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食の大正・昭和史 第七十回
2010年03月31日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十回

                              月守 晋


●婦人雑誌のすすめる家庭料理(1)

昭和6年3月号の「主婦之友」には不景気だった時世を反映してか「一人前十銭以下」でできる「春先きの惣菜料理三十種」が紹介されている。

「惣菜」は日常の食事の副菜、つまり毎日食べる食事のおかずである。

昭和6年当時、10銭で何が買えたかというと、以下の通り。

 白米(2等)約600グラム  牛肉30グラム  塩1.35キログラム  醤油約2合 
 豆腐2丁半  鶏卵3個  砂糖285グラム

さて、1人前10銭の春のお惣菜。

①蛤(はまぐり)の串揚げとキャベツの芥子和え

蛤のむき身をよく洗って水気を拭き取り、3,4個ずつ串に刺してメリケン粉とパン粉をつけ、ラードまたは油でキツネ色に揚げる。

糸きりのキャベツをさっと熱湯に通し、よく水気を切って芥子をといた酢醤油に浸して串揚げと盛りつける。

 <材料費> 蛤のむき身 1人分5銭  キャベツ1銭  その他の材料 4銭

②鱈のパイ

鱈、じゃがいも、牛乳、玉ネギを使った現在のグラタンのような料理。

 <材料費> 鱈1人当り 3銭5厘ほか総計で10銭。
③1人前10銭のチキン・ホットパイ

④1人前9銭5厘の豆腐のキャベツ巻

豆腐、人参、むき身をいり、キャベツで巻いて煮込む。味付けは醤油、あんかけにする。

 <材料費> 豆腐1人前半丁で2銭5厘。人参、キャベツ、むき身が5銭。調味料2銭。

⑤1人前9銭の炒溜糖醋魚片(チャリュウタンゴウペン)

白身魚を薄くそぎ切りにして塩少々をふり片栗粉をつけてキツネ色に揚げる。斜め切りのねぎ、もやし、生姜の薄切りをラードでいため、魚を加え、醤油1・酢1・スープストック2・砂糖と味の素少々を混ぜ合わせたたれを加えてからめる。

 <材料費> 魚1人分 100グラム5銭、もやし1銭、生姜とねぎ1銭、他計9銭

⑥1人前10銭の水餃子(ぎょうざ)

⑦1人前10銭の豆芽炸粉(チャツイサーフン)春さめと豚肉のスープ煮

豆そうめん(春さめ)、もやし、玉ねぎ、ほうれん草、豚肉のスープ煮。豚肉と玉ねぎは前もってラードでいためておく。

 <材料費> 春さめ3銭、豚肉23グラム3銭5厘、もやし、ほうれん草各1銭、他。

⑧1人前9銭の紅焼白菜(ホンショウペーサイ)白菜とカニのいため煮

 <材料費> 豚肉25グラム4銭5厘、白菜としいたけ3銭、その他1銭5厘。

以上8品は東京割烹女学校長秋穂敬子の指導によるもの。

青山割烹講習会長宇多繁野の指導する8品は5人分45銭から50銭の料理。

①むき身とわけぎのぬた 35銭

②まな鰹(またはかれい)の酒蒸し、50銭

③むき身のくわい衣揚げ 45銭

赤貝、あさりなどの貝をすり下ろしたくわいの衣をつけ胡麻油で揚げる。

④豚・こんにゃく・人参の胡麻味噌だき 50銭

⑤このしろの生姜味噌焼き 31銭

⑥さつま飯 45銭

土佐の名物料理、小鯛を使う。

⑦八宝菜 50銭

われわれが現在食べているのはいため物だが、ここで解説されているのは豚肉、白菜、玉ねぎ、人参、竹の子、いんげんをたっぷりの水で煮込む清し汁。片栗粉でとろ味をつける。

⑧焼蟹捲(シャオハイキン) 50銭
カニの玉子巻き。


食の大正・昭和史 第六十九回
2010年03月25日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第六十九回

                              月守 晋


●志津さんの結婚と婦人雑誌(2)

前回は昭和6年の「主婦之友」3月号「家庭円満方法号」の内容を紹介した。

今回は同じ昭和6年の「婦人世界」3月号の内容を紹介しよう。

この年の秋、広島の山間の農村出身の哲二と結婚することになる志津さんは当時の多くの結婚を控えた女性たちと同じように、参考にするためにこうした婦人雑誌の記事に触れることもあったと思われる。

