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アラン・シリトー
2008年11月28日

6. おふくろはさよならと言うと、陽の降りそそぐ、小石で舗装した道路を戻って行った。
ぼくたちはパイとチョコレートをもらい、バスに案内された。 ------- アラン・シリトー

「疎開」という言葉があります。いま、60代の後半以上の年齢の世代ならば、ご自分が体験なさった方も多いでしょう。岩波国語辞典<第四版>には「敵襲・火災などによる損害を少なくするため、集中している人や物を分散すること」と解説されています。

太平洋戦争(1941(昭和16)-45(同20)年)中の日本では44(昭和19)年8月から学童の疎開が始められ、8月22には沖縄からの疎開船対馬丸がアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、学童700人を含む1500人が死亡しています。疎開中にアメリカ空軍の都市空襲によって両親を失った学童もありました。

ヨーロッパでは1939年9月、ドイツの陸・空軍がポーランドに侵攻し第2次世界大戦が始まりますが、イギリスではその前年の秋、学童にもガス・マスクが支給されました。

1950年代の“怒れる若者たち”を代表するイギリスの作家アラン・シリトーは、ロンドンから180km北西の、ノッティンガム市で生まれ育ちましたが、39年9月、3人の弟や妹とともに疎開を経験します。28年生まれのシリトーはこの年10歳、父親は戦争のおかげで失業から救われたばかりでした。

疎開先はノッティンガムの北、27マイルほど離れた炭鉱町ワークソップで、疎開当日は「子供を運び出すために町じゅうのバスが調達された観」があったと回想しています。

きょうだい4人は4軒の家に割り当てられましたが、シリトーを引き受けてくれたのはサンドヒル街32番地のカッツ家で、主人はリヤカーに野菜や果物をのせて売り歩く行商人でした。夫妻は陸軍の少年兵になっている16歳の息子の部屋を使わせてくれました。

「昼食時間に遅れないように帰宅すること」というのが唯一のルールだったこの家で、シリトーは「新しい気持ちのいい生活に夢中になっていた」といいます。毎土曜日にはお小遣いを3ペンスもらい、アルバートというベッドを分け合う疎開仲間もできます。数週間後、弟妹たちにも再会しますが、みんな土地の人の援助や母親の送金のおかげでノッティンガムを出たときより、小ざっぱりした服装をしていたのでした。疎開バスに乗るとき、シリトーの持ち物といえば鞄と着替えのシャツ1枚、『モンテクリスト伯』の本1冊、紐の切れたガス・マスクのケース、だけの着たきり雀だったのです。

その後彼は学校にも通わせてもらい、国語の作文で4ペンスのほうびをもらったこともありました。

カッツ家でシリトーは良い経験も悪い経験も味わいますが、ここでの生活は3ヶ月で終わりました。

シリトーは15歳から働き始めますが、就職して自転車を買った彼はある日曜日、ペダルを踏んでカッツ家を訪れ、ミセス・カッツにシチューをふる舞ってもらいます。

1957年『土曜の夜と日曜の朝』によって作家として認められたシリトーは疎開した年の28年後、雑誌にこのカッツ家での生活の様子を語ったエッセイを発表し、それがきっかけで、72歳になっていたカッツ夫人と文通によって再会します。ミスター・カッツと死に別れた夫人は再婚し、ミセス・ホールと姓を変えていましたが2度目の夫にも死別して1人ぐらしの身になっていました。それでも、陸軍少年兵だった息子が無事帰還し、彼女は19歳の孫娘を持つ“おばあさん”になっていたのでした。

日本の学童疎開については、多くの人が回想記を書いています。当時の子供たちがどんな日々を過ごしたのか、あなたにも知ってほしいと思います。

参考 : 『私はどのようにして作家となったか』 アラン・シリトー/出口保夫訳/集英社


食の大正・昭和史 第九回
2008年11月26日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年--- 第九回

                              月守 晋


この原稿を書いている神奈川県の地方都市では、いまでも週に何回か独特のラッパの音色を響かせて豆腐屋が回っている。豆腐屋がラッパを吹きはじめたのは明治37?38年の日露戦争以後のことで、ロシア帝国(当時)との戦争に勝って戦勝気分で吹きだしたんだ、と秋山安三郎『下町今昔』に書いてある。

