなんとかくらしをもっと豊かな、余裕のあるものにしようという試みを実行に移してもいた。

■ 日本で最初のカフェ開業

明治44年4月、東京銀座の日吉町にカフェ・プランタンが開業。経営者は有名な洋画家だった松山省三(せいぞう)。軽飲料にウイスキー やビール、ビフテキはハンバーグ、マカロニといった料理も出した。コーヒー15銭、ビフテキ25銭、マカロニ20銭という値段だった 。(松山重子『おとうちゃんは女形国太郎』)

プランタンが大繁盛したので同じ年の8月銀座尾張町角にカフェ・ライオン(築地の精養軒の経営)、京橋の南鍋町にカフェ・パウリスタ が開店した。

コーヒーの15銭は当時、もりそば、かけそばの3銭5厘(りん)にくらべればずいぶんと高い。前年の43年11月に横浜市の元町で不二 家が開業しているが、コーヒー、紅茶、デコレーションケーキ、シュークリームなどどれをとってもみな3銭均一だった。カフェは文士や 画家、役者、芸人、新聞記者など大人(おとな)の男たちの集まる場所だったが、一般大衆の感覚としてはコーヒー1杯3銭でも高いと感じたろう。
 


チョコレート買いに地獄へ ---- 寺山修司
2008年09月10日

チョコレート買いに地獄へ ---- 寺山修司


寺山修司が亡くなったのは1983(昭和58)年5月4日のことで、肝硬変と腹膜炎に肺血病を併発したためでした。享年わずかに47。若死です。

1935年生まれの寺山と同時代を生きた者には寺山修司の名は、ことに多少とも文学の途に関心をもっていた者には恐るべき名前でした。
当時「蛍雪時代」という受験雑誌がでていましたが、その詩や短歌、俳句の投稿欄の受賞、入選作の常連が寺山で、天・地・人の3賞を独占ということすらあったくらいでしたから。

寺山が亡くなって10年経った93年12月、彼が「生前に構想した」という角書き(つのがき)付きの同人誌が深夜叢書社から出版されました。「雷帝 Raitei」とタイトルを与えられたこの雑誌にはしかし、「創刊終刊号」と銘打たれていました。つまり、1号ぽっきりの雑誌だったのです。同人は倉橋由美子、齋藤愼爾、宗田安正、寺山修司、松村禎三、三橋敏雄。これには寺山の詩・劇中挿入短歌12首(「わが地獄変」)、単行本未収録作品の19編が掲載されています。

ところがこの3月(2008年)、『月蝕書簡』と書名を付けられて、「晩年に書きためた」という未発表の歌集が出版されました。田中未知編、版元は岩波書店です。

冒頭に掲げたのはその中の一首です。「チョコレート買いに地獄へ行く」、の後に「姉の帯留赤し瀆されにけん」と続きます。
「地獄へ買いに行く」というチョコレートとはどんなチョコレートなのでしょう。そして「瀆されてしまっただろう姉の帯留」へと続く一首でどのような詩世界を作ろうとしたのでしょうか。

前半と後半をどのような想いがつないでいるのか、つかみとれないのです。


at 09:30 | Category : チョコレート人間劇場
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