2010年11月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31
プロフィール

ベルジャンチョコレート

カテゴリー
最近のブログ記事
アーカイブ
関連リンク集
食の大正・昭和史 第百一回
2010年11月24日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第百一回

                              月守 晋


●在満国民学校(1)
1941(昭和16)年4月、志津さんの三男が国民学校1年生に上がった。

この年の3月に日本本土で「国民学校令」が公布され小学校が国民学校と改称された。 満鉄の経営管理下にあった日本人小学校も内地並みに国民学校と改称されたのである。

引揚げ時にひそかに持ち帰った写真の1枚が三男の入学記念写真で、正面玄関で撮ったこの写真にも「新京西広場在満国民学校」という校名の看板がかかっている。

三男が組入れられたのは1クラスだけあった男子19名女子24名の混合クラスで、3月早生まれの児童や身体検査で虚弱と判定された子どもが集められていた。

女生徒の中に白系ロシア人の子どもが1人いて母親とともに写っている。

この特別クラスの生徒にはからだをじょうぶにするための特別の配慮がなされていた。

たとえば週に何回か昼食後に肝油を飲まされた。 とろりとした黄色の液体で、さじに1杯ずつ養護教諭の手で口に入れられる。

肝油はタラやサメなどの肝臓から採った油脂で野菜類の乏しい満州で生活する子どもたちに不足しがちなヴィタミンA、Dを補給する目的で与えられていたのである。

なんとも言えない生臭さが口一杯にひろがって吐き出しそうになるがぐっとこらえてゴクリと飲み込む。 飲み込むとドロップを1粒入れてくれる。 その甘味が嘔吐感を押さえてくれたのである。

冬期には「太陽燈」を浴びることになっていた。

新京の冬は10月にはやってきて翌年4月までつづく。 連日マイナス15-20度に下がり、時にはマイナス30度を超す冬期には子どもも家に閉じこもりがちになる。

『満州に適する健康生活』(前出)の著者も「満州育ちの日本人の子どもに骨の発育異常や歯の発育不良が少なくないのは冬期の新鮮な野菜不足とことに日光不足によるカルシウム不足」が原因だと指摘している。

学校での太陽燈による日光浴は虚弱児童に人工的に紫外線を浴びさせて体内のカルシウム不足を補わせるためであった。

太陽燈は円筒形の装置でパンツ1枚の裸になった子どもが中に入ると円形の天井部分の360度の方角から紫外線が放射される。 子どもは眼を保護するために黒いガラスのゴーグルをかけさせられた。

照射時間は30分程度だったろうか(記憶があやふやだが)、外へ出ると水分補給のために水を1杯飲まされた。

昭和16年当時の学校は志津さんの三男のような子どもにとっては楽しい場所ではなくなっていた。 この年の12月8日(日本時間)に日本の海軍機がハワイ・オアフ島のパールハーバーに集結していた米太平洋艦隊に奇襲をかけ太平洋戦争が始まったが、学校での軍国教育はそれ以前から実施されていた。

校門を入ると右手にコンクリート造りの小さな建物があり、その中に天皇・皇后の写真が納められていて登校してきた生徒は目に見えない写真に向かって深々と一礼するように教えられていた。

この建物は「奉安殿」と呼ばれていた。 

校内ではいつの頃からだったか朝、上級生や先生に会った時には軍隊式に挙手の礼をすることが決められた。

志津さんの三男は偏食のうえに胃腸が弱く登校後に便所が間に合わなくておもらしをしてしまったことが2度ほどあり、そのことも学校を好きになれない理由になっていた。

2年生に進級すると登校拒否状態になり、志津さんが三男の手を引っ張って校門まで送って行かなくてはならない日もあるようになった。


酒井順子
2010年11月24日

49「ホットチョコレートは好きだけれど、ふと気がつくと長いあいだ飲んでいない、ということがよくあります」
    

   「28 ホットチョコレート」/『ひとくちの甘能』
酒井順子/角川文庫

酒井順子という名前から『負け犬の遠吠え』という流行語にもなった本のタイトルを思い出す人が大勢いるのではないでしょうか。

ニュースショウのコメンテイターとして出演しているご本人をよく見たことがあると私は思うのですが。

このエッセイ集のタイトルになっている“甘能”という言葉はたぶん酒井さんの造語でしょう。 同じ音で「官能」という言葉がありますが「生物が生存の必要から具有する生理上のはたらき。 五官の作用の類(『詳解漢和大字典』」のことで「五官」が「視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚」を指すことはご存知のとおりです。

