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食の大正・昭和史 第十三回
2009年01月08日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年--- 第十三回

                              月守 晋


昔の子どもは家の手伝いをよくした、という。この“昔”は昭和20年代くらい、せいぜい下っても30年代前半ぐらいまで、の意味である。

手伝いの中味は家の内外の片付けや掃除、買い物、親戚や近所の付き合いのあるお宅へのお使いなどといったことが主なものであろう。

八百屋や雑貨の小売り、あるいは手工業的な製造を家業として営んでいれば、当然のこととして子供は親の手助けをした。

現在では薬は医者に処方してもらった処方箋を持って調剤薬局に行くか、街中のいたるところに店を構えているドラッグストアで必要な薬を手に入れるというのが一般的だが、昔ながらに“富山の置き薬”を利用している家庭も少なからずある。

置き薬の主なものは「腹痛の赤玉、かぜの頓服、水当たりに仁丹、化膿した傷につけるたこの吸い出し(たこの絵の袋に入っている)、頭痛の時のノーシン、貝の容器に入った傷薬の赤膏薬、竹の皮包みのひび・赤ぎれ膏、虫下しのセメンエン」などであった(『くれぐしの里 ?奥会津回顧-』五十嵐キヌコ/書肆舷燈社)。 

これらの薬は富山で家内工業として製造されていたから、神戸のマッチ製造と同じように、外稼ぎに従事していないおばあさんや母親、子供たちが袋状の印刷、のり付けなどを手伝った。納税証明の印税を、女学校から帰ってきた娘さんが1枚1枚薬袋に貼りつけるのを手伝った(『反魂丹の文化史-越中富山の薬売り-』玉川しんめい/晶文社)。

同書によると、大正の末期に内職でやる袋貼りは小袋1000枚が3銭、1日に3000枚貼るのがやっとで日稼ぎ9銭になったという。また昭和3年の調査で富山県内の売薬製造場数が法人ではなく個人資格で
1021個所に対し、職工数は男女合わせて2472人だった。つまり1つの製造場に2.4人の職工が働く零細企業だったということである。

話がそれてしまったが、静さんのくらしに戻そう。

養母の内職を学校へ行く前と帰ってからと手伝いをすると、お小遣いがもらえた。お小遣いは自由に使えて、近所の店でお八つを買うこともできた。

静さんの家の近所にあった駄菓子屋に並んでいたのは鉄砲玉と呼んでいた真っ黒な、2cm大のアメ玉やイモヨウカン、ニッケ、ラムネ、ミカン水などだった。ミカン水は透明で甘味が少なく5厘から1銭、ラムネはミカン水より少々高くて3銭で、飲むと胸がすーっとした。

『子供たちの大正時代』(古島敏雄/平凡社)には「饅頭は一つ一銭位、一銭店で買う飴玉は一銭に四つか五つ買えた」という記述がある。長野県飯田町での話である。“一銭店”は駄菓子屋のことだろう。

『明治大正京都追憶』(岩波書店)の著者松田道雄さんは1908年、明治41年の生まれだから44年生まれの静さんの3歳年上だが、学校に上がったときから友だちと夜店に行かせてもらえたと書いている。
「たいてい十銭銀貨を一枚もらっていった」ということだが、10銭のお小遣いは子供の小遣いとしては破格の額だろう。松田さんは京都の町医者の子として育ち、自分も父親と同じ道を歩いた人だ(ロングセラーになった『育児の百科』『私の赤ちゃん』などの著書がある)。

10銭銀貨を握って友だちと出かけた夜店の子供の集まる店は「べっ甲飴、鯛焼き、かるやき、こぼれ梅(味醂(みりん)の酒粕)、飴饅頭、関東煮(おでん)、一銭洋食を売る屋台、夏は冷やし飴屋」だったと書いてある。


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