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食の大正・昭和史 第七十四回
2010年04月28日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十四回

                              月守 晋


●志津さんの“仮祝言”

箪笥(たんす)、長持、お針箱
これほど持たせてやるからにゃ

「けっして帰って来てはならぬ。向こうの家の嫁としてちゃんと納まるようにしなさい」ということばがつづく。

これは志津さんがいつのころからか聞き覚えた里謡(民間でうたいつがれた歌)である。長持は長さ150cm、高さ60cmほどの蓋付きの箱で衣類や調度品を入れておくもの。白木作りの素朴なものから漆塗り、蒔絵飾り、定紋付きの大名道具まで身分に応じて種々あった。

“嫁入り”の支度は実家の経済力が反映される。現在でも名古屋あたりのようにトラックに何台という量を競う地方もあるようだが、親の甲斐性(かいしょう)に関係なくお互いの身の丈(たけ)に合わせて身内とごく親しい友人、知人の前で式を挙げるのが世間一般のことであった。

昭和6年6月、志津さんは哲二と“仮祝言”を挙げた。祝言の会場はふたりの間を取り持った“山崎の小父さん”宅である。

志津さんの娘時代の写真が2枚残っている。1枚は18歳ごろ、もう1枚は20歳前後のものである。写真の中の志津さんは2枚とも日本髪を結っている。

18歳ごろの髪型はどうやら「ゆいわた」と呼ばれた型らしい。(まげの中央を布で結んでまとめてある)。絣(かすり)の着物に花柄の帯、明るい地色の羽織である。

「カネボウに勤めていた姉さんが銘仙の羽織を買って送ってくれた」と言っていたその羽織かもしれない。

穏やかな表情をしていて、眼鏡をかけていない。

このころはまだ三菱造船に通っていたのだが、こういう日本髪、和服姿に白足袋、日和下駄という服装だったのだ。

もう1枚のほうは中年の婦人といっしょに写っている。この婦人が“山崎の小母さん”だろう。志津さんの頭は相変わらず日本髪で眼鏡をかけている。着ているのは太い濃淡のある縞(しま)の着物で、羽織には地紋が入っているらしいがはっきりとはわからない。表情が心なしか暗いように思われる。

志津さんと哲二の仮祝言の記念写真が残っている。

障子を背に並んで写っていて、哲二のほうは機械工らしく刈り上げの短髪で黒い羽織の下に細かい四角な網目の織り柄の着物に袴(はかま)を着用という姿である。

志津さんのほうは絞りらしく見える大きな花と葉の柄の着物に明るい単色の帯、その上に袖に小さな花柄の入った羽織を重ねていて頭は“山崎の小母さん”と写っていた写真の髪型のままだ。眼鏡も同じものをかけているようである。

昭和3(1928)年当時、和装の花嫁衣裳には最低で600円、いちばん多かったのが1000円クラスで最高は3000~3500円かかったという。“黒一越縮緬八掛詰袖模様小袖”をはじめじゅばん、下着、丸帯、白羽二重足袋等々から草履まで18品そろえて311円35銭かかった(『婦人画報』昭和3年10月号より引用/『黒髪と化粧の昭和史』)。

志津さんたちの仮祝言では、哲二の袴はひょっとすると借り物かもしれないが、ともかく自分たちの現に持っている衣裳ですんだのだから負担は小さかったのである。

記念写真の志津さんの左手中指に黒い指輪がはめられている。

これは志津さんの話によると“黒ダイヤ”の指輪だということで、哲二にこの時もらったものだという。哲二からの初めてのプレゼントだったわけで、「これがいちばんうれしかった」と志津さんは言うのであった。


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