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食の大正・昭和史 第二十回
2009年03月25日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十回

                              月守 晋


●松井須磨子の死
話が前後するが、大正8年正月5日、1人の女優の死を告げる号外が休日の東京や大阪の街を行く人びとを驚かせた。当時16歳の少年だった荒尾親成の回想によれば、「まだ松ノ内で賑っていた(大阪)長堀の高島屋玄関口にはいろうとした瞬間、けたたましい、号外、号外の鈴の音が近づいて、求むるままに父が一枚の号外を手にした。よく見るとなんと「女優松井須磨子縊死す」とあって酷(ひど)くショックを受けた」(『目で見る大正時代』図書刊行会、P.122)。

荒尾親成は市立神戸美術館長を務めた人である。

須磨子は正月1日から東京・有楽座の舞台に立っていて、中村吉蔵作「肉店」のお吉、メリメ原作・川村花菱(かりょう)脚色「カルメン」のカルメンを演じていた。須磨子は32歳。前年11年4日、スペイン風邪で死亡した芸術座の主催者であり恋人でもあった島村抱月の後を追った自死であった。

号外は神戸でも出されたとみえ、志津さんにも号外を見た記憶があるという。その後、雑誌でも目にしたというのだが、姉たち(実際には叔母になるのだが)が読んでいた婦人雑誌をのぞいてみたのかもしれない。

この頃の須磨子は「カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪とけぬ間と 神に願いをララかけましょか」という抱月・相馬御風合作の詩、中山晋平作曲の「カチューシャの唄」を全国に流行させた歌手でもあった。

「カチューシャの唄」はトルストイ原作の「復活」を劇作化した芸術座の舞台の劇中歌として歌われたもので、カチューシャ役の須磨子の美声もあって大流行したのである。

「ここ数年、正月興行には年中行事のように、彼女は神戸湊川新開地聚楽(しゅうらく)館に来ており(荒尾「大正時代の神戸」前掲書)」ということだから、この歌には神戸でも大勢の人が親しんでいたにちがいない。

後年、彼女の子供たちは母親が台所などで口ずさんでいるのを耳にしてしぜんに覚え歌ったものである。

ちなみに「復活」の初演は大正3年3月26日から31日まで芸術座第3回公演の演目として上演されたもので、8年1月に解散するまでに440回も上演されている。大正4年には当時“外地”と称した台湾、朝鮮、満州にも渡っている(“外地”の反対語が“内地”であり、本州、四国、九州を指していた)。

“須磨子のカチューシャ”がかかった聚楽館は和楽路屋の市街全図(大正7年刊)で見ると、湊川公園から南下して多聞通りの市電路に突き当たる右側の角にある。

大正2年9月に東京・帝国劇場にならって神戸の財界人のバックアップで建てられた名劇場だった。バレエのアンナ・パブロアがここの舞台で踊り、京劇の名優梅蘭芳(メイ・ラン・ファン)も大正8年5月に「貴妃酔酒」などを上演、妖艶な女形姿を披露した。
また10年3月には当時15歳だった初代・水谷八重子と14歳の夏川静江(のち映画界に入る)がチルチル、ミチルの兄妹を演じたメーテルリンク作「青い鳥」が上演され、市内の全中学校、女学校が午前中に団体で観劇している。

しかし志津さんには「青い鳥を観た」という記憶はなかった。
(聚楽館は昭和2年に松竹映画の上映館になり、9年には建て替えられている。)

志津さんの住居から新開地までは小学生でも歩いて30分の距離、映画好きの志津さんはよく姉たちに連れていってもらった。

  《参考》 『随筆松井須磨子---芸術座盛衰記』 川村花菱/青蛙房
       『こんな女性たちがいた!』 講談社


吉田健一
2009年03月18日

11. 「第一日に銀座の喫茶店でチョコレートのソフトアイスクリームを5つ食べ・・・・・」
------- 吉田 健一 「饗宴」


この「饗宴」には現実にくりひろげられた饗宴ではなく、頭の中で可能なかぎり想像力を働かせた結果の饗宴です。どういう状況に置かれている人物なのかというと、胃潰瘍(いかいよう)とか回復期のチフス患者などで、1日に牛乳5勺(しゃく=0.018ℓ、10勺で1合)と麦湯1杯という食事制限が10日もつづいているような人物という設定なのです。(チフスはジフテリアや日本脳炎などとともに法定伝染病に指定されている
11種類の伝染病のうちの1つです。)

