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木下杢太郎
2009年08月26日

21. 「玻璃(がらす)を通し、南洋の
    土のかをりの楂古聿(ちょこれえと)」

            ------- 「楂古聿」 木下杢太郎
 

第3回にチョコレートを詠み込んだ俳句を紹介したことがありました(バレンタインデーの奇襲の白楂
古聿<しろしょこら>---鈴木栄子)。その後、「楂古聿」と表記してなぜ「チョコレート」と読ませるのか、中国音による表記なのだろうかとわからぬまま疑問を呈しておきました。

冒頭に掲げたのは木下杢太郎(もくたろう)の詩の一部です。全体で11行の詩は3段のパートに分かれていて1段目が3行、2段目と3段目がそれぞれ4行、問題の「楂古聿」は2段目の第3行目に当たります。

この詩には作者の前書がついていて、「これがわが初めて作る所の詩なり」と説明されています。発表されたのは明治40年8月、雑誌「明星」に掲載されました。詩人は当時、東京帝国大学医学部の学生で22歳でした。

前書には「もはら外光を画けりといはれたる印象派画家の風にならひ」と詩作の意図も説明されています。

印象主義はごぞんじのように19世紀末、フランスの画家たちが主導した芸術運動で、自然やさまざまな事象から受ける印象を感じたままに表現することに努めました。モネやマネ、シスレー、ルノアール、ピサロ、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホといった画家たち、彫刻のロダン、そして音楽家のドビュッシーらです。

「楂古聿」は大正8年にアララギ発行所から刊行された詩集『食後の唄』に収められました。『食後の唄』には北原白秋が「序」をよせていて、「彼は種々の舶来品---それは珍奇なる多種多様のエチケッテ、南蛮の異聞、ギヤマン、香料、異酒、奇鳥、更紗の類---を吾徒の間に齎らした」と述べています。

杢太郎は明治41年(1908)、白秋、吉井勇らと共に与謝野鉄幹、晶子夫妻の新詩社を離れ「パンの会」につどいます。“パン”はギリシャ神話の牧羊神。森林や田野の守護神です。

パンの会につどった詩人たちは音楽家や美術家たちとも結びあって、耽美的で唯美的な新しい芸術世界を模索するのです。

明治41年12月にはじまった「パンの会」は44年2月に活動を止めます。

杢太郎自身は44年12月に東京帝国大学医科大学を卒業、翌年、森鴎外の意見に従って皮膚科の土肥教室に入り、大正5年9月、南満医学堂教授兼奉天(現瀋陽)病院皮膚科部長として満州に渡ります。「楂古聿」を含む詩集『食後の唄』がアララギ発行所から刊行されたのは先述のように大正8年でした。

杢太郎の生地・静岡県伊東市には記念館があり、杢太郎の描いた「百花譜」の複製はがきを買うことができます。杢太郎は中学生のころ、画家を志したほどの腕前で第一高等学校第3部(医科)に入学してからも専門家について水彩画を学んでいます(ちなみに一高での英語教師は夏目漱石でした)。

記念館の奥には天保6年(1835)に建てられた生家が、当時のままに保存されています。


食の大正・昭和史 第三十九回
2009年08月26日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十九回

                              月守 晋


●行儀見習の奉公

実父の大垣静夫が会いに来てくれれば女学校に上げてほしい、と頼めるとひそかに願っていた志津さんはしかし父親に会うことができなかった。

約束どおり父親は志津さんに会いに来て、引き取って帰りたいと申し出たらしいのだがそれを養母みきがきっぱりと断ってしまったというのだ。

「手放すのがおしくなったんだね」と兄嫁の千賀は語った。

大正15年当時、神戸市内には男子の中等学校に相当する公立の女子教育校として県立第一神戸高等女学校(明治後期設立?)、同第二高女(大正14年設立)、市立第一高等女学校(明治後期設立?)、同第二高女(大正11年設立)、女子商業学校(大正6年)、市立湊東と同葺合の両女子技芸学校(共に明治後期の創設か?)があった。

在籍生徒数は県・市立高等女学校の4校で総数3051人である。

市内には明治前期創立の神戸女学院をはじめ親和高等女学校、神戸家政女学校(共に明治後期)、大正に入って甲南高等女学校、森高等女学校、成徳実践女学校、山手高等女学校、野田高等女学校などの私立女学校も設立されていた。

