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食の大正・昭和史 第八十一回
2010年06月30日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十一回

                              月守 晋


●哲二の背景

高等小学校を終えてほどなく、大阪で働きはじめた哲二は10余年の間に関西風の味つけになじんできていたはずである。

神戸育ちの志津さんの作るおかずの味に、さして違和感を感じることはなかっただろうと思われる。

哲二は広島県の三次(みよし)盆地に近い山村で育った。 町の北端を流れる可愛(えの)川は流れ下って江川(えのかわ)と名前を変え島根県を抜けて日本海に入る。

広島県には多くの島を抱く瀬戸内海沿いの温暖な地帯があり、県北は標高1000mを越す山が連らなる中国山脈が占め、その南北の間に名高い松茸の産地である中部台地と、中国山脈の支脈を成す東部高原がある。 島根県・鳥取県に接する県東北の備北山地は雨の日、雪の日が比較的多く三次盆地はここにあり深い霧がわくことで知られている。 県西北の芸北山間地が積雪量の多い寒冷地で、広島県は面積の70%が山地という県だが芸北山地は耕地面積が狭く、明治以降多くの海外移民を出した土地でもある。

哲二の生まれ在所は三次まで5里ほどの南北を山にはさまれた細長い町で南の端を可愛川が流れている。三次盆地では西城川・馬洗川(ばせん)・可愛川が合流しアユ・ヤマメ・ウグイなどの川魚が豊富で江戸期まで鵜(う)飼い漁が行われていた。

三次の名物は腹に豆腐のおからを詰めたアユずしである。

哲二の父親は村唯一の酒造家にうまれたが同じ村落内の親戚に養子に出され、さらにその家から分家して一家を立てた。 養子に出されたわけはわからない。 分けてもらった田畑が少なかったので、7人の子どもを育てるために荷車を引いて稼いだ。

1956年に筑摩書房から出版されてベストセラーになり、後に映画にもなった『荷車の歌』(山代巴著)は三次地方で荷車引きをして生活を立てた夫婦の物語である。

時代は明治30年代半ばから明治末までのことだろう。

物語の主人公はセキという女性で、夫の茂市と2人炭俵を三次の問屋まで運んで運賃を稼ぐ。夜中の12時に起きて荷を積み、歩き通して午前11時に三次に着く。 問屋で勘定をしてもらって昼弁当を食べてすぐ帰途についても山奥の家に帰り着くのは夜の9時過ぎになった。

こうして手にする1日の稼ぎは茂市が70銭でセキが40銭の合わせて1円10銭。 当時、米1升の値段が10銭だったから夫婦合わせて1斗1升の収入ということになる。

このころ、 寒冷地のこの地方では1反(10アール)の田に1石(150kg)の米ができればいいほうだったというから、セキ夫妻の稼ぎのほうがまだしも割が良かったのかもしれない。

哲二の父親が荷車を引いたのは三次とは反対の広島へ向かってであった。 目的地の可部までは途中に上根峠という傾斜のきつい難所があり、父親1人では上れないので母親が先引きをした。

可部までは片道8里(約30km)以上もあり、早朝に出発しても往復に2日がかりの仕事であった。

可部からは太田川の川船による水運に替わるが広島市まで約5里ほどの距離がある。

哲二の家の田は4斗詰めの俵で4~6俵(1石6斗~2石4斗)収穫できたというから『荷車の歌』で語られてい村落のくらしよりは楽だったに違いないが、 子どもがつぎつぎに生まれたので生活は楽ではなかった。

食事も麦飯が中心でおかずは畑でとれる野菜の煮物や、漬物で、魚などは自分たちがとってきた川魚のほかは祭日などにたまに食べることのできる“ワニ”ぐらいのものであった。


渡辺怜子
2010年06月30日

41「ハシバミの香りのする濃厚なチョコレートが、グラッパと混ざって口の中で溶けた。」
    

   『フィレンツェの台所から』渡辺怜子/文春文庫

この文庫本の元になった単行本は1992年5月に晶文社から出版されています。 文庫本は2003年の出版ですからほぼ10年が過ぎ、それからさらに7年後の2010年にこの文章を書いているのですから大ざっぱに言って20年も前の本を取り上げていることになります。

だいじょうぶでしょうか? 中味が古臭くなっていないでしょうか?

