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食の大正・昭和史 第二十六回
2009年05月20日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十六回

                              月守 晋


●怠業、罷業、同盟罷業(2)

第一次世界大戦は日本の経済・産業を成長させると同時に、人びとのくらしや考えかたにも影響を及ぼし変化させていったようである。

第一次大戦の戦後不況は大正9年春ころから始まり、長い不況の時代に入る。神戸市には川崎、三菱両造船所をはじめ橋本造船所、ダンロップゴム、神戸製鋼所などの大工場が多くの労働者を抱えて操業していたが、不況の波はこれらの大工場にも及び、ことにその下請中小企業に大きな打撃を与え、多くの失業者を出しはじめていた。

影響は神戸市の特産品であるマッチ産業の職工・内職者、港湾労働者、ゴム工場労働者らにも及んでいた。『神戸市史/歴史編Ⅳ』によると、「マッチ産業は沢山の中小企業によって成り立っていたが、兵庫県下で通勤職工は約三万人、そして軸木並・箱貼・製函などの内職者は一ニ、三万人に及んでいた。このマッチ産業も早くから不景気の打撃を深刻に受けており、膨大な労働者の生活難を引き起こすことになったという。

志津さんと養母みきがたずさわっていた箱貼りの内職も注文がなくなってしまった。そのため、志津さんが楽しみにしていたお手伝い賃の5銭ももらえなくなり、お八つに買って食べていた関東だきのジャガ芋も買えなくなっていったのである。

神戸市ではこうした事態を予測して、早くから失業対策を立てていた。神戸市職業紹介所にやってくる求職者の多くは、予測どおり第3次産業への就業希望者だったが、求人数が多かったにもかかわらず、実際の就職人数は少なかった。

その理由を『市史』では、

「求人側が住み込みを希望するケースが多いのに対して、求職者は勤務時間に制限がなくなることを恐れて“丁稚(でっち)・小僧の類”でさえ通勤・月給制を要求していたからであった」

と分析している。つまり

「(不況とはいえ)相当広い階層にわたって、俸給生活者と類似した生活スタイルを求めるようになって」

いたのである。
こうした時代の流れの中で大正10年、神戸市で操業する大工場で組織的な労働争議が起きた。

年初から橋本造船所、ダンロップゴム、神戸製鋼所の工員が待遇の改善を求めて罷業(ストライキ)を起こしていたが、6月25日、三菱造船所の内燃機の工員たちが日給と手当の増額などを求めて嘆願書を会社に提出、これが戦前最大といわれる労働争議の引き金になった。

三菱につづいて川崎造船所でも7月1日に全作業部門が統一して 1)解雇及び退職手当、2)自己都合退職手当、3)日給の引き上げ、4)病欠手当、5)応召期間(兵役が義務だった)の日給半額支給、など9か条の要求書を作成し翌2日会社に提出した。

こうして始まった川崎・三菱造船所の労働争議は会社側と労働者側とが真っ向うから対立する中で日を追って拡大・激化の一途をたどっていく。

争議団側には外部団体の支援も加わっていたが、会社側と争議団の間の乱闘、警官による争議団メンバーの逮捕・拘禁、争議団内部の対立と暴力ざた、警官隊と争議団の流血にいたる衝突など事態が日に日にエスカレートする中で県知事が軍隊の出動を要請、会社側の争議団切りくずしもあって、8月12日、労組側が「惨敗宣言」を出しようやく1か月以上にわたった争議に終止符が打たれたのだった。


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