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食の大正・昭和史 第六十一回
2010年01月27日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第六十一回

                              月守 晋


●高等女学校の割烹指導書の西洋料理

大阪家政研究会編『最新割烹指導書(前編)』(大正15年初版発行/昭和8年8版)は第8課で西洋風の献立を初めて取り上げている。

その内容は次のとおりである。

・サンドウィッチ(キウカンバー、ハム、エッグ)
・サラド(レッタス、トマト、エッグ)
 マヨネーズソース
・レモン ティ
 
材料・作り方は以下のとおり。

・サンドウィッチ
 食パン 800グラム(2斤)  キュウリ 200グラム(中1本)  ハム 100グラム  鶏卵 150グラム
 酢 0.5デシリットル  食塩 少々  こしょう 少々  バタ 100グラム  西洋粉からし 30グラム
 パセリ 少々

<準備>
1 食パンの固い部分(耳)を切り除き、薄く切って2枚ずつ合わせておく
2 きゅうりを薄く輪切りにし塩・こしょうをしておく
3 ハムを薄く切っておく
4 鶏卵を半熟にしておく(沸騰した湯に3分入れて取り出す)

<方法>
・キウカンバーサンドウィッチ
 食パンの1枚の内側にバタ、もう1枚には酢でといたからしを塗り、先のきゅうりをはさむ
・ハムサンドウィッチ
 食パン2枚の内側にバタ・酢ときからしを塗りハムをはさむ
・エッグサンドウィッチ
 半熟卵に塩・こしょうを加え、よくかきまぜてつぶしパンにはさむ
 
出来上がったサンドウィッチは固くしぼったぬれ布巾で包んでおき、テーブルに出すときに適当に切ったパセリを飾る。

・サラド
 玉萵苣(たまちしゃ=レタス) 50グラム(2株)  トマト 200グラム(2個)  鶏卵 200グラム  
こしょう
(マヨネーズソース用)
こしょう 0.5グラム  塩3グラム からし1.5グラム  酢0.3デシリットル  サラド油又はオリーブ油 1デシリットル 卵黄 30グラム

<準備>
1 玉ちしゃを1枚ずつはがし、よく水洗いして布巾で水気をよく取っておく
2 トマトに熱湯をかけて皮をむき薄く輪切りにしておく
3 卵を固ゆで(沸騰した湯で6分煮る)し、薄く輪切りにしておく

<方法>
玉ちしゃを皿に盛り、マヨネーズをかけ、トマトと卵をその上に体裁よく置く。

マヨネーズの作り方は先に示した材料から塩、こしょう、からし、卵黄を皿の中でよく混ぜ、次に酢を少量入れてさらによく混ぜた後、オリーブ油を少しずつ落としながら混ぜ合わせる。油がよく混ざったら残りの酢を少しずつ入れてゆるめてゆくのである。

レモンティを入れるのに土びんを使用するところが時代を感じさせる。


中井貴恵
2010年01月27日

31. 「田園調布のローザのロシアチョコを再び食べたい」
    

 『赤毛のアンを探して』中井貴恵/角川文庫 
 
中井貴恵さんは幼稚園児や保育園児の親、病気や不自由な肢体をもつ児童やその親たち、多くの小学生・中学生、養護施設でくらす人びとや関係者たちには「大人と子供のための読みきかせの会」の代表で朗読を担当しているひととしてのほうがよく知られているのではないでしょうか。
 
でも70歳代以上の年齢のおじさん・おばさんたちは、“あの佐田啓二の娘でワセダを出て女優になったひと”という記憶のほうが強いだろうと思われます。

父親の佐田啓二は伝説的な“美男俳優”でした。

昭和27年4月、NHKはラジオドラマ「君の名は」の放送を開始しました。戦時中、空襲かの東京で出会った若い男女が有楽町の数寄屋橋での再会を約して空襲のため名前を聞く暇もなく別れます。戦後、運命に翻弄されるように二人は再会しそうになりながらすれ違いを繰り返し時が過ぎ去ります。果たしていつになったら二人は再会できるのか、というわけでこのドラマは「放送時間になると銭湯の女湯がガラ空キになる」といわれるほどの大ヒット番組になりました。