「スローフード」という言葉を耳にしたことが、あるいは目にしたことがありませんか? スピードに束縛されているファーストライフの狂気から自らを解放するために生まれた運動はまず、ゆったりした時間の中で伝統的な食を復権させるというスローフードという考えを核に運動が始まっています。

『フィレンツェの台所から』が直接スローフード運動と関係があるわけではありませんが、内容はまさに“スローフードな”イタリアの食紀行です。

この紀行には思いがけない知識や面白いお話も随所に挟まれていて、それがこの紀行をいっそう内容豊かなものにしています。

フィレンツェに著者が買ったアパートは向かいに昔、カテリーナ・デ・メディチが幽閉されていた修道院があり、そこから絶叫するような鳴き声のつばめの一群が飛んできて目を覚まされます。 このつばめは日本で目にするつばめとは違う種類の「ヨーロッパあまつばめ」で、つばさが非常に発達しているのとは反対に足が退化していて地上を歩けない。 飛びながら虫を捕食し眠ることができかん高く叫ぶ。

汚染されたフィレンツェの空気をのがれてわたしたちになじみの「スズメ目のツバメ」が消え去った後に、公害に強い彼らが入ってきたのだということです。

イタリア人は野生の動物や鳥類の肉も大好きでよく食べ、著者の友人フランコとマリーザ夫妻の家の冷蔵庫には兎、鶏はもちろん雀まで収納されています。

しかし3人いる息子のうち長男は完全なベジタリアンできんぴらごぼうやお豆腐が大好き。

親の嗜好を子どもに押しつけないのもイタリア流でしょうか。

さて冒頭の文章。グラッパは「葡萄のしぼりかすを発酵させてから蒸留したりリキュールの一種」と説明されています。

著者の娘さんが絵画修復の技術をウィーンの大学で学び、その卆業制作にイタリアの画家レアンドロ・バッサーノの絵の修復をします。 画家の生地はグラッパの産地として有名な土地で、著者はバッサーノとトレヴィーゾを訪れる旅に出て、トレヴィーゾでグラッパ入りのチョコレートも買って、その場で1つ食べてみたのです。
 


食の大正・昭和史 第八十回
2010年06月23日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十回

                              月守 晋


●料理の味

映画監督の山本嘉次郎のエッセイに京都の日常食について触れた文章がある。

山本嘉次郎は戦前、戦後を通じて軽いコメディや庶民のくらしに生じる哀歓をテーマに多くの作品を世に送りつづけた映画人である。

戦後の代表作は昭和24年に新東宝で撮った「銀座カンカン娘」だろう。 主演女優高峰秀子がスクリーンの中で歌う「あの娘可愛(かわい)やカンカン娘」のフレーズではじまる主題歌は戦後の世相の一面を象徴するものでもあった(ちなみにこの年日本人で初めて湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞した)。

“東京者”の山本嘉次郎が京都に移り住んだのは昭和と改元されたころで、当時の京都は現在とは違ってビルがほとんどなく撮影でビル街を撮る必要のあるときは神戸の海岸通りに出かけていたという。

「困ったのは食べ物で」と山本は書いている。

下宿でとる弁当のおかずが「いつもいつも、同じようなものばかり。高野豆腐、しいたけ、湯葉の煮たので、しかも、ひどく薄味で、水っぽい」。撮影所の食堂へ行けば「まめさんたいたん」と壁に貼り紙があり、なんだろうとためしに注文してみると「煮豆」だった。 「煮豆といえば味の濃いものと知られているが、これまた水っぽ」くて「悲しかった」し「死にたくなって」きた。

そして、「郷愁というものは、食べ物にしぼられるらしい。東京者にとって、海苔、塩鮭、納豆、塩せんべい、ぬかみそ漬、濃い醤油などのないことが耐えられなかった」とつづけている。