この号の“売り”は「どうしたら良い児が生まれるか」という特輯(集)で、次のような内容になっている。

   *こうして良い子を―良い子を得る秘訣公開 帝国大学教授・医学博士永井潜
   *ほんのちょっとした心がけで よい子が出来る 本誌主筆池田林儀
   *結婚の理想的年齢は何歳か 医学博士齋藤玉男
   *何を食べれば良い児が生れるか 医学博士高田義一郎
   *夫として何を注意したら良い児が生れるか 女医竹内茂代
   *良い児を生む胎教十則 医学博士杉田直樹
   *良いお母さまが語る胎教の実験談
   *良い子を生む母親の心得十ヶ条 医学博士今井環  
   *血族結婚は果たして悪いか 帝国大学教授・理学博士三宅驥一

内容は80年前のものとはいえおおむね穏当なものである。高田博士の論はヴィタミンA、D、Eを多く含む食品の摂取をすすめているものだし、杉田博士の胎教10則も、要は母胎に負担のかかる過度な行為を戒めるというごく常識的な教えにすぎない。

医学・科学の進化した今日でも正しい常識として受け取られるだろう。

しかし「良いお母さまの語る胎教実験談」には“???”となる話もふくまれている。たとえばクリスチャンであった母親が妊娠中に宗教上のことで非常に悩んだために生まれた児が精神病を煩ったとか、英語の教え子のような美しい二重瞼(まぶた)の児をと願ったら親たちや兄姉にも似ないくっきりとした二重瞼の女児に恵まれた、というような“実験談”である。

また「遺伝」について論及した記述などを読んでいると改めて今日の科学が到達した深化の度合いを感じさせられる。

「主婦之友」昭和6年3月号にはゲイリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒ共演の米映画の名作「モロッコ」の宣伝やウテナ水白粉の広告に新派女優の水谷八重子(初代)が登場していて、このころが青春期だった年代の者にはなつかしい雑誌なのだが、それはさておき本題にもどろう。

結婚してすぐに台所を預からなくてはならない新婦のために「主婦之友」は次のような料理記事を提供している。

   *料理に上達する秘訣(料理講座第3講)
    ――家庭料理の本領はこういうところにある――

   講師は本山荻舟(てきしゅう/明14~昭33)。新聞記者・大衆作家として知られ東京京橋で料理屋を経営する食味研究家でもあった人である。『飲食日本史』(昭31)、『飲食事典』(昭33)など食に関する著作が多い。

講座は目分量と手心、我が家の味、材料が主で加工は従、材料を見分ける眼、手順が第一、という5つの小見出しで進められていてこの小見出しを見るだけでも家庭料理には何が大事と荻舟が考えているかわかるだろう。

まず大事なのは自分で実際に作ってみて経験を重ね自分なりの料理法を身につけることで、台所がどれほど合理化され計量器が完備されても作り手の“手心”抜きでは美味しい料理はできないという。

そして“手心”とは、生産地や季節による材料の品質の違い、人数の多少や使える調理道具・調味料の違に応じて“手加減をすること”だというのである。

家庭料理で必要なのは料理屋料理の模倣ではなく“我が家の味”を作ること。そのために必要なのはいい材料を入手することで、安ければいいという考えはまちがっている、と。

「頭のいい女性(あるいは男性)は料理上手」という慣用句を思い出させる講座である。


川上弘美
2010年03月25日

35「湿ったチョコウエハースを、しかたなくわたしは一人で食べた」
    

   「星の光は昔の光」/『神様』/川上弘美/中公文庫

川上弘美『神様』はとても不思議な9編の小編が集められた短編集です。

たとえばこの短編集の冒頭に置かれている「神様」は、
「くまにさそわれて散歩に出る。」
というフレーズで始まります。

「えっ、くま!?」

そうなんです。このくまは雄の成熟したくまで、三つ隣の305号室につい最近越してきて、引っ越しに際しては同じ階の住人には引越し蕎麦をふるまい、はがきを10枚ずつ渡してまわるという実に気遣いのいいくまなのです。

「わたし」はこのくまと散歩のようなハイキングのようなことをしたりして“ふつうに”つきあっていくのですが、その不思議な状況が読み手にはすんなりと受け取られます。

「あとがき」によると『神様』はパソコン通信の第1回パスカル短編文学新人賞を受賞した小説だということで、それは94年のことでした。その2年後には『蛇を踏む』で第115回芥川賞を受賞しています。