「君の名は」は翌28年映画化され映画史上最大の興行収入を上げましたが、主演の真知子役に岸恵子、そして相手役の春樹を貴恵さんのお父さんの佐田啓二が演じ一躍人気俳優におどり出たのでした。佐田啓二は残念ながら37歳という若さで交通事故で死亡しました。

さて『赤毛のアンを探して』は貴恵さんの5冊目の本です。最初の本『ニューイングランド物語』は婚約者の留学先である米国ニューハンプシャー州のハノーバーで結婚生活をスタートさせた貴恵さんが「交通信号が3つしかない」町で1年半を過ごした‘くらしの報告書’です。

この報告書には極上の充実した1年半の日々が、てらいや飾りのない極上の文章で綴られていて読む者に至福の時間を与えてくれます。

その品の良さは『赤毛のアンを探して』までの4冊の著作にもそのまま受け継がれています。

さて冒頭の文章は「東京⇄四国うまいもの便」の項の一節。『ニューイングランド物語』を読んだ四国は香川県の女性から「ピカピカに光った身のしまった目刺し」がおくられてきて始まった東京と四国間の“おいしい物交換便”はやがて、お互いに自分の食べたい物を指定するようになり、四国の女性が貴恵さんにFAXでリクエストしてきたものです。

あなたは「ローザのロシアチョコレート」をごぞんじですか?

貴恵さんのエッセイはいまも文庫本でよめるはずです。


食の大正・昭和史 第六十回
2010年01月20日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第六十回

                              月守 晋


●高等女学校で使われていた割烹指導書(4)の2

前回は味噌が歴史的にどのように食べられていたかということに話がそれてしまい、肝心の味噌汁の作り方まで及ばなかった。指導書で解説されている作り方は以下のとおりである。

味噌汁は5人分。材料は白・赤味噌各100グラム、かつお節20グラム、水1リットル、豆腐250グラム(半丁)、ねぎ50グラム(約1本)。

<準備>

 1 水を鍋に入れて火にかける

 2 かつお節を削る

 3 ねぎを切る

 4 味噌をする

昭和5~10年ころの日本の家庭では、かつお節を使うときには自宅に備えてある削り器で使っていた。ビニールの小袋に3グラムとか5グラムずつ小分けにされた削りぶしなどはなかったのである。

同じように味噌も使うたびごとに摺り鉢ですって使っていた。大豆の粒が残っていないこし味噌も湯の中でこし綱を使ってよく溶くのがあたりまえだった。

作り方は「水が沸騰してきたらかつお節と味噌を入れ、煮立ってきたらねぎと賽(さい)の目(さいころ形)に切った豆腐を入れ、再び煮立ってきたら鍋を下ろして椀に盛る」のである。

煮すぎると汁が辛くなるし、豆腐も硬くなると注意がある。また使う味噌によって甘味・辛味が一様ではないので適宜量を加減するようにと注意がある。

味噌汁のほかにはこんにゃくと人参・(干し)椎茸の白あえを作ることになっている。

こんにゃく、人参、椎茸を千切りにし、干し椎茸を戻した湯を加えて煮立たせ、味の素(1グラム)、砂糖(20グラム)、塩(2グラム)、醤油(0.3デシリットル/30cc)で下味をつける。こんにゃくはあらかじめ水からゆでておく。

白ゴマ25グラムを洗って煎り、すぐに摺りつぶし、この中に豆腐1丁(500グラム)、塩(2グラム)、砂糖(30グラム)を入れてよく混ぜ合わせ、先に煮た具を加えてよくあえる。豆腐はあらかじめ布巾で絞ってよくつぶしておかなくてはならない。