そばも「汁(したじ)が水っぽ」く、「天ぷらもだめ、蒲焼もだめ」で「寿し屋もなかった」し脂肪分の補給を必要とする東京育ちの若者の口に合うトンカツ屋もなかった。 寺町通りにあった洋食屋「村瀬」のトンカツは皿の左右にそれぞれ1寸以上もハミ出してしまうほど巨大なので知られ“わらじカツ”と呼ばれていたが、味が違ってなじめない。

やがて屋台店の1銭洋食を知る。 細い竹串の先にゴッテリ衣をつけた小指の先ほどのカツが刺してあり、目の前の大鍋で10本1たばにしてジュッと揚げてくれる。 これが1本1銭で屋台の正面に貼ってある番付表には「横綱360本」などと書いてあった。

『日本食生活史年表』(西東秋男/楽游書房)の昭和4(1929)年のページには「島田信二郎(もと宮内省大膳職)がつくったポークカツ、初めて「とんかつ」と呼ばれる」という記事がある。

その5年後の昭和9年、高級店でカツライスが50銭以上だった(『明治/大正/昭和世相史』社会思想社)とあるから、串カツ屋台の“横綱さん”は3円60銭の代金を支払ったあとでずいぶんと後悔したのではなかろうか。 

神戸生まれで神戸育ちの志津さんと京都で世帯をもった広島の田舎生まれの哲二さんは京の味になじんでいたのだろうか。

哲二さんは高等小学校を出るとほどなくして上阪した。 20歳ころまでは大阪の街の小さな鉄工所で働いていた。 京都へはある程度の施盤工としての技術を身につけてから移住したらしい。

志津さんと結婚するまでには少なくとも10年ほどは大阪・京都でくらしてきたことになる。 その間に味の好みも当然、変わっただろう。

広島の山村の実家で食べていたものは、味噌も醤油も手製であった。 副食は自家の畑でとれた野菜か山野草の乾物で、魚は日本海側から来る行商人から手に入れる塩物であった。 肉は飼っている鶏を祭日や行事日につぶすくらいである。

そして味は、塩味の効いた濃い味のものだったのである。


食の大正・昭和史 第七十九回
2010年06月16日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十九回

                              月守 晋


●昭和初期の家庭の食事

志津さんが結婚したころの日本の一般家庭ではどんな食事がとられていたのだろうか。

国内からはもちろん、世界中から食材を大量に輸入して大型スーパーやコンビニ店で販売するものを購入消費している現状とは違って、当時はまだ地産地消―くらしている土地で生産されるものを土地の人が食べるというのが普通であった。

そうではあっても一般の家庭で食べられた1日3度の食事は食材も料理法も似たようなもので、とくに都市部の家庭でのふだんのおかずはどこの家でも同じようなものを同じような料理法で食べていたといえるだろう(食事は「地域差、階層差が大きい」といわれている)。

『ちゃぶだいの昭和』(小泉和子/河出書房新社)は「戦前の朝・昼・晩」の項で東京の家庭で食べられていた朝・昼・晩3食の献立を写真つきで紹介している(『聞き書 東京の食事』農山漁村文化協会から小泉がまとめたもの)。

サンプルになついているのは①深川の左官職人の家、②日本橋人形町の商家、③四谷の月給取りの家である。

朝食は①が麦飯・豆腐の味噌汁・漬け物・佃煮、②が白飯・豆腐の味噌汁・納豆・煮豆・佃煮、③では白飯・大根の味噌汁・煮豆・白菜漬け。

昼食は①の弁当が麦飯に塩鮭かタラ子・漬け物、②では白飯・塩鮭・おから炒り・味噌汁・大根ぬか漬け、③は白飯・塩鮭・残り物である。

夕食が①では麦飯・いわし塩焼き・里芋とイカの煮物、②では白飯・ブリ大根・シチュー・白菜漬け、③は白飯・鍋物・野沢菜漬けになっている。

これをみるとどの家庭でも同じような食事をしていたことがわかる。 麦飯と白飯の違いはあるが朝昼晩とも米飯を食べている。それに味噌汁がつき主菜の焼き魚に佃煮または煮物がつき漬け物がつく。 つまり一汁一菜である。

