『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十八回
月守 晋
●首都「新京」でのくらし(3)
人気の漫画シリーズ『釣りバカ日誌』の作者北見けんいちさんは新京に5歳ころまで住んでいて、児玉公園で迷い子になったことがあるらしい(『ボクの満州―漫画家たちの敗戦体験』中国引揚げ漫画家の会編/亜紀書房)。 公園の近くで母親が「伊勢丹」という食堂をやっていて、客は日本人の軍人ばかりだったという。 冬には公園の凍った池でソリ遊びをお父さんにしてもらったと漫画入りで書いている。
西広場小学校でも冬には校庭に20~30センチ高さのだ円形の土手を築き内部に水を張ってスケート場に変えた。 水は一夜でカチカチに凍り2、3日かけて表面を滑らかにととのえれば立派なスケート場に早変わりした。 スケートは生徒の必須科目でもあった。
釣り好きの哲二は休日によく児玉公園に釣りに出かけた。 観光案内パンフレット『新京案内』(昭和14年刊)には「1期4円の料金を納め」るとあるが哲二さんは正直に料金を払ってはいなかったろう。 児玉公園には日本人と満人(中国人)各4名計8名しか管理人がいなかった(『満鉄付属地経営沿革全史』下巻)し公園の面積は15万坪余りもあったから釣竿をたれていても管理人に遭遇することはめったになかっただろうからである。
前にも書いたが小河川や湿地を利用して造られた新京の公園は児玉公園以外の大同公園、白山公園、順天公園、牡丹公園などみな親水公園か伊通河支流をせき止めた人工湖をもつ公園でとくに当時の市街南端に96ヘクタール余の水面をもつ人造湖、南湖を中心に造られた南湖公園(黄龍公園)は絶好の釣り場にもなった。
京都で新婚生活を始めたころちょくちょく競馬場に通っていた哲二だったが、新京にも競馬場があることを知ってたまに出かけることがあった。
新京競馬場は大同広場から西北に延びている興安大路が新京―南新京間の鉄道線路のほぼ中間地点を越えたところにゴルフ場と並んであり、4月下旬から10月下旬まで土・日曜日と祭日に真夏20日間の休催日をはさんで春から秋まで開催された。
馬券は5円で単複があり『新京案内』によれば康徳4(昭和13)年の「秋季第一次七日目第三レースの[大風]で736円の最高配当が出た」という。
すでに学校に通っている長男・次男を連れ出すのは教育上よろしくないとでも思ったのか、哲二は三男を連れて何度か競馬場に出かけ何度かは少額ながら賞金を手にしたようである。
幼児だった三男には大勢の人がいたこと、遠くのコースを何頭もの馬が走っていたことぐらいしか記憶に残らなかった。
競馬場まではたぶんバスを利用したのだろう。 市内には23路線のバスが走っていた。 料金は同一系統10銭均一か1区5銭の2通りあり、駅前から大同大街を経由して興安大路―南新京駅というコースもあって、この路線が競馬場に最寄りのコースだったろう。
さて、新京鉄道工場に転勤になったときの哲二の満鉄内での身分は給与が月俸で計算される職員ではなく日給月給に諸手当のつく准職員あたりだったろうと思われる。
生活は決して楽ではなかったが満鉄で働いているかぎり社宅が与えられ、食料その他市価より安く必需品を購入できる社員消費組合が利用できた。
新京での生活費は「東京に比較して大体七割ほど高い」と『新京案内』が紹介している。 これは昭和12年11月に満州中央銀行が調査したもので以下の通りである。
それぞれ東京を100とした指数で新京では以下の通りである。
穀食品費 152.7 光熱費 86.3
住居費 251.3 被服費 159.0
雑品費 141.4 修養娯楽 132.0
総指数 169.3