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ジョアン・ハリス
2009年09月30日

23. 「わたしが売っているのは、夢、小さな慰め、
               ・・・甘くたわいもない誘惑」

------- 「ショコラ」 ジョアン・ハリス
 

ランスクネ・スー・タンヌ、トゥールーズとボルドーを結ぶ高速道路からほど近い、住民がせいぜい200人ほどの村に2月11日の“告解の火曜日”にヴィアンヌ・ロシェを自称する女性が6歳になる娘アヌークをつれて入ってきます。

母娘はその日から、4年前までブレロー老人がパン屋を営んでいた、荒れ果てた2階建を借りて住みはじめます。

翌朝母娘のもとへやってきた最初の訪問者は地区の主任司祭レノー神父。それももっともで、朝露に光る石畳の道の向こう側が教会なのです。ヴィアンヌはその朝から店の改装を始め、セントヴァレンタイン・デーの14日には壁を真っ白に塗りかえて赤や金色で飾りたてた新しい店を開くのです。

 ラ・セレスト・プラリーヌ
 手づくりチョコレートの店

これがヴィアンヌの開いた店です。
ショー・ウィンドーには飾りたてた金や銀の紙箱、包み、三角袋がところせましと並びガラス皿にはチョコレート、プラリーヌ、トリュフ、果物の砂糖煮、などなど。そしてそれらの中央にお菓子の家。壁はチョコレートがけのパン・デピス(ライ麦、蜂蜜などで作るアニス入りケーキ)、屋根瓦はフィレンツェ風クッキー(ナッツ、ドライフルーツ入りの生地を焼きチョコレートをかけたもの)。チョコレートの樹木にマジパンの小鳥、マシュマロの箒にチョコレートの魔女・・・・。

17日の月曜日にお客は15人、火曜日には34人、ほろ苦い風味のいいホット・チョコレートとさまざまなお菓子の魅力に誘われて客がふえ、ヴィアンヌの店に村人たちが集まりはじめます。しかし母娘の店を歓迎しない人びともいます。その筆頭はレノー神父。祈りにもやってこず、日曜日にさえ店を開ける異端者だ!と。それに建材屋のクレルモン夫妻。カフェの主人ミュスカ。

置き忘れられたような小さな村は、新たな住人が始めたチョコレートの店にそれまでかたくなに守ってきた暮らしをゆすぶられ、村人はとまどいながら心をひらいてゆくのですが、ある日、村を流れる川にジプシーの一群が舟を停めて暮らしはじめ村をさらに混乱におとしいれるのです。

この小説は筋書・登場人物を少々変えて映画化され大ヒットしました。2001年のアカデミー賞に作品賞をはじめ5部門にノミネートされたということです。

文庫本の解説によるとハリスの小説は“オーガニック・フィクション”と呼ばれ、多くの固定読者をつかんでいるといいます。


食の大正・昭和史 第四十四回
2009年09月30日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十四回

                              月守 晋


●大阪庶民の“うまいもん”

蝶子の父親種吉が住まいのある路地の入り口で商っているのは牛蒡(ごぼう)、蓮根、芋、三ツ葉、蒟蒻(こんにゃく)、紅生姜(しょうが)、鯣(するめ)、鰯などを揚げて1銭で売る1銭天婦羅である。

味がよいので評判だったが元手の7厘には炭代や醤油代が含まれていず損をしている。

こういう書き出しで始まる織田作之助「夫婦善哉」は昭和15年に発表されたものだが物語の時代は大正から昭和10年ごろまでだろうと思われる。

織田作之助は昭和14年から敗戦直後の22年2月に喀血死するまで9年という短い期間だったが多くの作品を発表して人気作家であった。

大阪で生まれて府立高津中、三高へと進んで小説を書き始めるが大阪の庶民のくらしを題材としたものが多くそれが評価され人気を呼んだのである。

神戸と大阪では同じ関西といっても都市としての成り立ちも歴史も違うので、食生活を含めてくらしぶりはずいぶんと違っていたろうと思われる。

志津さんが初めて家を離れて働き始めた他郷で出会った食生活がどのようなものだったのか、織田作品から探ってみようというわけである。

「夫婦善哉」は法善寺横丁に現在も実在するぜんざい屋で、織田作品は昭和30年、森繁久弥の柳吉、淡島千景の蝶子、豊田四郎の監督で映画化されこの年の日本映画ベストテンの2位に選ばれた。

