2010年08月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30
プロフィール

ベルジャンチョコレート

カテゴリー
最近のブログ記事
アーカイブ
関連リンク集
庄野潤三
2010年08月25日

45「家に戻って、炬燵(こたつ)でお茶をいれ、チョコレートを一つ食べる。おいしい。」
    

   『せきれい』庄野潤三/文春文庫

太平洋戦争の対日平和条約が調印され発効した昭和26-27(1951-52)年ごろから作品が認められはじめて「第三の新人」の呼ばれるようになった一群の作家たちがいました。小島信夫、吉行淳之介、遠藤周作、安岡章太郎といった作家たちで庄野潤三もその一人でした。 第三の新人たちの文学に際立っていたのは日常性を強く意識して書いているということでしょう。

庄野は昭和30年1月に『プールサイド小景』で芥川賞を受賞していますが、この作品も家庭の危機と崩壊が淡々と描かれています。

『せきれい』は著者の「あとがき」によると結婚50年を迎えようというころに「もうすぐ結婚五十年を迎えようとしている夫婦がどんな日常生活を送っているかを」書いたのが『貝がらと海の音』(「新潮55」に連載/1996年)、『ピアノの音』(「群像」/97年)そしてこの『せきれい』(「文学界」/98年)と続く一連の作品だということです。

その自解どおり、たとえば「函館みやげ」とメモを1行書き、それに関連するさまざまのディテールが説明されるという独特の書き方が展開されていきます。

たとえばタイトルの『せきれい』は「ピアノのけいこ」という1行メモの後につづく文章によって“ブルグミュラーという作曲家によるピアノ練習曲”だとわかります。

著者の奥さんはピアノを習っていて、姉弟子の絵里ちゃんが小学5年生の時に始めてその絵里ちゃんが今は中学2年生だということなのでもう4年近くピアノを習いに通っているのだということが読者にもわかります。

この小説ともエッセイともつかぬ作品にはよく食べ物のことが書かれています。

たとえば「函館のカレー」とか「伊予の種なし葡萄のピオーネ」、「イギリスパン、胚芽パン、フィッセル(小型のバゲット)、クロワッサン、ガーリックトースト」などのパン類、高田馬場のコーヒー店「ユタのミックスサンド」や「長女のアップルパイ」などなど。

長女の名前が「なつ子」で南足柄に住んでいて父親の誕生日には手づくりのアップルパイが宅急便で届くのです。

小澤征良(指揮者小澤征爾の娘、作家)が『せきれい』を読んでいたら「自分の気持ちが自然に少しずつばたばたすることをやめていくのに気がついた」と書いていますが、結婚50年をすぎた老夫婦の日常にはわれわれとはまったく違った、充実した時間がながれていることを知らされます。

冒頭の文章の「チョコレート」は著者夫婦が用事で「成城」に行き、「石井」で買って帰ってきたチョコレートです。


食の大正・昭和史 第八十八回
2010年08月25日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十八回

                              月守 晋


●志津さんの渡満 - うすりい丸(2)

昭和10年2月に大阪商船が発行した『日満連絡船案内』によると「三等室は小奇麗な絨毯(じゅうたん)を敷詰めた平座敷を多数の小座敷に区画」してある、と説明してある。

3等船室はふつう船底に近いエンジン機械室や貨物室に接するように作られている。 この室内パンフレットにもそう思わせるような、「通風採光には特に意を用ひ電動換気装置もあり、電燈、電扇(せんぷう)機、暖房器も完備し」という記述がある。 つまり、薄暗く風通しの悪い船室をできるだけ快適に過ごせるよう配慮されている、ということだろう。

644名の3等船室をどれほどの数の小座敷に収容したのかはわからないが、乳幼児を連れて臨月間近と見えるお腹をかかえた妊婦を他の乗客と相部屋にするとは思えないから、志津さんたちは親子だけで過ごせる小部屋を与えられたはずである。

うすりい丸など神戸―大連間の定期船の航程は次のように設定されていた。

  第1日 神戸 正午発
  第2日 門司 早朝着 正午発
  第3日 海上
  第4日 大連 午前8時着

       *11月より3月までは午前9時着

11月から3月まで大連到着が1時間遅れるのは、冬の海は荒れるせいだろう。

船に持ちこめる手荷物の量は船から満鉄の鉄道に乗り継ぐ乗客の場合、2等船客113キロ、3等船客は68キロに制限されていた。むしろや菰(こも)で包んだ物、箱物などは受け付けてくれない。

志津さんは鞍山に落ち着いて後に必要になる品々を前もって哲二宛に発送してあったから自分と子どもの着替えやおむつ、ミルクなど最小限のものを持ち込んだだけであった。

船内の食事は「案内」によると「一等は洋食、二・三等は和食」を供されることになっている。

どのような洋食が提供されたのか、「ニ・三等は和食」といってもどんな料理だったのか、具体的なことはまったくわからない。 2等と3等の船客の間では当然献立に差があったはずだが、志津さんの記憶も定かではなかった。

「案内」には「新鮮な材料を選び、調理を吟味し」とあるのだが。

5円のチップをはずんだおかげで“女のボーイ”さんが子どもたちを風呂にも入れてくれて志津さんは大変助かったという。

長男は誕生前から歩き始め、この連絡船に乗ったころには活発に動き回っていたから“女のボーイ”さんの存在は大きかった。

志津さん母子を乗せたうすりい丸は予定通り、神戸のメリケン波止場を出航して4日目の朝大連港の埠頭に横づけされた。

当時の大連港は4本の埠頭をもち、一時に34隻の船舶を係留する能力をもっていた。

小さな村にすぎなかった大連を商業港として開発したのはロシア帝国である。 大連という地名もロシア語の「ダーリニ―(「遠隔の」という意味)」にちなみ1904(明治37)年5月この地を占領した日本軍が翌年2月に「大連」と改称したものという(『満鉄四十年史』)。

港の構築も市街の設計もロシア帝国の立てた青写真を踏襲して建設が進められた。

志津さん母子のうすりい丸(この船名は満州とロシアの国境を流れる烏蘇里江にちなむ)が入った埠頭には満鉄の線路が引き込まれていて、運んできた船客の荷物や貨物を列車に直接移せるようになっていた。

また特徴的な半円型の屋根をもつ埠頭エントランスを入ると、5000人の客を収容できる待合室がつづいていた。

大連に入港した船の乗客は埠頭を8時30分に出る大連駅行きのバスの便があり、10分ほどで満鉄連京線の始発・終着駅である大連駅に行けたのである。


ブログ内検索

ブログ内の記事をキーワード検索
関連リンク
メールマガジン
当ブログを運営する(株)ベルジャンチョコレートジャパンで発行するメールマガジンは、チョコレートをこよなく愛する皆さまを会員として特別なイベントや商品、レシピの紹介などをしています。ご興味のある方は是非ご登録ください。
メールマガジンを購読
メルマガバックナンバー
Copyright (C) 2007 Belgian Chocolate Japan ,Ltd. All Rights Reserved.