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食の大正・昭和史 第四十二回
2009年09月16日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十二回

                              月守 晋


●行儀見習の奉公(4)

絹の反物を商う商家に奉公に出された志津さんがもらった給金は1か月15銭だったという。これは全額、小づかいとして使うことのできる金銭である。

これが高いのか安いのか。明治末年の例で年額15円という例があるが、これは食事の支度から掃除、洗濯と休む暇もなく追い使われて、主家の家族とは別の粗末な食事にプライバシーに欠ける居間つづきの女中部屋でのくらしというから月割1円25銭、月30日として1日4銭1厘6毛の賃金はやはり安いというべきだろう(『<女中>イメージの家庭文化史』清水美知子著/世界思想社/より引用)。

丁稚(でっち)さんの場合はどうだったのか。

“薬の街”というわれた大阪道修町のくらしを書き留めた『薬の大阪道修町 今むかし』(三島佑一/和泉書店)という本には昭和6年~10年に高等小学校2年を卒業して数えの15歳で店に入った3人の丁稚生活経験者の回想談が収載されている。

昭和6年に奉公したOさんの店では月給2円、9年のHさんの店では初年度50銭で2年めに1円、10年に勤めはじめたSさんの場合は4月が50銭(ただし同額を店が貯金してくれた)で5月に1円、12月には2円になったという。

記述によれば当時素うどんが6銭で夜店の串カツ1本1銭、コップ酒1杯7銭、道頓堀弁天座の封切入場料が50銭だったという。座談会の開かれた平成16年当時の価値換算で、1円が4000円になるという。

こういう店の食事は主人家族のものも含めて質素、というより粗末なものだったらしい。下っ端の丁稚などは一番最後になるので実のない汁だけの味噌汁を飲むはめになった。それでもご飯だけは腹一杯食べられたというから救いはあったのである。

この頃の一般的な家庭での副食物も、平成21年の現在の状況から考えるとたいへん貧弱なものである。

大正14年に当時の東京市が行った“下町”といわれる深川の小学校で320人の児童を対象にした「副食物調査」では、朝はほとんどが味噌汁に漬物、昼は野菜や豆に漬物、魚という答えが出るのは夜だけでそれも半数以下の135名だけである。夜にも漬物と答えた児童が58名あり、卵という答えは3食通じて夕食にわずか5名、肉は昼に食べるという児童が1名だけだった(『近代日本食文化年表』小菅桂子/雄山閣)。

このシリーズで何度か引用させていただいた松田道雄『明治大正京都追憶』(岩波同時代ライブラリー)に、母堂が女中さんたちから「ごじゅう」とか「いちろく」という商家の食事の慣わしを表現することばを聞いてびっくりするという話が出ている。
「ごじゅう」とは5と10のつく日(5日、10日、15日、20日、25日、30日)にだけ魚を副食につけること。「いちろく」は1と6のつく日(1日、6日、11日、16日、21日、26日)にだけ魚がつくのである。

若い時代を東京でくらした両親が牛肉好きで毎日牛肉か魚を副食にする松田家の食習慣を、京都の中京の商家につとめていた女中さんたちは「毎日牛肉か魚を副食にするのを奇異に感じたようだ」と著者は書いている。

志津さんは奉公先でどんな扱いを受けていたのか。朝何時に起き夜何時に寝られたのか。子守のほかに掃除、洗濯もさせられたのか。3度の食事にどんなものを与えられていたのか、志津さんは思い出せなかった、というより思い出そうとしなかった。それほど、いやな体験だったのだろう。その志津さんの口から「座敷牢」ということばが出てきたのである。


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