梅田新道の安化粧問屋の息子である柳吉が“うまいもん屋”として蝶子を連れてゆくのは戎橋筋そごう横のどじょう汁と皮くじら汁の「しる市」、道頓堀相合橋東詰のまむし(うなぎ)の「出雲屋」、日本橋(大阪では「ニッポンバシ」と発音する。東京は「ニホンバシ」)「たこ梅」、法善寺境内の関東煮の「正弁丹吾亭」、鉄火巻と鯛の皮の酢味噌の千日前常盤座横「寿司捨」、その向かいのかやく飯の「だるまや」などである。

これらはたぶん、作者自身の好みでもあったろうか。

織田の小説にこうした食べ物やその値段が子細に語られるのは「これだけは信ずるに足る具体性」の表現だという作者の信念を作品「世相」を引いて青山光二が解説している。

ともあれ、織田作品から志津さんが13歳から18-19歳ころまでの大正13年-昭和5年ころに大阪市中で目にすることのできた食べ物を拾ってみよう。

( )内は作品の題名

*ミルクホールの3つ5銭の回転焼(「雨」)
*露天売りの1杯5厘(半銭)の冷やしあめ(「俗臭」)
*麦飯と塩鰯の昼飯(「俗臭」)
*玉子入りライスカレー(「夫婦善哉」)
*二ツ井戸の市場の屋台のかやく飯とおこぜの赤出し、鳥貝の酢味噌(「夫婦善哉」)
*味噌汁・煮豆・漬物・御飯の4品18銭の朝食(蝶子と柳吉の関東煮屋が朝帰りの遊客目当てに出す。「夫婦善哉」)
*風呂屋の晩菜の河豚(ふぐ)汁(「人情噺」)
*竹林寺門前の鉄冷鉱泉(「むねすかし」とルビがついている。発泡性のミネラルウォーターか)と焼餅(「わが町」)

志津さんにはこのような大阪の“うまいもん”を目にする機会もなかったろう。

商人の街である大阪では朝は前日の残り飯を粥(かゆ)にして食べ、昼に魚などの副食つきのたいた御飯、夕食に昼の余り物で茶漬けを食べるというのが一般だという(『上方食談』石毛直通)。

志津さんも朝晩は粥か茶漬け、昼はせいぜい煮豆などをおかずに台所で食べさせられていたのだろう。


食の大正・昭和史 第四十三回
2009年09月25日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十三回

                              月守 晋


●行儀見習の奉公(5)

志津さんの口から“座敷牢”という衝撃的なことばが出てきたのは行儀見習の奉公に出ていたころの話を聞いていた時ではなく2、3日後に駄菓子をつまみながらお茶を飲み雑談に興じていた時のことであった。もっともお茶を飲み菓子をつまんでいたのは聞き手とまわりにいた人間のほうで志津さんは甘い物嫌いのうえにお茶を決して飲まなかった。

志津さんの甘い物嫌いは子供のころからのことだったし、水しか飲まなくなったのがいつごろからのことなのかいっしょに暮らしていた子供たちも気づいていなかったのである。

神仏などに願いごとをし、その願いごとが成就する(かなう)まで、たとえば自分のいちばん好きな物を口にしないことを誓う「願かけ」が昔はよく行なわれていた。「酒は生涯1滴も飲まない」とか「お茶をたつ」と誓う行為を「酒だち」「茶だち」と称して周囲も「そんならしょうがないや」と付き合いの悪いのを容認したのである。

志津さんが何か願いごとがあって「茶だち」を始めたのか、それとも何かをきっかけ-----、たとえば身近な人の死などをきっかけにお茶を飲むことをやめてしまったのか、それはわからない。しかし志津さんは死ぬまで温かいお茶を飲むことはしなかった。

