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食の大正・昭和史 第八十七回
2010年08月18日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十七回

                              月守 晋


●志津さんの渡満 - うすりい丸(1)

志津さんが哲二のあとを追って満州に渡ったのは1935(昭和10)年の歳が明けて10日もたたないときだった。

満2歳半の長男の手をつなぎ、背に1歳3か月の次男を背負っていた。 志津さん自身のお腹には臨月間近な赤ん坊が宿っている。

神戸の港まで養母みきと、当時結婚して大阪に住んでいた姉のフサが見送りにきてくれた。

気丈なひとで他人に涙を見せたことのなかった養母のみきも姉のフサも、「もうこれが最後やな、生きているうちには二度と会えんワ」と志津さんの肩を抱いて泣いた。

フサは「姉」として共に育ったが、何度か説明したように生母みさの妹たちの1人であり事実上は「叔母」に当たる。

大阪の紡績会社に若い時から勤めたフサは志津さんが小学校を卒業する時や三菱造船に勤め始めた時など節目節目に着物や羽織などを買って送ってくれた優しい姉であった。

そして2人が泣いたように、志津さんはこの2人と生きて再び会うことはなかったのである。

昭和10年当時、満州へ渡るには新潟から汽船で朝鮮半島北東岸の清津港に渡り鉄道に乗り換えて満州に入る圣路、下関から関釜連絡船で朝鮮の釜山に渡り、鉄道で朝鮮を縦断し新義州から鴨緑(おうりょく)江を渡って満州側の安東に入る圣路、そして神戸港からの連絡船を利用する圣路があった。

大阪商船株式会社が満州への定期航路を就航させたのは明治38(1905)年1月のことである。 前年2月に始まった日露戦争のさ中で日本軍が遼東半島南端の旅順を落とした直後という時期である。

就航開始当時は舞鶴丸の週1便だったが翌明治39年には4便(大義丸、大仁丸、鉄嶺丸、開城丸)に増え、42年には南満州鉄道と連絡するようになった。

志津さんが2人の幼児を連れて渡満した昭和10年当時は8188トンの扶桑丸をはじめ吉林丸、熱河丸、うらる丸など10隻の大型客船が就航していたのである。

志津さん親子が乗船した「うすりい丸」は6386トン、航行速度18海里(ノット≒1850メートル)、昭和7年に就航したばかりの新造船だった。 エンジンはタービンである。

ちなみに昭和12年現在で「神戸―大連線」は就航船10隻で月に25回渡航している。

うすりい丸には1等特別室、1等、2等、3等の客室があり、定員は1等が65名、2等105名、3等644名だった。

客室のほかに食堂、談話室、喫煙室、バー、碁・将棋・麻雀台を備えた娯楽室、読書室、デッキビリアードなどがそろっていた。

料金は1等特別室が国内一大連間70円(神戸―門司間30円)、1等客室の神戸―大連間65円、同2等客室45円、3等客室19円、小児運賃が12歳未満は半額、4歳未満は1人に限り無料、2人目からは4分の1の額となっていた。

志津さん親子が乗ったのはむろん3等客室である。 乳幼児とはいえ子供が2人なので、志津さんの分19円に4分の1の4円75銭、計23円75銭を支払ったのである。

志津さんは係の“女のボーイさん”(と志津さんは言うのだ)に乗船早々にチップとして5円を手渡した。

“弟”の竹治さんの忠告に従ったのである。 竹治はこの頃大阪商船の乗員をしていて、うすりい丸にも乗ったことがあり、船旅の事情に通じていたのである。

おかげで志津さんの船旅は快適だった。 おむつの洗濯、赤ん坊のミルク造り、長男の遊び相手と何から何までやってくれるのでゆっくり休養できたのである。
 


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