胃潰瘍やチフス回復期の病人がもっとも苦しめられるのは、「いても立っても、じっと寝てさえもいられなくなる」ほどの空腹感なのだそうで、それを「想像力を働かせて辛い思いをしているのを紛らわせる」のが有効だというわけです。

吉田健一がこんなことを思いついたのは、アイルランド人の南極探検家シャックルトンが何回目かの探検で、ある離れ島の岩穴で救出を待つはめに陥った。そのとき飢えのあまりに気が変になる隊員がいた一方で、なんなくやり過ごすことのできた隊員もいた。その隊員は毎晩、ものすごいご馳走の夢を見つづけることで乗り切った。つまり、想像力を働かせて辛い思いを紛らせたのだ、というのです。

絶食同然という状況を仮定して、吉田はまず日頃は入ったことのない汁粉屋から空想を開始します。

その汁粉屋には「如何にもこってりした感じの」田舎ぜんざいや、「重箱におこわを詰めて隅に煮染めが添えてある」のや、「松茸と鳥肉の雑煮」などがあり、まずぜんざいを頼み、甘ったるくなった口中を雑煮で直し、その後でおこわを食べ、「少しは何か食べたような気持になる」のです。

しかしこれくらいで満足できるわけはないし、知らない店のことばかり考えていても空想力が鈍る恐れがあるからと、次には円タクを飛ばし新橋駅前の小川軒に入ります。この店は吉田の行きつけの店で、まずオムレツ、次にオックス・テエルのソオスのチキンカツを2人前、さらにマカロニとトマト・ソオスで牛の肝を煮たものなどと想像力を働かせます。

さてこのエッセイ「饗宴」のきっかけになったと覚しい吉田の胃潰瘍を患った友人の話では、外出を許されるようになるとアイスクリイムくらいなら口に入れてもよいという許可が出るそうで、そうなったら「銀座の喫茶店でチョコレートのソフト・アイスクリームを5つ食べる」と冒頭の一節につながるわけです。

この珍奇な空想談がさらに一段と迫力を示しはじめるのは「コットレット・ダニヨオ・オオゾマアル・トリュッフェ・オオズイトル・フリト・マロン・シャンティイ」という長ったらしい料理に話が及んだあたりからでしょう。この世にグルメ、グルマンの“食の本”は多数ありますが、奇抜なという点ではまず屈指のエッセイです。


《参考》 「饗宴」 吉田健一 (文春文庫『もの食う話』所収)


食の大正・昭和史 第十九回
2009年03月18日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第十九回

                              月守 晋


●神戸市の米騒動(2)続き
神戸市の米騒動で放火・破壊・強迫・強奪などの被害を受けた件数は各警察署別に次のとおりだった(『神戸新聞による世相60年』/のじぎく文庫)。

       三宮署管内       179
       相生橋署管内      148
       湊川署管内       200
       兵庫署管内       167
      ----------------------------------------------
               計     694 (8月23日付同紙)

『新修神戸市史 歴史編Ⅳ』には「歴史と神戸」創刊号からの引用で「神戸米騒動受刑者職業別人数」が掲載されている。それによると最も多いのが職人で懲役5年以上27人、未満15人、罰金4人の計46人、仲士が18人、12人、4人の計34人、商業が16人、5人、1人の計22人などで、総計では5年以上の懲役が89人、5年以下懲役55人、罰金23人の総数167人だった。

騒動の鎮圧には警官のみならず、軍隊も動員された。13日の夜、当時の清野兵庫県知事の要請を受けて姫路師団の400名が第1陣として出動し、その後増員されて総計は1140名に達している。この頃、こうした騒動に軍隊が動員されるのは当然と考えられていたようである。

米騒動は神戸市に、市民の生活を安定させるための社会政策を立案、実施させることになった。それが米の安定的な廉売事業、公設食堂と公設市場の設置である。

その資金には皇室からの「窮民救済」のための下賜金、市内の富裕層からの救済義金などが当てられた。8月25日までに集まった義金は140万円に達し(大正7年の国の歳出額は10億1703万円/『物価の文化史事典』)、うち80万円が米の廉売資金に、50万円が物価調節費に、10万円が貧民救済費として使われた。極貧者への施米、官公吏・教員などへの米の廉売(1斤25銭)は11月末まで続いた。

皇室からの下賜金(2万6704円)に義金を合わせた3万5154円を基金として市内3か所に公設食堂が開設され、新たな寄付金を基に市営の小売市場が物価を調節することを目的として開かれた。