秋山安三郎は明治19年東京浅草の生まれ、記者生活50年で劇評・随筆で活躍した(昭和50年死去)。

東京の下町では真夏の夕方、陽が沈んで暗くなり始めたころ「まめやぁ枝豆」とゆでた枝豆をザルに入れて呼び歩く枝豆売りの小母さんが来たという。

志津さんの子どものころの神戸でも家の前の通りや裏路地を、さまざまな行商人がそれぞれに独特の売り声を上げて回ってきた。

金魚売り、風鈴売り、風船売り、花売り、豆腐屋、竹竿売り、それに魚屋。

朝早く町屋を回ってくる行商人に「いわし売り」がいた。まだ生きていて、ざるの中でぴんぴん跳ねているいわしを「小母さーん」と追っかけて買ってくる。ざる1杯が2銭から5銭くらい。すぐに腸わたをとってうろこをよく洗い落とし、頭はついたままのを醤油とみりん、お酒でさっと煮つける。これが朝食のお菜になる。

“神戸っ子”の歴史学者直木孝次郎(なおきこうじろう)氏も「神戸でうまいものは牛肉だけではない。瀬戸内海の生きのよい魚がある。・・・・・・季節によっては「大鰯(いわし)のとれとれー」という呼び声が巷に流れていた」と書いている(『伝承写真館 日本の食文化?近畿』農文協編/P.P 170?171)


■ 豊かな瀬戸内海の魚類

兵庫県は唯一、県域の南北が海に接し海産物に恵まれている。日本海と瀬戸内海ではとれる魚類が違い、それだけ多くの種類の魚介類を県民は楽しめることになる。

神戸市では明治40(1907)年に魚介類卸売市場として兵庫南浜魚市場が開業したのにつづき駒ヶ林魚類定市場(林田区)が42年に、大正元年に脇浜魚市場(葺合区)、同6年に神戸魚市場(湊東区)、同8年に湊川海産物問屋(湊東区)、そして11年に宮前魚市場(兵庫区)が設立されている。

いっぽう、市民が日常生活に必要な品々を安定して安い価格で手に入れられる市場が人口の増加や生活の近代化・多様化にともなって必要になってくる。

神戸市に米、肉類、魚類、乾物、野菜、果物、味噌、醤油、漬物、砂糖などの食料品や雑貨、薪炭、文房具など日用の生活品までを小売する公設市場が市会決議をへて開設されたのは大正7年11月開設の東部公設市場(旭通)と中央公設市場(湊川公園内)が初めてである。

その後大正15年までに芦原(8年兵庫区)、熊内(9年葺合区)、三宮・宇治川(9年神戸区)、長田(11年林田区)、西須磨・東須磨(12年須磨区)、西代(13年須磨区)、中山手(15年神戸区)が開設され、昭和10年の灘区・灘公設市場の開設で終わっている。

公設市場では江戸期以来の“盆・暮れの年2度払い”とは違い現金即払いだから、毎日この市場を利用するとなると計画的に買物をしなくてはならない。売るほうも毎日の仕入れ量を予測を立てて計画的に行うようになる。公設市場は日給にしろ月給取りにしろ、賃金労働者が大部分の都市生活者に新しい近代的な生活者意識をうえつけていった。

公設市場の成功は私設小売市場の普及と発達という好影響ももたらした。現在でも大中小都市に“○○銀座”とか“XXアーケード街”とか地域の中心になっている小売商店街が残っているけれど、神戸には昭和6年3月現在で12の公設市場と75の私設小売市場ができて市民の消費生活を支えていたという(『神戸市史?/第三次産業』)。

さて、話をもどそう。

志津さんが子どものころ、瀬戸内海沿岸でとれた魚貝類は次のようなものだった。

いわし めばる
べら あなご
さわら いかなご
かれい たちうお
あじ たこ
かに えび
大貝 まて貝
いたぼがき 青のり
(以上『日本の食文化?』)


