2010年09月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31
プロフィール

ベルジャンチョコレート

カテゴリー
最近のブログ記事
アーカイブ
関連リンク集
食の大正・昭和史 第九十三回
2010年09月29日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十三回

                              月守 晋


●哲二の満鉄入社①

1929(昭和4)年10月に起きたニューヨーク株式市場の大暴落がきっかけで始まった世界経済恐慌は満鉄の経営にも重大な影響を及ぼした。

加えて(1)銀価の暴落、(2)満鉄路線と競合して並設された中国側鉄道の発達と世界の貿易不振による輸送貨物の激減、(3)石炭需要の激減による収入減などが満鉄の経営に打撃を与えたと『満鉄四十年史』はいう。

(1)の銀価については29(昭和4)年4月に金対銀の比率1:1であったものが7月末に金90円:銀100円、日本の浜口雄幸内閣が「金解禁」(金輸出の解禁)に踏み切った11月末に80円:100円、翌30年1月に70円:100円、5月末には50円台に下落し31年には年初から40円台になり2月中旬に41円の底値をつけたという。 満鉄の運賃は金建てだったから2年足らずのうちに2倍半もの値上げをしたのと同じことになったわけである。

満鉄ではこの苦境を打開するため30(昭和5)年6月と翌年7月に月給の高い社員(月俸80円以上)を中心に2900余人の人員整理を行った。

31年9月18日に奉天(現瀋陽)駅北方9キロの柳条湖で中国軍によって満鉄線路が爆破されたと称する事件が起き「満州事変」が始まった。 柳条湖事件は関東軍高級参謀板垣征四郎大佐らによる策謀だったことが明らかになっているが、満鉄は全社を挙げて事変の終息するまで関東軍に協力した。 「この軍事協力は32年3月の「満州国」建設、33年3月の「満州国有鉄道」の経営受託と新線建設、熱河進攻とつづく」と『満鉄四十年史』は記す。

満鉄経理部が32年5月に作成した「昭和6年度満州事変費総括表」によると支出総額430万2661円余のうち満鉄の純負担額は274万3185円余で、この年の営業収支のうちの総支出額の1.57パーセントに当たる、という。

「満州国」の建設後、紆余曲折をへて「満州国」政府は満鉄と北満鉄路(帝政ロシアが建設した東清鉄道の南部支線のうち長春<新京>-ハルビンまで、及びシベリアに接する綏芬河<すいふんが:露名ポクラニチナヤ>から東国境の満州里まで)の1732.8キロ以外の全鉄道を国有として満鉄に経営を委託した。

以後満鉄は既設線の規格統一・改修と新線の建設に着手するとともに35年3月には北満鉄路を買収した。 社内機構の改革も実施し、奉天に鉄路総局、大連本社に鉄道建設局を設けて事業の拡大に対処する。

鉄路総局に所属した人員のうち日本人従業員数の推移をみると次の表の通りである。

   年度     職員      雇員     傭員
1933     402       36      93
  34    1578     1949     594
  35    2846     3934     709
  36    4439     6282    2218
  37   10032     7580   20163

つまり満鉄が全満州の鉄道経営の主体となることが決定した年から従業員の増強を始めているのである。 増えたのは日本人従業員ばかりではなく中国人の雇員・傭員・その他の従業員も33年の35,046人から37年には75,376人へと増加している。

このような変革の中で満鉄の誇る特急「あじあ」号が34年11月1日9時大連駅を出発、途中大石橋、奉天四平街に停車して17時30分に終着駅新京に到着した。 701キロを8時間30分で走り、平均時速82.6キロ、最高時速は120キロに達した。

「あじあ」の機関車は蒸気機関車であり、世界で初めて全客車に米国製の冷房装置を備えていた。 最後尾に展望一等車がつき、35年9月からハルビンまで運行区間が延びると食堂車にはロシア人少女をウェイトレスとして乗務させた。 「あじあ」号は満州観光の華であり国威の象徴でもあった。

その「あじあ」号が39年10月から鞍山にも停車することになった。


嵐山光三郎
2010年09月22日

47「ビターチョコレートは、喉をくすぐり、胃のなかがチョコレートの社交界となった。」
    

   『とっておきの銀座』
嵐山光三郎/文春文庫

落語家や役者、物書きなどが月1回集まって開く「東京やなぎ句会」という俳句の会があって、その日出席したメンバーの作った句はむろんのこと、にぎやかで笑声の絶えない会の様子が銀座名店会の出す雑誌「銀座百点」に連載されていました(いまもつづいている?)。

