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食の大正・昭和史 第十六回
2009年02月18日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第十六回

                              月守 晋


明治44年(1911)年生まれの志津さんが幼・少女期をすごした大正という時代はどんな時代だったのか、志津さんの記憶を追いながらひととおり眺めておきたい。

大正2年10月、中国で袁世凱を大統領とする中華民国政府が樹立、英独露日など13か国が承認した。

3年7月23日、オーストリア帝国がセルビアに宣戦布告、第一次世界大戦始まる。8月、日本がドイツに宣戦布告。

6年11月7日(ロシア暦10月25日)ロシア10月革命、ソビエト政権樹立。

志津さんが身近に起きた大事件として80歳を過ぎても鮮明に記憶としていたのは米騒動であった。

米騒動は大正7年7月23日、富山県下新川郡魚津町の漁民の主婦たち40人余りが、米価が暴落するさなか、県外に米を持ち出されてはますます高くなるばかりだと、港に集まって船積みを阻止しようとしたために起きた紛争が始まりだと伝えられている。

8月3日には同県中新川郡水橋町でも200人ほどの漁師の妻女が同じように米の廉売を要求して行動を起こした。ここの主婦たちは何組かに分かれて町長や米殻商を回り、米を安く売るように追って駆けつけた警官隊と抗争になった。

富山県下で起きた騒動の情報はたちまち県外にも広まり、他の府県でも同じように大小の米騒動が発生、全国的な規模に発展していく。

米の値段は明治45年には作付面積が300万町歩(300万ヘクタール)を超えたにもかかわらず相場の影響を受けて乱降下し、堅実な生活をのぞむ一般の家庭・生活者を困らせていた。

米価騰貴の直接の原因は明治43年の大水害(東北・関東・関西・九州)による凶作だったが、東北・北海道では大正2年にも年平均の20%以下という凶作に見舞われていた。

ところが米価は大正2年から5年にかけて低落に転じ、政府がその対策として4年10月に「米価調節調査会」を設置し、5年1月には「米価調整令」を公布して政府が直接、米の売買に係われるように法的な処置をととのえている。

しかし、政府のこうした努力を嘲笑うように、6年5月になると米価は一転高騰しはじめたのだ。7年4月、政府はさらに「外米輸入令」「外米管理令」を出し、積極的に米価調整に乗り出した。実際にこの年の外米輸入量は366万石に達している。

富山県で発火し全国にひろがった米騒動という大火は、こうした情況下で起きた事件だった。

兵庫県下での米騒動は8月11日から14日にかけて神戸市、明石市、尼崎市、姫路市、川辺郡小田村、沖名郡富島村、同岩屋町、同仮屋町、美嚢郡三木町、飾磨郡鹿谷村、同花田村、同高田村、揖保郡龍野町、同室津村、などで起きた。

「神戸又新日報」が8月13、14、15日の紙上でこれらの騒動を報道している。

最大のものは11日から14日にかけて発生した神戸市の騒動で、数万人が鈴木商店と神戸新聞社を焼き打ちにし、米殻商、仲買店、取引所を襲った。米殻商には米の安売りを強要し、湯浅商店、兵庫館本店などが放火に遭った。群集を鎮圧するために軍隊と警官隊が動員され、いたるところで衝突し流血が繰り返された。

3年6月28日にオーストリア皇太子がサラエボでオーストリア国籍のセルビア人青年に暗殺された事件が導火線になり、7月28日に第一次世界大戦が始まった。

日本は8月23日、ドイツに宣戦布告して大戦に参戦するのだが、この大戦は日本に多くのにわか成金を生み出した。

鈴木商店はその典型的な例であった。


アルベール・カミュ
2009年02月03日

9. 僕は煙草を二本吸って、チョコレートをひと切れとりにもどって、また窓のそばにきて食べた。
                                  ------- ムルソオ

2005年6月に、心臓の難病で死亡した作家倉橋由美子が青春時代に熱愛した書物がアルベール・カミュやフランツ・カフカだったと69年に発表したエッセイで書いています。

「わたし自身にも青春ということばと結びつくような何冊かの本があって、たとえばカミュの『異邦人』やカフカの作品・・・」だと。

冒頭に掲げたのはその『異邦人』の一節です。

『異邦人』が初めて翻訳紹介されたのは昭和26(1951)年のことです(窪田啓作訳/新潮社刊)。カミュの作品は前年の25年に『ペスト』が宮崎嶺雄の訳で創元社から出版されており、サルトルやカフカの作品とともに、若い世代に大きな影響を及ぼし始めていました。『異邦人』が昭和26年6月に雑誌「新潮」に発表されると直後に東京新聞紙上で広津和郎が批判を開始します(6月12~14日同紙)。広津の批判は『異邦人』の主人公ムルソウの言動について、「心理実験室での遊戯にすぎない」というものでした。

これに対して評論家中村光夫は、ムルソウが何事につけ「何の意味もない」とつぶやくことや殺人の動機を訊ねられて「太陽のせいだ」と答える“不条理な感性”には、切実な現代的リアリティがあると反論します。これが文学史上に記憶される“異邦人論争”ですが、翻訳出版されたものから、あるいは原著に直接接触することによってヨーロッパの新しい文学の波に影響された若い世代が、作家として新しい文学世界を次々に切り開いていきます。

