2010年10月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30
プロフィール

ベルジャンチョコレート

カテゴリー
最近のブログ記事
アーカイブ
関連リンク集
食の大正・昭和史 第九十七回
2010年10月27日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十七回

                              月守 晋


●首都「新京」でのくらし(2)
満鉄は鉄道の付属地に舗装道路、ガス・水道・電気などのインフラ整備の資金を注入し社宅、学校、病院などの施設をととのえて居住地としての環境を充実させていった。

「満州国」の首都としての新京(長春)の都市建設は建国が宣言された1932年(昭和7)年に建国宣言とほぼ同時に開始された。

新都市建設は満鉄付属地と旧長春市街に接する北部地域から着手され1937年9月までの5年間に人口33万人の近代都市が誕生した。

新市街地には政府庁舎、官公庁ビル、中央銀行、三菱・東拓・東京海上など大企業関連ビルほか政府高官公邸や官吏住宅などが整然と建てられた。

志津さん一家がくらしていた吉野町は満鉄付属地内にあり、1年後に移った西広場露月町の社宅は吉野町の祝ビルよりさらに新京駅に近い付属地内に立っていた。

康徳6(昭和4)年版の『新京案内』には市街地の構成を旧付属地5平方キロ、長春城内8平方キロ、商埠地(しょうふち)4平方キロ、寛城子(かんじょうし;ロシア東清鉄道時代の付属地)4平方キロ、新市街79平方キロとあるが新首都新京の市街はこれらすべてを包含している。

祝ビルに住んでいた間に長男と次男は室町小学校(明治41〔1908〕年創設)と新京でただ一つの幼稚園だった室町幼稚園に短期間ではあったが通ったという。 『写真集さらば新京』の写真キャプションには室町小学校には「高等科・幼稚園・青年学校・家政学校が併設されていた」とある。

西広場露月町の満鉄社宅は煉瓦造りの外壁を白っぽくコンクリートで塗り固めた2階建てで、中央に階段があり左右に計4軒のアパート風住居だった。

同じ型の社宅は4棟しかなく、他の社宅はみな赤煉瓦の4階建て、2か所に階段をもつ1棟16軒の集合住宅で屋上がフラットなベランダになっていた。

新京駅前の北広場から放射状に南西に向かって敷島通りが延びており円形の西広場に達しさらに南下する。

駅にいちばん近い社宅街から「いろはにほへと」順に和泉町・露月町・羽衣町・錦町・蓬莱町・平安町・常盤町と町名がつけられ南北に西一条通り・西二条通り・西三条通りが走っていた。

志津さんたちの入った社宅は西の端の3丁目にあった。

西広場には市民に飲料水を供給する給水塔がありランドマークになっていた。 広場の西に接して哲二・志津夫妻の4人の子どもが通った西広場小学校があり、東側は敷島高等女学校で隣接して寄宿舎(杏花寮)もあった。

西広場小学校の通りを一つへだてて関東軍の建物(憲兵隊?)が洋式の躯体に天守閣の屋根を載せたような姿で異彩を放っていた。

満鉄付属地内の学校は満鉄が社員の子弟を日本内地並みに教育するために設置していったものである。 本社地方部に学務課を置いて教育事務全般を管掌していた。

志津さんの子どもが新しく通いはじめた西広場小学校は大正14(1925)年11月に開校した。 校舎は3階建て5教室だったが児童数の増加に応じて建て増しされ昭和10年現在児童数1200人22学級に拡大していた(『満州教育史』文教社/昭和10年)。

新京は緑地の多い都市で市の面積の12.2%が公園緑地で公園だけでも4.9%あった。

子どもたちは社宅から歩いて15分ほどの児玉公園(入り口に児玉源太郎大将の銅像があった。旧称西公園)に遊びにいった。

小さな河川をせき止めて池(潭月湖)を造り、周囲の草原を整備して野球場、陸上競技場(冬はスケート場になる)、温室、動物園、テニスコート、プールなどが造られていた。


食の大正・昭和史 第九十六回
2010年10月20日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十六回

                              月守 晋


●首都「新京」でのくらし(1)