会の名称の「やなぎ」は銀座8丁の街路樹として植えられた柳の木にちなんだもの。 ちなみに「銀ブラ」という言葉が流行りはじめたのは大正4(1915)年頃からだといわれています。

冒頭に引用した『とっておきの銀座』は2年余にわたって「銀座百点」に連載されたものです。

書き手の嵐山さんが小学生のころ母親にくっついて歩いた銀座、大学生になってようやくひとりで行けるようになりヴァン(VAN)のコートをはおってブラブラ歩いた銀座、就職して初任給をはたいて買い物をしガールフレンドと一緒にオムライスを食べた銀座、そして40歳を過ぎていささか金廻りがよくなって遊ぶようになった夜の銀座。

そしていまは、友人や先輩と連れ立って歩き、食事をし買い物をしお茶を楽しむ銀座です。

「お昼ごはんだけで百店以上の店へ行」ったと書いていますが『とっておきの銀座』には和食・洋食・中華といろとりどりの名店が紹介されています。

本道のうなぎではなく鯛茶漬けをきまって注文する「竹葉亭」、歌舞伎の役者衆がごひいきのシチューの「銀の塔」、昼にしか出されない天丼ににんまりしたくなる天ぷらの「天一」、イタリア料理の「サバッティーニ」、ビーフシチューやオムライスが人気の「資生堂パーラー」、中2階がイタリア料理で2階がフランス料理、3階は日本料理と懐石で、4階は中華の揚州料理と多彩に展開している三笠会館、などなど。

食べるだけではなく、作家池波正太郎が愛用していたという紺の角袖のコート18万9千円を買い、桐の一枚板の焼き下駄4725円に鹿革なめしの鼻緒5250円を合わせて買い、竹軸固定式のガラスペンを伊東屋で入手し、Yシャツの残り切れを使ったLサイズのトランクス2835円を「ナカヤ」で2枚買い、といったぐあいに買い物にも励みます。

この銀座案内は2007年6月に単行本化され文庫本の出版は2009年12月です。

銀座は日ごとにといってよいほど街の顔を変えていますが、筆者が「ベルギー仕込みのトリュフ・シャンパン」を楽しんだ「デルレイ」はいまも店を開いているでしょうか。


食の大正・昭和史 第九十二回
2010年09月22日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十二回

                              月守 晋


●医者のすすめる“満州ぐらし”②

『満州に適する健康生活』の著者牛久医学博士は「満州に於ける日本人の健康状態を見るに、結核や急性伝染病を始め其の他種々なる疾病に対する罹病率は、内地の夫(それ)に比較して非常に高」い、それは「満州の気候風土が直接原因ではなく、・・・・・・気候風土の異なる満州に於て、内地と同様の生活様式を続けて居った」ことに原因があると説くのである。 「和装を廃して支那服を採用すべし」という博士の提唱はこの信念から出たもので「郷に入っては郷に従へ」の諺のとおり「満州の自然環境の特殊性を認識しその特殊性に順応した合理的な生活を送らなくてはならない」という。

和装を支那服に替える、などという主張はしかし受け入れられるべくもなかった。 満州に移住していた日本人の大半は支那(中国)人に対して強い偏見を持っていたし蔑視してもいたからである。

博士の主張は住宅にも及んでいる。

満州に移住する邦人(日本人)の服装を洋服にせよと叫ぶ一方で和服を棄てられず日本人特有の二重生活を続けているが住居も同様で、レンガ造りの様式建築に畳を持ち込むことはできるだけ限られた部屋にとどめたほうがよいという。

畳には便利な面もあって、かつて日本が統治していた台湾には日本人が持ち込んだ畳の生活を便利に取り込んで生活しているという例をTVドキュメンタリーで見ることもあるし、欧米人の一部に積極的に畳とふとんのくらを実践している人たちのいることもニュースになったりしている。

満州の日本人も畳ぐらしの融通無碍さを捨てることはできず、哲二・志津さん一家が何度か転居を繰り返した満鉄の社宅も外観は立派な洋式建築だったが内部は4畳半・6畳・8畳の畳敷きの和式空間であった。 日本でのくらしとの唯一の違いは火鉢や囲炉裏に替わってペチカが構造体の中央にすえつけられていたことである。