このエッセイ集が春夏秋冬それぞれの季節に食べたくなる計34種類の甘味類(甘いもの)を取り上げたものだということがわかれば「甘能」という言葉の意味もおわかりでしょう。

話題になっている洋菓子、和菓子には酒井さんの推奨する店の名前や住所、電話番号まで文末に紹介されていますから「ぜひわが甘能を満足させたい」と思われたかたには親切な編集といえるでしょう。

筆者がこころ魅(ひ)きつけられたのは春と夏の部の間にはさまっている「甘能紀行 上海」の文章(夏の部の後に「甘能紀行 バンコク」、秋の部の後に「甘能紀行 京都」が収載されている)。

「上海」の紀行文で酒井さんは上海の街を歩いていて「あ」と思ったのは「賑やかな街であればどこでも売っている、糖葫芦(タンフールー)です」と書いています。

「タンフールー」はサンザシの赤い実を1串に10個ほども刺して甘ずっぱい飴(あめ)をかけたもので、それを何十本も刺したわらづとをかついで行商をして歩くのです。

つやつやと光っていて、いかにもおいしそうに見えるのです。

むかし「満州」で子ども時代をすごしたという老人たちは「母親がどうしても買ってくれなかったもの」の1つとして記憶しているのではないでしょうか。

酒井さんはこの「タンフールー」が香港映画「覇王別姫」の中で重要なエピソードの小道具として使われていたことを語っています。

酒井さんご紹介の34種の中には筆者も口にした記憶のあるものもありますし、同じ店で別のものを注文したという残念な(?)お菓子もあります。

さて冒頭に引いたのは冬の部の3番目、全体では28番に相当する銀座の店のもの。

1杯のホットチョコレートにも様ざまな思い、記憶がからむものだということを教えてくれます。


食の大正・昭和史 第 百 回
2010年11月17日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第 百 回

                              月守 晋


●首都「新京」でのくらし(5)―路上の食べ物
子どもたちが学校へ通うようになり、社宅街の街路や小公園で遊んだり児玉公園まで出かけて行くようになると、帰って来た子どもたちの口から街で見たさまざまなことが志津さんに報告されるようになった。

子どもたちの報告の中でいちばん多かったのは路上で売られている食べ物のことだった。

社宅街にも中国人の食べ物売りは入って来た。

1輪車の台の上に直径50~60cmはある大きな餅を乗せて売りに来た。 白い餅の上にあずき色のインゲン豆を2~3cmの厚さにのせて蒸した餅である。 餅が冷めないように何重にも白い(かつては白かった)布がかけられいちばん上に綿入れのふとんをかぶせてあった。

子どもたちに「買って!!」とせがまれても志津さんは断固として拒絶した。

綿入れぶとんはほこりと手垢で黒々と光っていたのである。

四つ角のちょっとした空き地に大きな鉄鍋を据えつけて肉団子を売る中国人もいた。

鍋は円筒の罐の上に載っていて中で油が煮えている。 火力は木炭だったろうか。 豚か鶏の挽き肉をピンポン玉ほどに丸めた団子をこの油の中に放り込んで客の見ている前で揚げてくれるのである。

こんがりと茶色に揚がった団子はいい匂いがして美味しそうに見えた。

志津さんはしかし、この団子を買うこともなかった。 志津さんや子どもたちの耳には「ワンズユダゴ」と聞こえる肉団子の肉が何の肉だかわからない。 正体不明のものは買わないのが子どもの健康を守る手段であった。