『神戸市史』には上に掲げたほかに、神戸市域の漁(明治期)として次の各種が記されている。

はも このしろ こち
くろだい はぜ さっぽ
どろめん いな すずき
あぶらめ せと貝 わかめ

直木教授のエッセイにはくじらを食べたことも書かれている。引用しておこう。

「神戸ではくじらもよく食べた。<中略>冬場、その赤肉をかたまりで買ってきて小口から小さく切り、水菜といっしょにたくのである」(前掲書「食は神戸にあり」p.170)。


開高 健
2008年11月12日

6. 「・・・・・・比べると、マリリン・モンローとその骸骨ぐらいの違いがある。」
                                    ------- 開高 健

1965年2月14日午後0時35分、作家・開高健は南ベトナムのジャングルの中にいました。その日は午前4時に起き、5時にベーコン・エッグスと熱い紅茶、アップル・ジュースの朝食を終え、20台の大型軍用トラックに分乗した3大隊500名の南ベトナム軍兵士と共に基地を出発、6時には目的のジャングル入口のゴム林に到着しました。

作戦目的は恐ろしく強力なことで有名なベトコン第303大隊500名を殲滅すること。南ベトナムの大隊にはアメリカの“軍事顧問”と呼ばれた9名の将校・兵士が同行していました。そして日本の、朝日新聞社報道特派員開高健と同社出版写真部員、開高が“秋元キャパ”と呼んでいた秋元啓一カメラマン。

12時半、指揮官のトゥ中佐が大喜びで声を上げます。黒の農民シャツ、ライフル銃弾、ピストル銃弾、30数発の手製・アメリカ製手榴弾(しゅりゅうだん)、数キロの米が隠してあるベトコンの補給庫を発見したのです。南ベトナム軍の兵士たちはピャウピャウパウパウはしゃぎながら木枠の中味を自分たちのバッグの中に入れ、米を地面にばらまき、箱を壊しました。

5分後。周囲のジャングルの至近距離からマシン・ガン、ライフル銃、カービン銃の銃音がひびきました。

開高と秋元カメラマンが行動を共にした第一大隊の200名は、ベトコン、ベトナム民族解放線前側の至近距離からの乱射で生存者17名になっていました。開高と秋元キャパは水を一口ずつ飲みあい、シャッターを押してお互いの写真を撮り、枯葉の上に身を横たえ脱出の機会を待ちました。

太陽の光が薄れ、ジャングルが薄暗くなりかけた6時ころ、生き残った17名は必死の脱出を始めます。作家とカメラマンはバラバラに別れ、再開できたのはその日の深夜近くになってからでした。

作家はこのジャングルでの体験を含む約100日間のベトナム滞在をルポタージュとして「週刊朝日」に連載し、これは後に『ベトナム戦記』として刊行されました。また高い評価を得た小説『輝ける闇』の主調音となっているのも、ベトナムでの体験です。

さて冒頭の一節、何に「比べ」てかというと、「それまで食べてきたチョコレート」です。作家はそのチョコレート、フランス語でショコラをベルギーはブリュッセル郊外の、鬱蒼(うっそう)たる森の中のレストラン、ラ・ロレーヌで味わいました。それは“ダーム・ブランシュ”、白い貴婦人と名付けられたデザートでした。

作家は料理長になぜこんなにうまいチョコレートができるのか、その理由を訊いてみました。料理長の答えは以下の通りです。

まず豆を選ぶこと。極上のものはコンゴ(現ザイール)の植民地時代に開発したカカオ畑から採れる。その豆を温度・湿度を一定に保ったストレージルームで保存する。豆は客が来てから炒ってすり潰す。すり潰すにはドイツとスイスでしか造れない機械でなくてはダメなのだ、と。

  《出典:『小説家のメニュー』中公文庫》
  〈参考〉 『ベトナム戦記』朝日新聞社
       『米国防総省秘密報告書』朝日ジャーナル、1971年8月10日臨時増刊号
       (ニューヨーク・タイムス紙の特報の全訳)
       『ベトナム戦争報告』 D.エルスバーグ/筑摩書房/1973年


at 11:18 | Category : チョコレート人間劇場
食の大正・昭和史 第八回
2008年11月12日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年--- 第八回

                              月守 晋


小学校に上った志津さんの得意科目は国語だった。すぐ上の姉(実際には叔母だが)多加が明治38年生まれだから、志津さんとは6つ離れているし、その上の35年生れの喜代とでは9つも違う。

