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夏目漱石 2
2009年08月05日

20. 「御茶を上げますと云うから、別室に行って狭い処で紅茶を飲み、珈琲色のカステラと、
     チョコレートを一つ食ふ。サンドヰッチは食はず。(明治44年6月3日)
  「夜、買って来た鑵詰、鶏、ハム、パン、チョコレート。(大正4年3月21日)」
 
                              -------  夏目漱石
                                 (漱石その2)


ここに引用した明治44年6月3日と大正4年3月21日の記事は、岩波書店が96年に刊行した『漱石全集』第20巻(全28巻別館1)からのものです。同書の309ページと466ページに当たります。

漱石が残したぼう大な量の日記、断片はこの全集の第19、第20巻を占めており、漱石文学の研究者・愛読者にとっては作品の生まれた背景を知ることのできる貴重な資料になっています。

さて、記事にあるカステラは天正年間(1573-1582)にポルトガル人によって伝わったといわれ、新しい物好きの信長も口にしているかもしれません。ちなみにカステラは“(スペインの)カスティリャ地方のパン”という意味です。

森永製菓の創業者太一郎がわが邦初の洋菓子製造に着手したのは明治32(1899)年、板チョコの製造販売を始めたのが42年3月のことで、4分の1ポンド(1ポンド=453g)型のものでした。

明治44年6月3日午後、雅楽稽古所の演習に出席した漱石が終わってのち別室で接待を受け、口に入れたチョコレートがどんなチョコレートだったのかは、この日記の記述からはわかりません。しかし、「チョコレートを1つ」という表現からは板チョコではなく、銀紙で包んだ粒状のものが想像されます。

いずれにしろこの時の経験が「漱石その1」で紹介した小説『行人』でそのまま生かされていることがわかります。

漱石は翌43年8月、6月以来病んでいた胃潰瘍の療養のため滞在していた伊豆修善寺温泉の菊屋で24日夜中に大吐血し、一時危篤状態に陥ります。よく知られている“修善寺大患”です。どうにか危機を脱したのは10月のことでした。

これ以後も漱石は毎年胃潰瘍のために床についながらも、小説を書きエッセイや評論を発表しつづけます。

大正4(1915)年3月、漱石は京都旅行に出かけます。19日8時に東京駅を発ち、京都へは7時30分に着いています。引用した記事は21日のもので、「細君曰く大抵のものは食べます」と鏡子夫人についても触れられていますが、東京からずっと同行していたのか、途中で加わったのか、日記の記事からではわかりません。

この旅の間にも漱石の胃は病みつづけており、23日には「腹工合あしく旦天気あし」という記事が表われ、26日にはついに「終日無言、平臥、不飲不食」の状態に陥ります。帰京したのは4月に入ってからでした。


参考: 『日本食生活史年表』 西東秋男 / 楽游書房 / 昭和58年
     『明治・大正家庭史年表』 下川耿史 + 家庭総合研究会編 / 河出書房新社 / 2000年


食の大正・昭和史 第三十七回
2009年08月05日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十七回

                              月守 晋

●食の東西交流 - 関東大震災(5)

地震の被災者が何よりも困ったのは食べ物と飲み水が苦労をしても手に入らないことだった。


震災の状況が明らかになった直後から全国から救済品が続々と送られてきた。救済品は東京では芝浦の埋立地に集められ、府内各区役所に配給されることになっていた。しかし実情は芝浦の倉庫はほとんど焼失し、輸送手段もないまま野天積みされていた米穀類は腐敗し、馬鈴薯は芽を出すという始末だった(10月5日「大阪朝日新聞」)。

震災の年の前年に早稲田大学の文学部仏文科を休学したままこの年に中退していた井伏鱒二は、大学に近い下戸塚の下宿屋の2階で地震に遭った。地震後、茗渓館というその下宿屋では玄米しか売らないからといって、ビール瓶に入れた玄米を棒で搗(つ)かせて各自の食べる分だけ精米させたという。

太平洋戦争(1941, 12, 8-1945, 8, 15)の末期、苦労して手に入れた闇米の玄米を1升瓶に入れて棒で搗き、5分米ぐらいに白くして食べたという話を聞かされたことがあったが、この精白方法は大正時代からすでに行われていたことがわかる。

地震後7日目に井伏鱒二は中央線で郷里の広島県深安郡加茂村に帰るのだが、途中、甲府駅で空豆を1袋、上諏訪か岡谷ではあんパン1つと空豆1袋、中津川駅で大茶碗に味噌汁と握り飯をもらって息をついている(『私の履歴書』日本経済新聞社)。

震災後、関東・東京から多くの人びとが関西・大阪に移り住んだ。そういう人びとの中に江戸流の握りずしの職人がいて、これまで箱ずしや鯖ずしが主流だった上方に握りずしが流行りはじめたといわれている(『日本食生活年表』西東秋男/楽游書房など)。

鯖ずしの本場は京都で比良や比叡の山坂を越えて運ばれてきた若狭の鯖が使われた。この鯖は生鯖ではなく浜で塩をした塩鯖だったが流通事情が良くなった現在は生鯖を京都の各店で塩切りして用いるようである。

箱ずしは四角な木枠にすし飯をつめ、その上に卵焼き、鯖の身の薄切り、赤貝やとり貝などの貝の身、きくらげなどを置いて中ぶたで押さえる。2段にする場合は中間にシイタケやかんぴょうの煮つけをみじん切りにして敷き並べる。使う具は何でもいいのだが、魚のすり身を混ぜ合わせて焼いた卵焼きは欠かせないものである。

こう書いてくるとわかるように、ずいぶんと手間と時間がかかるものである。それに比べて東京風の握りずしは酢飯が馴れるまでといってもさほどの時間ではない。この酢飯の上に魚の薄切りをのせ握ればいいのだから上方のすしに比べればずっと手軽である。それにしても店をかまえているすし屋で握ったはしから客が口に運ぶようになったのは大正12年の大震災以後の話で、屋台店のマナーが店がまえのすし屋に持ち込まれてしまったためだという(『すしの本』篠田統/岩波現代文庫)。

震災でやむなく緊急避難のつもりで関西へ移住した谷崎潤一郎は東京日本橋の生れの東京育ちで、濃い味の関東風の味付けになじんでいたのが関西に住むようになってからこぶ出しの利いた薄味の京都風の味付けでなくてはならなくなった。谷崎は以後晩年まで関西に33年間住むことになるが、おいしい物好きだった谷崎を関西に引き止めた要因の一つは関西の味だといえるかもしれない。

「料理の味は西から東へ移動する」という(『食味往来』河野友美/中公文庫)。また、「京都の味は“料理屋の味”として、大阪の味は“庶民の味”として東京へ流れる」ともいう(同書)。さらに、「上品にできないものは東京に進出しにくい」といい、「タコ焼き」をその例にあげている。

大勢の人が移動した関東大震災後には人と共に様々なものが西から東へ、東から西へと移動したに違いない。

【関東大震災発生後に次のような忌わしい事件が起きていることをわれわれは忘れるべきでない】

・ 朝鮮人・中国人の大量虐殺
・ 労働運動家10人が軍隊によって殺害された亀戸事件
・ 甘粕憲兵大尉による大杉栄・伊藤野枝扼殺事件(野枝のおい7才の宗一も)


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