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食の大正・昭和史 第五十四回
2009年12月09日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十四回

                              月守 晋


●志津さんの三菱造船所時代(5)―つづき

志津さんの仕事は前述したように「受付」だったが、徳大寺所長時代の三菱神戸造船所は不況の真っただ中にあり大勢の職員・工員の人員整理をさぜるを得ない環境にあったから他の部署で人手不足のときは出来る仕事を手伝いにも行かされた。

算数が得意だった志津さんは庶務課庶務計算係や会計課に伝票整理などの手伝いにちょくちょく行かされていたらしい。志津さんの記憶によれば徳大寺所長の秘書に「イデ トラオ」という人がいて、志津さんを「よく働く子だ」といってわが子のようにかわいがってくれ毎月「少女の友」(明治41年2月実業之日本社より創刊、竹久夢二の表紙や口絵、挿絵が少女たちに人気だった)を書店から取り寄せて渡してくれた。

三菱造船の『五十年史』をみると、大正6年11月の職制表には所長、副長と並んで「秘書」の肩書と氏名が記されている。徳大寺所長時代の昭和7年9月の職制表からは「秘書」という役職は消えているが、徳大寺氏の所長就任は大正15年だから、志津さんが勤めていた昭和5年ころまでのどの年かで廃止されたのであろう。

また昭和7年の職制表の庶務課人事係に係長として「井田虎雄」という氏名が記載されていて、ひょっとするとこの「イダさん」が志津さんの記憶に残っていた「秘書のイデさん」かも知れない。

しかし『和田岬のあゆみ』(上)にはもう一人別の「イデ」さんが登場している。大正14年に入社したこの人が入社時に勤務を命じられた時の会計課長は岡田光太郎、その次の課長が「井手」さんで「表向き大変厳格な人で、文章でも帳簿の記入でも厳しく訂正してくださいまして、大変勉強になりました」と回想している。「井手」さんの名が「トラオ」だったかどうかはわからない。

いずれにしても志津さんの造船所勤めは上司にもかわいがられて楽しい毎日だったようである。

昼食の休憩時間には構内からポンポン船、ランチに乗って元町に出て金つばを買ってくることもあった。金つばは小麦粉の薄い皮で小豆餡を包んで焼いた菓子で、俳人芭蕉が活躍していた天和貞享時代(1681-1688年)の京都ではうるち米の粉の皮で包んで白っぽく焼き「銀つば」と呼んでいた。それが江戸に入って小麦粉の皮でキツネ色に焼くようになり「金つば」に変わったのだと菓子研究家が書いている。「つば」は形が刀の鐔(つば)のようにだ円形をしていることから付けられた。

志津さんたちばかりでなく、昼休みに造船所のドックとメリケン波止場を定期運航するランチを利用して“元ブラ”としゃれこむ者が大勢いたと、元職員の1人も追憶している。

昼休みのもう一つの楽しみは「バレーボール」だった。

アメリカで創案されたバレーボールはYMCAの大森兵蔵によって明治41(1908)年に日本に伝えられた。それが職場や家庭婦人など女性の間で盛んになったのは大阪で大正12(1923)年に第6回極東大会が開催され、日本の女子チームが参加して大活躍を見せて以来である。このころは12人制で昭和2年の第8回極東大会のとき、日本の提案で9人制に変わった。

志津さんが職場で楽しんだのもこの9人制のバレーボールで、設計部門のように終日机に向かう職員などは運動不足になるからと、徳大寺所長が所長盃を出して奨励したこともあって昭和5、6年ごろはもっとも盛んだったとある手記にある。

ともあれ志津さんは10代の後半を日給月給の身分ながら“職業婦人”として充実した日々を送っていたのである。


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