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手塚眞
2009年05月28日

15. 『「そのチョコじゃなくて別の種類」なんてわがままを・・・』

-------  「天才の息子」 手塚眞


手塚治虫が胃ガンをわずらって亡くなったのは1989(平成元)年の2月、もう19年も前のことになります。享年は60歳でしたから、ずいぶんと早死だったなァ、と思わずにいられません。

「鉄腕アトム」が国産で初めてのテレビアニメとしてフジテレビで放送が始まったのが1963(昭和38)年だということですから、もう45年も前のことです。当時のテレビは白黒映像でしたが、あの軽快なメロディーの主題歌が始まると、みんなワクワクしながら画面に見入ったものでした。

手塚治虫のまんが家デビューは1946年、17歳のとき。「少国民新聞」(のちの「毎日小学生新聞」大阪版)に連載した4コマまんがの「マァチャンの日記帳」でした。翌47年には酒井七馬原作の長編「新宝島」を刊行し、40万部というベストセラーになります。以後48年に「ロスト・ワールド」を刊行、50年「ジャングル大帝」を「漫画少年」に、51年「少年」に「アトム大使」を、53年には「リボンの騎士」を「少女クラブ」にと初期の主要な作品をそれぞれ少年少女向き月刊誌に連載をし始めます。

雑誌の連載の他にも毎年、数多くの作品を発表し、超多忙な毎日を送っていました。

講談社に入社して1年余を経た1954(昭和29)年秋、当時“飛ぶ鳥も落とす勢い”の人気まんが「リボンの騎士」が連載されていた月刊誌「少女クラブ」に配属になり、手塚担当を務めた編集者丸山昭がその回想記(『まんがのカンヅメ ---- 手塚治虫とトキワ荘の仲間たち』ほるぶ出版/‘93年刊)で、手塚の当時の多忙ぶりを伝えています。

その頃10本以上の連載をかかえていた手塚の仕事部屋には各社各紙の担当者が、自社の雑誌の原稿を手に入れるために集まってくる。それら“手塚番”の編集者が毎月開くのが“順番会議”、つまり、いたずらに原稿の争奪戦を繰り広げる代わりに、話し合いで日程を調節して(手塚自身の都合には関係なく)原稿を受け取る順番を決める会議だった、と。

調整した順番通りに原稿が出来上がれば何の問題も起きません。が、順序良く仕上がることはほとんどありません。自社の原稿が間に合いそうにない、となると担当編集者はどうするか。他社の編集者に気づかれぬよう手塚をホテルや旅館に“缶ヅメ”にして自社の原稿を完成してもらう。他社の編集者はその“缶ヅメ”先を必死で探索することになります。手塚自身の争奪戦の開始となるわけです。

丸山の回想記には、他社の編集者と手塚が東京都内の仕事場から京都の旅館をへて、九州は福岡にまで脱走したという事件が語られています。

この脱走事件から10年ほどのちの事になるのでしょうか。手塚の長男・眞が編集者に庭の池に突き落とされるという事件が起きました。

眞の著書『天才の息子---ベレー帽をとった手塚治虫』(ソニー・マガジンズ/‘03年)によると、仕事中にも菓子をほおばるほど甘い物好き、特にチョコレートが大好物だった手塚は、夜遅くなって編集者にチョコレートを買って来いと言う。コンビニなんていうもののない時代ですから、編集者のほうは必死になって街中を探し歩く。やっと見つけて持って帰ってくると、手塚は非情にも冒頭に掲げた科白を口にします。編集者はふたたび夜の街に飛び出さなくてはなりません。
やがて編集者たちも自衛策を編み出します。

彼らはあらゆる種類のチョコレートを靴に詰めて持参するようになったのです。それを目にした4才か5才だった眞は編集者に向かって言います。「お前、バカじゃないの」

その結果が“池の中”だったというわけです。


食の大正・昭和史 第二十七回
2009年05月28日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十七回

                              月守 晋


●明治と昭和にはさまった時代

「大正デモクラシー」という言葉がある。松尾尊兊『大正デモクラシー』(日本歴史叢書/岩波書店)によると「日露戦争のおわった1905年から、護憲三派内閣による諸改革の行われた1925年まで、ほぼ20年間にわたり、日本の政治をはじめ、ひろく社会・文化の各方面に顕著にあらわれた民主主義的傾向をいう」とされている。歴史学者の井上清は「1910年前後から1920年代にいたる」期間を“”つきでこう呼んでいる(月刊誌「流動」 1974年臨時増刊「大正デモクラシーの時代」収載)。

