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食の大正・昭和史 第五十七回
2009年12月29日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十七回

                              月守 晋


●高等女学校で使われていた割烹指導書(2)

わが国で最初に設立された女学校は東京女学校で、明治5年11月に東京帝国大学の前身の南校の敷地内に設けられた。その後明治15年に東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)に吸収されて付属高等女学校となり、男子中学校と同程度の学力水準の教育が行なわれた。

この間に公立・私立の女学校が各地に新設されて増えていったが明治32年2月に各道府県に「女子ニ須要ナル高等教育ヲ為ス」女学校の設立が義務づけられた。

しかしこの女学校では男子中学に比べると修業年限が1年短くて4年、理数科のレベルは低く設定され、外国語も学ばなくてよいなどの抑制策が採られる代わりに中流階層以上の「良妻賢母」を育成するために修身や裁縫、家事・音楽に力をそそぐように教科が組まれている。

高等女学校の数はその後も増加をつづけ大正2(1913)年に中学校数を超え、生徒数も14年に上回った。こうした事情が考慮されて9年には5年間の修業年数が認められている(太平洋戦争中の昭和18年に男子中学校と共に戦後の21年まで4年間に短縮された)。

一方国は「質素勤勉/気風ヲ備フル主婦」の育成を目指して修業期間2-4年の「家政に関する学科目」を主に学ぶ“実科高等女学校”も設置したがさほど広がらなかった。

高等女学校または普通女学校で「家事」という科目が教えられていた背景には以上のような国の思惑があったことはさておき、進学していたら志津さんも学んでいたであろう「家事科」の「割烹実習」がどのような内容をもっていたか、大阪家政研究会版の指導書に一通り目を通してみよう。

この指導書の新しい長所といえる点は食材や調味料の分量をメートル法で明示してあることだろう。

前に『趣味と実用の日本料理』(婦人之友社/大正14年刊)というタイトルの料理本の内容を紹介した(第28回~30回)。この本では「酢、塩、砂糖で味をつけ」と説明されていても調味料それぞれの分量は明示されていない。食材についても同様で、この料理本をテキストにして実際に料理をするとなると、家族の人数・味の好みを自分なりに考えて分量を決めなくてはならない。塩が多すぎたり酸っぱすぎたりと作り手は試行錯誤、苦労したことだろう。

調味料などの分量が「大さじ2杯」などとはっきり示されるようになったのは「ラジオ料理」が初めてで、以後汁物、煮物、酢の物などの調味料の割合を示した料理書が多くなった。「当時、調味料の分量を示した料理書や料理記事は赤堀割烹教場のものを除いてまだ少なく、特に料理人の書いたものには数量が公開してあることはほとんどなかった」という(『にっぽん台所文化史』小管桂子)。

『最新割烹指導書』では「分量はメートル法により五人分宛として成るべく熱量計算などに都合よきよう按排」されている。メートル法の採用は「我国の度量衡統一の実現を速進し」たいからだと説明されている。単位はグラム(瓦)とリットル(立)である。

家族の人数を5人としたのは、それがこの頃の標準的な家族数だったからだろう。

「初学者に調理の技術を学ばせるため」と「凡例」が示すとおりに第1学期の第1課は「飯の炊き方」で始まっている。

分量は米700グラムに水が1リットル。

この分量を見てたいていの人は「ヘン」だと思うだろう。それは「炊き方」が違うためである。


森絵都
2009年12月29日

29. 「アーモンド入りチョコレートのように生きていきなさい」
    

------- 『アーモンド入りチョコレートのワルツ』森絵都/角川文庫 
 
この物語には「エリック・サティ<童話音楽の献立表(メニュー)>より」と副題がついています。

登場人物は4人。語り手の「わたし」奈緒と奈緒の通うピアノ教室の絹子先生、レッスン友だちの君絵、それからもう1人“サティのおじさん”。

“サティのおじさん”の本当の名はステファン。フランス人。緑の瞳、銅色の髪、頭はハゲていないし、ひげだってサティほどふさふさしていない。けれど、絹子先生の最愛の人、音楽家のサティに似ていた。顔の輪郭や瞳の光りかたや今にも笑いだしそうな口もとが。

