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食の大正・昭和史 第五十二回
2009年11月25日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十二回

                              月守 晋


●志津さんの三菱造船所時代(4)―つづき①

弁当代わりに木村のパンを買うこともあった志津さんだが、小さい時から甘い物が好きではなかった彼女はジャムパンやクリームパンがあったとしても買うことはあまりなかったかもしれない。

第1次世界大戦は大正7(1918)年11月に終わったがこの年は年初から全国で米価の暴騰が始まり、7月ついに「米騒動」が富山で起こり全国的に広がったことは前に書いた。

政府や府県当局は米飯の代用となるさまざまな代用食を家庭でできる米価対策として奨励した。たとえば東京府は知事名でカボチャを炊き込んだ南瓜(なんきん)飯、白米とおからを半々に炊く卯(う)の花飯、さらにじゃがいも飯やさつまいも飯をすすめている。

米価の高騰はパン食を並及させた。米騒動後には東京と名古屋に製パンのメーカーも誕生した。東京パンと敷島パンである。

日本のパン食普及と戦争は妙に関係が深いようだ。明治維新の最終戦となった元年6月の東北征討のとき、薩摩藩が上野凮月堂に黒ゴマ入りのパン5千人分を兵隊の食糧として納入させた。

維新後、政府は宮中での外国要人との宴会をフランス料理で接待することに決めたが、このためフランスパンとフランスケーキが上流社会の人士に認知されることになった。またイギリス式の三斤棒山型パンは維新を推進した薩摩と長州両藩の後ろ盾がイギリスだったために維新の要人や軍人の見なれたパンであり、明治10年には金板の長方形の焼型で焼く型焼きのイギリス式食パンがいちばん売れていたといわれる。

明治37-38年の日露戦争後は日本で俘虜(ふりょ)生活を送ったロシア兵の中に、革命で混乱している故国に帰還することを嫌って日本にとどまり行商で生計を立ててくらしている元兵士がいた。彼らの商品は固焼きのロシアパンで、日持ちのするわりには酸味がさほど強くはなかったので短い期間ではあったが人気があったという。

第1次世界大戦が終わった後にも同じような現象が起こった。日本各地の収容所に分散されて俘虜生活を送ったドイツ兵俘虜の中にも、戦争終結後の内乱のさなかにある祖国に帰らず、日本でパン屋を開業する者が出た。神戸のジャーマンベーカリーの創始者もこうした兵士の1人であった。ドイツ式のパン焼き窯(かま)は性能が高く火通りのいいパンが焼けるため、日本全国にドイツ窯で焼く小規模のパン屋がふえたのである(『パンの日本史』安達巌/ジャパンタイムズ)。

大正大震災後の13年、新聞各社が和洋折衷(せっちゅう)料理の例としてこぞって和風サンドイッチを紹介している。

たとえば東京朝日新聞が紹介したのは「パンにバターまたは卵白を焼いたものを敷き焼いた干物か鯛味噌をはさむ」というもの(同紙3月22日)。神戸又新日報の和風サンドイッチは「焼き肉、または煮魚の身をほぐしたもの、または魚の干物のつぶしたもの、または煮豆をすり鉢で十分にすりつぶしたものをはさむ」というもの。(同紙4月27日)

読売新聞が5月11日の紙上で紹介したのは「鯛とあんず、卵入りのサンドイッチ」というものである。これがどんなサンドイッチになるのか、想像できるだろうか?

志津さんが買って食べた「木村のあんパン」から話がだいぶ広がってしまったが、神戸又新日報式の和風サンドイッチの中では「煮豆をすりつぶしてはさんだ」ものあたりならば、志津さんも手を出したかもしれない。

 参考:『近代日本食文化年表』小菅桂子/雄山閣


食の大正・昭和史 第五十一回
2009年11月18日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十一回

                              月守 晋


●志津さんの三菱造船所時代(4)

養母みきのすすめで「鐘紡」から三菱造船所に勤めを変えた志津さんは着物をきて白足袋に下駄をはいて造船所に通った。造船所は自宅から歩いて15~20分の距離だった。

勤務時間は朝8時から夕5時までの拘束9時間、昼食時の休み時間が45分だったから実働8時間15分である。

仕事は前述したように受付で、徳大寺所長時代の職制表(昭和7年9月)には総務部の下に庶務課人事係があるので、たぶんここに配属されたのだろう。

勤めには弁当をもって通った。おかずは好物のシャケの粕漬けと養母お手製の奈良漬けで、白米のご飯という弁当である。粕漬けは「受付用の火鉢の上で焼いて食べた」というのだが、もちろん火鉢の出ている冬の時期のことだろう。しかしそれにしてものどかな話である。魚の焼ける匂いをどう処理していたのだろうか。

