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稲垣足穂
2009年04月16日

13. 「・・・地獄の底までぶち抜くいきおいに鉄槌はチョコレットの上に・・・」

                           -------  「チョコレット」 稲垣足穂


おおかたの読者からは読まずに敬遠されながら、少数の熱烈な愛読者を持っていた作家、稲垣足穂はそういう作家の1人でした。

「A感覚とV感覚」に始まる『少年愛の美学』や『一千一秒物語』、『天体嗜好症』、『弥勒』といった作品群は書店で一般的な読者からは手に取ってみてもすぐ元の棚に返されてしまうという扱いを受けていたようです。

足穂の最初の作品は大正11年3月号に発表された「チョコレート」です。当時の文壇の大ボスだった佐藤春夫の推薦で雑誌「婦人公論」に掲載されました。タイトルの「チョコレート」は昭和23年、『ヰタ・マキニカリス』の一編として収載されることになったとき、「チョコレット」と改められました。自身の註解によれば(『稲垣足穂全集2』筑摩書房/2000年)、ある知り合いの夫人の忠告を受け入れた改題だったようです。

「チョコレット」はある朝、ポンピイ少年が街を歩いていて赤い三角帽子をかむった五つ六つぐらいの子供の大きさの人物に会ったところから始まります。その人物は黄いろと真紅色と半々になったズボンをはき、ガラス製と思われる靴をはき、背中に薄い緑色の羽根が生えています。

ポンピイはその男を妖精のロビン・グッドフェロウだと判断するのですが、男はそれに首を横に振るばかりか、ポンピイが次々に挙げるフェアリー一族の名をことごとく否定するのです。そして最後に、「わたしはほうきぼしさね」と答えます。町の人に敬われなくなったフェアリーの丘の住人が、衆議一決、夏の真っ暗な晩に好き勝手な形や光の色のほうきぼしになって空に舞い昇ったのだ、と。

ポンピイはロビンの話がほんとうか確かめるために、ポケットに持っていた錫紙に包んだチョコレットの中に入ってくれと頼みます。するとロビンは見る見る小さくなってチョコレットの中に飛び込んでしまったのです。するとするとチョコレットは、かちかちに固まってしまったのです。

ポンピイはロビンのチョコレットの話を人々に信じてもらうために、鍛冶屋に頼んでチョコレット玉を壊してもらおうとします。ポンピイの願いはかなえられたのでしょうか?それはこの物語を実際に読んで確かめてみてください。

足穂は昭和25年、書肆ユリイカの社長伊達得夫の仲介で交際を始めた篠原志代と結婚します。志代は当時京都の伏見児童相談所に勤務していましたが、「50人の不良少女の面倒を見るよりも稲垣足穂の世話をしたほうが日本のためになると言われたと『夫 稲垣足穂』(芸術生活社/昭47)に書いています。

志代夫人は昭和50年に亡くなり、落胆した足穂は2年後の52年に病没します。

稲垣足穂という流星は志代夫人に保護されていた28年の間、巨大な閃光を放ちつづけたのでした。


《参考》 『現代日本人詩人全集』 第5巻/創元社 
      『日本の詩9 堀口大学・西条八十集』 /創美社


食の大正・昭和史 第二十三回
2009年04月16日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十三回

                              月守 晋


●新開地(3)
志津さんは「天勝の奇術を見に行ったことがある」という。

初代・松旭斎天勝は大仕掛けのマジックもさることながら、妖艶な舞台姿で人気があった。色白の豊満な肢体に道具立ての大きな目鼻立ちは舞台映えがして、大きな目で流し目でもされると、観客にどよめきが起こった。

人気絶頂の大正5年、当時の芸能新聞「都新聞」が天勝の胸元もあらわな水着姿の写真を「これが“人魚を食べているといふ天勝の素肌”!」とキャプションをつけて掲載、そのおかげで東京・有楽座の「サロメ」の初日が開演3時間前に満員札止めになった。オスカー・ワイルド原作の「サロメ」は当時人気の音二郎・貞奴の川上一座の大当り演目。

天勝の「サロメ」は奇術一座の舞台にふさわしく、王女サロメの掲げる盆の上で、聖者ヨカナアン(聖書「マタイ伝」のバプテスマのヨハネ)の首がカーッと目をむき「すされ!バビロンの娘よ」とサロメを叱咤して観客を驚かせた。

