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食の大正・昭和史 第百六回
2010年12月29日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第百六回

                              月守 晋


●引揚げ

哲二不在の志津さん一家が1945(昭和20)年8月15日正午の天皇の肉声による「終戦詔書」の放送を聞いたのは疎開先の北朝鮮平壌(ピョンヤン)郊外の小学校の校庭である。

約1か月後、志津さんたちは南下してきた経路を逆に北上して新京に戻ることになった。

平壌から釜山まで南下して船に乗れば1‐2月もあれば日本のどこかの港にたどりつけたはずである。

そうできなかったのは38度線以北の地域がすでに9月から侵攻を開始したソ連軍の管理下にあったためだった。

新京へ帰る無蓋車の旅は途中で何度も中断された。 列車が暗夜の線路で停止するたびに貴金属や紙幣が集められ女性が何人か姿を消した。 機関士やソ連警備兵への貢物であった。

新京の満鉄社宅のわが家にたどり着いてみると、28人もの若者が住みついていた。 北の国境付近からのがれてきた満鉄の機関士や機関助手たちだった。

志津さんたちは奥の一室を空けてもらい若者たちと同居することになった。

翌46(昭和21)年2月、ソ連軍や現地人暴徒の手を逃れて哲二が志津さんたちのもとに戻ってきた。 ソ連軍につかまっていればシベリアへ送られて強制労働をさせられ命を失っていたかもしれない。

社宅ぐらしに戻ってすぐソ連兵の略奪に2度も遭い毛皮のコート類や腕時計などを根こそぎ持って行かれた。 “マンドリン”と呼ばれていた72連発の自動小銃を抱えたソ連兵は腕に5本も6本も腕時計を巻きつけ、電燈に灯をつけようとマッチの炎を近づけた。

志津さん自身が連れ去られそうになり、4人の子どもが母親のからだや両足にしがみついて大声で泣き叫んでやっとことなきを得たということもあった。

敗戦後の新京に連れ戻された志津さん一家のくらしを支えてくれたのは疎開した当日(昭和20年8月11日)の午前中に満鉄が預貯金や積立金の解約をすすめてくれて払い戻された2千数百円の現金だった。

敗戦前ならこれだけあれば一家5人のくらしを2年は持ちこたえられたろう。 しかし敗戦後はソ連による「満州国資産」の強奪ともいえる自国への“搬出”や中国国府軍と共産党軍との内戦を予期させる混乱によって諸物価の値上がりが続いていた。

子どもたちは関東だきの屋台売りやねじりん棒の行商に手を出したがどちらも競争相手が多くて家計の足しにはできなかった。

長男の比呂美は同居していた若者にさそわれて機関区へ“石炭を拾い”に行った。 列車を編成する際に汽関車の罐(かま)でたく石炭を石炭車に積み込む。 その作業中にこぼれ落ちる石炭を拾ってくる、というのは名目で内実は“石炭ドロボウ”にほかならない。

何回目かに監視人につかまり深夜になってただ1人解放されて帰ってきたが、機関区のボスが好運にも哲二の下で働いていたリーさんだった。 リーさんは年2度の大掃除の時には手伝いに来て粟混じりの米飯を丼に3杯も4杯もおかわりする大食漢として子どもたちは親しんでいた。

敗戦翌年の3月から4月にかけて長春・奉天・ハルビンからソ連軍が撤退、中共軍が替わったが短期間のうちに国府軍の勢力下に入ると市内情勢は落ち着いてきた。

そのころから中国側は技術者や医療関係者を留用することを始めた。

旋盤の熟練工だった哲二も一時鉄道工場に呼び戻されて働いていたが4月に日本へ帰国できるという情勢になってきた。 46年4月23日に国民政府から日本人の遣送命令が出され5月7日には壺盧(ころ)島から引揚げ船が第1陣2400名を乗せて出港した。 長春の引揚げ開始は7月8日から始まり、留用を固辞した哲二は志津さんと4人の子どもたちを連れて南新京駅で引揚げ者用の無蓋貨物列車に乗り込んだ。 夜の寒さが身にこたえ始める9月21日の午後だった。