以上で第1学期の第1課、2時間の実習でご飯と豆腐とねぎの味噌汁、こんにゃく・人参・椎茸の白あえの食事が出来上がった。

第2課は桜飯とかまぼこと三つ葉の清汁(すましじる)、鰆(さわら)と蕗(ふき)の煮付けの実習だ。

桜飯というのは醤油とみりんで味をつけ色をつけた飯である。魚の煮付けには敷きざるか竹の皮を敷いて煮ると煮くずれしないと注意書がある。

この指導書は季節感に配慮して献立が立てられている。

第3課では「たけのこ飯」に筆しょうが、第4課では「えんどう豆飯」に木の芽和え、第5課で「そら豆飯」にキスの吸い物、第6課には「ちらしずし」が取り上げられ、第7課では「アイスクリーム」があらわれるといった具合である。

ひと月に2回、2時間の実習が原則だから「アイスクリーム」の実習は7月、夏休み前ということになる。この実習で「アイスクリーム」の作り方を覚えたこの教科書の元の所有者「松岡サチ」さんも夏休みには自宅でさっそく腕前を披露したかもしれない。

この指導書では第8課に「サンドウィッチ・サラド・レモンティ」の洋風献立が現われ、第18課に飛んで「シチウ・オムレツ・ブレッドプヂング」が取り入れられている。次回ではこうした西洋風献立の料理法をどのように教えているのかを見てみよう。


食の大正・昭和史 第五十九回
2010年01月14日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十九回

                              月守 晋


●高等女学校で使われていた割烹指導書(4)

前回に指導書で教えられている「湯立て式」の飯の炊き方を紹介したが、今回は「豆腐とねぎの味噌汁」の作り方である。

まず材料。

*白赤味噌 各100グラム
*鰹節(かつお節) 20グラム
*水 1リットル
*豆腐 250グラム(半丁)
*葱(ねぎ) 50グラム(約1本)

作る量は第57回で触れたように家族5人分である。

ここで指定されている味噌の量は5人分としても少々多すぎるように思われる。白赤各100グラムだから総量は200グラム、1人分の量は40グラムになる。ためしにわが家の味噌汁の味噌の量を計ってみたら1人分約15グラム、指導書の半量以下である。

この違いは副食物としての味噌に対する依存度の違いの現れかもしれない。高等女学校でこの指導書によって料理実習が行われていたころには、2010年の現在ほど食材も調味料も種類は豊富ではなかったし、高栄養食品としての味噌に頼る度合いは格段に高かったと思われる。つまり味噌そのものが「おかず」として食べられていた。

奈良時代の東大寺には中国から伝わった仏教の教典を書き写す「写教所」が設けられていた。官給の紙に官給の筆、これも官給の墨を磨って17字詰25行と定められていた写教にいそしむ写教生には、1日かかって3千字を写すと5文の日当、白米2升(現在の8合)、調味料として塩と醤(ひしお=もろみ)、それに未醤(みそ)1合(ごう)が現物支給されていた。この当時の未醤は粉味噌だったといわれ重要な調味料であり副食物だった。

さらに時代が下って平安時代になると、平安京の西の京には味噌を商う店が27軒もあり近江、大和、飛騨が産地として名高かったという。(『日本食生活史年表』)。

味噌を味噌汁として食べるようになったのは室町時代からだと言われ、うりやなすなどの野菜を味噌漬にして食べるようになったのは平安時代以前のことだといわれている(『図説江戸時代食生活事典』)。

味噌の原料は大豆(蒸す、又はゆでたもの)、米麹(こうじ)か麦麹または豆麹のいずれか、そして食塩である。これらを混ぜ合わせて6カ月~1年間密閉した容器で熟成させる。
塩分の多少によって辛味噌と甘味噌に分かれ、米麹を使うか麦麹を使うかでも甘辛の違いができ、色も白いものから赤味を帯びたものまで変わってくる。これは米と麦のでんぷん質が関係しているためである。