<公設食堂>
名 称 場 所 開設年月
中央食堂 相生町1丁目 7年10月
東部食堂 東遊園地内 7年11月
西部食堂 真光寺境内 8年2月

<公設市場>
中央公設市場 湊川公園内 7年11月
東部公設市場 旭通1丁目 7年11月
西部公設市場 芦原通5丁目 8年5月
(上記3市場は湊川、生田川、芦原と改称)
熊内公設市場 葺合町 9年5月
三宮公設市場 三宮町1丁目 9年5月
宇治川公設市場 北長狭通8丁目 9年5月
平野公設市場 大倉山公園下 9年5月
入江公設市場 川崎町 9年5月
長田公設市場 長田町1丁目 11年11月

『新修神戸市史 歴史編Ⅳ』に収蔵されている当時の東部公設市場の写真を見ると、店は木造の長屋建ての平屋で、その前の通りには現在のアーケード風にやはり木造の屋根がついていて買物客の日よけ、雨よけになっていて、市当局の市民に対する配慮をうかがわせている。

この項をもう1人の自伝を引用して締めくくりたい。

「それは暑い夏の日であった。どこからいうのでもなく私の家が襲われて焼かれるという噂が立った。・・・・私たち家族は近くの福海寺という寺に逃れ、そこの本堂の近くの十畳の部屋にかくまってもらったのであった」

筆者は明治42年神戸生まれ、映画評論家の故淀川長治さんである。(『淀川長治自伝 上』/中公文庫)


食の大正・昭和史 第十八回
2009年03月11日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第十八回

                              月守 晋


●神戸市の米騒動(2)
8月12日午後6時ころ、白シャツに足袋裸足、手ぬぐいの鉢巻き姿という70名ほどの1群が湊川公園に繰り込んできて、夕涼み客やヤジ馬と合流し3千500名ほどにふくれあがると、群集は北新開地の路面電車道に押し出した。

ここで群集は2隊に分かれ1隊は多聞通りを東進、主力隊は勢力を増しながら有馬道付近で3隊に分かれ、その1隊が9時ごろに楠町7丁目の兵神館(借家管理業)を襲って破壊、別の1隊は荒田町方面に向かってこの地域の白米商(と引用記事には表記してある)を片っぱしから襲撃した。そして「本隊ともいうべき大集団が「鈴木商店をほおむれ」と呼号しつつまっしぐらに相生橋をこえ東川崎町1丁目の鈴木商店に殺到」した。

相生橋をこえて相生橋警察署前を南下したおよそ800名は神戸商業会議所前を東に折れて宇治川筋にある神戸新聞社前の鈴木商店に押し寄せる。

ときに午後8時20分。

手元にある大阪・和楽路屋が大正7年に発行した神戸市街全図は縮尺1万2000分の1、ただし単位は丁(60間、約109メートル)という代物だが、湊川公園を出て5丁(550メートル)ほど南下すると新開地、電車路の多聞通りを東へ10丁半(約1.1キロ)湊川神社前を通って相生橋を渡ると警察署、そこから電車路を東へ1丁半、警察署から3つ目の通りをはさんで東側に神戸新聞、西側の斜め向かいに三菱会社が書き込まれている。記事には「わが神戸新聞社前なる鈴木商店」とあるので、三菱の北側、地図では空白になっている部分に鈴木商店があったようである。神戸新聞社の東隣が神戸又新日報社である。

別動隊約150名が襲った鈴木家旧宅は本店からさらに東へ6丁ほどの栄町4丁目にあったが、群集は家財道具を表道路に投げ出し積み上げて放火、焼尽した。

ちなみに志津さん一家が当時住んでいた羽坂通3丁目は、湊川公園から南下して多聞通にぶつかったところで西へ電車路を兵庫停車場まで進むと停車場の北上にある。湊川公園を南下する通りをはさんで、神戸新聞社や鈴木商店とちょうど同じ距離くらい西の方向である。

ところでこの騒動に加わった人びとの間には、お互いの行動を規制する暗黙のルールのようなものが働いていたようである。

たとえば米屋に対しては、「一斤二五銭で売ることを強要する『強買い』が行われた。・・・・・あらかじめ打ち合わせをしたわけでもないのに、騒動をおこした側には一定のルールがあった・・・・。この二五銭という値段は、騒動の前年の標準米価であり、民衆の生活状態が最も良かった時の米価であった。つまり、民衆は自分たちの本来こうあるべきだという共通の倫理感と生活秩序に基づいて騒動に立ち上がった・・・・・」(『新修神戸市史 歴史編Ⅳ 近代・現代』PP.551-555)。