話が妙な方向にそれてしまったが、しかし、絹の反物を商う商家に「座敷牢」などというまがまがしい部屋が造られるなどということがあったのだろうか。

映画の中では見たことがある、という人はいるだろう。時代物の映画では藩政改革をこころざす跡継ぎの若殿を側室と手を組んだ悪家老が策略をめぐらせて狂人に仕立てて、格子で囲った一室に閉じ込めてしまうというストーリーだ。格子の囲いには小さな出入口が1つついていて、厳重に鍵がかけられ番人に見張られている。部屋は格子の外の障子を立てられると一日中、日光が入らず薄暗い。

「座敷牢に入れられた時は、障子の桟を数えていた」と志津さんはいうのである。

昔の日本家屋には「ふとん部屋」という小部屋があった。使われなくなった古ぶとんや臨時に雇った手伝いの人に使わせる予備のふとんを収納してある長3畳とかせいぜい5畳ほどの部屋である。たいてい女中部屋の隣りとか表座敷から離れた家屋の裏手の薄暗い隅にあった。

志津さんのいう“座敷牢”はこういう小部屋だったのかもしれない。志津さんがこうした部屋に閉じ込められた理由もわからない。が、たぶん、志津さんの“強情”が原因の1つだったかもしれない。これは理不尽と思うとテコでも動かないところが志津さんにはあった。そんな志津さんを「少しこらしめてやれ」とふとん部屋に押し込めたのかもしれないのである。

自由学園の創始者であり、雑誌「家庭之友(5年後「婦人之友」と改題)」の創刊者でもある羽二もと子(明治6年-昭和32年)は女性のための啓蒙書を数多く書いているが、その中に『女中訓』がある。「訓」は「教えてわからせること」で、つまり「どうすればりっぱな女中になることができるか」の指導書である。

大正元年に書かれているが、つまりは働いている家のために腹を立てず、他人をうらやまず、時間をむだにせず、頭を働かせて要領よく、主人やまわりの人に好かれるように努めなさい、ということである。

こころざしに違(たが)えて女中奉公をしていた志津さんはむろん、こんな模範的な奉公人ではいられなかったのだ。


食の大正・昭和史 第四十二回
2009年09月16日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十二回

                              月守 晋


●行儀見習の奉公(4)

絹の反物を商う商家に奉公に出された志津さんがもらった給金は1か月15銭だったという。これは全額、小づかいとして使うことのできる金銭である。

これが高いのか安いのか。明治末年の例で年額15円という例があるが、これは食事の支度から掃除、洗濯と休む暇もなく追い使われて、主家の家族とは別の粗末な食事にプライバシーに欠ける居間つづきの女中部屋でのくらしというから月割1円25銭、月30日として1日4銭1厘6毛の賃金はやはり安いというべきだろう(『<女中>イメージの家庭文化史』清水美知子著/世界思想社/より引用)。

丁稚(でっち)さんの場合はどうだったのか。

“薬の街”というわれた大阪道修町のくらしを書き留めた『薬の大阪道修町 今むかし』(三島佑一/和泉書店)という本には昭和6年~10年に高等小学校2年を卒業して数えの15歳で店に入った3人の丁稚生活経験者の回想談が収載されている。

昭和6年に奉公したOさんの店では月給2円、9年のHさんの店では初年度50銭で2年めに1円、10年に勤めはじめたSさんの場合は4月が50銭(ただし同額を店が貯金してくれた)で5月に1円、12月には2円になったという。

記述によれば当時素うどんが6銭で夜店の串カツ1本1銭、コップ酒1杯7銭、道頓堀弁天座の封切入場料が50銭だったという。座談会の開かれた平成16年当時の価値換算で、1円が4000円になるという。

こういう店の食事は主人家族のものも含めて質素、というより粗末なものだったらしい。下っ端の丁稚などは一番最後になるので実のない汁だけの味噌汁を飲むはめになった。それでもご飯だけは腹一杯食べられたというから救いはあったのである。

この頃の一般的な家庭での副食物も、平成21年の現在の状況から考えるとたいへん貧弱なものである。

大正14年に当時の東京市が行った“下町”といわれる深川の小学校で320人の児童を対象にした「副食物調査」では、朝はほとんどが味噌汁に漬物、昼は野菜や豆に漬物、魚という答えが出るのは夜だけでそれも半数以下の135名だけである。夜にも漬物と答えた児童が58名あり、卵という答えは3食通じて夕食にわずか5名、肉は昼に食べるという児童が1名だけだった(『近代日本食文化年表』小菅桂子/雄山閣)。