敗戦前後の約1年3か月の間、哲二・志津さんと4人の子どもたちの6人家族は何を口に入れて命をつないでいたのだろうか。

記憶に残っているのは敗戦後初めて食べたコーリャンだけを炊いたボソボソ飯と、荒天の東シナ海を航行する引揚げ者用の米軍の上陸用舟艇の船中で食べた少量の麦とコーリャン・干し大根葉・その他の混じった粥、それに広島で乗り継いだローカル線の車中で末っ子の娘が向かいの席にすわった老婆からたった1個恵まれた真っ白な握り飯の輝きだけである。

哲二・志津さん一家6人が哲二の郷里に着いたのは新京を出てちょうど1か月後の10月21日の朝だった。


この連載は今回で一応終わらせていただきます。機会と準備がととのえば、引揚げ後の志津さん一家のくらしの変換をたどってみようと考えています。


食の大正・昭和史 第百五回
2010年12月22日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第百五回

                              月守 晋


●疎開・敗戦

1943(昭和18)年春、哲二は早朝ドアをどんどんたたく郵便配達夫の声で起こされた。 速達は郷里の兄からのもので末弟人士の戦死を知らせるものだった。

人士は整備兵として搭乗していて戦闘中に乗機が撃墜されたのだった。 戦死して海軍兵曹長(へいそうちょう)に昇進されたと述べ場所はフィリピン沖とだけ書かれていた。

哲二は寝間着の上にインバネスを羽織り新京神社に向かった。

日本各地から「満州」に集まってきた満鉄社宅の住人はほとんど宗教とは無関係にくらしていた。 盆などの年中行事はもちろん先祖や親などの年忌を実行する家庭も数少なく神棚・仏壇を備えている家庭はごくまれであった。

そういうくらしを続けていた哲二が人士の戦死を知って何事かを“神”に祈らざるを得なかったのだった。

哲二は昭和17年の春、休暇を取ってわざわざ神奈川県横須賀の海軍鎮守府にいた人士に会いに行っていた。 結果的にこれが兄弟の最後の別れになった。

1944(昭和19)年になると日本の劣勢ははっきりと見えてきた。 ただ、ほとんどの日本人がそれを知らなかっただけである。

『少年の曠野』には「満州」での戦時情報には日系の新聞・ラジオの報道する「皇軍の連勝ぶりや聖戦の美談」などと「ノモンハンでの日本軍の惨敗や中国大陸での日本軍の民衆に対する蛮行エピソード、などのように邦人間にじわじわ流布されるウラ情報」、さらには現地人の間に伝わる「口コミ情報」の3つがあり、最後の口コミ情報は「軍部にだまされながら必勝を信じている日本人」には教えられなかった、と書いてある。

『満州走馬燈』(小宮清/KKワールドフォトプレス)にも同様の体験が語られている。 奉天(瀋陽)でくらし、お茶屋の下働きをしていたチャン少年と友だちになったキヨシ少年はチャンから「日本負ケルヨ、イバル人ターピーズニミンナ殺サレルネ」と聞かされる。 「ターピーズ」は「鼻の高い人」の意味でここでは「ロシア人」の意味である。

1945(昭和20)年8月9日、ソ連軍が国境を越えて「満州」になだれこんできた。 翌日ソ連機の空襲があり南新京駅付近で黒煙が上がった。

志津さんたち新京在住者には知らされていなかったが、前年の昭和19年7月29日の正午過ぎ四川省成都から飛来した米軍爆撃機B29によって鞍山製鋼所と奉天市が空襲をうけていた。 鞍山は9月26日までに5回、奉天も再度空爆されていた。

しかし、こういう情報は一般の日本人居住者には知らされていなかった。 新京の日本人は「無敵の関東軍が守ってくれる」と信じていたのである。

ところがその関東軍は大部分が南方戦線に送られて「満州」はガラ空き状態になっていたのである。 しかも関東軍は防衛範囲を朝鮮との国境を底辺として新京を頂点とする新京―図們、新京―大連を2辺とする三角形内のみを防衛すると決めていた。

つまり、この三角形外の地域に住んでいた開拓団民などは軍によって棄てられていたのである。 しかも軍は空っぽの部隊の穴埋めに開拓団の18~45歳までの男を根こそぎ動員したのである。

志津さんたちに疎開命令が下ったのは9日だった。 2月に吉林鉄道工場に転勤になり主人不在の一家の先導役は比呂美だった。

一家は11日午後、南新京駅から疎開列車に乗り、平壌(ピョンヤン)郊外の農村の小学校に翌々日に到着した。

8月15日、ここで日本の敗戦を知った。


食の大正・昭和史 第百四回
2010年12月15日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第百四回