志津さんが天勝の舞台を見たのは大正8年か9年のこと。明治19(1886)年生まれだから、天勝は33歳か34歳。奇術師としても油ののりきった時代だったろう。

劇場がどこであったかはわからない。

志津さんが好きだった映画俳優の名を挙げると女優では栗島すみ子、夏川静江、田中絹代、山田五十鈴、原節子。なかでも栗島すみ子と田中絹代がひいきであった。

『日本映画俳優全史(女優編)』(猪股勝人+田山力哉著/教養文庫/社会思想社)の記述によると、栗島すみ子は「メリー・ピックフォードがアメリカ初代の恋人なら、日本最初の恋人はこの人」だという。明治35年東京生まれの栗島すみ子の父親は栗島狭衣を芸名とする新派の俳優。すみ子も父親の関係で6歳のときから子役として舞台に立っていたが19歳のとき松竹蒲田撮影所に迎えられヘンリー小谷監督の「虞美人草」の主役で映画デビューした。「虞美人草の花そのままの純情清麗な容姿でたちまち満天下の人気を集めた」という(上掲書)。

「(栗島すみ子の)代表作として一世を風靡した小唄映画」と『わたしの湊川』がいう「船頭小唄」は明治43年に開館した新開地で最も古い菊水館で封切られた。翌13年夏、これも小唄映画と分類される沢蘭子主演の帝国キネマ製作「籠の鳥」が相生座で封切られ、こちらのほうも連日入りきれないほどの大観衆を集めた。

「おれは河原の 枯れすすき」とうたう「船頭小唄」(野口雨情作詞・中山晋平作曲)、「あなたの呼ぶ声忘れはせぬが 出るに出られぬ籠の鳥」(千野かほる作詞・鳥取春陽作曲)と嘆く「籠の鳥」、前者は10年、後者は11年と小唄のほうが先に作られて流行していて、それを映画化したものである。

『むかしの神戸』185ページの「昭和初期の新開地の劇場分布図」を見ると、相生館は電車路に向かって本通りの右側、本通りを横切る1本目の通りの角から2軒目、本通りの左側に面し1軒目は松本座で菊水館、朝日館、有楽館、湊座と映画館、大衆演劇場が肩を並べている。

どういうわけでが志津さんの男優の好みは渋好みで、美男俳優よりも月形龍之介や小杉勇のファンだった。

月形龍之介について『わたしの湊川・新開地』の著者は「・・・阪妻(阪東妻三郎)と対照的に風貌が陰気で暗い影がつきまとい、・・・・・最後まで主演俳優としての大きな人気はつかみ得なかった。彼の俳優としての魅力は色悪や虚無的な浪人といった役どころにあり、後に重厚で渋い脇役俳優として戦前から戦後にわたる長い俳優生命を持ち続けた」と評している。


食の大正・昭和史 第二十二回
2009年04月08日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十二回

                              月守 晋


●新開地(2)
小学生の志津さんは映画が好きで、大正5年から住んでいた東海道本線兵庫駅北側(山側)の羽坂通り3丁目の住居から市電通りを東へ、神戸駅の方向へ歩いて30分ほどの新開地へ姉たちに連れられて映画を観にいった。記憶に残っているいちばん古い映画は“目玉の松ちゃん”の忍術映画である。“目玉の松ちゃん”こと尾上松之助は地方の芝居小屋を旅して回る巡業一座の座頭だった。日本映画の父と呼ばれる牧野省三監督に見出され、サイレント(無声)映画時代の大スターに昇った俳優である。“目玉の松ちゃん”の愛称は彼3作目の作品である「石山軍記」で楠七郎に扮したとき、櫓の上から目玉をギョロリとむいて敵をにらみつけてみせたのが観衆に大いにうけたことによる。

志津さんにはどこの映画館で観たのか記憶がなかったが、『わたしの湊川』によれば日活(日本活動写真株式会社)が売り物にしていた尾上松之助主演の活動写真は錦座で上演されていたようである。

志津さんが観た松之助扮する忍術使いが猿飛佐助だったのか霧隠才蔵だったのか、あるいは児来也(じらいや)だったのかもわからない。しかし松之助扮する忍術使いは当時の子供たちに圧倒的な人気のあるヒーローで、『わたしの湊川・新開地』の著者も「松之助の忍術ものやトリック撮影に胸を高鳴らせた、松之助が大好きだった」と回想している。

アメリカ映画やヨーロッパ映画も明治末から大正の初めにかけて輸入され、上映されていた。

チャップリンの喜劇が「日本の見物に明確な印象を与えるようになったのは、大正4年(1915)1月、みくに座に封切された「メーベルの困難」で」と田中純一郎が書いている(『日本映画発達史Ⅰ 活動写真時代』中公文庫)が、神戸では大正6年から錦座の正月興行でお目見得した。この正月興行は“ニコニコ映画大会”と呼ばれ、短編喜劇をまとめて10本くらいいっきょに上映するのである。