志津さん一家が新京に移って最初に住んだのは吉野町の祝ビルの2階であった。

吉野町は『写真集 さらば新京』(国書刊行会)の写真説明に「東京でいえば銀座通りにあたる」とある。

新京駅前の北広場から東南に向かって日本橋通りが放射状に延びており、日本橋通りに交差するように北から富士町、三笠町、吉野町、祝町と繁華街が並んでいた。

祝ビルはどうやら吉野町と祝町の接点あたりにあったらしく、志津さんたちの住居の下は靴屋だった。

斜め前に白系ロシア人(1917年のロシア革命のときに皇帝側の立場に立った人々)のパン屋があった。 店主はたいへん日本語が達者で、長男の比呂美はよく父親の大きな下駄をはいてこの店へお八つのパンを買いに行った。 ほっくりと焼けたおいしいアンパンが1個2銭だった。

ビルの裏側には共同浴場があった。 銭湯ではなくビルの住人たちが共同で運営し利用していた浴場だった。

志津さん一家がこのビルの住人になったのは、満鉄の社宅に空室がなくこのビルの何室かを社宅用に借り上げていたためだと思われる。

引揚げ時にみどり子のリュックの底に隠して持ち帰ってきた写真の中にこの祝ビルで撮った写真が1枚ある。 42mmx58mmの小さな素人写真にはビルの裏階段に並んだ大人2人と子ども2人が写っている。

右端に写っているのが「宮井」と万年筆で記名がある女性でその左隣にみどり子を抱いた志津さんと三男が並んでいる。 帽子をかぶった三男の顔は階段のコンクリートの手すりに半ば隠れている。 宮井さんはひょっとしたら同じビルに住む満鉄社員の妻女かもしれないが、いまとなっては確かめようがない。

祝ビルでくらし始めた年の夏、志津さんと下の子2人とが昼寝をしていると突然ビルの窓が薄暗くかげりにぎやかな人声がした。 おどろいてのぞいてみると、前の通りを大きな象が歩いているのだった。 派手に飾り立てられた象は興業にきた木下サーカス団の象だったのである。

にぎやかな音といえば中国人の雑技団の一行が通ったこともあった。 ピーヒャラ・ピーヒャラと笛を吹き、ジャンジャラ・ジャンジャラ・ジャンと銅鑼(どら)を鳴らしてにぎやかというよりは騒々しい鳴り物入りで進んでくる一行は移動しながら逆立ち歩きをしたり前方回転をして見せたりしていた。

その中に50センチから2メートルもある棒を足にはいて歩いている芸人がいた。 「高脚踊り」という芸人たちで旧暦の正月である春節や端午の節句などおめでたい日に通りを練り歩いた。

     ピーヒャラ・ピーヒャラ ジャン・ジャラ・ジャン
     ピーヒャラ・ピーヒャラ ジャン・ジャラ・ジャン
     高脚踊りはジャン・ジャラ・ジャンのジャン

という歌を子どもたちはすぐおぼえたものである。

満鉄(南満州鉄道株式会社)は日露戦争終結後のポーツマス条約によって日本が獲得した東支鉄道の大連―長春間の運営を行うために設立した半官半民の国策会社であることは前に述べた(1906[明治39]年11月)。

鉄道には駅舎や線路、操車場など鉄道運営に直接関係する設備のため以外にも社員用住宅を建設する土地も含む「付属地」がついていた。

満鉄は社員用住宅地に大きな資金を投じて道路、上下水道、電気、ガス、学校、病院などコミュニティに必要な設備をととのえた。


食の大正・昭和史 第九十五回
2010年10月13日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十五回

                              月守 晋


●哲二の新京転勤

志津さん一家の鞍山ぐらしが2年になった昭和12年の年末に、一家に4人目の子どもが誕生した。赤ん坊は志津さん待望の女の子だった。

年子3人の男の子を育てるには、お兄ちゃんのお古を下の子に順々に着せられるという“経済な”面もあるけれど変化は楽しめない。 男の子に赤い物や花柄を着せるわけにはいかないのである。