弁当を持参しない日には「小使い室に来る木村パンを10銭で」買って食べたという。

よく知られているように東京・木村屋の初代安兵衛があんぱんを初めて売り出したのは明治6(1878)年のことであった。ちなみに同じ年に明治政府の遣欧使節岩倉具視(ともみ)の一行がフランスでチョコレート工場を視察した。日本人初のチョコレートとの遭遇だった。

安兵衛がパンを製造販売しはじめたのは明治2年のことで、当時は屋号も「文英堂」と名乗っていた。あんパンの販売と同時に「木村屋」に改めたのである。このころ、製パン業者は木村屋の他には神田でパン屋を圣営する外国人の店が2軒と東京・京橋の風月堂くらいのものであった。

それが15年にはパンの小売店は東京で116軒にふえ、あんパン1個1銭で売るようになり、38年には全国の駅でも1個1銭で売られるというように普及した。

あんパン1個が2銭になったのは大正3(1914)年のことで、当時はそばのもり・かけが1銭5厘、天ぷらそばが3銭だったから2銭という代価はかなり割高に感じられる。

志津さんが10銭も出して買った「木村パン」はあんパン1個が2銭だったので「あんパンの他にもいろいろなパンを買って」食べたのである。

そのなかにクリームパンやジャムパンが入っていたかもしれない。

パン食に不可欠なバターやジャムの普及には、インドカリーで名高い東京新宿・中村屋の創業者、相馬愛蔵・良(のち黒光)夫妻がかかわっている。夫妻は明治34年に東京本郷の帝国大学前にパン屋を開業したが、バターやジャムの量(はか)り売りも始めた。当時のバターやジャムは良質の国内産はほとんどなく輸入物に頼っていた。

夫妻は開店から2年後の36(1903)年に小豆あんの代わりにカスタードクリームを使ったクリームパンを売り出した。カスタードクリームの食味は日本人に好まれ、クリームパンは短期間のうちに全国に広まったのである(『パンの百科』締木信太郎/中公文庫)。ちなみにシュークリームを初めて売り出したのは東京の村上新開堂で明治10年のことである。

同じ明治10年5月、東京・内藤新宿(現新宿)の勧農局でジャムや桃李の砂糖漬を製造販売している。このジャムはいちごジャムだったがこの後、あんずや梅のジャムも作られた。

このころのジャムは缶詰で、38年1月から雑誌「ホトトギス」で発表の始まった夏目漱石「吾輩は猫である」にも苦沙弥(くしゃみ)先生がジャムを8缶もなめて奥さんに小言をいわれる場面が描かれている。このころ、ジャムはパンにぬるものではなく直接口に入れてなめるものだった。


藤沢 桓夫
2009年11月18日

26. 「……歩きながらそれを口に入れる。口の端にチョコレートがついていようが一向平気で、……」
    

------- 『心尽しのちらし寿司/大阪自叙伝』 藤沢 桓夫
 

上に掲げた文章の「……歩きながら」の場所は阪神の競馬場で、「口の端にチョコレートをつけ」て一向平気でいたのは菊池寛です。

「文芸春秋」という月刊誌をごぞんじでしょう。毎年2回授賞される文学の芥川賞と直木賞の受賞作品がこの雑誌に発表されます。芥川賞は芥川龍之介の業績を記念して設けられた賞でいわゆる“純文学”で将来を期待される新人作家に、直木三十五の名を冠した直木賞のほうは広範囲のジャンルの書き手の中から将来も長く多くの読者に読まれる作品を書きつづけていけるだろうと評価された作家から選ばれているようです。

この2つの文学賞を創設したのが菊池寛で、昭和2年7月に自殺した芥川とは学生のころからの、直木は三十二の筆名で「文芸春秋」創刊時からの筆者であり、共に長年の友人でした。「大衆小説」という名称は大作『南国太平記』の作家である直木の発案した用語だということです。(『東光金蘭帖』今東光)。

菊池寛は子供のようにすぐお腹をすかす人で、お腹がすくと他人の目などまったく気にせず食べ物を口に運んだそうで、慌てて食べるためか不器用のせいなのかしょっちゅう食べこぼしをして着ているものを汚しました。

食べ物に対しては独特の考え方をもち“天真爛漫”に振る舞っていたようで、藤沢と将棋を指していた時のエピソードが語られています。

将棋を指している間に、菊池が何度も席をはずし床の間の前で何かごそごそしている。「ははぁ、先生、また何か食べているんだな」と察した藤沢が「先生、何食べてるの」と尋ねると「ちらし寿司だよ。これがうまいんだ」という答え。「どこにも売っていない代物なんだ」というそのちらし寿司は、後年『二十四の瞳』を書いた壺井栄からのさし入れで、四国からの帰りの汽車の中で食べるようにと渡されたものだったのです。