非常に観念的でありながら、奇妙に生なましいリアリティを持つ倉橋由美子の諸作品もまたその好例だといえるでしょう。

さて冒頭の一節---。養老院からの「ハハウエシス」の電報で勤務先から2日間の休暇をもらったムルソウは、アルジェから80kmのマランゴにバスで行き、あふれる太陽の下でなんとか葬儀をすませもどってきます。翌日は土曜日で、海水浴に出かけたムルソウは元同僚だったマリーと再会、一夜を共にします。1人で目覚めた彼は昼食のあと、寝室のバルコニーに椅子をすえ、そこにすわって暗くなるまで、場末の大通りを眺めて半日を過ごします。冒頭の一節はその間にムルソウがバルコニーをたった1度離れたときの理由です。

以後の数週間後にアラビア人に5発のピストルの弾丸を撃ち込んで殺してしまうまでのムルソウの日常が、細部にわたって煩瑣なまでに叙述されてストーリーはつづきます。

やがて法廷で死刑を宣告されるムルソウの物語は、旧い体制・秩序の中で意識できないうちに“異邦人”となってしまった、ごくありふれた平凡な若者の物語で、まさに50年代の日本の若者の物語でもあったのです。

カミュは1960年、自動車事故で死亡します。47歳でした。アルジェリアの貧困家庭に生まれ、給費生として大学を出ました。評論に『シシュフォスの神話』『反抗的人間』があります。


《参考》『わたしのなかのかれへ』 倉橋由美子/講談社
 『戦後日本文学年表---現代の文学別巻』 講談社


食の大正・昭和史 第十五回
2009年02月03日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第十五回

                              月守 晋


養母の手伝いをするばかりではなく、志津さんは友だちともよく遊んだ。志津さんの記憶によると、その頃の女の子遊びといえば「なわ跳びだとか、けんけん、通しゃんせ、陣取り、お手玉」などだった。

近所の空き地や通りで遊んでいると紙芝居のおじさんがやってきた。当時の紙芝居は現在幼稚園などで活躍しているような平面の画用紙に描いた絵で場面を変えてストーリーを進行させる形式のものではなく、登場人物を1人ずつ板紙に描いた紙人形にして、操り棒で動かす式のものだったようである。紙人形には裏側にも表側とは違う絵が描いてありストーリーに従って裏返して使うのである。紙人形には棒あめのようににぎり棒がつけられ、裏返しやすいようにくふうされていた。ストーリーは時代物が多かったと志津さんはいう。

加太こうじ『紙芝居昭和史』(岩波現代文庫)によれば絵本形式の紙芝居が現れたのは昭和5年のことで、絵の大きさはハガキ大だった。それが7年には倍の大きさになり、さらに週刊誌2ページ分の大きさの画面になったという。

紙芝居が普及したのは伝説的ともいえる名作「黄金バット」が生まれたことにもよるが、世の中が不景気(全国の失業者数32万2527人)だったためでもあった。

紙芝居で1日に2円50銭売り上げると、子供に観覧料代わりに1本1銭で買わせる飴の仕入れ値35銭(7本1銭)、話のタネ絵の借り賃30銭、自転車の借り賃10銭、計75銭の経費を払って手元に1円75銭が残る。これで月に25日働くと43円75銭の稼ぎになる。大正5年当時、男性の機械職工の日雇賃金が82銭5厘、鋳物職で78銭8厘だという(森永卓郎監修『明治・大正・昭和・平成物価の文化史事典』展望社)からずいぶんといい稼ぎである。このため、紙芝居を仕事にする人が急激に増えていた。(前掲加太『紙芝居昭和史』によれば東京市内と周辺郡部で大正末~昭和初年に約40人だった紙芝居屋が昭和8年には2000人近くに増えたという)

学校が休みの日には近くの浜へ行って、貝やカニを採って遊んだ。夏には海水浴もした。海水浴といっても水泳着があるわけではなく、いつも身に着けている腰巻きのまま海に入るのである。

海水浴場に初めて水着姿の女性が現れたのは神奈川県大磯海岸で、明治28(1889)年8月のことである。太いシマがらの水着が流行したのが40年から43年、明治末頃には男性用はさらしのシャツのような水着になり、女性用はキャラコで半袖の肩がちょうちん型にふくらんだ当時の看護婦のような水着が流行した。女性の水着がノースリーブに変わったのは大正の末年である。

志津さんの小学生時代の日常は洋服ではなく和服がふつうだったから、必然的に腰巻のまま海に入るということになったのだ。

一方、男の子の遊びはどうだったのか。古島敏雄『子供たちの大正時代』には「棒ベース」や「ゴムまり野球」「スポンジボール野球」が紹介されている。

松田道雄『明治大正京都追憶』には学校に上がる前の幼児が年上の小学生の遊び仲間に組み入れられる過程が説明されている。「つかまえ」という遊びでは、就学前の子はつかまっても鬼になることは免除され、代わりにおしりを三度たたかれて釈放される。これを“しりみっこ”と呼んでいたことなど。「けんけん」という遊びも具体的に解説されている。電子ゲーム全盛の現在。幼稚園児から小学6年生までを含む集団で遊ぶことがあるのだろうか。


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