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食の大正・昭和史 第五十九回
2010年01月14日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十九回

                              月守 晋


●高等女学校で使われていた割烹指導書(4)

前回に指導書で教えられている「湯立て式」の飯の炊き方を紹介したが、今回は「豆腐とねぎの味噌汁」の作り方である。

まず材料。

*白赤味噌 各100グラム
*鰹節(かつお節) 20グラム
*水 1リットル
*豆腐 250グラム(半丁)
*葱(ねぎ) 50グラム(約1本)

作る量は第57回で触れたように家族5人分である。

ここで指定されている味噌の量は5人分としても少々多すぎるように思われる。白赤各100グラムだから総量は200グラム、1人分の量は40グラムになる。ためしにわが家の味噌汁の味噌の量を計ってみたら1人分約15グラム、指導書の半量以下である。

この違いは副食物としての味噌に対する依存度の違いの現れかもしれない。高等女学校でこの指導書によって料理実習が行われていたころには、2010年の現在ほど食材も調味料も種類は豊富ではなかったし、高栄養食品としての味噌に頼る度合いは格段に高かったと思われる。つまり味噌そのものが「おかず」として食べられていた。

奈良時代の東大寺には中国から伝わった仏教の教典を書き写す「写教所」が設けられていた。官給の紙に官給の筆、これも官給の墨を磨って17字詰25行と定められていた写教にいそしむ写教生には、1日かかって3千字を写すと5文の日当、白米2升(現在の8合)、調味料として塩と醤(ひしお=もろみ)、それに未醤(みそ)1合(ごう)が現物支給されていた。この当時の未醤は粉味噌だったといわれ重要な調味料であり副食物だった。

さらに時代が下って平安時代になると、平安京の西の京には味噌を商う店が27軒もあり近江、大和、飛騨が産地として名高かったという。(『日本食生活史年表』)。

味噌を味噌汁として食べるようになったのは室町時代からだと言われ、うりやなすなどの野菜を味噌漬にして食べるようになったのは平安時代以前のことだといわれている(『図説江戸時代食生活事典』)。

味噌の原料は大豆(蒸す、又はゆでたもの)、米麹(こうじ)か麦麹または豆麹のいずれか、そして食塩である。これらを混ぜ合わせて6カ月~1年間密閉した容器で熟成させる。
塩分の多少によって辛味噌と甘味噌に分かれ、米麹を使うか麦麹を使うかでも甘辛の違いができ、色も白いものから赤味を帯びたものまで変わってくる。これは米と麦のでんぷん質が関係しているためである。

愛知県岡崎の「八丁味噌」のように豆麹と食塩とだけで仕込み、3年もかけて熟成させる味噌もある。八丁味噌は色も茶色から深煎(い)りのコーヒー色まで色が濃いのが特徴である。また八丁味噌の産地は愛知、岐阜、三重の3県に限られているようである。

味噌は汁物としてよりもまず調味料として使われ、「おかず」として食べられた。野菜だけでなく魚肉や獣肉の漬け床としても使われ、江戸時代には彦根藩の伊井家が江戸の将軍家と紀井・尾張・水戸の御三家に牛肉の味噌漬を献上するのが慣例になっていたという。

「おかず」の味噌には「なめ味噌」がある。炒(い)り大豆を油で揚げて味噌と合わせた大豆味噌。いためたねぎを合わせるねぎ味噌。柚(ゆず)味噌、落花生味噌、鯛味噌や鰹味噌のように魚肉を炒り合わせたもの。

長野県伊那地方ではコオロギやイナゴを煎りつぶして合わせたコオロギ味噌、イナゴ味噌も食べられていた。


谷村志穂、飛田和緒
2010年01月14日

30. 「『公園通りの石畳』が作られている場所はですね、渋谷ではなく、神奈川県の平塚市だったのです」
    

------- 『お買い物日記』集英社文庫/谷村志穂*飛田和緒

 
『お買物日記』は作家と料理家の、共に30代前半の2人が手に入れたお気に入りの品々を写真入りで紹介してくれる、まぁ、一種の買い物ガイドブックですね。

紹介されているのは全部で46点。日本のものと外国のものもとり混ぜて、といっても『日記』は1と2があるので46X2=92点です。

製造元の名前を聞けば「あぁ」とうなづけるものもあれば「うん?」と遠目になってしまうものもある。「そんなところにそんなものが!」とびっくりさせられるものもある。というわけで、身の回りに余分なものなど置かない、単純明快・簡素第一というひとにも読めばなかなか面白いのです。

たとえば“びっくり部門”の一つがお寺で売ってる日本手拭(てぬぐい)。京都栂尾(とがのお)の高山寺で売られている手拭には国宝の絵巻「鳥獣戯画」がプリントされていて、色合いも深い藍色、薄茶、グレーと3色あるのだそう。

しかしこのお話は“お寺止まり”ではなくて、世良公則のツイストのライブにまで発展するところがミソ。

ところで『お買物日記』1・2で紹介されている92点のうち食品が[1]に11品、[2]に10品。そのうち[1]に2回、[2]2回の計4回チョコレートが取り上げられています。

文章を書いている谷村さんは必ずしもチョコレートに好意的ではなく[1]で紹介されている自由が丘の‘トップ’の「バナナボートケーキ」のページでは、「トップといえばあれかい?あの甘―いチョコレート・ケーキの店かい?」と書いています。

でもこれは谷村さんの思い違いで、“甘―いチョコレート・ケーキ”の店の名は「赤坂トップス」なのでした。それに谷村さんが嫌いなのは“甘―い”チョコレートらしく、「カカオの味がよく効いた、なめらか」な生チョコなどは大好きらしく、和緒先生から聞いていた「公園通りの石畳」の話を旅先で耳にして商品名から連想して渋谷の公園通りの店をたずね回ったり、銀座のデパートに行ったり探しに探すのです。

結局、最終的に料理家の飛田(ひだ)和緒先生が「家中をひっくり返して」かつていただいたチョコレートの中に入っていた小さなカードを見つけて、正しい製造元に行き着きます。

冒頭の一節はやっと見つけたその店の所在地です。

『日記』の[2]には「デメルの金の舌チョコレート」について実に深遠な考察(?)が述べられています。

注:引用したのは2000年出版のものです。


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