チャップリンの2巻物のドタバタ喜劇も上演されて大変な人気だった。志津さんも観たらしいのだが、残念ながらタイトルまでは覚えていなかった。

入場料は、志津さんの記憶によると「3銭から5銭」で「5~6人が並んですわる長椅子」にすわって観た。無声映画だったので弁士がついていて「上手な弁士のときには客の入りもよかった」という。

入場料については『わたしの湊川・新開地』の写真ページに「三等三十銭、二等四十銭、一等五十銭、子供各等半額」という昭和初期の松林館の銅版の観覧料表示板が載っているが、『むかしの神戸』には「五十銭もあれば活動をみて、お腹いっぱい食べてお釣りが来ました」という郷土史家の懐古談が紹介されている。作家の田宮虎彦は志津さんと同じ明治44年の東京生まれだが、3~4歳のころから神戸の堀割の6軒つづきの棟割長屋の1軒に母親、兄と暮らしていた。(父親は船員で不在がちだった。)

堀割という地名は「測候所山の中ほどを掘り割って、奥平野(おくひらの)から港の方へ下りてゆく近道にした道筋」と田宮は説明している(『神戸 我が幼き日の・・・・』中外書房/昭和33年刊)。

幼いころ、田宮はよく三宮や新開地に遊びに行った。昨今の子供と違って、昔の子供は月ぎめの小遣いなどもらえなかったので、母親の財布から小銭をそっと盗み出して小遣いにあてることがままあった。「私は母親の財布からギザギザのついた五十銭銀貨をこっそり盗み出しては、三宮や新開地へ出かけていったのだった。一杯が一銭か二銭だったひやしあめを飲んだり、子供は五銭の活動写真館にはいったりしたのだ」と田宮の回想では、活動の子供料金は5銭である。

新開地には200軒をこす店が並び食べ物屋も多くしかも安かった。鯨肉が名物の店、天丼の「奴」、ビックリうどんにビックリぜんざい、粕うどん、ポンポン飴、天ぷらやすしの屋台、コーヒー店。劇場内では「みかんにおせん、あんパンにラムネ」と木箱を首につるした売子が回ってきたのである。


西条八十
2009年04月01日

12. ガッタンコッコ ガッタンコ
   お菓子の汽車が急ぎます
   長い煙突 あるへい糖
   つながる函はチョコレイト
------- 西条八十 「お菓子の汽車」


昭和8(1933)年、東京の夏は「東京音頭」に制圧されていました。この年11月号の雑誌「改造」に評論家の高田保が書いています。「何処(どこ)かの店先でこの1枚をかける。音曲は流れて街路の風に乗って吹きめぐる。

〽ハァ、東京よいとこ チョイト

と来る。するとまず第1に近くの紙芝居の前に集まってゐた子供達がヤートナソレヨイヨイとやりはじめる。通りかかった日支軒の出前持ちがワンタンメンののびるのも忘れてその中へ一枚加はり出す。孫を迎へに来たお爺さんが踊り出し、それを探しに来たお婆さんも一緒になり・・・」と。

東京音頭の熱狂はその次の年も、翌々年も続き、やがて全国で歌われ踊られるようになりました。そして平成の夏に到ってもほうぼうで歌いつがれ踊られつづけていることはご承知のとおりです。

ちなみにこの年、もう1つ大流行したのがヨーヨーで、各地で競技会が開かれ、ヨーヨーの生産は月産500万個に達したといわれています。

「東京音頭」の作詞を手がけたのは西条八十(やそ)で、当時は早稲田大学仏文科の教授でした(作曲中山晋平/歌:小唄勝太郎+三島一声)。

西条八十はそれまでにも「サーカスの唄(うた)」や「涙の渡り鳥」「侍ニッポン」などという映画の主題歌も多く作詞しており、流行歌の作詞家としても著名でした。昭和10年には日本映画史上の大ヒット作「愛染(あいせん)かつら」の主題歌も作詞しています。

しかしもちろん、流行歌の作詞は詩人としての彼の一面にしかすぎません。大正元(1912)年、「早稲田文学」に「石塔」を発表して以来、抒情詩人として、また童謡詩人として高い評価を受けていました。

