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食の大正・昭和史 第五十八回
2010年01月06日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十八回

                              月守 晋


●高等女学校で使われていた割烹指導書(3)

*飯の炊き方 指導書前編第1学期の第1課は「飯の炊き方」「豆腐とねぎの味噌汁」「こんにゃく・人参・しいたけの白和(あ)え」の作り方を学ぶ。この献立は朝食用に考えられているのだろう。

米の分量が700グラム、水が1リットルである。<準備>として1水を釜に入れて沸騰さす 2米をよく洗いザルに入れて水気を切る。

炊く<方法>は「沸騰した湯の中に米を入れて杓子(しゃくし)でかきまぜて中央を少しくぼませ、火の勢いがおとろえぬように注意し、再び沸騰してきたら火勢をやや落として4~5分煮た後火を引き、そのまま10分間蒸らしてからかまからおろし、2~3分置いてから飯びつに移す」のである。

読んでの通り現在の炊き方とは大変に違っている。

日本人は縄文時代後期から米を煮て食べてきた。しかし炊き方は一様ではなく時代によって、また身分階層によっても異なっていた。

平安時代の貴族たちは糯米(もちごめ)を甑(こしき)で蒸した強飯(コワイイ)を毎日定まった食事で食べていた。つまり現在の「おこわ」が常食だったのだ。

宮中の宴や天皇の供御(くご/天皇の食事)も強飯であった。しかし民間では固粥(かたがゆ)が一般的でこれは姫飯(ヒメイイ)とも呼ばれた。現在、ふだんわれわれが食べている「飯」である。

固粥より水分の多いものは「粥(シルガユ)」と呼ばれ、これはすなはち現在の「かゆ」である。

「飯」の炊き方にもいろいろあって上記の「蒸す」やり方の他に「湯立て」「炊干し」「湯取り」などの炊き方があった。

割烹指導書の飯の炊き方は「湯立て」式である。中尾佐助『料理の起源』(NHKブックス)によると「湯立て」法は米の炊き方としてよりもヒエの炊き方として残ってきたという。焼畑農業を伝えてきた越前白峰村では「鍋に湯をわかし、煮えたったところにヒエの実を入れ、ゴロギヤという細い板でよくかきまわし、そのあと蒸して飯に」したといい、この村の農民が平野に下ってきて米の飯をふるまわれたとき「ウジの煮たのを食べるようでうまくない」と述べたという。

『料理の起源』の出版は昭和47年(1972)だがその40年ほど前に出版された高等女学校生徒が使用した実習指導書には、「湯立て」式炊飯法が歴然と生きていたことになる。

「炊干し」法は現在のわれわれが毎日採っている炊飯法である。一定量の米を洗い(現在は無洗米という洗わないでもすむ米が多いが)、ザルなどに上げて水を切り、20~30分置いたのち米と同量の水で炊く。現在は電気釜が勝手に炊きあげてくれるが、大正の頃の子供はかまどに羽釜をかけフゥーフゥー火吹竹を吹いて火を勢いよく燃えあがらせたのち、「初めポッポッ、なかシュッシュッ、ブツブツ時に火を引いて、おせん泣くともふた取るな」と歌いながらご飯を炊いたのである。

「湯取り」法という炊き方の特徴は“おネバ”を捨ててしまうことである。

鍋や釜でまず水をたくさんわかしておき、沸騰したら米を入れ、ふきあがってきたらしばらく置いて釜の中に細長い竹ザルを突っ込み、煮汁(おネバ)をすくい取って捨て、火を弱火にして蒸すという方法である。

東南アジアの米を常食とする地域、国では現在もこの方法で飯を炊く。出来あがった飯はパサパサしておいしくないし、栄養分も不足している。


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