志津さんが小学校6年生だった大正12年の神戸市立小学校の在籍児童数は7万3105人、その6分の1が6年生だとすると翌年の卒業児童数は1万2184人である。

この半数の6092人が女生徒と仮定してその3分の1の約2000人が募集定員450人の県・市立女学校の3校(県立第二がまだ設立前なので)への入学を目指すとすれば倍率は4.4倍となる。

このくらいの競争率なら成績の良かった志津さんのことだから楽々と入学を決めていたかもしれないのだが、実際はそうはうまく運ばなかった。

女学校どころか志津さんは養母みきの意志で、行儀見習が名目の奉公に出されてしまったのである。

「奉公」とは「他人の家に住み込んで、使用人として働くこと」であり。

男の子なら商工業のノウハウを身につけるために住み込んで働く丁稚(でっち)奉公。これは徒弟奉公ともいい、5年~10年の期間を定めて修業し大工や左官などの技術、あるいは商いの仕入れ、販売、帳付けなどの要領を学んでいく。

食事は食べさせてもらえるが給金などはなくわずかなお駄賃がもらえる程度で、休日も藪(やぶ)入りといって盆と正月の年2回の節季だけである。

映画やTVドラマの渋い傍役(わきやく)として人気のあった花沢徳衛は満で数えて11歳の小学5年生のとき、横浜の指物師(釘を使わず板を組み合わせて家具を作る)に徒弟奉公に入った。

約束ではあと1年残っている小学校の課程は夜学に通わせる、年季明けには指物師用道具一式、徴兵検査に着てゆく紋服袴(はかま)、独立して仕事場を持つときの資金200円をくれることになっていた。

ところがまず「夜学へ通わせる」という約束が破られ、寝るときは細工場の板の間にござを敷き、そこへ10歳の子守娘とふとんを並べて眠るという毎日だった。

けっきょく7年後、正月の藪入りで実家に帰っている間に疫病にかかり、それを契機に年季を2年残して奉公をやめた。もちろん、道具一式も200円の仕事場開設資金も、その他の権利いっさいを放棄して許されたという話である。


食の大正・昭和史 第三十八回
2009年08月19日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十八回

                              月守 晋


●実父に会いたい

関東大震災の翌年、大正13年春に志津さんは小学校を卒業した。

志津さんは勉強が好きで、学校が好きだったから上級生になるとどうにかして女学校に上がりたいと考えるようになった。6年生になった志津さんは3,4年の担任の先生が休みの日には先生に代わって算数や読み方を教えたことがあるくらい成績も良かったのである。

それに、近所の小母さんの口からか、上から2番目の(ということは実母みさのすぐ下の妹)フサさんからか、あるいは遠縁の新在家の伯母さんからか、

「志津ちゃんが小学校を卒業する頃には、志津ちゃんのお父さんが志津ちゃんを引き取りに来て、女学校にも上げてくれはるかもしれんで」

と聞いていたのである。ともかく、実の父親が女学校に上げてくれるという夢が志津さんの頭にこびりついてしまっていた。だから小学校を出る頃になると、父親が今日は会いに来てくれるか、迎えに来てくれるかと待つようになっていたのである。

調べてみると実母のみさが死没したのは大正6年7月である。ということは、実母は志津さんが小学校の1年生だった夏まで生きていたことになる。そのことを志津さんが事実として知ったのは還暦も過ぎた頃のことであり、教えてくれたのは兄として育った悟の妻、千賀の口からだった。

そう教えられて志津さんは育った家の2階の部屋に、長姉(実は実母)みさが男の人といっしょに住んでいたことを記憶に甦(よみが)えらせた。

千賀の説明では、その男性は加戸某(なにがし)といい、島根県那賀郡の出身だった。島根県は大正5年に病没した養父傳治の父親の出身地でもある。傳治の父親は松江藩の下級武士だったが明治維新で禄をはなれると、どういうつてがあったのか畳職人としての腕を身につけて開港地兵庫に出てきて世間を渡った。小さな漁村に外国船を迎え入れるための港が造られ、その港を中心に市街が発達していった神戸だから、人が集まり住宅の建築が増えれば畳の需要は当然増えるし途絶えることはない。