大正13年には早稲田大学の留学生としてフランスへ渡り、ソルボンヌ大学で2年間学んでおり、その間に詩人ポール・ヴァレリーや多くのフランス詩人と交流しました。彼には『アルチュール・ランボオ研究』という大著がありますが影響を受けたのはステファン・マラルメピエール・ド・ロンサールだといわれます。

さて冒頭の詩は彼の童謡詩人としての業績の一端です。この一節の前の節は次のとおりです。


ガッタンコッコ ガッタンコ
お菓子の汽車が走ります
お鑵(かま)はまるい唐饅頭(とうまんじゅう)
黒いレールは飴(あめ)ん棒


あるへい糖は棒の形をした砂糖菓子です。


《参考》 『現代日本人詩人全集』 第5巻/創元社 
      『日本の詩9 堀口大学・西条八十集』 /創美社


食の大正・昭和史 第二十一回
2009年04月01日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十一回

                              月守 晋


●新開地
小学生のころ、映画好きだった志津さんは家から歩いて30分ほどの新開地の映画館によく連れていってもらった。

神戸の繁華街といえば元町と新開地である。元町は明治7年、11の町が元町通、栄町通、海岸通、北長狭通と改称されて生まれた4つの通りの1つだが、東隣が外国人居留置に接していたので明治3年には市田写真館、6年には「元祖牛肉すき」を掲げる月花亭(げっかてい)が開業するなど、居留地外国人も買い物に訪れるハイカラな雰囲気の商業地として発展した。

一方、新開地は湊川の流路付け替えで生じた埋め立て地にできた街である。神戸市は狭い海岸平地に発達した町で町並みのすぐ背後に山地が迫っている。豪雨でも降ると六甲山地はあちらこちらで崖くずれや斜面崩落が起き、市内を流れる河川の氾濫を引き起こした。旧湊川は維新後5回も洪水を起こし、5度目の明治29年の大洪水の後、湊川の流路を付け替えるために民間会社が設立された。工事は順調に進み34年に新流路が完成、38年には付け替えられた旧流路の埋め立て工事も完成した。

新開地はこの埋め立て地に生まれた新市街地なのだ。埋め立て当初は当時流行しはじめていた自転車の練習場になっていたらしいが、2年後の40年に神戸駅近くにあった劇場・相生座が移ってくると同時に活動写真館(映画館)の電気館、日本館が開館し、これが引き金になって劇場、寄席、映画館がつぎつぎに開かれ敷島館に朝日館、菊水館、松本座、錦座さらに菊廼座、湊座、稲荷座と開設は相ついだ。

旧湊川の高い堤防にはさまれた流路を埋め立ててできた新道は5.8キロメートルあり、ちょうど神戸地区と兵庫地区の中間にあたるので、両地区を結びつける役割も果たした。

活動写真館の電気館と日本館は相生座の真向いに開場した勧商場の地階にあった。

関西では勧商場、関東で勧工場と呼ばれた施設はいわばショッピング・センターで、明治10年に開かれた第1回内国勧業博覧会の残品を売るために翌11年1月、麹町丸の内に東京府(当時)が建てたのが最初である。内部は商品別に13に区分されていた。これが明治期を通じて全国にひろがり、経営形態も官営→半官半民→民営へと移っていった。

新開地は「明治44年の正月には劇場、活動写真館、寄席など20館に増え、新開地を訪れた人は三が日で40万人を超えた」と『絵はがきに見る明治・大正・昭和初期/むかしの神戸』(和田克己編・著/神戸新聞出版センター刊)には述べられている。

『神戸市史/産業経済編Ⅲ』には「大正11年の資料によると、新開地には20の興行施設のほかに200の小売店舗が集積しており、飲食料品・雑貨・衣料品などの店が多数軒を連ね、露店も多く見られた。さらに特徴的であるのは、新開地という一つの商店街の中に勧商場が5軒も存在したことである。この事実は、新開地がきわめて大きな購買力を持っていたことを示すもの」と述べている。

鉄筋建築の地上3階地下1階の演劇の殿堂聚楽館が大正2年にオープン、13年には神戸タワーが湊川公園内に建てられ、昭和に入っても3年に湊川温泉、9年にアイススケート場が開設され、神戸一の繁華街へと成長するのである。

斎藤力之助『わたしの湊川・新開地』は明治41年に兵庫区西宮内町で生まれた著者が大正7、8年の小学4年生ごろから昭和20年の敗戦の年まで、活動写真・演劇・映画を観にかよった時期の回想記である。著者がかよった16の映画・演劇館とそこで観た映画・演劇の詳細が語られている。

この書やその他の資料にも頼りながら、志津さんの新開地体験を追ってみたい。



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