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食の大正・昭和史 第三十八回
2009年08月19日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十八回

                              月守 晋


●実父に会いたい

関東大震災の翌年、大正13年春に志津さんは小学校を卒業した。

志津さんは勉強が好きで、学校が好きだったから上級生になるとどうにかして女学校に上がりたいと考えるようになった。6年生になった志津さんは3,4年の担任の先生が休みの日には先生に代わって算数や読み方を教えたことがあるくらい成績も良かったのである。

それに、近所の小母さんの口からか、上から2番目の(ということは実母みさのすぐ下の妹)フサさんからか、あるいは遠縁の新在家の伯母さんからか、

「志津ちゃんが小学校を卒業する頃には、志津ちゃんのお父さんが志津ちゃんを引き取りに来て、女学校にも上げてくれはるかもしれんで」

と聞いていたのである。ともかく、実の父親が女学校に上げてくれるという夢が志津さんの頭にこびりついてしまっていた。だから小学校を出る頃になると、父親が今日は会いに来てくれるか、迎えに来てくれるかと待つようになっていたのである。

調べてみると実母のみさが死没したのは大正6年7月である。ということは、実母は志津さんが小学校の1年生だった夏まで生きていたことになる。そのことを志津さんが事実として知ったのは還暦も過ぎた頃のことであり、教えてくれたのは兄として育った悟の妻、千賀の口からだった。

そう教えられて志津さんは育った家の2階の部屋に、長姉(実は実母)みさが男の人といっしょに住んでいたことを記憶に甦(よみが)えらせた。

千賀の説明では、その男性は加戸某(なにがし)といい、島根県那賀郡の出身だった。島根県は大正5年に病没した養父傳治の父親の出身地でもある。傳治の父親は松江藩の下級武士だったが明治維新で禄をはなれると、どういうつてがあったのか畳職人としての腕を身につけて開港地兵庫に出てきて世間を渡った。小さな漁村に外国船を迎え入れるための港が造られ、その港を中心に市街が発達していった神戸だから、人が集まり住宅の建築が増えれば畳の需要は当然増えるし途絶えることはない。

傳治の父親はたぶん、時代の動きを下級武士なりに見通して畳職を生活の手段として選んだのだろう。

傳治一家と加戸某とが元松江藩士という縁で結ばれているとすれば、志津さんの実母みさと加戸某を結婚させたのも傳冶・みき夫妻だったかもしれない。

ともあれ実母みさは大垣静夫との仲を祖母みきの反対で裂かれ、志津さんを産んだのち加戸と結婚して実家の2階でくらしていた。
加戸との婚姻届は大正6年1月に出されているから、結婚していた期間はわずか7か月にすぎないということになるが、実際にはそれ以前からいっしょに生活していたことは間違いない。

千賀の話ではみさは男の子を出産したが赤児は間もなく死亡し、みさもまた産後の肥立ちが悪く我が子の後を追った。

みさと加戸との結婚はしあわせなものだったようである。

みさは遺言で自分の死後は3人の妹のうちの1人と結婚してほしいと、言い残して死んでいる。

そして遺言どおりに、3人の妹のうちの真ん中の妹キヨと3年後の大正9年に加戸は再婚し、妻の家に同居しているのである。

さて、志津さんは願いどおりに実父・大垣に会えたか、というと残念ながらそうはならなかったのである。


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