主にめんどうを見てくれたこの姉たちが、片仮名の読み方を教えてくれたので、1年生になったときはイロハ47文字をほぼ読めるようになっていた。他に好きな学科は図画だった。後年、志津さんの1人娘緑子が美術大学に進学するが、その素質は志津さんゆずりだったのかもしれない。

明治時代の小学校では学業成績の優秀な生徒に賞状と賞品を与えることが全国的に行われていた。また品行方正(行いの正しい者)、皆勤無欠席、精勤(よく努力する)などの名目でも表彰された。

賞品として与えられるのは翌年の教科書がもっとも多く、習字用の半紙(1帖(じょう)20枚)、筆記帳、硯箱(すずりばこ)や字典なども与えられている。

賞状・賞品の授与は大正時代に入るとぐんと少なくなった。賞状賞品目的の勉学になりがちな点が反省され、学習の達成度に優劣順をつけて評価することの教育効果を疑問視する声が大きくなったためである。

われらが志津さんが賞状を受け賞品を授与された、という話は残念ながら聞いていない。まあそこそこの成績に、子どもらしいふつうの生徒だったのだろう。


■ 9月入学の小学校

「田舎町の生活誌」と副題のある古島敏雄著『子供たちの大正時代』を読むと、大正時代の小学校には“桜の花の4月”入学ばかりでなく“紅葉の秋9月”に新1年生を入学させる地方もあったことがわかる。

4月入学のばあい、前の年の4月2日から今年の4月1日までに生まれた数え年7歳(昭和25(1950)年1月1日から満年齢が実施された)の児童が新1年生として入学した。この制度に変わりはなかったが、著者が生まれ育った長野県伊那郡飯田町(現飯田市)では4月から9月末日までに生まれた児童を数え7歳になった9月に入学させたのである。

4月?9月生まれの児童数と10月?3月(4月1日を含む)生まれの児童数とを比べるとほとんど同数だったが、9月入学児と翌年の4月入学児の児童数とでは4:15と圧倒的に4月入学児のほうが多かった。「これは実際秋に入る筈(はず)の月に生れた人たちのなかで、親の計らいで翌年4月に入学した人の多かったことを示すのであろう」と古島教授は書いている。

明治45年(1912)年4月14日生まれの著者は大正7年9月に小学へ入学し、13年4月1日からは中学生になった。本来なら小学校卒業年は13年7月だから、中学校へは半年の飛び級で入学していることになる。しかし同級生のうちの中学進学者2人と女学校進学の3人は翌年4月に入ったという。つまり半年間は高等科へ行くなどして待機していたのだ。

飯田町の秋季入学制は著者の入学した年を最後に2年間で廃絶された。やはり全体の教育体系の中で続行するのは無理だったのだろう。


■ 子供の遊び

志津さんの子どものころの女の子の遊びといえば、なわ跳び、お手玉、通しゃんせ、陣取り、けんけんなどであった。近所の遊び仲間となわ跳びやけんけんをして遊んでいると、紙芝居屋の小父さんが回ってくる。お話は時代物が多かった。

半澤敏郎編著『童遊文化史』(全4巻+別巻1/東京書籍)には「大正全期の女児」の遊戯として60種類が掲げられている。生前の志津さんが子どものころに遊んだ経験のあるものに○印をつけてもらったのが、次に掲げる遊びである。

おてだま まりつき
おはじき いしけり
なわとび かくれんぼ
ままごと じんとり
あやとり カルタ
おにごっこ はねつき
たけあそび はないちもんめ
ハンカチおとし とおりゃんせ
うまとび すごろく
たけうま ちよがみ
めんこ じゃんけんあそび
ビーだま じてんしゃ
ブランコ トランプ
かごめかごめ さみせん
ぬりえ

いまこの文章を書いている筆者(昭和10年生れ)にも、「たけあそび」と「さみせん」がどんな遊びなのか見当がつかないのだが、この時代の子どもの遊びの特徴として次の2つのことが上げられるだろう。

 1. 室内ではなく外で遊ぶ遊戯が多い。
 2. 1人遊びではなく複数の友達と遊ぶことが多い。


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