神戸市の川崎・三菱両造船所の労働争議もこの時代の流れの中の大きな波動であったのだが、結果は争議団側の「惨敗宣言」で終わった。

『明治大正見聞記』の著者生方敏郎は「大正十年が労働問題で賑わったのは事実、日本ばかりでなくイギリスでも大変だった、ロンドン市民がエメラルドのような碧空を仰ぎ見ることのできる日が幾日か続いたというのだから大変な事件だ」「神戸の労働騒ぎも永く続いてなかなか真剣に見えたが、終(しま)いはコソコソとお終いになってしまい、折角の大山鳴動一鼠を出すの感・・・・しかし一般社会に何らかのショックらしいものを与えた」と述べている。

“霧のロンドン”と呼ばれたロンドンの霧の発生源が市内・郊外の工場の煙突が吐き出す煤煙だったことは広く知られていた。

大正デモクラシーの時代は文化・生活・風俗の面でも西欧を手本にして近代化(モダナイズ)が試みられた時代でもあった。

小菅桂子『にっぽん台所文化史』(雄山閣/‘98)には「大正期は第一家電時代」という見出しが立てられていて、「主婦之友」の大正7年4月号に掲載された東京・高田商会の「文化生活と家庭の電化・・・・云々」という広告を紹介している。その広告文は家庭の電化とはいかなるものかということを、「家庭の電化とは煮炊き料理は勿論(もちろん)風呂を沸(わ)かしたり洗濯をしたり掃除をするのに電気を利用すること」と解説している。

同書には大正11年にサーモスタット付き電気釜400円、電気七輪25~30円、トースター30円、コーヒー沸かし50円、牛乳沸かし32円位と売り値も紹介されているのだが、小学校教員の初任給が40~55円、銀行員の初任給50円という時代では、おいそれと家電製品を買いそろえるというわけにはいかなかった。ここで紹介されているのは米ウェスチングハウス社製のものだが、わが国で本格的な家庭電化が始まるのは太平洋戦争後、それも昭和30年代のことで、昭和30年に電気洗濯機の月産が5万台を超え(正価2万8000円)、家庭用電気釜が東芝から発売された(タイムスイッチで時間を設定できる自動炊飯器、6合炊き、600W、定価3200円/大卒初任給1万円)。

小菅氏によると「大正時代の食生活は、明治時代にほとんど無差別に取り入れた西洋の食品や料理を、日本型の食生活の中に吸収同化した時期であったと見ることが出来」、「西洋料理が日本人の日常食のなかに根を下ろし、両者が融合して新しいパターンを作りあげた」のが大正時代だという(前掲書「西洋化は料理から」)。

つまり食生活の面では、“新時代”が始まっていたということだろう。

わが志津さんの関東炊きジャガ芋やジャガ芋コロッケはまさにそのよい例なのだ。

ちなみに長野県伊那地方でバレイショの作付けが普及しはじめるのが明治3年(1870)のこと。「男爵」と呼ばれている品種がアメリカから北海道に輸入されたのが明治40年(1907)、ジャガイモ全体の生産量が105万トンと初めて100万の大台を超えたのは大正5年(1916)のことである。(『明治・大正家庭史年表』/河出書房)


食の大正・昭和史 第二十六回
2009年05月20日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十六回

                              月守 晋


●怠業、罷業、同盟罷業(2)

第一次世界大戦は日本の経済・産業を成長させると同時に、人びとのくらしや考えかたにも影響を及ぼし変化させていったようである。

第一次大戦の戦後不況は大正9年春ころから始まり、長い不況の時代に入る。神戸市には川崎、三菱両造船所をはじめ橋本造船所、ダンロップゴム、神戸製鋼所などの大工場が多くの労働者を抱えて操業していたが、不況の波はこれらの大工場にも及び、ことにその下請中小企業に大きな打撃を与え、多くの失業者を出しはじめていた。

