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食の大正・昭和史 第九十九回
2010年11月10日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十九回

                              月守 晋


●首都「新京」でのくらし(4)―伝染病
哲二・志津さん一家が吉野町の祝ビルから西広場露月町の満鉄社宅に移り住んだ康徳7(昭和15)年秋、一家は異様な体験をすることになった。

その日は『満鉄を知る十二章』(吉川弘文館)の記述によれば9月30日であった。

新京の9月は日本内地に比べると気温は一か月ほど早く落ちてくる。 新京の9月の平均気温は14.9℃、10月になると一気に6.7℃に下がる。 ちなみに神戸の9月は22.2℃、10月が17.2℃である。(『年刊満州』康徳7年)。

朝から灰色の雲に覆われていたこの日の午後夕方近いころ、街路1本へだてた隣接地域に黒煙と汚れたような朱色の焰が上がり、やがて黒灰色の煙が街区全体の空にひろがった。

黒煙と焰が何日続いたろうか。 後日、引揚げ帰国後に家族間でたまには満州ぐらしの思い出話にふけることがあるときまってこの日のことが話題になった。 5日間ぐらい、いや1週間は続いたよ、と記憶がそれぞれに異なっていて定かではなかったが。

この時の黒煙と焰は“三不管(さんぷかん)”と呼ばれていた三角地帯に発生したペストを制圧するために採られた“焼き払い作戦”によって寛城子地区が焼亡した時の黒煙と焰だったのである。

現在は「東北地区」あるいは「東三省」と呼ばれる「満州」の地はペストの汚染地区だった。

『満鉄四十年史』の年表に記載されているだけでも次のように繰り返し流行している

  明治43(1910)年  年末から流行、付属地内の患者数228名、全満で4万名。

  大正9(1920)年  この冬腺ペストが大流行し、北満だけで死者8千人。

  昭和8(1933)年  農安地区でペストが流行し1639人の患者が出る。

ペストは急性伝染病で感染すると高熱を発し心臓障害や運動神経に障害を起こす。 皮膚が乾燥して皮下出血を起こし紫黒色に変わるため“黒死病”と呼ばれていた。 致死率は60%以上90%に達することもある。

流行するのは感染したネズミの血を吸ったノミが菌を人間にうつすためで、明治33(1900)年には当時の東京市が予防のためにネズミを1匹5銭で買い上げるという施策を実施している。

新京市で志津さん一家が見た黒煙と焰は寛城子地区のネズミを退治するためだった。

寛城子地区は「三不管」と称されていたとおり満人(中国人)・ロシア人・日本人の混在する雑居地区であり、衛生面で必ずしも安全な地区ではなかった。

満州国政府と関東軍は“国都”新京に発生したペストを制圧するために寛城子の三角地帯をトタン板を内側に傾斜させて囲い込み、ネズミの逃げ路を遮断して区域内の家屋に火をつけたのである。

住民は生活必要品だけを持ち出すことを許されて区域外に追い出されたというが詳細はわからない。 『少年の曠野』の著者は「患者発生の家は、患者家族もろとも家を焼かれるといううわさがあった」と述べている。

この作戦を実行するために“満州国”内はじめ朝鮮や日本からも合わせて500余名の医師が集められ検診と予防にあたったといわれている。

指揮官は石井四郎軍医大佐。

この名前で記憶をよみがえらせる人もいるだろうが、細菌兵器の開発のために満人などを生きたまま実験に使ったといわれている“731部隊”事件で周知の石井中将である。

この年のペストは12月初めに終息した。 死者26名、治癒した患者1名。

“満州”全域の患者数は2548名だった。


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