傳治の父親はたぶん、時代の動きを下級武士なりに見通して畳職を生活の手段として選んだのだろう。

傳治一家と加戸某とが元松江藩士という縁で結ばれているとすれば、志津さんの実母みさと加戸某を結婚させたのも傳冶・みき夫妻だったかもしれない。

ともあれ実母みさは大垣静夫との仲を祖母みきの反対で裂かれ、志津さんを産んだのち加戸と結婚して実家の2階でくらしていた。
加戸との婚姻届は大正6年1月に出されているから、結婚していた期間はわずか7か月にすぎないということになるが、実際にはそれ以前からいっしょに生活していたことは間違いない。

千賀の話ではみさは男の子を出産したが赤児は間もなく死亡し、みさもまた産後の肥立ちが悪く我が子の後を追った。

みさと加戸との結婚はしあわせなものだったようである。

みさは遺言で自分の死後は3人の妹のうちの1人と結婚してほしいと、言い残して死んでいる。

そして遺言どおりに、3人の妹のうちの真ん中の妹キヨと3年後の大正9年に加戸は再婚し、妻の家に同居しているのである。

さて、志津さんは願いどおりに実父・大垣に会えたか、というと残念ながらそうはならなかったのである。


夏目漱石 2
2009年08月05日

20. 「御茶を上げますと云うから、別室に行って狭い処で紅茶を飲み、珈琲色のカステラと、
     チョコレートを一つ食ふ。サンドヰッチは食はず。(明治44年6月3日)
  「夜、買って来た鑵詰、鶏、ハム、パン、チョコレート。(大正4年3月21日)」
 
                              -------  夏目漱石
                                 (漱石その2)


ここに引用した明治44年6月3日と大正4年3月21日の記事は、岩波書店が96年に刊行した『漱石全集』第20巻(全28巻別館1)からのものです。同書の309ページと466ページに当たります。

漱石が残したぼう大な量の日記、断片はこの全集の第19、第20巻を占めており、漱石文学の研究者・愛読者にとっては作品の生まれた背景を知ることのできる貴重な資料になっています。

さて、記事にあるカステラは天正年間(1573-1582)にポルトガル人によって伝わったといわれ、新しい物好きの信長も口にしているかもしれません。ちなみにカステラは“(スペインの)カスティリャ地方のパン”という意味です。

森永製菓の創業者太一郎がわが邦初の洋菓子製造に着手したのは明治32(1899)年、板チョコの製造販売を始めたのが42年3月のことで、4分の1ポンド(1ポンド=453g)型のものでした。

明治44年6月3日午後、雅楽稽古所の演習に出席した漱石が終わってのち別室で接待を受け、口に入れたチョコレートがどんなチョコレートだったのかは、この日記の記述からはわかりません。しかし、「チョコレートを1つ」という表現からは板チョコではなく、銀紙で包んだ粒状のものが想像されます。

いずれにしろこの時の経験が「漱石その1」で紹介した小説『行人』でそのまま生かされていることがわかります。

漱石は翌43年8月、6月以来病んでいた胃潰瘍の療養のため滞在していた伊豆修善寺温泉の菊屋で24日夜中に大吐血し、一時危篤状態に陥ります。よく知られている“修善寺大患”です。どうにか危機を脱したのは10月のことでした。

これ以後も漱石は毎年胃潰瘍のために床についながらも、小説を書きエッセイや評論を発表しつづけます。

大正4(1915)年3月、漱石は京都旅行に出かけます。19日8時に東京駅を発ち、京都へは7時30分に着いています。引用した記事は21日のもので、「細君曰く大抵のものは食べます」と鏡子夫人についても触れられていますが、東京からずっと同行していたのか、途中で加わったのか、日記の記事からではわかりません。

この旅の間にも漱石の胃は病みつづけており、23日には「腹工合あしく旦天気あし」という記事が表われ、26日にはついに「終日無言、平臥、不飲不食」の状態に陥ります。帰京したのは4月に入ってからでした。


参考: 『日本食生活史年表』 西東秋男 / 楽游書房 / 昭和58年
     『明治・大正家庭史年表』 下川耿史 + 家庭総合研究会編 / 河出書房新社 / 2000年


食の大正・昭和史 第三十七回
2009年08月05日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十七回

                              月守 晋

●食の東西交流 - 関東大震災(5)