日本人が満州のくらしでいちばん不便を感じたのは緑色の野菜の少ないことだった。

牛久博士は“在満邦人(満州に居住する日本人)”に必要な食生活の改善に関しても多くのページを割いている。

博士が第一に挙げているのはカルシュウム不足である。

その原因は冬期の日光不足と新鮮な野菜の不足に加えて糖分の過剰摂取にあるという。 内地の児童に比して満州の児童は冬の間に大幅に身長を伸ばす例が多いが、これは家屋の構造上、冬の室内温度が高く暖いためであるという。

しかも栄養面では蛋白質と糖分の過剰摂取によって身長だけが伸びる。 骨の質が軟弱な狭長型体質(胸幅のせまいひょろ長い体形)の児童が満州に比較的多いのはこの理由によるというのである。

さらに白米食や野菜・果物類不足によるヴィタミン不足、酸性食品に偏った食事内容によって起きる乳幼児の発育不全、こうしたもろもろの要因が重なって結核その他の感染病に対する抵抗力も弱くなるというのである。

博士は他にも齲齒(うし:虫歯)の多いことも指摘している。

日々の食事の栄養上の欠陥を補うためには博士が挙げているようにほうれん草・大根菜などの青菜類や人参・かぼちゃ・甘諸・大根・かぶ・ばれいしょ・れんこんなどの根菜にみかんなどの果物・さらにはキャベツ・白菜・ねぎなどの葉菜類を毎日の食事で欠かかさぬようにしなくてはならない。 

しかし満州では大豆、白菜、かぼちゃ、ばれいしょ、ねぎ、にんにく、唐芥子以外の野菜類を志津さんが目にすることはめったになかったのである。


食の大正・昭和史 第九十一回
2010年09月15日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十一回

                              月守 晋


●医者のすすめる“満州ぐらし”①

志津さんが臨月の身で2人の子どもを連れて3泊4日の船旅を無事に乗り切って大連で哲二に迎えられ、鞍山の借家に落ち着く間なしに第3子を生んで始まった親子5人の“満州ぐらし”は志津さんには戸惑うばかりの毎日だった。

幸い頼りになる小山さんの奥さんがいたので、何かと教えてもらいながら乗り切る毎日であった。

志津さんには“満州ぐらし”に対する予備知識はまったくなかったという。

「満州国」の建国宣言は昭和7(1932)年3月1日である。 この時、清朝最後の皇帝(宣統帝)だった愛新覚羅溥儀が摂政に就き年号を大同元年とした。 翌々(昭和9)年3月帝政を実施して摂政溥儀は皇帝となり年号を康徳と改元する。 摂政溥儀は康徳帝と呼ばれることになるわけである。

満州国の建国宣言が行われた昭和7年10月に日本からの武装移民団の第1次移民425名が佳木期(ジャムス、三江省樺川県)に、翌8年7月に第2次移民455名が佳木期の南東56キロの永豊鎮に入植した。

ところが両移民団ともに現地の武装した抗日集団の激しい攻撃を受け、ことに第2次移民団は目的の永豊鎮には入れずさらに南20キロの七虎力に、そこも追撃されて湖南営へと入植地を移した。

現地の抗日武装集団を鎮圧するために関東軍は航空機まで飛ばすことになったのだが、むろんこうした情報は志津さんたちのような一般人のもとには届いていない。

農業移植地の北満に比べれば志津さん一家のくらし始めた鞍山は平穏無風の日本企業が万事を取り仕切る城下町であった。

しかし、志津さん親子が移住した鞍山の2月は神戸生まれ神戸育ちの志津さんがかつて経験したことのない寒さだった。

満州新聞社発行の『年鑑満州』(康徳8<昭和16>年版)によると、後に志津さん一家が移り住む新京(長春)の2月の平均気温はマイナス12.5度、神戸のそれは4.5度である。 新京からは鉄路で約400キロ南に位置するとはいえ「冬の寒い時は零下20度を超える。 20度を超えると寒いというより痛い。 素手で金物を握ると皮がくっついて離れなくなる」(『満州の「8月15日」』)という志津さんには経験のない寒さであった。