絹子先生と出会って7回目の春、中学生になっていた”わたし”と君絵がそろってレッスンに顔を出していたある日、ふんわりとよせてくるコロンの香りとともに“サティのおじさん”は突然2人の前に“ぽっかりと”現れたのです。

“サティのおじさん”はそれ以後、2人のレッスンに顔を出しつづけます。そして3人はお互いにお互いを認め合うようになるのです。

ことに君絵は国境もことばの壁もらくらくと越えてあっという間に“サティのおじさん”と意気投合してしまいます。

そのきっかけはピアノのレッスンに来ていてピアノを弾かずにうたってばかりいる君絵に、おじさんがそのわけをただしたときに「あたしは、ピアノよりうたうほうが好きだから、うたうんだ」と答えたことでした。

おじさんは君絵の答えにいたく感動してしまい、「日本にもこんな子がいるなんて思わなかった」と両腕の中に君絵をすっぽりくるみこんでしまいます。

この事があって4人の足どりがそろいはじめた6月、週に1度のワルツ・タイムがはじまり、8月の初め、事件が起きます。

事件の内容とその後の展開はこの物語を読んでいただくことにして冒頭に掲げた句。

クリスマスイブの前日に絹子先生宅で開かれた発表会に夏のある日以来姿を消していた“サティのおじさん”が現れ、発表会後のパーティーがお開きになった後、旅立っていく前に言い残していった言葉なのです。

君絵は発表会でもピアノを弾かずにうたをうたったのです。奈緒の伴奏するサティ作曲の「アーモンド入りチョコレートのワルツ」に合わせて。

 まわるまわる アーモンド
 チョコのなかで くるくるりん <中略>
 きょうも あしたも くる くる ぐる ぐる
 おどりつかれたら たべられてしまうから


食の大正・昭和史 第五十六回
2009年12月24日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十六回

                              月守 晋


●高等女学校で使われていた割烹指導書

ラジオ放送だけではなく大正末期から昭和初期にかけて、雑誌や単行本を媒体として食肉や加工肉、洋野菜や牛乳、バター、マヨネーズなどを使う西洋風料理が一般の家庭にも徐々に取り入れられるようになっていた。

シナ料理も大正13年4月から「婦人之友」が連載した料理記事をもとに15年に出版した『素人にも出来る支那料理』がベストセラーになり、昭和7年までに十数版を重ねるロングセラーになった。また昭和4年に刊行された『四季の支那料理』は11年までに50版を数えるロングセラーになった。(『にっぽん台所文化史』)。

こうした時代の推移に教育界も反応し、家事実習に採り入れるため指導書を編輯、教室で生徒に習わせはじめた。

『最新割烹指導書(前/後編)』(家政研究会編/大正15年初版発行)はそうした教科書の一種である。編集を担当した「大阪家政研究会」は大阪府下の公私立高等女学校の家事科教員が全員所属する団体であった。その会員中から委員が選ばれ内容構成と執筆に当たった。

内容は高等女学校か同程度の女学校の最終2学年で、隔週1回2時間の実習で修得できるように編集され、料理の配列も学期ごと、季節ごとに選ばれている。

いま手元にある『最新割烹指導書(前・後編)』は前編が昭和8年3月25日発行の第8版、後編は昭和7年3月発行の第7版である。編輯兼発行者はすでに書いたように家政研究会、発行所も同じく家政研究会で、所在地が大阪市東区高麗橋2丁目三越内となっている。この三越はもちろんデパートの三越だろう。

ボール紙のケースに前・後編別々に入っている。本体は横12.5cm×縦18.5cm(B6判)、表紙は丸背・布張り・題名などは色箔押しされている。前・後編とも扉(2色)の後に4色の口絵(前編は1丁で「正月重詰」後編は2丁で「茶会の食卓飾り」と「晩餐会の食卓飾り」)、さらに白黒の写真ページが前編に9丁、後編に8丁ついている。