愛知県岡崎の「八丁味噌」のように豆麹と食塩とだけで仕込み、3年もかけて熟成させる味噌もある。八丁味噌は色も茶色から深煎(い)りのコーヒー色まで色が濃いのが特徴である。また八丁味噌の産地は愛知、岐阜、三重の3県に限られているようである。

味噌は汁物としてよりもまず調味料として使われ、「おかず」として食べられた。野菜だけでなく魚肉や獣肉の漬け床としても使われ、江戸時代には彦根藩の伊井家が江戸の将軍家と紀井・尾張・水戸の御三家に牛肉の味噌漬を献上するのが慣例になっていたという。

「おかず」の味噌には「なめ味噌」がある。炒(い)り大豆を油で揚げて味噌と合わせた大豆味噌。いためたねぎを合わせるねぎ味噌。柚(ゆず)味噌、落花生味噌、鯛味噌や鰹味噌のように魚肉を炒り合わせたもの。

長野県伊那地方ではコオロギやイナゴを煎りつぶして合わせたコオロギ味噌、イナゴ味噌も食べられていた。


谷村志穂、飛田和緒
2010年01月14日

30. 「『公園通りの石畳』が作られている場所はですね、渋谷ではなく、神奈川県の平塚市だったのです」
    

------- 『お買い物日記』集英社文庫/谷村志穂*飛田和緒

 
『お買物日記』は作家と料理家の、共に30代前半の2人が手に入れたお気に入りの品々を写真入りで紹介してくれる、まぁ、一種の買い物ガイドブックですね。

紹介されているのは全部で46点。日本のものと外国のものもとり混ぜて、といっても『日記』は1と2があるので46X2=92点です。

製造元の名前を聞けば「あぁ」とうなづけるものもあれば「うん?」と遠目になってしまうものもある。「そんなところにそんなものが!」とびっくりさせられるものもある。というわけで、身の回りに余分なものなど置かない、単純明快・簡素第一というひとにも読めばなかなか面白いのです。

たとえば“びっくり部門”の一つがお寺で売ってる日本手拭(てぬぐい)。京都栂尾(とがのお)の高山寺で売られている手拭には国宝の絵巻「鳥獣戯画」がプリントされていて、色合いも深い藍色、薄茶、グレーと3色あるのだそう。

しかしこのお話は“お寺止まり”ではなくて、世良公則のツイストのライブにまで発展するところがミソ。

ところで『お買物日記』1・2で紹介されている92点のうち食品が[1]に11品、[2]に10品。そのうち[1]に2回、[2]2回の計4回チョコレートが取り上げられています。

文章を書いている谷村さんは必ずしもチョコレートに好意的ではなく[1]で紹介されている自由が丘の‘トップ’の「バナナボートケーキ」のページでは、「トップといえばあれかい?あの甘―いチョコレート・ケーキの店かい?」と書いています。

でもこれは谷村さんの思い違いで、“甘―いチョコレート・ケーキ”の店の名は「赤坂トップス」なのでした。それに谷村さんが嫌いなのは“甘―い”チョコレートらしく、「カカオの味がよく効いた、なめらか」な生チョコなどは大好きらしく、和緒先生から聞いていた「公園通りの石畳」の話を旅先で耳にして商品名から連想して渋谷の公園通りの店をたずね回ったり、銀座のデパートに行ったり探しに探すのです。

結局、最終的に料理家の飛田(ひだ)和緒先生が「家中をひっくり返して」かつていただいたチョコレートの中に入っていた小さなカードを見つけて、正しい製造元に行き着きます。

冒頭の一節はやっと見つけたその店の所在地です。

『日記』の[2]には「デメルの金の舌チョコレート」について実に深遠な考察(?)が述べられています。

注:引用したのは2000年出版のものです。


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