同じ油に鶏卵をばんと割って沈め、揚げ卵にして売ることもあった。

康徳6(昭和14)年当時で新京では鶏卵10個の小売値は77銭だった。 1個7銭7厘である(東京では5銭)。 前年には4銭8厘だったから1.6倍の値上がりである。

太平洋戦争開始後に物価は年々上がっていったから、子どもたちが街頭で見た揚げ卵の値段も1個10銭はしたのではないだろうか。

たびたび引用させてもらっているが『少年の曠野―“満州”で生きた日々』(影書房/照井良彦)にパンクした自転車の修繕を持ち込んだ自転車屋で、店主一家と店員たちが昼食にジェンビン(煎餅)を「とくに小憎たちは見ているこっちが憎らしくなるくらいたくさん」食べるのを見せられたと著者が書いている。

「ジェンビン(志津さんたちはチェンピンと覚えていた)」はいわば中国風の“薄焼き”または「クレープ」である。

材料は小麦粉にトウモロコシ粉、またはコウリャンの粉を混ぜたもの。

街頭のチェンピン屋は肉団子屋のと同じような罐の上に鉄鍋の替わりに厚い鉄板を載せている。

この鉄板で小麦粉+トウモロコシ粉(またはコウリャン粉、または3種類全部)を水で溶いて焼くのである。

直径30cmほどの大きさに焼けたチェンビンに生ネギや中国味噌をくるくると巻きこんでかぶりつく。

これは志津さんの衛生観念に照らしても合格で、子どもたちはたまに買ってもらって食べたのである。

トウモロコシの粉に少量の小麦粉を混ぜてねり、セイロで蒸した一種の饅頭(マントウ)もあった。 形は円すい形で、底のほうから空洞になっている。

志津さんの3男は苦力(クーリー、中国人労働者)が昼食に食べているところを見ていたことがあったが、この空洞にネギと味噌を詰めてかぶりついていた。 副食は生の茄子が1本だった。


食の大正・昭和史 第九十九回
2010年11月10日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十九回

                              月守 晋


●首都「新京」でのくらし(4)―伝染病
哲二・志津さん一家が吉野町の祝ビルから西広場露月町の満鉄社宅に移り住んだ康徳7(昭和15)年秋、一家は異様な体験をすることになった。

その日は『満鉄を知る十二章』(吉川弘文館)の記述によれば9月30日であった。

新京の9月は日本内地に比べると気温は一か月ほど早く落ちてくる。 新京の9月の平均気温は14.9℃、10月になると一気に6.7℃に下がる。 ちなみに神戸の9月は22.2℃、10月が17.2℃である。(『年刊満州』康徳7年)。

朝から灰色の雲に覆われていたこの日の午後夕方近いころ、街路1本へだてた隣接地域に黒煙と汚れたような朱色の焰が上がり、やがて黒灰色の煙が街区全体の空にひろがった。

黒煙と焰が何日続いたろうか。 後日、引揚げ帰国後に家族間でたまには満州ぐらしの思い出話にふけることがあるときまってこの日のことが話題になった。 5日間ぐらい、いや1週間は続いたよ、と記憶がそれぞれに異なっていて定かではなかったが。

この時の黒煙と焰は“三不管(さんぷかん)”と呼ばれていた三角地帯に発生したペストを制圧するために採られた“焼き払い作戦”によって寛城子地区が焼亡した時の黒煙と焰だったのである。

現在は「東北地区」あるいは「東三省」と呼ばれる「満州」の地はペストの汚染地区だった。

『満鉄四十年史』の年表に記載されているだけでも次のように繰り返し流行している

  明治43(1910)年  年末から流行、付属地内の患者数228名、全満で4万名。

  大正9(1920)年  この冬腺ペストが大流行し、北満だけで死者8千人。

  昭和8(1933)年  農安地区でペストが流行し1639人の患者が出る。

ペストは急性伝染病で感染すると高熱を発し心臓障害や運動神経に障害を起こす。 皮膚が乾燥して皮下出血を起こし紫黒色に変わるため“黒死病”と呼ばれていた。 致死率は60%以上90%に達することもある。

流行するのは感染したネズミの血を吸ったノミが菌を人間にうつすためで、明治33(1900)年には当時の東京市が予防のためにネズミを1匹5銭で買い上げるという施策を実施している。