写真ページの内容は前編が正月用調度品、野菜の切り方(基本切の一)(基本切の二)、野菜の切り方(応用)、魚の切り方(一)(二)、魚の刺し方、料理用器具(一)(二)が掲載され後編にはナフキンの折り方(扇形)(リリ一形)(薔薇形)(冠型)、鳥の包丁法(一)(二)、台所模型(大阪市電気局懸賞一等当選)(裏面に平面図)といった内容である。

「鳥の包丁法」は丸々1羽の鶏(毛はむしってある)をどのように包丁を入れてさばき食肉にするかを6枚の写真とキャプションで図解したページである。

定価が前編は60銭、後編が70銭である。ページ数が前編108、後編162と後編のほうが54ページも多いのでこの定価になったのだろう。

ところでこの指導書にはその淡いピンク色の見返しにかつての持ち主の姓名が「五年橘(たちばな)組 松岡幸子」としるされている。後編のほうには「サチ」と片カナ表記されていて、どうやらこちらのほうが本名らしい。「サチ」より「幸子」のほうがカッコイイと考えたのではないだろうか。

この指導書を入手したのは東京神田の古本街の1軒だった。かつての所有者の「サチ」さんは大阪市の高等女学校でこの指導書で料理を実習したのだろう。卒業後結婚して東京へ移り、いろいろあって平成20年前後に所蔵する書籍を整理した、とおぼしい。

昭和8年に高等女学校5年生だとすると、5歳ほど若いがほぼ志津さんと同世代である。昭和8年から平成20年までの「サチ」さんの歳月がどのように流れたかは他人のわれわれには想像もつかないことである。


江国香織 
2009年12月16日

28. 「私は、夫にチョコレートをもらうたびに、私をよその女でなくしたことへの、夫のお詫びの贈り物だと思っている」
    

------- 『よその女―いくつもの週末』より/江国香織 
 

『いくつもの週末』は、井上荒野(あれの)さんの解説によると“一緒に温泉に行”って“二人で露天風呂に一時間も入”っていて“江国さんのはじまったばかりの結婚生活のことを聞いて”いた話の終わりに「今度この生活をテーマにしたエッセイを女性誌に連載することになっている」と“江国さんが言った”、そのエッセイをまとめたものです。(ちなみに“”内は井上さんの解説文、「」の中が江国さんの話の引用)

全部で16のエッセイがまとめられていますが「結婚してもうじき二年、という秋から、もうじき三年、という秋までのあいだに書いた」と書いています。

著者も著者の夫も、でるつもりじゃなく海にでた、その航海の記録だ、と。

結婚生活は「大きな公園のそばの小さなマンション」で始まった。エッセイの最初の1篇もその公園とのかかわりが語られています。結婚して変わったことのひとつに「推理小説を読む」ということがあって、「結婚してからとりつかれたように」読むようになり、「いまでは、推理小説がなければ妻生活というものはやっていられない、と思う」ほどなのです。

公園の大階段で推理小説をとりつかれたように読むのは推理小説は「最後にちゃんとけりがつく」からで「(私が)たぶん、けりのつかない場所に不慣れだからなのだろう」と。

既婚者は新婚のころの自分を改めて思いかえしてみざるを得ないでしょうね。同じ家に一緒にくらしはじめて初めて相手に感じられる異和感があり、それを説明してわかってもらおうとしても相手はなかなか理解してくれない。「けり」はなかなかつかないものです。

『いくつもの週末』には1篇ごとに、こうした読む者を危険な淵に誘い込む数行がふくまれています。解説の井上さんもこの本は「私たちを落ち着かなくさせる」と書いています。

