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食の大正・昭和史 第八十三回
2010年07月14日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十三回

                              月守 晋


●生活苦

次男哲二夫婦のくらす京都朱雀御坊跡の長屋に末娘のナツが広島の田舎町から出てきたのと入れ替わりに、しぶしぶ故郷に帰っていった舅の新二郎は数ヵ月後に病の床につくとあっけなく亡くなってしまった。

哲二と志津は比呂美を連れて葬儀に出席するために哲二の生まれ故郷に向かった。 哲二にとっては高等小学校を出て以来12年ぶりの帰郷であった。

葬儀の終わった後で身内だけで撮った写真が残っている。 黒枠の新二郎の写真の下に哲二の末弟の人士、その右隣が兄一郎、比呂美を抱いた哲二、すぐ下の弟逸司、そして親戚の某、人士の左隣が一番上の姉の夫、その左に妹萩野の夫、親戚の某、左端が新二郎の生家である酒造家美也正宗の当主。 この人は鼻の下に形良くひげを蓄えている。

全員がすわっている前列の左端は親戚の最長老でこの人は見事な真っ白い顎(あご)ひげをのばしている。 その右へ順にナツ、萩野、長姉の長男、長姉綾野、親戚の某女、一郎の妻、親戚の某女、志津さん、親戚の某と並んでいる。

この地方の風習なのか、あるいはこの時代はそれですんだのか志津さんも哲二の姉妹も裾模様の入った黒い式服である。 同じ日に前栽を背景に同じ身なりで撮った哲二と志津夫妻の写真も残っている。 こちらのほうは結婚の記念写真として身内や親戚に配ったものらしい。

この時、長男比呂美は誕生日前の赤ん坊で志津さんのお腹には第2子がすでに育ちはじめていた。

哲二は京都市電の修理工から転じて国鉄(JRの前身)の修理工場で働いていたが、くらしは逼迫するばかりであった。 当時、哲二が国鉄の工場でどんな身分で働きどれほどの収入を得ていたのかは不明である。 正規の工員ではなく日給で働く臨時工のような立場だったろうと思われる。

1929(昭和4)年10月24日のニューヨーク株式市場の大暴落、いわゆる“暗黒の木曜日”に始まった世界恐慌の影響は翌年には日本にも及び“昭和恐慌”と称された深刻な不況期をもたらした。

産業界は操業時間の短縮や人員整理で対処したが輸出は前年比20パーセント以上も激減した。

悲惨だったのは農家で、不況によって物価が大幅に下落するなかでも農産物の低落はいちぢるしく昭和5年は“豊作飢饉”状態におちいった。 これは農家が買い入れる工業製品の価格に比べ農産物価格の低落がはげしいために起きた格差現象であった。

翌6年、とくに東北地方の農家は冷害による凶作に苦しみわずかな借金のために娘を身売りする家が続出した。

昭和8年には一転して米作は大豊作となったが(水陸稲の収穫量が7000万石を越す)、翌9年は西日本の旱(かん)ばつ、関西地方の室戸台風による被害(9月21日、死者・行方不明3036人、全壊流出家屋4万戸)、東北地方の冷害が重なったために前年より約2000万石も収穫量が落ちている。

安定したくらしを希んで国鉄に転職したのは、何年か臨時工を勤めていれば正規の職工に採用されるだろうという希望が哲二にはあったためである。 しかし生産制限や労働時間の短縮・企業倒産などによって経済全体が縮小してしまっていたから物と人を運ぶ輸送業が拡大発展に向かうはずはなく、そうであれば哲二の希望がかなう日がいつのことになるのか全く見通しは立てられなくなっていた。

哲二は散々頭を悩ました挙句、ふたたび転職を考えた。

転職先は「満州」であった。 幸い満州には小山さんがすでに渡っていた。 


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