地震の被災者が何よりも困ったのは食べ物と飲み水が苦労をしても手に入らないことだった。


震災の状況が明らかになった直後から全国から救済品が続々と送られてきた。救済品は東京では芝浦の埋立地に集められ、府内各区役所に配給されることになっていた。しかし実情は芝浦の倉庫はほとんど焼失し、輸送手段もないまま野天積みされていた米穀類は腐敗し、馬鈴薯は芽を出すという始末だった(10月5日「大阪朝日新聞」)。

震災の年の前年に早稲田大学の文学部仏文科を休学したままこの年に中退していた井伏鱒二は、大学に近い下戸塚の下宿屋の2階で地震に遭った。地震後、茗渓館というその下宿屋では玄米しか売らないからといって、ビール瓶に入れた玄米を棒で搗(つ)かせて各自の食べる分だけ精米させたという。

太平洋戦争(1941, 12, 8-1945, 8, 15)の末期、苦労して手に入れた闇米の玄米を1升瓶に入れて棒で搗き、5分米ぐらいに白くして食べたという話を聞かされたことがあったが、この精白方法は大正時代からすでに行われていたことがわかる。

地震後7日目に井伏鱒二は中央線で郷里の広島県深安郡加茂村に帰るのだが、途中、甲府駅で空豆を1袋、上諏訪か岡谷ではあんパン1つと空豆1袋、中津川駅で大茶碗に味噌汁と握り飯をもらって息をついている(『私の履歴書』日本経済新聞社)。

震災後、関東・東京から多くの人びとが関西・大阪に移り住んだ。そういう人びとの中に江戸流の握りずしの職人がいて、これまで箱ずしや鯖ずしが主流だった上方に握りずしが流行りはじめたといわれている(『日本食生活年表』西東秋男/楽游書房など)。

鯖ずしの本場は京都で比良や比叡の山坂を越えて運ばれてきた若狭の鯖が使われた。この鯖は生鯖ではなく浜で塩をした塩鯖だったが流通事情が良くなった現在は生鯖を京都の各店で塩切りして用いるようである。

箱ずしは四角な木枠にすし飯をつめ、その上に卵焼き、鯖の身の薄切り、赤貝やとり貝などの貝の身、きくらげなどを置いて中ぶたで押さえる。2段にする場合は中間にシイタケやかんぴょうの煮つけをみじん切りにして敷き並べる。使う具は何でもいいのだが、魚のすり身を混ぜ合わせて焼いた卵焼きは欠かせないものである。

こう書いてくるとわかるように、ずいぶんと手間と時間がかかるものである。それに比べて東京風の握りずしは酢飯が馴れるまでといってもさほどの時間ではない。この酢飯の上に魚の薄切りをのせ握ればいいのだから上方のすしに比べればずっと手軽である。それにしても店をかまえているすし屋で握ったはしから客が口に運ぶようになったのは大正12年の大震災以後の話で、屋台店のマナーが店がまえのすし屋に持ち込まれてしまったためだという(『すしの本』篠田統/岩波現代文庫)。

震災でやむなく緊急避難のつもりで関西へ移住した谷崎潤一郎は東京日本橋の生れの東京育ちで、濃い味の関東風の味付けになじんでいたのが関西に住むようになってからこぶ出しの利いた薄味の京都風の味付けでなくてはならなくなった。谷崎は以後晩年まで関西に33年間住むことになるが、おいしい物好きだった谷崎を関西に引き止めた要因の一つは関西の味だといえるかもしれない。

「料理の味は西から東へ移動する」という(『食味往来』河野友美/中公文庫)。また、「京都の味は“料理屋の味”として、大阪の味は“庶民の味”として東京へ流れる」ともいう(同書)。さらに、「上品にできないものは東京に進出しにくい」といい、「タコ焼き」をその例にあげている。

大勢の人が移動した関東大震災後には人と共に様々なものが西から東へ、東から西へと移動したに違いない。

【関東大震災発生後に次のような忌わしい事件が起きていることをわれわれは忘れるべきでない】

・ 朝鮮人・中国人の大量虐殺
・ 労働運動家10人が軍隊によって殺害された亀戸事件
・ 甘粕憲兵大尉による大杉栄・伊藤野枝扼殺事件(野枝のおい7才の宗一も)


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