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食の大正・昭和史 第八十二回
2010年07月07日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十二回

                              月守 晋


●舅と義妹を迎える

志津さんと哲二の間に結婚した翌年、昭和7年6月に第1子が誕生した。 男の子だったが哲二が姓名判断の手引書と相談して比呂美と名づけた。

孫が、それも男児の孫が生まれたと知ると哲二の父親は喜んで京都へ出てきた。 哲二の兄もすでに嫁取りをすませていたがまだ子どもには恵まれていなかったのである。

哲二たちは哲二の郷里で結婚披露をしてはいなかったので、志津さんと舅(しゅうと)はこの時が初対面であった。 舅は還暦を迎えており両鬢(びん)を残して頭は“おびんづるさま”になっていた。 剛(こわ)い頭髪がびっしり生えている哲二とはあまりに違うので、笑いをこらえるのに志津さんは苦労した。

舅は比呂美を抱き上げ「だれかによう似とるノウ」と広島弁丸出しで喜んだ。 「だれかに」とはつまり「自分によく似ている」ということであった。

志津さんは舅に毎日の食事に何を食べさせればいいのか困ったが、哲二が「刺し身を食べさせてやってくれ」というので夕食にはいつも刺し身を買ってきて膳にのせた。

勤めの帰りに哲二が魚屋に立ち寄り1本のままを買い求めてくることもあり、そんな時には哲二が自分で3枚におろして刺し身に造ってくれた。 自分も刺し身好きだった哲二は器用に出刃包丁を使い、そんなおりには残ったアラを使って野菜の煮物ができるので重宝したのである。

毎晩毎晩、刺し身ではいくらなんでも飽きるだろうと煮付けにして出したところが、食べ終わった後で舅は「やっぱり刺し身がうまいノウ」という。

舅は1日3食、刺し身でもよかったのであった。

思いがけず舅の京都滞在が長引いて秋風が吹きはじめたころ、広島から哲二の末妹がやってきた。

父親の長滞在を心配した長兄が父親の帰郷をうながすのと同時に、妹に働き口を見つけてやってほしいというのであった。

哲二が「よう来た、よう来た」と喜んで迎えた妹ナツは「花柄の一重(ひとえ)の着物に緑色の地に3色の帯を締めて、化粧っけのない真っ黒い顔をして、足袋もはかず素足に下駄ばき」という姿で現れたと志津さんは語った。 「下着の着替えを入れた風呂敷き包みを1つ持ったなりで」と。

ナツは気立てのやさしいおっとりした性格のうえ、休みもせずからだを動かす働き者だったので出産したばかりの志津さんは大変助かった。 おしめの洗濯もまったくいやがらずに手を出した。

それにひとつきもすると黒かった顔も地色を取り戻し年ごろの娘らしくなってきた。 黒いといっても野良仕事で日焼けしていただけだったのである。

ナツが上京してきて4、5日たつと舅はしぶしぶ広島へ帰っていった。 京都ぐらしがすっかり気に入っていた様子だったが、さすがに娘と2人で哲二の厄介にはなれないと観念したらしい。

ナツは近所の店に奉公に出たこともあった。 しかし、おっとりした性格は客を応接する仕事には不向きである。 ひとつきもすると帰されてくるということがつづき、哲二も妹を働きに出すことをあきらめてしまった。

ナツに炊事や洗濯、縫い物などの針仕事、買い物をはじめ家計のやり繰り、さらには他人との応接など結婚前に身につけておくべき生活の知恵を教え込むことが志津さんの役割になってきた、

後年なつは「何から何までねえさんにしつけてもらった」と語っているが、そうしたさなか、志津さんは第2子をみごもった。


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