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食の大正・昭和史 第二十四回
2009年05月07日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十四回

                              月守 晋


●ケレンケレンに行ってくるワ
志津さんの長兄(実際には叔父にあたるのだが)の悟(さとる)は明治40年生まれで志津さんの4歳年上だったが、大正10年頃には正規の職工ではなくとも、三菱造船所で働いていた。

仕事はドックに修理のために入ってきた船の錆(さび)を落とす作業で、「ケレンケレンに行ってくるワ」といって家を出て行った。

後年、同じ造船所で“この人にしかできない”といわれるほどの熟練の技能を持つ職工になったのだが、小学校卒業の学歴しか持たない数え年15の当時の悟が「見習職工」の身分さえも得ていたのかどうかは疑問である。

作家・吉川英治に“四半自叙伝”と副題のつけられた『忘れ残りの記』という作品がある。この中に横浜の船渠(ドック)で働いたときの体験が語られている。

ドックの会社の重役の口ききで実際は18歳の年令を規則通りの“20歳”といつわって仕事を得た英治は即日働き始める。配属されたのは「船具部」で、「最下級の雑役部といってもよく、体さえ強健ならば素人でもすぐ役立つ部門」だった。技術を要するのは塗工ぐらいで、その他の雑役の中に船腹船底の錆落しの作業も加わっていた。

労務時間は朝7時から夕5時半まで、英治の日給は42銭だった(明治42年)。

船具部が担当する仕事の中でもサビ落とし、貯炭庫作業、船底の水槽洗いなどの「ペンキにまみれたり、鼻の穴から肺の中まで粉炭で黒くしたり、セメント箒(ほうき)とセメント罐(かん)を持って、・・・・・最船底部の穴から穴へと這い込む」ような仕事は「かんかん虫」と呼ばれていた臨時雇用の労働者に割り当てられていた。かんかん虫には「上は腰の曲がったお婆あさんから幼は十四、五歳の少年少女まで」がふくまれていたのである。

「かんかん虫」の呼び名はドックに入ってきた船を固定させるためにいっせいに振るう大ハンマーの響きや、錆び落としや石炭を砕く時に出す小ハンマーの音に由来するものなのだろう。

悟が口にした「ケレンケレン」も「錆落としの音の表現だ」と志津さんはいう。「こんまい体にだぶだぶのナッパ服を着て、腰弁下げて」と早朝家を出てゆく兄の姿を志津さんは描いてみせた。

「ナッパ服」は「菜っ葉服」で文字通り「菜っ葉色をした服」であり、工員たちが常用した作業服である。

「腰弁」のほうは明治政府の省庁が整備された明治10年代には生まれていた古いことばで、17年2月20日の「東京日日新聞」に「腰弁無くなるか」と書かれているそうである。(『明治大正風俗語典』槌田満文/角川選書)。

外食より安くつく手作りの弁当を腰に下げて出勤する下級役人を、やや軽侮をこめてこう呼んだようだ。役人達の通勤コースが「腰弁街道」と俗称されていた、とも解説されている。

「菜っ葉服」に「腰弁」姿で「ケレンケレン」に出て行った悟が、ドックの船体に張りついて、“ケレンケレン”と船胴を響かせて得た賃金がどれほどだったのかはわからない。

未成年でしかも常雇いではない(非正規雇用者)だったろうから、日当は50銭にもみたなかったろう。

大正10年という年は神戸市にとって、社会的に大きな転換時であった。その影響は神戸市域だけにとどまらず、日本全国に波及していく。

それが戦前(太平洋戦争前)最大の労働争議といわれる川崎、三菱造船所争議である。


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