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野間 宏
2009年10月28日

25. 「背に負う板チョコが、一枚一枚、鋼チョコレートと思えたそうだよ」
    

------- 『顔の中の赤い月』 野間 宏
 

日本が太平洋戦争に負けた昭和20(1945)年8月15日当時、中国本土や南北朝鮮、台湾、ビルマ(ミャンマー)、マレーシア、インドネシア、タイなどの東南アジア諸国、さらには太平洋の諸島、樺太や千島列島などに軍人、軍属に一般人を含めて約660余万人の日本人がいました。それらの人びとはそれぞれの国、地域を統括する連合国側の管理統制の下で敗戦の翌月から次々と日本に引揚げてきました。[『日本経済再建の基本問題』(外務省調査局/昭和21年9月刊)によれば、敗戦時の在外一般居留民は304万人、軍人347万人である。]

引揚者たちはそれぞれに縁故のある土地に帰り、親兄弟・親類縁者・友人知己を頼って生活の再建を始めるわけですが、それは容易なことではありませんでした。

戦争末期の昭和20年3月から始まり敗戦直前の8月13日まで、広島・長崎両市への原子爆弾攻撃をふくめ、全土の60都市が米空軍の空襲にさらされ、約260万戸の家が焼かれ1,300万人が住居を失っているという状況でした。

もちろん工場などの生産施設も灰になり、ろくな働き場所も残ってはいません。そんな混乱のさ中にある祖国に帰ってきた引揚者・復員軍人たちは、ただ眠る場所を見つけ食べていくために大変な苦労を強いられました。「顔の中の赤い月」の主人公北山年夫は1年ほど前、南方(タイ、ビルマ、ラオス、スマトラ、ボルネオなど)の戦線から復員して、東京駅近くのビルディングの5階にある知人の会社に席を置いています。

同じビルの廊下をへだてた別の会社に堀川倉子という女性が勤めていて、北山は彼女に関心を寄せています。倉子は南方の戦線で一つ星(二等兵、最下級)の兵士として召集された夫を戦病死で失った戦争未亡人です。

著者の野間宏は敗戦前の軍隊がどのようなものであったかということをつぶさに描いた重厚な作品『真空地帯』をはじめ、戦中戦後の時期とその中で足掻きもがき苦しみながら生き抜いた日本人の姿をとらえた数多くの秀作を残しています。

「顔の中の赤い月」にも敗戦後数年を経たばかりの首都東京の生活が反映しています。北山の復員仲間の山沖には定職がなく、闇の商売で生計を立てています。扱うのは板チョコで、1枚を7円50銭で仕入れて8円50銭で田舎の雑貨屋に置いてくる。差し引き1円の儲けで月3千500円ほど稼ぐというのです。その山沖も商売を始めてすぐには売り込むべき土地を間違えて1枚も売れず、冒頭に掲げたようなつらさを味わったというわけです。

敗戦後の闇市場には、進駐軍から横流しされたハーシーとネッスルの板チョコが出回っていました。その一方でさつま芋から作ったグルコースや薬用カカオバター(座薬などに使う)の副産物のココアで作ったまがい物の“グルチョコ”と呼ばれた品物が出回っていました。山沖が扱っていたのは多分、この“グルチョコ”なのでしょう。


食の大正・昭和史 第四十八回
2009年10月28日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十八回

                              月守 晋


「鐘紡」 (つづき)

前回では女工寄宿内に女学校を設置したことを述べたが、鐘紡では早くも明治36年に共働きや乳幼児をもつ未婚女工のために乳幼児室を設け保育料も支給している。2年後には4才~6才児をあずかる幼稚園も作った。さらに従業員のために食品や生活雑貨を低価格で販売する共済会、社宅、病気、事故、死亡などに備える従業員とその家族のための共済組合(掛け金の半額を会社が負担)、総合病院(入院患者100人を収容)などの対従業員厚生組織、施設を40年までに整備している。

紡績業というと“女工哀史”と結びつけやすいが、その点鐘紡は従業員の質と生活の向上に努めその成果を製品の品質に反映させるという近代的な経営を実践していたといえるだろう。

●三菱造船に勤める

鐘紡に短期間勤めに出た後、次に志津さんが働くことになったのは三菱の神戸造船所だった。

「5年ほど勤めた」ということだから、結婚した年から逆算すると大正15(昭和元)年の5月ころからではないかと考えられる。

造船所は兵庫港の西南端、和田岬にあった。創業は明治38(1905)年だから志津さんが勤めはじめた年には21年間操業していたことになる。

造船所には実母みさのすぐ下の弟(戸籍上は志津さんの長兄になっていた)悟がこの5年ほど以前からドックに入った船の錆落としなどの仕事に通っていた。しかし当時の情勢から考えても悟の縁故でということは考えにくい。大正15年の神戸は第1次世界大戦後の経済不況のまっただなかにあり、三菱造船所も経営不振にあえいでいたのである。

大正11年に創業以来初めて78名の職員をリストラしたのに続き翌12年には職員27名と工員173名を、14年には職員48名と工員556名を退社させていた。11~14年の人員整理で153名の職員と729名の工員、計882名の首を切っているのである。

以上の数字は『新三菱神戸造船所五十年史』(昭和32年)の記述によったものだが、同書によれば大正4年末の在籍数は職員361名、工員4228名の計4859名でピーク時の大正7年の在籍数1万1047名に比較するとほぼ半減していることになる。

造船所の建設地は『五十年史』によるとまず民有地を買収し、「和田岬、今出在家町にわたる官有浜地一帯の交換下付を受け、元和田倉庫会社の敷地と倉庫を全部買収」し、さらに和田神社を移転し、漁家を立退かせて造船所建設用地にあてた。

明治30年代初めころの和田岬は「自砂青松の海水浴場で、岬の突端に灯台と勝海舟が築造した砲台があり、その隣に和楽園という有名な遊園地があった」と『和田岬のあゆみ』(上)に倉庫の解体と移転を請負った大林組の元社員が回想している。

『和田岬のあゆみ』(上・中・下巻/昭和47、48年刊)は神戸造船所に勤務した元職員の回想記集である。三菱造船所の職員は大学・工業高校を出たいわばエリートである。工員身分の従業員の回想はふくまれていない(わずかの例外はあるが)ので、志津さんの“兄”の悟さんたち階層の人びとがどんな処遇を受け何を思って働いていたのかは分からない。

ともあれ志津さんは三菱神戸造船所(職員たちは“神船”と略称で呼んでいた)に勤めることになり、与えられた最初の仕事は「受付」だった。

「用件のある外来客をそれぞれの課に電話連絡するか、直接その課へ案内すること」と志津さんは説明した。もらった給与は日給で50銭であった。


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