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食の大正・昭和史 第四十一回
2009年09月09日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十一回

                              月守 晋


●行儀見習の奉公(3)

志津さんが出された奉公先は絹の反物を扱っている店だった。

「店の旦那は」と志津さんはいうのだが、店の主人は群馬県出身のひとで、実家もワイシャツ用の絹反物を商っていた。奥さんの実家は大阪の街屋町でやはり商売をしている家だった(「たしか織物を扱うお店だったと思う」と志津さんはいったが記憶が定かではなかった)。大柄なひとで店員の食事の世話を先頭に立ってやり、手がすくと表の商売も手伝っていたという。

祖母みきがどんな手づるがあってこの奉公先を探しだしたかはわからないのだが、志津さんのこの家での仕事は女中の仕事兼子守だった。

一口に女中といっても奉公先によって仕事もさまざまだし、身分も違う。

『女中奉公ひと筋に生きて』(吉村きよ著/企画・構成游人社/草思社刊)の話者・きよさんが女中奉公に出たのは太平洋戦争後の昭和21年だった。志津さんが奉公に出たときからは25年ほども後のことだが、社会一般のくらしの規範は敗戦前とまだ変わってはいなかった頃である。

きよさんの奉公先は12キロメートルほど離れた村のお大尽様の屋敷で、母親に前渡しされた1年間の給金は2百円だった。

この家にはきよさんを含めて女中が3人おり、上番(うわばん)、中番(なかばん)、下番(したばん)に分かれ受け持つ仕事も違っていた。

上番の受け持ちは主人夫妻の身の回りの雑用や外出時のお供、来客へのお茶出しなどで、洗濯もさせられるが洗濯物は主人夫妻の肌着やハンカチなどの小物、主人のもも引きや奥様の腰巻など大きなものは中番女中の仕事である。下番は洗濯もさせてもらえない。下番の仕事は水汲みや飯炊き、味噌汁作りなどもっぱら土間での仕事である。掃除も分担があり上番は屋敷内の掃除だけやっていればよく、庭の草取りも中番と下番の仕事だから奥様にいいつけられるまでは手を出してはならない。

この屋敷では赤ん坊が生まれると女中とは別に13歳になる子守りをやとって世話をさせた。おむつを替え洗うのも子守りの役目だった。

志津さんが奉公先で与えられた仕事は女中の仕事よりも、もっぱら男の子の子守りだった。男の子の赤ん坊はよく泣くし、もともと女中奉公などに出たくはなかったのだから子守りに身が入らず、赤ん坊がぐずったりすると足をつねったりして背中の子をわざと泣かせたこともあったらしい。

志津さんがもらった給料は1か月につき15銭だった。生活していくのに必要なお金は全部お店が見てくれたので15銭の給金は全額、祖母に渡していた。祖母は着替えの肌着などを届けによく顔を出したようである。実父の大垣の眼から隠すために奉公させたとはいえ、少々、意固地なところのある志津さんに無事に勤まるか心配で様子を見に来ていたのかもしれない。

ところで大正13~15年当時の15銭はどれほどの実力があったのか。

大正13年に東京神田須田町で開業した食堂は野菜サラダ、カツレツをそれぞれ5銭、カレーライス、ハヤシライス、その合いの子ライスを各8銭で売り出した(『日本食生活史年表』)。

内職の手間賃ではズボンのボタンつけ1枚1銭5厘(23銭)、くつ下かがり1ダース12銭(24銭)、紙風船張り200枚30銭(20銭)など。(大正15年の読売新聞の記事、( )内は1日の稼ぎ額)。


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