影響は神戸市の特産品であるマッチ産業の職工・内職者、港湾労働者、ゴム工場労働者らにも及んでいた。『神戸市史/歴史編Ⅳ』によると、「マッチ産業は沢山の中小企業によって成り立っていたが、兵庫県下で通勤職工は約三万人、そして軸木並・箱貼・製函などの内職者は一ニ、三万人に及んでいた。このマッチ産業も早くから不景気の打撃を深刻に受けており、膨大な労働者の生活難を引き起こすことになったという。

志津さんと養母みきがたずさわっていた箱貼りの内職も注文がなくなってしまった。そのため、志津さんが楽しみにしていたお手伝い賃の5銭ももらえなくなり、お八つに買って食べていた関東だきのジャガ芋も買えなくなっていったのである。

神戸市ではこうした事態を予測して、早くから失業対策を立てていた。神戸市職業紹介所にやってくる求職者の多くは、予測どおり第3次産業への就業希望者だったが、求人数が多かったにもかかわらず、実際の就職人数は少なかった。

その理由を『市史』では、

「求人側が住み込みを希望するケースが多いのに対して、求職者は勤務時間に制限がなくなることを恐れて“丁稚(でっち)・小僧の類”でさえ通勤・月給制を要求していたからであった」

と分析している。つまり

「(不況とはいえ)相当広い階層にわたって、俸給生活者と類似した生活スタイルを求めるようになって」

いたのである。
こうした時代の流れの中で大正10年、神戸市で操業する大工場で組織的な労働争議が起きた。

年初から橋本造船所、ダンロップゴム、神戸製鋼所の工員が待遇の改善を求めて罷業(ストライキ)を起こしていたが、6月25日、三菱造船所の内燃機の工員たちが日給と手当の増額などを求めて嘆願書を会社に提出、これが戦前最大といわれる労働争議の引き金になった。

三菱につづいて川崎造船所でも7月1日に全作業部門が統一して 1)解雇及び退職手当、2)自己都合退職手当、3)日給の引き上げ、4)病欠手当、5)応召期間(兵役が義務だった)の日給半額支給、など9か条の要求書を作成し翌2日会社に提出した。

こうして始まった川崎・三菱造船所の労働争議は会社側と労働者側とが真っ向うから対立する中で日を追って拡大・激化の一途をたどっていく。

争議団側には外部団体の支援も加わっていたが、会社側と争議団の間の乱闘、警官による争議団メンバーの逮捕・拘禁、争議団内部の対立と暴力ざた、警官隊と争議団の流血にいたる衝突など事態が日に日にエスカレートする中で県知事が軍隊の出動を要請、会社側の争議団切りくずしもあって、8月12日、労組側が「惨敗宣言」を出しようやく1か月以上にわたった争議に終止符が打たれたのだった。


秋野光子
2009年05月14日

14. 「思い切って チョコレートぐらい何とかして
            渡せるやろ 渡しいな な!!」

                   -------  「バレンタインデー」 秋野光子


市立図書館の詩集をあつめた棚で『現代日本生活語詩集』という1冊を見つけました。ぱらぱらめくってみて、いわゆる“方言”で書かれた詩をあつめた詩集だとわかりました。

“方言”ということばではなく“生活語”ということばが使われているのは、「日本各地の方言は、たんなる共通語と対抗するものでなく、その土地の生活に根ざしたことば、すなわち生活語として用いられていることを認めなおしたほうがよい」という観点によるものと編集委員の1人である有馬敲(たかし)氏が「あとがき」で述べています。

冒頭に掲げた2行は大阪府箕面市在住の詩人秋野光子さんの「バレンタインデー」と題した詩。2人の女性の会話が詩になっています。好きな男性のいる1人がバレンタインデーに気持ちをどう伝えたらいいのか、悩んでいます。もし「いらん云いはったら どうすんのん」と。

すると、これに答えてもう1人が励まします。そこまで面倒 見きれん、自分で考えなさい。「あんたが本当にあの男性(ひと)好きやったら 思い切って チョコレートぐらい何とかして 渡せるやろ 渡しいな な!!」

それでも躊躇している前の女性に、多分、同じ会社に勤める同僚と思われるほうの女性が助言します。チョコレートのほかに、「自分の思いを伝える手紙ぐらいは入れておきなさいよ」と。

