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食の大正・昭和史 第三十三回
2009年07月09日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十三回

                              月守 晋


●関東大震災


大正12(1923)年9月1日、午前11時58分44秒、激烈な地震が関東地方を襲った。激震に見舞われたのは東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨、茨城の1府(都制施行は昭和18年7月)6県、北海道と九州をのぞき本州・四国の全域で強弱の差はあったけれども大地の揺れに人びとは襲われたのである。

その日は2学期が始まる日で、始業式だけで学校は終わったので志津さんは11時過ぎには自宅にもどっていた。一息ついて昼食の支度を手伝おうと茶ぶ台を出した。

養父はすでに亡くなっていた(大正5年)から家には養母のみきと2歳年上の竹治、1歳下の留一と志津さんの4人しかいなかった。茶ぶ台に4人分の茶碗を並べ始めたその時、畳がどんと突き上げられ、部屋全体が揺れだした。

志津さんは夢中で部屋を飛び出し、裏の垣根を乗り越えてカネボウの社宅の広場に逃げ込んだ。

『神戸新聞による 世相60年』(西松五郎著/のじぎく文庫刊/昭和39年)には地震の発生した時間を「午前11時59分20秒」と記しているので震源の相模湾西部(大島と初島の中間)の最深部の海底で11時58分44秒に発生した地震波は36秒後に神戸に届いたことになる。

当時、大阪府豊中中学校の2年生だった建築家・京大名誉教授西山夘三は校庭の草取りをしていた。「もうすぐ昼の十二時だというとき」、その地面がゆらゆら揺れだしかなりの時間揺れていたが辺りを見回しても「これという変化はない」。だれかが「地震だ」と叫んだだけだったという。(『大正の中学生』西山夘三著/筑摩書房)

志津さんがあわててカネボウ社宅の中庭に逃げ込んだころ、東京府本所区横綱町(現墨田区)の「食堂に奉公してい」た同じ12歳の西条久代は被服廠跡の前の小林宅に出前に行き、そこで地震に遭遇していた。揺れが少しおさまったので店にもどろうとしていたところ、出前先の奥さんに「いいから私たちと逃げなさい」とすすめられて逃げ込んだのが被服廠跡だったのである。

この被服廠跡には、ここなら安全と信じた数万の市民が避難地として逃げ込み旋風火災に襲われて3万2000余人が焼死した。東京全市の死者・行方不明者が合わせて10万3300人余(大正ニュース事典/資料編))という人数だから実に約3分の1の人びとがここ1か所で命を落としたことになる。

少女は火災が起きたことは覚えていたが意識を失っていて、気がついたのは震災から3日後のことだった。小母を探しにきた消防団の人が死体を引き起こすのに使っていた鳶口(トビぐち)の先に当たって、激しい痛みを感じ意識を取りもどしたのだった。大勢の焼死した人びとの下敷になっていて命が助かったのだ。

少女はその後、助けてくれた人の家で1年間のお礼奉公をしたという。(『手記・関東大震災/私を助けてくれた人』西条久代(当時12歳) 関東大震災を記録する会編/清水幾太郎監修/新評論社/75年)

太平洋戦争の末期、昭和20(1945)年3月9日の夜から翌10日にかけて、アメリカ空軍のB29爆撃機の空襲によって、約12万人の東京都民が死傷したが、地震という自然災害による二次災害の火災のためにこれほどの死者を出した悲劇は他に例がない。

被服廠跡の広場は高さ8メートルほどのトタン塀に囲まれていて、出入口は2か所しかなかった。この限られた空間に火災をさけて荷車、運送馬車、リヤカーなどに万載した家財道具と共に何万もの避難民がなだれ込んでいたのだった。


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