                              月守 晋


●代用食

挽き割り大豆入りの外米ご飯の量をふやすために、小麦粉を水で溶いた中に残りご飯を混ぜてフライパンで焼くという志津さんの工夫は三男には断固拒否されて困らされた。

健康に育ちはじめていたとはいえ三男にはどこか神経症的なところが残っていて、匂いに敏感だし、見た目に気持ち悪いと思うと口に入れることを強く拒んだ。

たとえば米飯の食事に代えて手打ちのうどんを作って家族に食べさせたが、三男はそのうどんを長い虫のようだといって食べたがらなかった。

フライパンで焼いた残りご飯入りの“お焼き”も、そのご飯粒が白い虫のように見えるらしかった。

肉や食用油も統制で充分に入手することがむずかしくなってくると、哲二はどこからか白い脂分が1センチほどの赤身の上に4,5センチも厚く乗っている豚肉を手に入れてきた。

これを蒸し器でむして辛子醤油をつけて食べるのだが、不足しがちだった脂肪分を充分に補ってくれて零下20度を下回る冬を乗り切るエネルギーにもなった。

口に入れたときのぶよっとした感触を気持ち悪がって食べない三男を除いて、他の3人の子どもはみな喜んで口にした。 これは母親の志津さんも苦手で三男に強くすすめることができなかった。

学校から腹をすかせて帰ってくる子どもたちに食べさせるおやつにも困った。

冬にはじゃがいもをペチカの灰受けの中に入れて上から落ちてくる石炭の熱い灰で焼いて食べさせることができた。

焼けてくると部屋中にいもの焦げるいい匂いがただよってきて焼きあがるのを待ちわびる空きっ腹をグウグウ鳴らせた。

子どもたちはみなこの焼きじゃがが大好物だった。

ペチカと言えば釜山港や大連港にまだアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を心配しないで渡航できていた昭和17年の冬、哲二の郷里から梨が1箱送られてきたことがあった。

あいにく梨は厳しい満州の冬の鉄道輸送の道中で哲二・志津一家が住む新京の満鉄社宅に届いたときにはカチカチに凍ってしまっていた。 しかし子どもの1人がカチカチに固まった梨の実をペチカの壁に当てて解かすという方法を発見して初めて口に入れる日本産の果物を賞味することができた。 いわば天然のシャーベットといえたろう。

太平洋戦争が始まる以前の新京では、商店が立ちならぶ繁華な吉野町あたりへ行けば、カラフルな粉砂糖ののっている動物ビスケットや黒蜜のかかったねじりん棒などを買って子どものおやつにすることができたし月餅などの中国菓子も買うことができた。

ロシア人街まで行けば、本格的なチョコレートも手に入った。

眼けん炎というまぶたが厚く腫(は)れる疾患の治療でロシア人街近くの眼科に通った三男がこの街で吉野町あたりでは姿を消していた本格的なチョコレートを買って食べたことがあった。

それはトリュフと呼ばれるものだったろうと思われるのだが、豚肉1斤(約600グラム)が80銭に比して1個50銭と高価だった。 しかしともあれ金さえ出せば他のロシアケーキなども手に入ったのである。

豚肉は満州の生活では必需品で、満鉄社員消費組合を通じて手に入ると志津さんは哲二も子どもたちも大喜びするスキ焼を夕食の献立にした。

食べ盛りの男の子の食欲を満たすためには量を増やすことが必須で、志津さんは白菜や焼き豆腐、糸こんにゃくに加えてじゃがいもを大量に加えた。 豚肉と醤油、砂糖の甘辛い味のしみたじゃがいもを子どもたちはもくもくとたいらげたのである。


食の大正・昭和史 第百三回
2010年12月10日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第百三回

                              月守 晋


●挽き割り大豆・粟

「満州」は米作地帯ではなかった。

康徳8(昭和16)年版『年刊満州』(満州新聞社)によると康徳6年の水稲の収穫量は約70万トン、陸稲の10万トンを合わせても80万トン余にすぎない。

「満州」での米の栽培は日露戦争(明治37-8年、1904-5年)後に朝鮮半島から移住した人びとが始めたものである(陸稲は古くから現地農民によって行われていたが品質の悪い米しか採れないため普及しなかった)。 「満州」で採れる主要穀物は高粱(コーリャン)、粟、トーモロコシ、小麦で康徳6年の収穫量はそれぞれ457万トン、353万トン、247万トン、94万トンほどであった。