2001年に発表した谷崎潤一郎賞受賞の『センセイの鞄』の文庫本の解説(文春文庫/木田元)には川上自身の言として「…私の小説の中では、時間が真っすぐに流れない」という言葉が引用されていますが、『神様』を読んでいると3次元のこの世の世界に4次元か5次元か、異次元の世界がぐにゃりと入り込んできているような感覚に捕われます。

冒頭に揚げたのは、「星の光は昔の光」の中の一節で、チョコウエハースは「わたし」の隣の隣の304号室で大部分の日を母親と2人でくらしている「えび男くん」が来たときのために用意したものなのです。

チャイムをとても柔らかい音で、必ず2回鳴らす「えび男くん」が「わたし」の部屋を訪れなくなって何か月か月日が過ぎ、「わたし」も「えび男くん」のためにチョコウエハースを買うことをやめてしまった1月の半ば、夕方の散歩の坂道で「わたし」は久しぶりに「えび男くん」に再会します。

「えび男くん」に誘われるまま焚き火の匂いのする方へ行ってみると、それは「どんど焼き」の火煙でした。

花のように小さな丸い餅を飾りつけた木の枝が何度か回ってきますが、2人にはその餅が回りません。それを見ていたおじさんがみかんを2個ずつ2人にくれます。

みかんをポケットに歩きながら「えび男くん」は「星は、寒いをかたちにしたものじゃない」「星の光は昔の光でしょう。昔の光はあったかいよ」と言うのです。

「えび男くん」の「えび」が好きなのは、めったに帰ってこないお父さんのほうなのです。


食の大正・昭和史 第六十八回
2010年03月17日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第六十八回

                              月守 晋


●志津さんの結婚と婦人雑誌(1)

志津さんが結婚を決心したころ、家庭生活のガイド役をになっていたのが“婦人雑誌”であった。

昭和5(1930)年当時、発行されていた婦人雑誌には次のような雑誌があった。

  誌 名     発行元/発行者     創刊年月

婦人世界     実業之日本社      明39(1906)・1月
婦人之友     羽仁吉一・もと子    明41(1908)・1月
婦人公論     中央公論社       大5 (1916)・1月
主婦之友     石川武美ほか      大6 (1917)・3月
婦人倶楽部    講談社         大9 (1920)・10月
女性改造      改造社          大9 ( 〃 )・10月
家の光      産業組合中央会      大14(1925)・5月
              *「家の光」は家庭雑誌

志津さんの姉たちもよくこうした婦人雑誌を家に持ち帰ってきた。定期購読者ではなかったが本屋に立ち寄って写真ページや記事に興味を引かれると財布の口を開いていたのである。

価格はどの雑誌も50銭。「婦人倶楽部」は創刊時にページ数300ページで80銭だったがページ数はその後増えてゆき400ページを超えている。しかし価格のほうは昭和4年に一挙に50銭に値下げし、昭和9年500ページを超えたところで60銭に値上げされた。

発行部数は関東大震災(大正12年)の前年まで「主婦之友」と「婦女界」の二大雑誌がそれぞれ60万部、第3位の「婦人倶楽部」が40万部だったものが、震災の影響が購買欲にマイナスに働くことを恐れた「婦女界」が20万部減の40万部としたのとは対照的に「婦人倶楽部」は「婦女界」が減らした20万部を上乗せして60万部を発行。以後この逆転した順位が定着してしまった。

各誌とも50銭の普通号と年4回60銭の特別号を発行した。特別号には別冊付録がついた。「主婦之友」には大量の別冊付録がつき、それが欲しくて買うという女性が多かった。

別冊付録は洋服の型紙、料理読本、住まいの工夫といった実用物が中心だった。

志津さんも姉たちが読み終えた雑誌を借りてよく読んだ。吉屋信子の小説になじんだのも姉たちに借りて読んだ婦人雑誌を通してだった。

参考までに志津さんが結婚した昭和6年の「主婦之友」3月号をのぞいてみよう。

表紙絵は髪を七三に分けて結った「耳出し髪」の若婦人の肖像で「耳出し髪」は「耳かくし髪」の変型であるらしい。この髪型は昭和4年ごろから流行しはじめたという(『黒髪と化粧の昭和史』廣澤榮/同時代ライブラリー163/岩波書店)。

この号は「家庭円満方法号」だと目玉となるテーマの刷り込みがあり、「一目でわかる婚礼画報」が折畳式付録でついていた(巻頭にとじ込んであったらしいが、入手した際には無くなっていた)。

