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野坂昭如
2010年09月08日

46「お菓子の木なんて、どんなものだろう、チョコレートの花が咲いて、シュークリームの実がなるのかしら」
    

   『戦争童話集 12焼跡の、お菓子の本』
野坂昭如/中公文庫

日本が当時「支那(シナ)」と呼んでいた中国を相手に、やがてアメリカ、イギリスをはじめ世界の多くの国々を相手に戦争に明け暮れていた時代がありました。

1931(昭和6)年9月の「満州事変」に始まり1945(昭和20)年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏をするまでの15年間です。

この期間を「15年戦争」と呼んでいますが中・高校の歴史教育に欠陥があるのか、「エッ、日本とアメリカが戦争したんですか!?」と驚く若い人が多いことに、この戦争期間中に少年・少女時代を過ごした世代の人間は深い失望感と隔絶感を味わわずにはいられません。

1941(昭和16)年12月8日日本軍がハワイ・オアフ島真珠湾を奇襲攻撃して始まった太平洋戦争は42年6月のミッドウェー海戦後は日本の敗色が濃くなり、45年8月には日本の都市という都市がアメリカ空軍の無差別空襲によって焼野原になっていました。

『戦争童話集』は敗戦の日の迫るこの8月の日本各地で少年達や少女の体験した、この世のものとは思えない、でも実際に起こった奇妙な話が12集められています。

著者の野坂昭如は45年6月の神戸大空襲にあい、4歳の妹を抱いて猛火の中をやっと逃れたという経験がありました。 この妹は食べ物もろくに食べられなかったために栄養失調で死んでしまいます。

野坂は中学1年生の時のこの体験を『火垂(ほた)るの墓』という作品に昇華させました。

『戦争童話集』には並はずれて大きく育ってしまった雄(おす)のイワシクジラが日本の潜水艦を雌(めす)クジラと間違えて恋してしまい、彼女を守るために自分の身にアメリカの爆雷を引き受けて死んでしまう話、殺される運命を象使いの小父さんに助けられ山の中に逃げこんだもののけっきょくは山中深く行方がわからなくなる象の話などが語られます。

食べ物がないために干物のようになって空中に舞い上がってしまった母子の話には、母性の無償の愛の深さに誰もが涙するでしょう。

引用した「焼跡の、お菓子の木」はママがドイツ人のお菓子屋さんから手に入れたバームクーヘンの食べ残しを、ママが花の種子を植えていたように壕の下の土を掘って男の子が埋めて待ちつづけていると、ある日小さな芽が出て、芽はみるみるうちに若木となり大きなお菓子の大木に育つのです。

昭和20年8月15日戦争がやっと終わって、誰もがお腹を減らしているときに、1本だけお菓子の木が生えていて子供たちが鈴なりになって食べ、そのそばを通りながら大人たちはまったく気づかなかった、ということです。


食の大正・昭和史 第九十回
2010年09月08日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十回

                              月守 晋


●鞍山でのくらし(2)

鞍山市北四条町の借家で満州での生活をスタートさせた志津さんは昭和10(1935)年2月初めに15分の安産で第3子の男児を出産した。

志津さんの第3子出産と同じ年同じ月に製鋼所職員として鞍山に入った数納勲郎は、北六条の社宅に新妻と共に落ち着いた。 社宅は6畳に4畳半二間の3部屋で風呂がつき、床から天井に届く丸型のペチカが3つの部屋の角にあって暖炉になっていた。 燃料はコークスか石炭である。 (『親と子が語り継ぐ 満州の「8月15日」鞍山・昭和製鋼所の家族たち』田上洋子編/芙蓉書房出版)

便所は汲取式で、冬にはカチカチに凍り固まった糞尿をツルハシで割って取り出す。

部屋の窓は二重窓になっていて、室内の空気を入れ換える小窓がついていた。

鞍山の冬は寒さが厳しく零下20度を超える日も少なくない。 社宅にはジャガイモや玉ネギを凍結から守る貯蔵庫が台所に付設してあった。

青物野菜がほとんど手に入らない冬期のカボチャは欠乏するビタミンを補給するためには欠かせないもので、どの家庭でもまとめ買いして貯蔵していた。

冬の鞍山でくらし始めた志津さんを困らせたのは日常の買い物だった。

『少年の曠野』には「日中は男っ気のない女こどもばかりの閑静な北十一条の住宅地に顔なじみの中国人ご用聞き、配達人、物売りなどがけっこう足しげく出入りした」とある。

照井少年の家ではリアカーで運んできた魚を中広場で売る魚屋から“衛生上心配のない”干物や塩イワシを買ったり、勝手口にキャンデー類の見本の詰まったガラスケースを持って注文取りの中国人親子が立っていることもあった。

他にも飴を切るハサミの音をチョンチョン二拍子に鳴らしながら売りに来る朝鮮飴売りや、ゆったりしたバリトンの売り声を聞かせる白系ロシア人の老人のパン屋もこの区画にやってきた。

志津さんはどこで毎日の食料品や日用品を買っていたのだろう。

近くに商店があったとしても日本人が必要とする品物は高価だった。

「日本人商店はサービスが悪かった上に、商品の値段も高かった」という(『満州の日本人』塚瀬進/吉川弘文館)。

たとえば東京で大16銭、小14銭の懐中電灯を大連で大50~70銭、小40~60銭で売り運賃がかかるためだと説明していたと同書はいう。 しかも彼らは中国人を客とは思っていず、中国人相手の商品をならべている日本人商店はなかったのである。

しかし対照的に中国人商人は日本人に買わせるように商売をしていた。 1920年代には小売商以外の床屋、洋服製造業、洗濯屋、料理屋など職人的な技術を要する業種でも中国人の店が日本人客を奪うようになった。

日本人店で技術を修得した中国人が独立して日本人に勝る品質・サービスの商品を提供するようになったためである。 日本料理の板前も気位と賃金の高い日本人に替わって、腕は確かでも給料の安い中国人に取って替わられた、という。(同書)

満鉄では物価騰貴に対処するため1919(大正8)年に満鉄消費組合を作り米、味噌、醤油、砂糖、漬物、茶、清酒などの生活必需品を供給して社員の生活の安定を計った。

この組織は各地の日本人商人や商工会議所の猛反対にあったために、会社から分離して社員自主運営の「満鉄社員消費組合」として25(昭和元)年に再出発した。

組合の販売価格は市中価格より8%も安く28年の組合員利用率は月収の45%に相当するほどに成長した。(『満鉄を知るための十二章―歴史と組織活動』天野博之/吉川弘文館)。


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