階層の違いを感じさせるのは②の昼食ぐらいで、洋食のシチューが現れている。 

「ふだんのおかず」の項で「戦前、東京の家庭でふだんよく食べたおかず」の主役は「季節の魚」だと指摘している。 春の鰆(さわら)、鰊(にしん)、秋の秋刀魚、冬には鰯や鰤(ぶり)、他に鯖(さば)の味噌煮や鰈(かれい)の煮付けなど。

鮭は塩鮭としてほぼ1年を通して食べた。 貝では浅蜊(あさり)がよく食べられた。

乾物の野菜もよく食卓に並んだ。 切り干し大根と油揚げの煮物、芋がらの煮物、大豆が中心の五目煮豆などである。 芋がらは里芋のくきを干したもので「ずいき」ともいう。 湯で戻して一度ゆでて、醤油味で煮付けるのだが見た目が悪いので近ごろの子どもはたいてい気味悪がって食べたがらない。

五目煮豆に使う大豆は一晩水にひたして戻す。 水を吸った大豆は柔らかくなり2倍ほどにはふくれあがる。 この大豆に人参、ごぼう、こんにゃく、竹輪、こんぶをそれぞれ1cmくらいのさいの目に切ったものを合わせて煮て砂糖と醤油で味をつけるのである。 大豆は前もって30~40分ほど弱火で柔らかく煮ておかなくてはならない。

前回は「京野菜の料理」を紹介したが、京都には街を囲む四方の郊外産地から新鮮な特色のある野菜が豊富に流入していたので、今回紹介したような東京の街でくらす家々ほど乾燥野菜に依存する度合いは低かったのかもしれない。

ともあれ志津さんの子どもたちは「ずいき」の煮付けなど食べた記憶をもっていなかったのである。



小川洋子
2010年06月16日

40「どうしてこんなにおいしく、チョコレートを食べることができるのだろうと、自分で自分を不思議に思った。」
    

   『アンネ・フランクの記憶』小川洋子/角川文庫

映画にもなり、ベストセラーになった『博士の愛した数式』の作家小川洋子が『アンネ・フランクの日記』に初めて出会ったのは中学1年の時で、学校の図書館でした。

「言葉とはこれほど自由自在に人の内面を表現してくれるものかと驚いた」小川さんはすぐに、アンネの真似をして日記をつけはじめます。

28歳の時、雑誌「海燕」の新人文学賞をえて作家として認められるようになり、3年後の1991年「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞、その後も次つぎに重要な話題作を発表しつづけているのですが「なぜ書くことにこれほどの救いを感じるのか、改めてじっくり考えてみて」、言葉で自分を表現することを教えてくれた『アンネの日記』に思いいたります。

1995(平成7)年6月30日、「今でも生きて、言葉の世界で自分を救おうとしている」小川さんはそのきっかけを与えてくれたアンネ・フランクに感謝し「彼女のためにただ祈ろうと願うような思いで」アンネを訪ねる旅に出ます。

その直前に『アンネの日記 完全版』が出版されて旧版で形づくられていた“純真でかわいらしい”アンネ像が破られます。 完全版には性の問題もふくめて「アンネの人間臭さ、激しさ、心の奥の暗闇」も記されていたのです。

小川さんがオランダへ向けて成田から飛び立ったのは1995年6月30日でした。 アムステルダムのホテルには夕方に入り、この旅のコーディネーター兼通訳の女性と打ち合わせをします。

アムステルダムではアンネのユダヤ人中学時代の友人でヨーピーと呼ばれていた人と、アンネの父親オットーの会社に勤め、一家が隠れ家ぐらしを始めると食糧や本などを運んで支援したミープさんの2人に会います。

ヨーピーは『アンネとヨーピー わが友アンネと思春期をともに生きて』を、ミープさんは『思い出のアンネ・フランク』を出版していて共に日本でも翻訳出版されました。

小川さんはアンネとかかわりのあった人たちばかりでなく一家の隠れ家、学校、住まいの近くの広場、アイスクリーム屋などをくまなく訪れ7月5日、ポーランドのアウシュビッツの強制収容所へ入ります。

冒頭の文章は翌7月6日にウィーンで記されたものです。 アウシュビッツを離れるタクシーの中で、小川さんはチョコレートバーを一息に全部食べ、ミネラルウォーターをもらってごくごく飲んだのです。


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