たとえば次のような文章。

「二人はときどき途方もなく淋(さび)しい」―「月曜日」

「色つきの世界というのはたぶん、この依存と関係があるのだろう」―「色」

「一時の気の迷い、は、我が家における冗句(じょうく)であり真実であり結論であり、…」―「風景」

冒頭に掲げた文章も「…よその女でなくしたことへの、夫のお詫び…」、にドキッとしませんか。


(『いくつもの週末』集英社文庫/‘01年)


食の大正・昭和史 第五十五回
2009年12月16日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十五回

                              月守 晋


●ラジオの料理番組

大正14(1925)年3月22日、ラジオ放送が東京で始まった。この時はまだ仮放送で放送局も芝浦の仮設局だったが、7月12日からは本放送が芝の愛宕(あたご)山の新局から開始された。当時の聴取者数はわずか5455人で受信料が月1円。受信機も鉱石検波器を使った精度の悪い鉱石ラジオがほとんどだった。

同年6月1日には大阪でも仮放送が開始され、7月15日には名古屋でも始まった。翌15年8月6日、東京・大阪・名古屋の3社団法人の放送局が合同し「日本放送協会」が設立された。

放送の始まった当時の番組は天気予報、経済市況、ニュース、家庭(婦人)講座、子供の時間、音楽・演芸などで、東京では英語講座も始められた。

そして家庭婦人を対象とする料理番組も始まった。

東京の放送局が「料理献立」の放送を開始したのはまだ仮放送中だった大正14年5月24日である。3局合同後に聴取者数が一挙に20万人を超えたほどラジオ人気が高まっていたので、聴取者としての家庭の主婦を対象とする番組が発案され実行されたに違いない。

大正15年1月からは著名な料理教師や料理人がその日その日の献立と料理法だけでなく食品や栄養に関する知識も加えて放送した。

その放送内容は「けさ放送のお献立」という見出しで読売新聞が紹介した。

大正15年1月から昭和2年1月まで放送された料理献立は2年5月に『ラジオ放送四季の料理』というタイトルの単行本となり出版された。

余談ながら昭和2年はいろいろと事件のあった年で、3月には7日に北丹波地方で3589人の死者を出した大地震があり、同月14日には片岡蔵相の失言に端を発した金融恐慌が起き、7月24日は芥川龍之介が劇薬をのんで自殺と”物情騒然“たる年であった。

こうした世情の中で8月13日、日本放送協会が甲子園から第13回全国中等野球大会(現在の全国高等学校野球大会の前身)の実況放送を行った。これが最初のスポーツ実況放送である。

ところで『ラジオ放送四季の料理』の月別の献立が『にっぽん台所文化史』(小管桂子/雄山閣)に収載されている。解説によると献立数は305種あり、うち洋食が84、シナ(中国)料理が11で残りはすべて和食(210種)だという。

またこの本には付録がついており「ハム料理」と「缶詰の話(付・簡単なる缶詰料理)」が紹介されているという。これを加算すると洋食の総数は97種類になるようだ。

こころみに11月の献立を書き移してみよう。

<和食> きつね飯 蟹の玉子炒り 塩鮭の鳴門巻 薩摩汁 炒り豆腐 千枚漬 鶉豆(うずらまめ)の粉吹煮 烏賊(いか)の芥子(からし)焼 煮込おでん 鯖の名古屋焼 さつま揚おろし大根 ぬた 大根の信田巻 鰯のつみ入(そぎ豆腐、青味、椎茸、白味噌仕立) 菠薐草(ほうれんそう)のスープ 油揚瓢(ひょうたん)の胡麻和(あ)え 大根の酢漬

<洋食> 蛤(はまぐり)のスープ 薩摩芋牛乳煮 ライスカレー シナモントースト(お茶のお菓子) スヰートポテトボール 菠薐草のスープ ベークドマカロニー 牡蠣(かき)ベーコン

料理名を見ただけではどんな料理なのかわからないものもある。「きつね飯」とはどんな料理なのか。「菠薐草のスープ」が和食にも洋食にも挙がっているがなぜだろうか。


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