このシリーズで何度か引用させていただいた松田道雄『明治大正京都追憶』(岩波同時代ライブラリー)に、母堂が女中さんたちから「ごじゅう」とか「いちろく」という商家の食事の慣わしを表現することばを聞いてびっくりするという話が出ている。
「ごじゅう」とは5と10のつく日(5日、10日、15日、20日、25日、30日)にだけ魚を副食につけること。「いちろく」は1と6のつく日(1日、6日、11日、16日、21日、26日)にだけ魚がつくのである。

若い時代を東京でくらした両親が牛肉好きで毎日牛肉か魚を副食にする松田家の食習慣を、京都の中京の商家につとめていた女中さんたちは「毎日牛肉か魚を副食にするのを奇異に感じたようだ」と著者は書いている。

志津さんは奉公先でどんな扱いを受けていたのか。朝何時に起き夜何時に寝られたのか。子守のほかに掃除、洗濯もさせられたのか。3度の食事にどんなものを与えられていたのか、志津さんは思い出せなかった、というより思い出そうとしなかった。それほど、いやな体験だったのだろう。その志津さんの口から「座敷牢」ということばが出てきたのである。


ジョルジェ・アマード
2009年09月09日

21. 「8日後には、乾燥台の上のココアは黒くなり
               チョコレートの香りを放った」

------- 「カカオ」 ジョルジェ・アマード
 

『カカオ』の物語の舞台は南米ブラジルのバイーア州です。国都ブラジリアは州境の東端に位置し、旧都リオデジャネイロは南に下った大西洋岸。ブラジリアは1957-60年に建設遷都が行われた高原の人工都市です。

ブラジルの主要産物はごぞんじのコーヒー豆ですが、カカオの産出国としても世界有数でした。カカオは赤道を中心に北緯・南緯いずれも20°以内の高温多湿地帯ならどこでも栽培できます。

この物語が書かれたのは1933年、バルガスという政治家がクーデタを起こして独裁的な大統領に就いてから3年後、ということになります。
この物語を読んでいくとカカオの樹の栽培からカカオの実の収穫、ココアを発酵させる貯蔵庫での仕事、ココア乾燥台での作業など当時のココア生産過程を教えられます。

物語の主人公はジョゼー・コルディロという青年。かつては紡績工場主を父にもつお坊ちゃんでしたが、父の死後、工場を伯父に乗っ取られて農業労働者に落ちぶれた身。故郷のセルジッペ州を捨て、バイーア州イリェウスのカカオ農園、“友愛農場”で働いています。

さてある日、主人公の友人コロディーノの身に思いがけない悲劇が起きます。許嫁(いいなずけ)のマグノーリアが農園主のドラ息子に誘惑され、彼を裏切ったのです。

コロディーノは現場を押さえ、農園主の息子オゾーリオに重傷を負わせます。事態を知って激怒した農園主はコロディーノを殺せと輩下に命じますが、コロディーノは労働者仲間の援助で農園から脱出、リオへ逃亡します。そして逃亡したコロディーノから主人公のもとへ、社会改革運動へ参加するようにと誘う手紙がしきりにとどくのです。

作者ジョルジェ・アマードは1912年、彼の“カカオ作品”の舞台となっているバイーア南部のイリェウスで生まれました。『カカオ』は彼が21歳の時の作品で、処女作『カーニバルの国』(1931)につぐ第2作です。

カカオ農園が舞台となっている作品には他に『果てなき大地』、『イリェウスの聖ジョルジュ』、『大いなる待ち伏せ』などがあり世界的にも高い評価を受けています。実際に彼の作品は40か国語以上の言語で翻訳されており、ノーベル賞文学部門の候補に挙げられたこともありました。

南米やアフリカの文学が多くの国語に移されて読まれ、世界の文学に強い影響を与えてきましたが、アマードの作品はその最たるものといえるでしょう。

2001年、89歳で死去。



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