「一度に食べてしまうのが惜しくなって、トランクに入れて」おいたそれを将棋の途中で床の間へ行き、2口、3口食べては将棋の席へ戻ってきていたというわけです。

「壺井さんが僕にくれた寿司だから、いかに美味しくても君に分けてやるわけには行かない」というのが菊池寛の弁明だったと書いています。

吉屋信子も京都の講演会で友人が差し入れてくれたおはぎを見つけた菊池が「ピチャピチャといくつも平らげ」たと回想しています(『私の見た人』)。

秘書であり、どうやら愛人でもあったらしい佐藤みどりが信じられないエピソードを紹介しています。寝台車で失ったとうろたえ騒いでいた入れ歯を、菊池寛が自分がはいている靴の中から「あったよ」と取り出したというのです(『人間・菊池寛』新潮社)。

通りかかった小林秀雄が事情を知って「信じかねるような顔で感心して」いたと。


食の大正・昭和史 第五十回
2009年11月11日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十回

                              月守 晋


●三菱造船所時代(3)

*修業生* 大正4年に神戸市内の尋常高等小学校高等科2年を終えて「店童」として三菱造船所に入社した少年は修業生制度のあることを知って、学力不足を補うために夜間の市立兵庫実業補習学校に通った。2年後に造機製図修業生採用試験に合格、同時に25銭の日給が倍額の50銭になった。修業生の身分は「社員と職工との中間」だった。

修業生の年限は5年間で無事終了すると「技手」に昇格できた。修業生の間は教室に当てられた本館応接室や職員食堂、職工食堂で午前中は学科、午後は製図実習、帰宅後も夜間市立兵庫実業補習学校へ通うことが義務づけられていた。このころ製図室から多くの病人、とくに胸を病む者が出たという。

少年は11年3月卒業試験に合格、4月1日付で技手に昇格した。

*職工学校* 三菱造船所は大正8年に「職工学校」も設けている。 大正12年に他の会社からこの学校の教諭として転職したのちに校長も勤めた人物の回想によると「能力のある幹部職工を養成するため」であった。

「職工」を現わす言葉として流行語にもなった“菜っ葉服”がこの学校の制服だったが、ボタンだけは三菱のダイヤモンドマークに「エ」の字をはめ込んだ金ボタンだった。しかし当時は学生服は黒か茶褐色ときまっていたので菜っ葉色の「青服」は世間的にも学生らにも評判が悪大正10年には1、2年生による“制服改正”運動が起きたという。もちろん学校側は「萌え出る若葉の色は高遠な理想、希望に輝く将来を暗示する」ものだと断固としてはねつけている。

この職工学校は『和田岬のあゆみ』に眼を通してみたかぎりでは昭和10年までは継続して運営されている。

*年期制度* 小学校や高等小学校を卆業した少年を採用する制度として「年期制度」という制度もあった。小学校卆業だと数えどしの12歳、高等科2年を終わっていてもせいぜい14~15歳である。現在なら“労働基準法”違反だが当時は明治44年制定の「工場法」で15歳未満の子どもを就労させることができたのである。

職工学校の創立後に年期制度は廃止されたが大正6年当時、小学校卆の年期が4年、高等科卆は3年3か月で日給が15銭と17銭だったという。

*身分制度* 大正14年に本社である三菱合資会社の従業員資格等級(身分制度)を現す用語が統一されたのにならい、造船所でも統一された。

 役員 三菱合資の総理事、常務理事、参与。分系各会社取締役、監査役
 
職員 役員以外の正員と準員
・ 正員…本社使用人
・ 準員…事業所限りの傭員

雇員 事業所限りの傭員に準ずる者

職工 職工・鉱夫・仲仕・水火夫などの労働者で雇員以外の者の総称

明治の創業時には工員にも小頭・小頭心得・組長・伍長といった資格等級があり、これが大正に入って小頭・小頭心得を工長・工長心得といった現代風の呼称に変えられた。さらに昭和に入ると現場の作業員の他にも製図とか記録といった事務的仕事にたずさわる工員もふえたのでこれら間接工に1等から3等まで「1等製図手」「3等記録手」というふうに「手」制度が設けられた。