2人の女性の交わす会話を、そのまま書き取ったようなこの詩は、お気づきのようにいわゆる大阪弁で表現されています。大阪という土地で日常的に使われている生活語で書かれているわけです。共通語で同じような場面を詩にしようとしても、書けないのではないでしょうか。この詩は大阪弁という生活語のもつリズムや呼吸があってこそ詩として成立しているように思えます。

『現代日本生活語詩集』には、Ⅰ北海道・東北・関東/Ⅱ中部・関西/Ⅲ中国・四国/Ⅳ九州・沖縄の4地域、計47人の詩人の詩が収録されています。

日頃、接することのない地方語で書かれているこの詩集を読んでいると、多様さのもつ豊かさとともに、お互いの意思疎通をはかるために果たす言語ということも考えざるをえません。

この詩集には『続編』も出版されています。


《参考》 『現代日本生活語詩集』
     「現代日本生活詩集」編集委員会/発行所:澪標みおつくし/2006年刊 
      


食の大正・昭和史 第二十五回
2009年05月14日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十五回

                              月守 晋


●怠業、罷業、同盟罷業(1)
大正8年から10年(1919~21)にかけて新聞紙上にひんぱんに現れた流行語は、怠業(たいぎょう)、罷業(ひぎょう)、同盟罷業といったことばだった。

怠業は「仕事を怠けること」、つまりサボタージュ(sabotage)である。もっともsabotage本来の意味は「労働争議中にわざと機械・設備を壊して生産を妨害すること」なので大正8年9月18日、神戸川崎造船所の1万6780人の職工が正午の汽笛を合図にいっせいに整然と始めた“サボタージュ”はむしろ英語でいうslowdown「作業効率を故意に落とすこと」であった。

事実、新聞各紙も「仕事には就かないものの作業位置を離れず、ただ機械が動くのにまかせて手も出さず見ていた」と工員たちの様子を伝えている。

争議の発端は労働者側が

1. 日給の歩増し
2. 特別賞与(社長が春に約束した375万円)の分配期日の明示
3. 年2回の賞与支給
4. 食堂、洗面場他衛生設備の完備

を会社に要求したことによるものだった。

サボタージュは上の要求に対する会社の回答を不満として始まった。
20日には兵庫分工場3300名の職工のうち鋳鋼部の1300名がサボタージュに参加した。そして27日、電気工場の800人を除く怠業参加者全員が同盟罷業、つまり「ゼネラルストライキ」に突入する。

こうした労働者側の動きに対して会社側は27日午後、職工側交渉委員と社長との会見の席上で突如、葺合・兵庫両分工場でも1日8時間労働制の実施とほぼ要求どおりの給与引上げ実施を社長の口から発表する。

この優遇策から外されることを恐れた職工側交渉委員は、29日から正常勤務に戻れば分工場同様の労働条件改善が受けられるという口頭での約束を取りつけて総罷業を中止するのである。

川崎造船所の労働争議はこうして終息したが注目されるのは会社側が提示した「1日8時間労働制の実施」だろう。

それまでの就労時間は全工場10時間で製鈑工場にいたっては11時間と決められていた。「世界工業界の大勢に鑑み」と会社は説明しているが、低賃金+長時間労働がもたらす安い製品価格は世界の市場でひんしゅくを買っていたのかもしれない。

ともあれ新労働条件は同年10月1日から実施された。それによると

(1) 営業時間 (午前6時30分招集、同7時就業、正午~0時30分昼食、午後3時半停業)
(2) 日給は就業時間8時間に対し従来の10時間と同様額を支給し、更に従来至急せる歩増し7割を
本給に繰り入れ支給す。従来の7割歩増し制度は廃止。

この他にも日給の賃上げ、残業代の支給も定められた。残業代は3時間は日給の1割、4時間は2割、5時間4割、6時間4割5分、7時間5割、8時間5割5分、引き続き24時間作業の徹夜には日給の4日分を支給する、とある。

志津さんの誕生した明治44年(1911)、日本で最初の労働立法である「工場法」が公布され、大正5年9月1日から実施された。この法律では15歳未満の男子工と女子工の就業時間が1日12時間に制限されている(2時間以内の延長、つまり残業を認めている)。

そのことを思えば、1日実動8時間(拘束9時間)という勤務条件は画期的なものだったといえるだろう。


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