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食の大正・昭和史 第九十一回
2010年09月15日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十一回

                              月守 晋


●医者のすすめる“満州ぐらし”①

志津さんが臨月の身で2人の子どもを連れて3泊4日の船旅を無事に乗り切って大連で哲二に迎えられ、鞍山の借家に落ち着く間なしに第3子を生んで始まった親子5人の“満州ぐらし”は志津さんには戸惑うばかりの毎日だった。

幸い頼りになる小山さんの奥さんがいたので、何かと教えてもらいながら乗り切る毎日であった。

志津さんには“満州ぐらし”に対する予備知識はまったくなかったという。

「満州国」の建国宣言は昭和7(1932)年3月1日である。 この時、清朝最後の皇帝(宣統帝)だった愛新覚羅溥儀が摂政に就き年号を大同元年とした。 翌々(昭和9)年3月帝政を実施して摂政溥儀は皇帝となり年号を康徳と改元する。 摂政溥儀は康徳帝と呼ばれることになるわけである。

満州国の建国宣言が行われた昭和7年10月に日本からの武装移民団の第1次移民425名が佳木期(ジャムス、三江省樺川県)に、翌8年7月に第2次移民455名が佳木期の南東56キロの永豊鎮に入植した。

ところが両移民団ともに現地の武装した抗日集団の激しい攻撃を受け、ことに第2次移民団は目的の永豊鎮には入れずさらに南20キロの七虎力に、そこも追撃されて湖南営へと入植地を移した。

現地の抗日武装集団を鎮圧するために関東軍は航空機まで飛ばすことになったのだが、むろんこうした情報は志津さんたちのような一般人のもとには届いていない。

農業移植地の北満に比べれば志津さん一家のくらし始めた鞍山は平穏無風の日本企業が万事を取り仕切る城下町であった。

しかし、志津さん親子が移住した鞍山の2月は神戸生まれ神戸育ちの志津さんがかつて経験したことのない寒さだった。

満州新聞社発行の『年鑑満州』(康徳8<昭和16>年版)によると、後に志津さん一家が移り住む新京(長春)の2月の平均気温はマイナス12.5度、神戸のそれは4.5度である。 新京からは鉄路で約400キロ南に位置するとはいえ「冬の寒い時は零下20度を超える。 20度を超えると寒いというより痛い。 素手で金物を握ると皮がくっついて離れなくなる」(『満州の「8月15日」』)という志津さんには経験のない寒さであった。

『満州に適する健康生活』というハウトゥー本が大連市の書店から昭和15年9月に発行されている。 B6判260ページほどの小著ながら中味は濃い。 著者は現地で永く医療にたずさわった経験をもつと思われる医師(医学博士)である。 満州医科大学長の序文がついているところをみるとこの大学の卒業生かあるいは付属病院の勤務医だったか、いずれにしろ満州で健康にくらしていくための対処法に通じた専門家である。

まず取り上げられているのが気候で、1年の約3分の1を占める快晴日数の多さ(東京56日:大連・新京110日)と降水日の少なさ(東京146日:大連78日)をあげ、乾燥した空気、3~5月に起きる蒙古(もうこ)風について触れている(蒙古風は黄砂のことである)。

満州の気候は海洋の影響を受ける遼東半島付近を除き寒暑の差のいちじるしい「大陸気候」だから服装もそれに合わせなくてはならないと博士は説く。

博士が提唱するのは防寒防暑に適している支那(中国)服の採用という大胆な案で、中国服はからだにぴったりではなく肌との間に空気を取り込む構造になっているため防寒防暑の両方にすぐれているというのである。 しかも活動的で満州では和服よりはるかに理想的な衣服であると。


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