従業員は構内に出入りするときには記章をつけていなくてはならない。

志津さんが働いていたころの事務関係職員は紺色の円の縁に白地に赤のダイヤモンドマーク、技術関係者は銀円の縁に紺地に白のダイヤモンドマーク。工員で第1通用門から出入りする者はだいだい色の地の横長の矩形の真ん中に黒線が引かれその上に赤色ダイヤモンドと下に職番(工員の個人番号)、第2通用門出入り者は形が縦長だ円形で同じようにマークと職番が入っている。職員記章は銀台で七宝焼き、工員記章は真ちゅう製だった。


食の大正・昭和史 第四十九回
2009年11月05日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十九回

                              月守 晋


●志津さんの三菱造船所時代(2)

志津さんが勤めに出ていたころの三菱造船の所長は、徳大寺則麿というひとであった。この人は神戸が本籍地で、東京帝国大学工科大学造船学科を出て明治36年10月に三菱合資会社に入社、大正14年7月に神戸造船所副長、翌15年6月に所長に昇格している。所長としては第7代目に当たるが、神戸造船の所長は代々、東京帝大の造船学科出身者で占められていて徳大寺所長の前・後任も同窓の先輩・後輩である。

志津さんはこの所長のことを、お公家さんのような面長の美男子だったといっていた。昭和30年ころまで邦画の俳優に徳大寺伸という男優がいて“お公家(くげ)さん”の出身といわれていたが、写真を見ると徳大寺所長も端正な顔立ちで“お公家さん”を連想させる雰囲気をもっている。

徳大寺所長の在任期間は昭和9年1月までの約8年間だが、この8年間はまさに昭和不況期に重なる期間で、所長直属の4部4人の部長のうち3人までもが昭和6年から7年の2年間に急死しているという。

ここの所長を勤めた後は東京本社に転任されて三菱合資会社系列の役員、さらには本社参理事といった地位を目指すのが通例だったようだが、徳大寺所長は本店入りを拒否して六甲に新居を構えて引退してしまったという(『和田岬のあゆみ』中/李家孝)。

大正10年ころからドックに修理に入ってきた船の錆落としに雇われて「ケレンケレンに行ってくるワ」と出かけていた兄・悟もこのころ造船所で働いていたはずだが、悟と同じように神戸市内の小学校を出たあと尋常高等小学校の高等科2年を卒業して大正4年、縁故を頼って入社した人物の回想記が『和田山岬のあゆみ』(中)に載っている。

*店童* 入社時の身分は「店童」というもので、“コドモ”と呼ばれる給仕だった。和服に木綿の縞のはかま、麻裏ぞうりという服装で出社し所属は庶務課だったが他の課の店童が休むと会計課、見積課、受付けとどこへでも回された。兵庫本町にあった郵便局にも本役の受付係りが休みのときは自転車に乗れないので人力車を走らせて代行したという。大正10年入社の元社員の回想に「社用で出かける時には玄関先で交通掛の人力車(5,6台あった)に乗せられ」とあるので、人力車がこのころの社用の乗用車だったのだ。


そのころの「私の日給が25銭で、東京帝大卒業者の初任給が月45円」だったという。

通勤は国鉄東海道線の兵庫駅から和田岬線に乗り換えるか、30分ごとに出ている造船所と三菱倉庫のランチ(小型原動機船、メリケン波止場-高浜-倉庫-造船所)に便乗するか、徒歩で西宮内通り-兵庫大仏(能福寺大仏)前-真光寺前-運河回転橋-真っ直ぐ造船所のコースか、回転橋を渡って尼寺の前を左に曲がり外墓の塀ぞいに新川遊廊横から和田神社前に出るコースを取っていた。

話は横道に入るが、大正から昭和の初期、11月15日から始まる「誓文払い(歳末大売り出し)」では西宮内商店街は河内屋、明石屋、紀ノ国屋、山下、山梅などの呉服屋が店先に商品を積み上げて、赤いねじり鉢巻きに赤じゅばん姿の店員が黒山の買い物客相手に口上も面白く売りさばいていたという。

能福寺の大仏は露坐仏で正月の参道の両側には小さな店がずらっと並び、お年玉をもらった子どもをねらって、生姜糖(しょうがとう)にみりん粕(かす)、タコの代わりにコンニャクの入ったタコ焼きもどきの玉焼き、焼きするめ、ひょうたん型の器に入ったニッキ水、綿菓子、べっ甲あめなどを売っていた。

大仏の線香台を捧げている2人の童子は「おびんずる」と呼ばれ、お詣りきた人は線香の煙に手をかざしておびんずるの頭をなで、その手でおぶっている背中の子の頭を「かしこなれ、かしこなれ」となでたものだという。(『神戸の遊びと遊び歌-大正・昭和の兵庫かいわい』三船清/のじぎく)



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