『満州に適する健康生活』というハウトゥー本が大連市の書店から昭和15年9月に発行されている。 B6判260ページほどの小著ながら中味は濃い。 著者は現地で永く医療にたずさわった経験をもつと思われる医師(医学博士)である。 満州医科大学長の序文がついているところをみるとこの大学の卒業生かあるいは付属病院の勤務医だったか、いずれにしろ満州で健康にくらしていくための対処法に通じた専門家である。

まず取り上げられているのが気候で、1年の約3分の1を占める快晴日数の多さ(東京56日:大連・新京110日)と降水日の少なさ(東京146日:大連78日)をあげ、乾燥した空気、3~5月に起きる蒙古(もうこ)風について触れている(蒙古風は黄砂のことである)。

満州の気候は海洋の影響を受ける遼東半島付近を除き寒暑の差のいちじるしい「大陸気候」だから服装もそれに合わせなくてはならないと博士は説く。

博士が提唱するのは防寒防暑に適している支那(中国)服の採用という大胆な案で、中国服はからだにぴったりではなく肌との間に空気を取り込む構造になっているため防寒防暑の両方にすぐれているというのである。 しかも活動的で満州では和服よりはるかに理想的な衣服であると。


野坂昭如
2010年09月08日

46「お菓子の木なんて、どんなものだろう、チョコレートの花が咲いて、シュークリームの実がなるのかしら」
    

   『戦争童話集 12焼跡の、お菓子の本』
野坂昭如/中公文庫

日本が当時「支那(シナ)」と呼んでいた中国を相手に、やがてアメリカ、イギリスをはじめ世界の多くの国々を相手に戦争に明け暮れていた時代がありました。

1931(昭和6)年9月の「満州事変」に始まり1945(昭和20)年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏をするまでの15年間です。

この期間を「15年戦争」と呼んでいますが中・高校の歴史教育に欠陥があるのか、「エッ、日本とアメリカが戦争したんですか!?」と驚く若い人が多いことに、この戦争期間中に少年・少女時代を過ごした世代の人間は深い失望感と隔絶感を味わわずにはいられません。

1941(昭和16)年12月8日日本軍がハワイ・オアフ島真珠湾を奇襲攻撃して始まった太平洋戦争は42年6月のミッドウェー海戦後は日本の敗色が濃くなり、45年8月には日本の都市という都市がアメリカ空軍の無差別空襲によって焼野原になっていました。

『戦争童話集』は敗戦の日の迫るこの8月の日本各地で少年達や少女の体験した、この世のものとは思えない、でも実際に起こった奇妙な話が12集められています。

著者の野坂昭如は45年6月の神戸大空襲にあい、4歳の妹を抱いて猛火の中をやっと逃れたという経験がありました。 この妹は食べ物もろくに食べられなかったために栄養失調で死んでしまいます。

野坂は中学1年生の時のこの体験を『火垂(ほた)るの墓』という作品に昇華させました。

『戦争童話集』には並はずれて大きく育ってしまった雄(おす)のイワシクジラが日本の潜水艦を雌(めす)クジラと間違えて恋してしまい、彼女を守るために自分の身にアメリカの爆雷を引き受けて死んでしまう話、殺される運命を象使いの小父さんに助けられ山の中に逃げこんだもののけっきょくは山中深く行方がわからなくなる象の話などが語られます。

食べ物がないために干物のようになって空中に舞い上がってしまった母子の話には、母性の無償の愛の深さに誰もが涙するでしょう。

引用した「焼跡の、お菓子の木」はママがドイツ人のお菓子屋さんから手に入れたバームクーヘンの食べ残しを、ママが花の種子を植えていたように壕の下の土を掘って男の子が埋めて待ちつづけていると、ある日小さな芽が出て、芽はみるみるうちに若木となり大きなお菓子の大木に育つのです。

昭和20年8月15日戦争がやっと終わって、誰もがお腹を減らしているときに、1本だけお菓子の木が生えていて子供たちが鈴なりになって食べ、そのそばを通りながら大人たちはまったく気づかなかった、ということです。


ブログ内検索

ブログ内の記事をキーワード検索
関連リンク
メールマガジン
当ブログを運営する(株)ベルジャンチョコレートジャパンで発行するメールマガジンは、チョコレートをこよなく愛する皆さまを会員として特別なイベントや商品、レシピの紹介などをしています。ご興味のある方は是非ご登録ください。
メールマガジンを購読
メルマガバックナンバー
Copyright (C) 2007 Belgian Chocolate Japan ,Ltd. All Rights Reserved.