哲二も女の子の誕生に相好をくずして喜んだ。 夫婦は相談して誕生日を翌13年の正月3日として届け出た。

年令を満年令で数えるようになったのは昭和25年1月1日からである(「年令のとなえ方に関する法律」の公布は24年5月24日)。 数え年だとたとえ12月生まれであろうと正月がくれば否応なく1歳年をとる。 みどり子と名付けたこの女の子が生まれた昭和12年ころはもちろん年令は数え年であった。

お嫁に行くとき1つでも若いほうがいいだろうと夫婦は考えたのである。

みどり子が1歳半になった昭和14年5月、哲二は新京鉄道工場に転勤を命ぜられた。

昭和7(1932)年に「満州国」が建国され翌年2月に「満州国有鉄道」の経営と建設・改修等を満鉄が請負うこととなった。 事業の拡大に伴って機構の改革・増設が行われ社員数も増え昭和12年(「満州国」年号では康徳4年)度末で社員総数は11万6293人(うち職員1万9011人、雇員1万5761人、傭員8万1521人)を数えた。

明治40年に開設された長春駅は昭和7年11月に「新京」駅と改称され、翌8年には朝鮮の釜山―京城間の鉄道が奉天についで11月に新京まで延長された。 つまり朝鮮を南北に縦断して直接新京まで往復できるようになったのである。

「満州国」の建設と同時に長春は国都「新京」と改称され首都としての都市建設が計画され12年11月に人口50万人の最終計画が定まった。

哲二・志津の一家6人が移り住んだ昭和14年には新京市街は主要な部分はほぼ建築されていたようである。

いま手元にある14年度版の奉天鉄道局発行の観光パンフレット『新京』を見ると、新京駅前の北広場から南へ一直線に中央通、その中央通が児玉公園(日露戦争時の参謀総長児玉源太郎大将にちなむ)の横で大同大街と名前を変えて直径300メートルの大同広場へ達し、さらに建国広場まで延びている。

新都市の幹線道路である大同大街の幅員は60メートルあり、10メートルの歩道+12メートルの車道+16メートルの遊歩道+12メートルの車道+10メートルの歩道となっていて歩道と遊歩道には街路樹が植えられた。

45メートル幅員の道路は16メートルの中央高速車道の左右にそれぞれ2.5メートルの樹林帯+6メートルの緩速度車道+6メートルの歩道という構造になっていた。 新京で最も幅の狭い道路は宅地と宅地の間の4メートルの背割道路でこの道路の下に電線やガス管、上下水道管が埋められ幹線道路には1本の電柱も立っていなかった。

南北に走る道路に「街」を付け東西方向の道路を「路」と呼んで区別したが、街路に植えられた樹林の景観と南湖公園や児玉公園など数多く造られた公園とによって森の都、緑の都市と呼ばれるようになっていった。

志津さん一家が新京へ移住したころ大同大街が広場を南下して大同公園と牡丹公園にはさまれるあたりの街路の車線と分離帯の中に新都建設以前からあった孝子廟が残されていて幟旗がひるがえっていた。

子どもたちが学校へ通い始めると長男が「あの廟は道路のじゃまになるので塚ごとつぶそうとして樹を切っていたら血のように赤い樹液が出てきただけでなく鋸切りを使っていた人夫が何人も高熱を出して死んでしまったんだって。 それで残すことにしたんだって」という怪談を仕入れてきて披露した。

地元中国人の信仰を尊重して残したのだろうが日本人学校にはこんな怪談が生徒たちの間に流布していたわけである。

志津さん一家が新京に移住して最初に住んだのは吉野町の祝ビルの2階であった。

            [参考] 『満州国の首都計画』越澤明/
            ちくま学芸文庫:『満鉄付属地経営沿革全史』/南満州鉄道総裁室


食の大正・昭和史 第九十四回
2010年10月06日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十四回