これに当時の世界生産量の約60パーセントを占めていた大豆が同年には約400万トン収穫されている。

日本人の主食である米は輸入に頼らざるを得ず、移民人口が増加するとともに日本内地や朝鮮からの輸入量が増えた。

日本内地では1939(昭和14)年4月に「米穀配給統制法」が公布され(10月1日実施)さらに41(昭和16)年4月1日から東京・大阪・名古屋・京都・神戸・横浜の6大都市では「米穀配給通帳制」と「外食券制」が実施され自由に米を買うどころか食べたいだけの量を食べることもできなくなった。 値段も政府が定める価格で売買しなくてはならない「公定価格制」が実施されるようになった。

そうなると内地米や朝鮮米の輸入に依存していた「満州」の食糧事情も影響を受けるのは当然である。

このころ錦州市でくらしていた『少年の曠野』の著者は1941年「4月1日、生活必需物資統制令が公布された。 米の配給量は欠乏感を持つまでにはまだいたらなかったが、前年9月の日本軍の北部仏印(フランス領インドシナ=現インドネシア)進駐いらい食べさせられるようになった「仏印米」には閉口した。 白っぽい砂がたくさん混じっているのだった。 一家6人で食卓をかこんで食事をしていると、順ぐりに砂を嚙むのである」と書いている。

さらに「後年、日本が仏印の農民から大量の米を取り上げ、それがために彼の地では多数の餓死者がでたと知った。 恨みをこめた砂もあったにちがいない」とも。

志津さんは配給米を受け取ると子どもたちを集め、食卓に米をひろげて砂を除く手伝いをさせた。

ひろげた米から米粒だけを1列ずつ砂を拾い込まないように注意してお盆に移していく。 辛気くさい作業だったが、砂を噛んだときのなんとも表現のしようのない情けない気持ちを味あわないためには子どもたちも真剣に手伝うしかなかったのである。

太平洋戦争が始まるとじりじりと食糧事情は悪くなっていった。 このころには現地の「満人=中国人」の米食を禁止して満人の主食はコーリャンと定められていたがそんなことで米不足が解消するわけはなく、戦争が中期に入った42(昭和17)年ごろからは挽き割り大豆や粟が配給に混じりはじめた。

太平洋戦争の戦局が日本の敗勢にいっきに傾いた「ミッドウェー海戦」はこの年、昭和17年6月5日のことである。

志津さんの次男は小学校3年のとき(昭和17年)、日本人の間では「肉まん」ともよばれていたギョーザを36個食べて志津さん夫婦をあきれさせたという記録を作ったが、やがて外食をする機会も途絶えていった。

志津さんは子どもたちの空腹を充たすために頭を悩ませたが、量をふやすために思いついたのが溶いた小麦粉に残りのご飯を混ぜてフライパンで焼くという方法だった。 だが、せっかくの知恵も三男にはだんこ拒否されてしまったのである。


食の大正・昭和史 第百二回
2010年12月01日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第百二回

                              月守 晋


●在満国民学校(2)
昭和16年の冬11月、三男が猖紅熱(しょうこうねつ)に感染して入院した。

猖紅熱は溶血性連鎖球菌(溶連菌)による感染症で2―4日の潜伏期の後40度を超す高熱、のどの痛みと扁桃のはれを突然起こし、2-3日後に唇の周囲を白く残して全身に紅い発疹(ほっしん)が出る。 舌も赤くはれ上がる。

当時は特定法定伝染病の1つで特効薬のペニシリンもまだなかったから治癒のむずかしい病気といわれていた。

感染するのは5-10歳の児童である。

猖紅熱の「猖」の字は想像上の動物で「髪長く顔赤く、その声は小児のごとく」と漢和辞典に説明されている。

発症した子どもの顔やからだが発疹で赤く変わっているのを見て「猖(しょうじょう)」を連想したのだろう。

猖紅熱と診断されると三男は病院車で新京医院内の伝染病棟に運ばれた。 哲二と志津さんが付きそった。

伝染病棟は昭和9年3月に設置されたもので、病室と見舞い人は病室の外側にある廊下によって二重にガラス窓で隔離されていた。 志津さんはその二重のガラス窓越しに三男に別れを告げた。 生きて再び会えることはないと覚悟したという。