結婚の季節が開ける3月号らしく写真を多用した画報には婚姻関連の項目が多い。

   *花嫁の髪の結び方    45分で下梳(す)きから結び上げるまでを20枚の写真と説明文で解説してある
   *花嫁のお化粧    22枚の組写真で解説
   *花嫁衣装の着付    4ページの組写真
   *朝から晩までの花嫁の一日    4ページの組写真

こうした写真入りの解説は結婚を間近にひかえている女性にとっては気休め以上に、手順を前もって知ることができたという安心感を与えるものだったろう。

「家庭円満方法号」と銘打ってあるように、円満な家庭を作るためのアドヴァイスが次のように並んでいる。

   *夫婦円満の方法についての良人(おっと)ばかりの座談会(8人の名士)
   *家庭を円満にするための金言(32名士)
   *一日を仲良く暮らす夫婦円満法(新渡戸稲造)   


食の大正・昭和史 第六十七回
2010年03月10日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第六十七回

                              月守 晋


●志津さんの結婚話(2)

ニューヨークの株式市場の暴落で始まった世界的な経済恐慌は昭和5(1930)年3月には日本の経済をも襲った。

三菱造船もその影響から逃れることはできなかった。この間の事情を『新三菱神戸造船所五十年史』(昭和32年)は次のように述べている。

「……昭和二年度から急速度に加わった不況の波は当所全生産部門を麻痺状態に陥れ、創業以来の重大危機に直面した。五年にはやむをえず一挙に790人に上る大幅の人員整理を行った」(同書第2編 経営)。

造船の人員整理はこれ以前にも大正8年に初めて職員78名の整理を実施したのに続き、12年に職員27名・工員173名の計200名、14年に職員48名・工員556名の計604名、総計882名の人員整理を行ってきていた。

経営環境の悪化を「……工事量に悩む同業者間の競争はますます激烈となり、原価の半値以下でなければ受注できぬ状態だった」と同社史は説明している。

このような社内事情の中では、志津さんは自分の居場所を見つけることがだんだんむずかしくなっていたのではないかと思われる。

高等小学校を出てすぐの14~15歳の少女にも勤まる受付や事務補助のような仕事をしながら「この歳にもなって……」と20歳の志津さんが考えなかったとはいえないだろう。

ともあれ志津さんは結婚に向かって一歩を踏み出す決心をした。

結婚適齢期を過ぎてしまった“娘”の行く末を案じていた養母みきもこの結婚に同意した。養父傳治(でんじ)はすでに大正5年に死没しており、一家の支柱は養母だった。働きに出て一家の経済を助けていた“姉”たち(実母の妹たち)も大正9年と14年に嫁いでいた。

家には志津さんと同じ三菱造船に勤める兄と弟竹治、それに末弟末冶が残っていたが竹治は船員になって家を出ており、末治は分家して独立させることになっていた。

この家はやがて兄の悟(さとる)が嫁を迎えて新たな一家を築いていくことになる。悟は志津さんの4歳上、24歳になっていたから結婚するのに早過ぎる年齢ではない。

山崎の小父が紹介してくれた男性は、広島県の山間の農村の出身だった。

広島県に三次(みよし)という町がある(現在は周辺の町村と合併して市になっている)。霧の名所として知られる中国山脈に近い山間の町である。

忠臣蔵の発端となった江戸城中での刃傷(にんじょう)事件で式典指導係の吉良上野介に切りつけた赤穂浅野5万3千石の当主内匠頭(たくみのかみ)の奥方・阿久里の実家がこの三次浅野家だった。

男性はこの三次盆地の入り口に近い農村から高等小学校を出るとすぐ、伝手があって大阪に働きに出てきたのである。

志津さんとの縁談が起きた当時は、京都の路面電車の修理工場に勤めていた。志津さんとは5つ違いの年上で、かなり腕のいい旋盤工という話であった。

後日、夫となったこの男性の口から「白い清潔な足袋(たび)を履いて熱心に洗濯をしている志津さんを見て、よし、この女性(ひと)と結婚するぞ」と思ったと聞かされた。

志津さんは老後、自分の娘から「どうしてお父さんと結婚したの」とたずねられて「おじいちゃんが自分で勝手に一緒になると決めて帰ったのよ。……今から思えば夢のような話よね」と応えた。

男性の名は児玉哲二。

志津さんは哲二と昭和6年9月に結婚することになった。

  <参考>  『昭和文化1925~1945』/南博
          +社会心理研究所/勁草書房 ‘87


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