                              月守 晋


●哲二の満鉄入社②

残されている「社員証明(長春地区)」によれば哲二の満鉄入社年月は昭和10年5月である。 これは敗戦後の昭和21年7月に満鉄連絡事務所長平島敏夫が発行したもので引揚げの際に長春特別市公安局が発給した「居住證」などと共に持ち帰ったものである。 この居住證にはロシア文字の併記があるので国境を侵して南下してきたソビエト軍が長春の街をまだ占拠していた時期のものだろう。

平島敏夫は38(昭和13)年1月から42年1月まで満鉄理事を務め45年6月から副総裁の地位にあった人物である。 (『満鉄四十年史』)

昭和10年5月の入社ということは志津さんが幼児2人を連れて1月末に鞍山に到着し、2月初旬に第3子を生んで満州でのくらしをスタートさせて約3か月後のことである。

渡満する前に手紙でまだ製鋼所の臨時工として働いていると知らされていて、そのとおりの哲二の稼ぎを頼りに借家ぐらしを始めた志津さんには先行きのくらしに不安を抱えながらの日々であった。

それが思いがけず予想よりずいぶん早く満鉄入社が決まったことは夫婦にはこの上ない喜びだったし、安堵の思いも大きかった。

これでやっと人並みのくらしができると思った。 志津さんは早速、神戸の養母みきに手紙で知らせたのである。

昭和10年5月という時期に哲二が採用された背景には前回に述べた満鉄の事業の拡大とそれに伴う従業員の増員という方針が有利に働いたと考えられる。

満鉄に採用された哲二はどこに配属されたのだろうか。

哲二は10代半ばから旋盤の技術を習って身につけ、結婚後も京都市電の修理工場から国有鉄道の工場で働いていた。

市電時代の先輩小山さんを頼って鞍山へ渡ったのも旋盤の技術を生かせる職場を満鉄に求めたためである。

1935(昭和10)年12月1日現在の「満鉄組織一覧表」(『満鉄四十年史』)には鉄道部の下部組織に鉄道工場(大連)が記されているが鞍山にはそれらしきものはない。

機構を改革して鉄路総局とした36年10月現在の組織表では総局の下部の工作局に鉄道工場があり所在地は大連・皇姑屯・新京・哈爾浜(ハルビン)・松浦・斉斉哈爾(チチハル)が記載されている。

新京鉄道工場は4年後に転勤になった哲二が勤めることになる工場である。

組織表に記載はないが各駅には駅員がおり機関区や検車区・工務区といった日々の列車運行の保全に携わる要員が必要だったはずで哲二は鞍山駅で機関車や車両の修理作業に当たっていたのだろう。

満鉄に入社できると生活面でも恩恵があった。

まず第一に日常の買い物に「満鉄社員消費組合」が利用できた。

消費組合は「日常生活ニ必要ナル物品ヲ購売又ハ生産シ之ニ加工シ若ハ加工セスシテ組合員ニ分配スル」ことを目的とし、加入するには一口5円の出資金を支払えばよかった。 5円の出資金も第1回目に1円を支払い残額を1年以内に払い込めばよかったのである。

分配する品目として白米、塩、砂糖、醤油、味噌、薪炭、雑穀、調味料、漬物類、缶詰類、びん詰飲料類、小間物類、雑貨類、呉服及び身回品類、その他日用品及び季節物が挙げられている。 (『満鉄社員消費組合十年史』)

本部は大連にあり大石橋、鞍山、奉天、四平街、長春、撫順など14の支部があった。

奉天の義光街にあった満鉄社宅団地は全長100メートル近い3階建ての社宅棟があり、甲・乙・丙3種の社宅棟の表通りに面した甲1号棟の中央通路寄りに購売組合の店舗がありその2・3階が高級社員の社宅になっていたと『少年の曠野』にある。


ブログ内検索

ブログ内の記事をキーワード検索
関連リンク
メールマガジン
当ブログを運営する(株)ベルジャンチョコレートジャパンで発行するメールマガジンは、チョコレートをこよなく愛する皆さまを会員として特別なイベントや商品、レシピの紹介などをしています。ご興味のある方は是非ご登録ください。
メールマガジンを購読
メルマガバックナンバー
Copyright (C) 2007 Belgian Chocolate Japan ,Ltd. All Rights Reserved.