新京市で志津さん一家が見た黒煙と焰は寛城子地区のネズミを退治するためだった。

寛城子地区は「三不管」と称されていたとおり満人(中国人)・ロシア人・日本人の混在する雑居地区であり、衛生面で必ずしも安全な地区ではなかった。

満州国政府と関東軍は“国都”新京に発生したペストを制圧するために寛城子の三角地帯をトタン板を内側に傾斜させて囲い込み、ネズミの逃げ路を遮断して区域内の家屋に火をつけたのである。

住民は生活必要品だけを持ち出すことを許されて区域外に追い出されたというが詳細はわからない。 『少年の曠野』の著者は「患者発生の家は、患者家族もろとも家を焼かれるといううわさがあった」と述べている。

この作戦を実行するために“満州国”内はじめ朝鮮や日本からも合わせて500余名の医師が集められ検診と予防にあたったといわれている。

指揮官は石井四郎軍医大佐。

この名前で記憶をよみがえらせる人もいるだろうが、細菌兵器の開発のために満人などを生きたまま実験に使ったといわれている“731部隊”事件で周知の石井中将である。

この年のペストは12月初めに終息した。 死者26名、治癒した患者1名。

“満州”全域の患者数は2548名だった。


北川悦吏子
2010年11月10日

48「ときどき、本気でこの人いいなあ……と思っている人には、ランク的には五百円でも千円のチョコをあげたりした(それでも領収証は切るけれど……)。」
    

   「バレンタイン営業」/『恋につける薬』
北川悦吏子/角川文庫

今回は季節は秋というのに「バレンタイン」の話題です。

3,4年前(と記憶しているのですが)には本命の男性には手造りのチョコをプレゼントするのがはやっていました(よネ?)。

去年あたりはあえて“男性に”ではなく、“自分へのご褒美として”最高級の材料を買いそろえて、世界でも名だたるチョコレート職人のレシピにそってトリュフなどを手造りしたり、そんな手間暇かけてはいられない女性は日本に進出してきたベルギーあたりの超高級店の超高級製品(当然高価な)を買い求めて帰り、1人静かに楽しむ、という傾向が生じてきたとか……。

北川悦吏子さんが「バレンタイン営業」で書いているのは中扉の日付けで1993年までの話だとわかります。

そのころ「テレビ番組の企画制作をしているにっかつ撮影所のテレビ部」の部員だった北川さんの「最初にやらされた重要な仕事は各テレビ局にチョコレートを配ること」だったと書いています。

1993年というと1989年が平成元年ですから平成5年のことで17年前ということになります。

北川さんたち女子社員は「20や30ものチョコレートを領収書をもらって買」って東京のキイ局を回って配ったのです。 「正真正銘の営業チョコ」だったのですがときには冒頭に引用したように営業効果を度外視する場合もあったのでした。

そんな営業チョコに企画書を包み込んで配ったこともあって、それで通った企画のひとつが『世にも奇妙な物語』シリーズの「ズンドコベロンチョ」という企画だったそうで、東大出のエリートサラリーマンがこの言葉の意味もわからないまま知ったかぶりをしているうちにその名を冠したプロジェクトのチーフに任命されノイローゼにおちいってしまうというストーリー。

「東大出のエリートは草苅正雄さんが熱演」して、「私の出世作」になったと書いています。

バレンタインデーにチョコレートを贈るという習慣を最初に考案したのは神戸のモロゾフで昭和11(1936)年のことだということですが戦後の昭和33年(現天皇と美智子皇后の婚約発表がこの年の11月)にメリーチョコレートが新宿の伊勢丹百貨店で復活させてはみたものの、売れたのはわずかに3枚だけだったと山下真史氏が書いています(『「食」の文化誌』/学燈社)。

バレンタインチョコにも半世紀以上の歴史があるのです。


ブログ内検索

ブログ内の記事をキーワード検索
関連リンク
メールマガジン
当ブログを運営する(株)ベルジャンチョコレートジャパンで発行するメールマガジンは、チョコレートをこよなく愛する皆さまを会員として特別なイベントや商品、レシピの紹介などをしています。ご興味のある方は是非ご登録ください。
メールマガジンを購読
メルマガバックナンバー
Copyright (C) 2007 Belgian Chocolate Japan ,Ltd. All Rights Reserved.