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食の大正・昭和史 第十五回
2009年02月03日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第十五回

                              月守 晋


養母の手伝いをするばかりではなく、志津さんは友だちともよく遊んだ。志津さんの記憶によると、その頃の女の子遊びといえば「なわ跳びだとか、けんけん、通しゃんせ、陣取り、お手玉」などだった。

近所の空き地や通りで遊んでいると紙芝居のおじさんがやってきた。当時の紙芝居は現在幼稚園などで活躍しているような平面の画用紙に描いた絵で場面を変えてストーリーを進行させる形式のものではなく、登場人物を1人ずつ板紙に描いた紙人形にして、操り棒で動かす式のものだったようである。紙人形には裏側にも表側とは違う絵が描いてありストーリーに従って裏返して使うのである。紙人形には棒あめのようににぎり棒がつけられ、裏返しやすいようにくふうされていた。ストーリーは時代物が多かったと志津さんはいう。

加太こうじ『紙芝居昭和史』(岩波現代文庫)によれば絵本形式の紙芝居が現れたのは昭和5年のことで、絵の大きさはハガキ大だった。それが7年には倍の大きさになり、さらに週刊誌2ページ分の大きさの画面になったという。

紙芝居が普及したのは伝説的ともいえる名作「黄金バット」が生まれたことにもよるが、世の中が不景気(全国の失業者数32万2527人)だったためでもあった。

紙芝居で1日に2円50銭売り上げると、子供に観覧料代わりに1本1銭で買わせる飴の仕入れ値35銭(7本1銭)、話のタネ絵の借り賃30銭、自転車の借り賃10銭、計75銭の経費を払って手元に1円75銭が残る。これで月に25日働くと43円75銭の稼ぎになる。大正5年当時、男性の機械職工の日雇賃金が82銭5厘、鋳物職で78銭8厘だという(森永卓郎監修『明治・大正・昭和・平成物価の文化史事典』展望社)からずいぶんといい稼ぎである。このため、紙芝居を仕事にする人が急激に増えていた。(前掲加太『紙芝居昭和史』によれば東京市内と周辺郡部で大正末~昭和初年に約40人だった紙芝居屋が昭和8年には2000人近くに増えたという)

学校が休みの日には近くの浜へ行って、貝やカニを採って遊んだ。夏には海水浴もした。海水浴といっても水泳着があるわけではなく、いつも身に着けている腰巻きのまま海に入るのである。

海水浴場に初めて水着姿の女性が現れたのは神奈川県大磯海岸で、明治28(1889)年8月のことである。太いシマがらの水着が流行したのが40年から43年、明治末頃には男性用はさらしのシャツのような水着になり、女性用はキャラコで半袖の肩がちょうちん型にふくらんだ当時の看護婦のような水着が流行した。女性の水着がノースリーブに変わったのは大正の末年である。

志津さんの小学生時代の日常は洋服ではなく和服がふつうだったから、必然的に腰巻のまま海に入るということになったのだ。

一方、男の子の遊びはどうだったのか。古島敏雄『子供たちの大正時代』には「棒ベース」や「ゴムまり野球」「スポンジボール野球」が紹介されている。

松田道雄『明治大正京都追憶』には学校に上がる前の幼児が年上の小学生の遊び仲間に組み入れられる過程が説明されている。「つかまえ」という遊びでは、就学前の子はつかまっても鬼になることは免除され、代わりにおしりを三度たたかれて釈放される。これを“しりみっこ”と呼んでいたことなど。「けんけん」という遊びも具体的に解説されている。電子ゲーム全盛の現在。幼稚園児から小学6年生までを含む集団で遊ぶことがあるのだろうか。


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