上掲書には、鈴木商店の焼き打ちの際にも「付近の住民に注意を促すなど、周りに迷惑がかからないようにという配慮が見られ、ねらいは鈴木商店だけであるという目的の明確な行動」だったと述べられている。

これを裏付けるようなインタビュー記事を『神戸新聞による世相60年』が載せている。鈴木商店に放火した時が20歳の青年、インタビューを受けた時は60歳の老人になっていた。彼は13日夜神戸を脱出し、以後20余年間、横浜をはじめ各地を転々とし、再び神戸に戻って時効になるまで潜伏していた。

「一斤二十五、六銭の米が六十二銭八厘というベラ棒に高い米になったのは、鈴木が米を買い占めて、米を倉庫に隠しているからだ、という噂が八月四、五日ごろ出ていました。<中略>鈴木が目当ての放火で、別に神戸新聞や近くにあった民家に火をつけることははじめから考えていなかったので、井上医院などに、わざわざ行って、「いまから鈴木に火をつけるから、お前さんちは逃げて下さいよ」といってまわった・・・・」


徳川幹子
2009年03月05日

10. 「(チョコレートの銀紙を)食べたあと一生懸命のばして大事にとっておいたんです」
------- 徳川 幹子(もとこ)


徳川幕府最後の15代将軍慶喜には公卿一条忠香家から嫁いだ正室美賀子の他に何人もの側室がいました。しかしどういうわけでか、生まれてきた子は正室、側室を問わず夭逝してしまい、無事に成人したのは維新後移り住んだ静岡で2人の側室、中根幸(こう)、新村信(しんむらしのぶ)が生んだ子どもたちでした。この2人はそれぞれ12人ずつ計24人も生み、そのうちの12人が成人したのです。

『女聞き書き 徳川慶喜残照』(遠藤幸威/朝日文庫)には大河内富士子夫人の談話として、乳房にまで塗ったお白粉の鉛分による中毒、日光浴のできにくい座敷の建築上の問題、それに育児経験のない女ばかりでただただ「オ大切ニ、オ大切ニ」と育てたからだと乳幼児の早死の原因を説明しています。大河内夫人の母親は側室中根幸の生んだ10女・糸子です。大河内夫人の嫁ぎ先は旧高崎藩主家、姑(しゅうとめ)に当たる国子は慶喜の8女です。夫人の話によれば、静岡で生まれた慶喜の子どもたちは果樹園をもつ農家や石屋、質屋、さらには煮豆屋といった町屋や農家に里子として預けられ、5歳になるくらいまでそこで育てられた。それで成人できたのだ、とも語っています。

さて冒頭の「チョコレートの銀紙を一生懸命のばしてとっておいた」という幹子さんは慶喜の5男仲博(母は新村信。ちなみに『広辞苑』を編集した言語学者新村出は信の義弟にあたり、東京帝大生のころ慶喜の姫様の英語の家庭教師を勤めた)、鳥取池田侯爵家の養嗣子になった人の長女ですから慶喜の孫ということになります。

幹子の生家の旧鳥取藩主池田侯爵家は因幡(いなば)・伯耆(ほうき)両国を領する32万石の大名でした。

父親の仲博は職業軍人でしたがからだをこわし退官していました。そのお蔭で銀座をはじめいろいろなところに連れていってもらえた、と幹子は語っています。

銀座へ出るには麻布の家から霊南坂を下り、葵橋の停留所から市電で新橋まで行き、新橋からは徒歩です。市電の線路ぞいには溜池があり、現在は地名とし残っているだけですが幹子が子どものころはまだ埋めたて前で、文字通り大きな池だったということです。

銀座では父親のなじみの洋服店「サエグサ」洋品店の「田屋」、名前は江戸時代そのままでもとびっきりの舶来品を扱っていた「亀屋鶴五郎」などを回り次に明治屋へ。

ここで買ってもらったのが銀紙の包み紙のチョコレート。何に使うというわけではないけれど「銀紙の光沢としみついたチョコレートの香り」が捨てるにしのびなかったといいます。

多分、みなさんにも同じような記憶があるのではないでしょうか。がらや色合いがカワイラシイ、包み紙などを取っておいたことが。

ともあれ、伯爵家のお姫様の、なんともほほえましい思い出です。

《参考》 『わたしはロビンソン・クルーソー』 徳川幹子 /日本図書センター/人間の記録⑨
      『女聞き書き 徳川慶喜残照』 遠藤幸威  /朝日文庫


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