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食の大正・昭和史 第七十九回
2010年06月16日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十九回

                              月守 晋


●昭和初期の家庭の食事

志津さんが結婚したころの日本の一般家庭ではどんな食事がとられていたのだろうか。

国内からはもちろん、世界中から食材を大量に輸入して大型スーパーやコンビニ店で販売するものを購入消費している現状とは違って、当時はまだ地産地消―くらしている土地で生産されるものを土地の人が食べるというのが普通であった。

そうではあっても一般の家庭で食べられた1日3度の食事は食材も料理法も似たようなもので、とくに都市部の家庭でのふだんのおかずはどこの家でも同じようなものを同じような料理法で食べていたといえるだろう(食事は「地域差、階層差が大きい」といわれている)。

『ちゃぶだいの昭和』(小泉和子/河出書房新社)は「戦前の朝・昼・晩」の項で東京の家庭で食べられていた朝・昼・晩3食の献立を写真つきで紹介している(『聞き書 東京の食事』農山漁村文化協会から小泉がまとめたもの)。

サンプルになついているのは①深川の左官職人の家、②日本橋人形町の商家、③四谷の月給取りの家である。

朝食は①が麦飯・豆腐の味噌汁・漬け物・佃煮、②が白飯・豆腐の味噌汁・納豆・煮豆・佃煮、③では白飯・大根の味噌汁・煮豆・白菜漬け。

昼食は①の弁当が麦飯に塩鮭かタラ子・漬け物、②では白飯・塩鮭・おから炒り・味噌汁・大根ぬか漬け、③は白飯・塩鮭・残り物である。

夕食が①では麦飯・いわし塩焼き・里芋とイカの煮物、②では白飯・ブリ大根・シチュー・白菜漬け、③は白飯・鍋物・野沢菜漬けになっている。

これをみるとどの家庭でも同じような食事をしていたことがわかる。 麦飯と白飯の違いはあるが朝昼晩とも米飯を食べている。それに味噌汁がつき主菜の焼き魚に佃煮または煮物がつき漬け物がつく。 つまり一汁一菜である。

階層の違いを感じさせるのは②の昼食ぐらいで、洋食のシチューが現れている。 

「ふだんのおかず」の項で「戦前、東京の家庭でふだんよく食べたおかず」の主役は「季節の魚」だと指摘している。 春の鰆(さわら)、鰊(にしん)、秋の秋刀魚、冬には鰯や鰤(ぶり)、他に鯖(さば)の味噌煮や鰈(かれい)の煮付けなど。

鮭は塩鮭としてほぼ1年を通して食べた。 貝では浅蜊(あさり)がよく食べられた。

乾物の野菜もよく食卓に並んだ。 切り干し大根と油揚げの煮物、芋がらの煮物、大豆が中心の五目煮豆などである。 芋がらは里芋のくきを干したもので「ずいき」ともいう。 湯で戻して一度ゆでて、醤油味で煮付けるのだが見た目が悪いので近ごろの子どもはたいてい気味悪がって食べたがらない。

五目煮豆に使う大豆は一晩水にひたして戻す。 水を吸った大豆は柔らかくなり2倍ほどにはふくれあがる。 この大豆に人参、ごぼう、こんにゃく、竹輪、こんぶをそれぞれ1cmくらいのさいの目に切ったものを合わせて煮て砂糖と醤油で味をつけるのである。 大豆は前もって30~40分ほど弱火で柔らかく煮ておかなくてはならない。

前回は「京野菜の料理」を紹介したが、京都には街を囲む四方の郊外産地から新鮮な特色のある野菜が豊富に流入していたので、今回紹介したような東京の街でくらす家々ほど乾燥野菜に依存する度合いは低かったのかもしれない。

ともあれ志津さんの子どもたちは「ずいき」の煮付けなど食べた記憶をもっていなかったのである。



小川洋子
2010年06月16日

40「どうしてこんなにおいしく、チョコレートを食べることができるのだろうと、自分で自分を不思議に思った。」
    

   『アンネ・フランクの記憶』小川洋子/角川文庫

映画にもなり、ベストセラーになった『博士の愛した数式』の作家小川洋子が『アンネ・フランクの日記』に初めて出会ったのは中学1年の時で、学校の図書館でした。

「言葉とはこれほど自由自在に人の内面を表現してくれるものかと驚いた」小川さんはすぐに、アンネの真似をして日記をつけはじめます。

28歳の時、雑誌「海燕」の新人文学賞をえて作家として認められるようになり、3年後の1991年「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞、その後も次つぎに重要な話題作を発表しつづけているのですが「なぜ書くことにこれほどの救いを感じるのか、改めてじっくり考えてみて」、言葉で自分を表現することを教えてくれた『アンネの日記』に思いいたります。

1995(平成7)年6月30日、「今でも生きて、言葉の世界で自分を救おうとしている」小川さんはそのきっかけを与えてくれたアンネ・フランクに感謝し「彼女のためにただ祈ろうと願うような思いで」アンネを訪ねる旅に出ます。

その直前に『アンネの日記 完全版』が出版されて旧版で形づくられていた“純真でかわいらしい”アンネ像が破られます。 完全版には性の問題もふくめて「アンネの人間臭さ、激しさ、心の奥の暗闇」も記されていたのです。

小川さんがオランダへ向けて成田から飛び立ったのは1995年6月30日でした。 アムステルダムのホテルには夕方に入り、この旅のコーディネーター兼通訳の女性と打ち合わせをします。

アムステルダムではアンネのユダヤ人中学時代の友人でヨーピーと呼ばれていた人と、アンネの父親オットーの会社に勤め、一家が隠れ家ぐらしを始めると食糧や本などを運んで支援したミープさんの2人に会います。

ヨーピーは『アンネとヨーピー わが友アンネと思春期をともに生きて』を、ミープさんは『思い出のアンネ・フランク』を出版していて共に日本でも翻訳出版されました。

小川さんはアンネとかかわりのあった人たちばかりでなく一家の隠れ家、学校、住まいの近くの広場、アイスクリーム屋などをくまなく訪れ7月5日、ポーランドのアウシュビッツの強制収容所へ入ります。

冒頭の文章は翌7月6日にウィーンで記されたものです。 アウシュビッツを離れるタクシーの中で、小川さんはチョコレートバーを一息に全部食べ、ミネラルウォーターをもらってごくごく飲んだのです。


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