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食の大正・昭和史 第五十一回
2009年11月18日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十一回

                              月守 晋


●志津さんの三菱造船所時代(4)

養母みきのすすめで「鐘紡」から三菱造船所に勤めを変えた志津さんは着物をきて白足袋に下駄をはいて造船所に通った。造船所は自宅から歩いて15~20分の距離だった。

勤務時間は朝8時から夕5時までの拘束9時間、昼食時の休み時間が45分だったから実働8時間15分である。

仕事は前述したように受付で、徳大寺所長時代の職制表(昭和7年9月)には総務部の下に庶務課人事係があるので、たぶんここに配属されたのだろう。

勤めには弁当をもって通った。おかずは好物のシャケの粕漬けと養母お手製の奈良漬けで、白米のご飯という弁当である。粕漬けは「受付用の火鉢の上で焼いて食べた」というのだが、もちろん火鉢の出ている冬の時期のことだろう。しかしそれにしてものどかな話である。魚の焼ける匂いをどう処理していたのだろうか。

弁当を持参しない日には「小使い室に来る木村パンを10銭で」買って食べたという。

よく知られているように東京・木村屋の初代安兵衛があんぱんを初めて売り出したのは明治6(1878)年のことであった。ちなみに同じ年に明治政府の遣欧使節岩倉具視(ともみ)の一行がフランスでチョコレート工場を視察した。日本人初のチョコレートとの遭遇だった。

安兵衛がパンを製造販売しはじめたのは明治2年のことで、当時は屋号も「文英堂」と名乗っていた。あんパンの販売と同時に「木村屋」に改めたのである。このころ、製パン業者は木村屋の他には神田でパン屋を圣営する外国人の店が2軒と東京・京橋の風月堂くらいのものであった。

それが15年にはパンの小売店は東京で116軒にふえ、あんパン1個1銭で売るようになり、38年には全国の駅でも1個1銭で売られるというように普及した。

あんパン1個が2銭になったのは大正3(1914)年のことで、当時はそばのもり・かけが1銭5厘、天ぷらそばが3銭だったから2銭という代価はかなり割高に感じられる。

志津さんが10銭も出して買った「木村パン」はあんパン1個が2銭だったので「あんパンの他にもいろいろなパンを買って」食べたのである。

そのなかにクリームパンやジャムパンが入っていたかもしれない。

パン食に不可欠なバターやジャムの普及には、インドカリーで名高い東京新宿・中村屋の創業者、相馬愛蔵・良(のち黒光)夫妻がかかわっている。夫妻は明治34年に東京本郷の帝国大学前にパン屋を開業したが、バターやジャムの量(はか)り売りも始めた。当時のバターやジャムは良質の国内産はほとんどなく輸入物に頼っていた。

夫妻は開店から2年後の36(1903)年に小豆あんの代わりにカスタードクリームを使ったクリームパンを売り出した。カスタードクリームの食味は日本人に好まれ、クリームパンは短期間のうちに全国に広まったのである(『パンの百科』締木信太郎/中公文庫)。ちなみにシュークリームを初めて売り出したのは東京の村上新開堂で明治10年のことである。

同じ明治10年5月、東京・内藤新宿(現新宿)の勧農局でジャムや桃李の砂糖漬を製造販売している。このジャムはいちごジャムだったがこの後、あんずや梅のジャムも作られた。

このころのジャムは缶詰で、38年1月から雑誌「ホトトギス」で発表の始まった夏目漱石「吾輩は猫である」にも苦沙弥(くしゃみ)先生がジャムを8缶もなめて奥さんに小言をいわれる場面が描かれている。このころ、ジャムはパンにぬるものではなく直接口に入れてなめるものだった。


藤沢 桓夫
2009年11月18日

26. 「……歩きながらそれを口に入れる。口の端にチョコレートがついていようが一向平気で、……」
    

------- 『心尽しのちらし寿司/大阪自叙伝』 藤沢 桓夫
 

上に掲げた文章の「……歩きながら」の場所は阪神の競馬場で、「口の端にチョコレートをつけ」て一向平気でいたのは菊池寛です。

「文芸春秋」という月刊誌をごぞんじでしょう。毎年2回授賞される文学の芥川賞と直木賞の受賞作品がこの雑誌に発表されます。芥川賞は芥川龍之介の業績を記念して設けられた賞でいわゆる“純文学”で将来を期待される新人作家に、直木三十五の名を冠した直木賞のほうは広範囲のジャンルの書き手の中から将来も長く多くの読者に読まれる作品を書きつづけていけるだろうと評価された作家から選ばれているようです。

この2つの文学賞を創設したのが菊池寛で、昭和2年7月に自殺した芥川とは学生のころからの、直木は三十二の筆名で「文芸春秋」創刊時からの筆者であり、共に長年の友人でした。「大衆小説」という名称は大作『南国太平記』の作家である直木の発案した用語だということです。(『東光金蘭帖』今東光)。

菊池寛は子供のようにすぐお腹をすかす人で、お腹がすくと他人の目などまったく気にせず食べ物を口に運んだそうで、慌てて食べるためか不器用のせいなのかしょっちゅう食べこぼしをして着ているものを汚しました。

食べ物に対しては独特の考え方をもち“天真爛漫”に振る舞っていたようで、藤沢と将棋を指していた時のエピソードが語られています。

将棋を指している間に、菊池が何度も席をはずし床の間の前で何かごそごそしている。「ははぁ、先生、また何か食べているんだな」と察した藤沢が「先生、何食べてるの」と尋ねると「ちらし寿司だよ。これがうまいんだ」という答え。「どこにも売っていない代物なんだ」というそのちらし寿司は、後年『二十四の瞳』を書いた壺井栄からのさし入れで、四国からの帰りの汽車の中で食べるようにと渡されたものだったのです。

「一度に食べてしまうのが惜しくなって、トランクに入れて」おいたそれを将棋の途中で床の間へ行き、2口、3口食べては将棋の席へ戻ってきていたというわけです。

「壺井さんが僕にくれた寿司だから、いかに美味しくても君に分けてやるわけには行かない」というのが菊池寛の弁明だったと書いています。

吉屋信子も京都の講演会で友人が差し入れてくれたおはぎを見つけた菊池が「ピチャピチャといくつも平らげ」たと回想しています(『私の見た人』)。

秘書であり、どうやら愛人でもあったらしい佐藤みどりが信じられないエピソードを紹介しています。寝台車で失ったとうろたえ騒いでいた入れ歯を、菊池寛が自分がはいている靴の中から「あったよ」と取り出したというのです(『人間・菊池寛』新潮社)。

通りかかった小林秀雄が事情を知って「信じかねるような顔で感心して」いたと。


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