三男もこの時の情景を、母親の思いつめたような表情とともにはっきり記憶していた。

しかし次の記憶は病状が回復に向かい発疹が乾いてウロコのようになってはがれてゆく時の痒(かゆ)さだけで、かきむしった足首から出血して看護婦さんにおこられたことぐらいであった。

病人が搬送された後の社宅は消毒のために衛生隊がやってきて大騒ぎになった。 志津さん夫妻は迷惑をかけたご近所にお詫びに回って歩かなくてはならなかった。

三男の入院は1か月以上の長期にわたり、その間に太平洋戦争の開始があって学校でも何らかの行事が行われたはずである。

たとえば新京神社への全校生徒による戦勝祈念参拝といったことである。 ちなみに新京神社は駅前中央通りに面しており学校からごく近い。 大正元(1912)年の造営で天照大神・大国主命・明治天皇が祀(まつ)られ5月15日と9月15日に大祭が行われていた。

『少年の曠野』の著者も書いているがこの頃の教師は何かにつけ生徒を殴った。

志津さんの子どもたちの中では次男がいちばん要領がよくてほとんど殴られることがなかったが、2年生になった三男は成績順に任命されていた班長として班員の罪に連座してよくビンタを張られた。

担任の男教師は2年生でしかない生徒の頬を平手ではなくゲンコツで殴り、殴られた生徒は2-3メートルもふっとばされていた。

教科の面でも軍国調が濃くなり、体操は剣道か相撲の時間になり4-5年生になると手旗信号の習得時間に変わった。
チビだった三男が意外にも剣道では面を取りにきた相手の胴を抜くという技を身につけクラス代表に選ばれるほどになったし、相撲でも大きな相手の股の間に首を突っ込んで持ち上げて倒すという奇襲技を編み出して20人抜きを達成してみせた。

音楽の時間は敵と味方の飛行機のエンジン音の違いを聞き分ける耳の訓練時間に変わり、図画の時間は色の明度・彩度の識別が中心の授業になった。 これも軍隊で役立つと教えられたが、具体的に何に役に立つのかは教えられていない。

虚弱児童で登校拒否気味だった三男はいつしか軍隊式の学校に慣れて、元気に通学するようになり志津さん夫妻を安心させた。

しかしこの頃には何を子どもに食べさせるかが、志津さんの頭を悩ます最大の難事になった。


食の大正・昭和史 第百一回
2010年11月24日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第百一回

                              月守 晋


●在満国民学校(1)
1941(昭和16)年4月、志津さんの三男が国民学校1年生に上がった。

この年の3月に日本本土で「国民学校令」が公布され小学校が国民学校と改称された。 満鉄の経営管理下にあった日本人小学校も内地並みに国民学校と改称されたのである。

引揚げ時にひそかに持ち帰った写真の1枚が三男の入学記念写真で、正面玄関で撮ったこの写真にも「新京西広場在満国民学校」という校名の看板がかかっている。

三男が組入れられたのは1クラスだけあった男子19名女子24名の混合クラスで、3月早生まれの児童や身体検査で虚弱と判定された子どもが集められていた。

女生徒の中に白系ロシア人の子どもが1人いて母親とともに写っている。

この特別クラスの生徒にはからだをじょうぶにするための特別の配慮がなされていた。

たとえば週に何回か昼食後に肝油を飲まされた。 とろりとした黄色の液体で、さじに1杯ずつ養護教諭の手で口に入れられる。

肝油はタラやサメなどの肝臓から採った油脂で野菜類の乏しい満州で生活する子どもたちに不足しがちなヴィタミンA、Dを補給する目的で与えられていたのである。

なんとも言えない生臭さが口一杯にひろがって吐き出しそうになるがぐっとこらえてゴクリと飲み込む。 飲み込むとドロップを1粒入れてくれる。 その甘味が嘔吐感を押さえてくれたのである。

冬期には「太陽燈」を浴びることになっていた。

新京の冬は10月にはやってきて翌年4月までつづく。 連日マイナス15-20度に下がり、時にはマイナス30度を超す冬期には子どもも家に閉じこもりがちになる。

『満州に適する健康生活』(前出)の著者も「満州育ちの日本人の子どもに骨の発育異常や歯の発育不良が少なくないのは冬期の新鮮な野菜不足とことに日光不足によるカルシウム不足」が原因だと指摘している。

学校での太陽燈による日光浴は虚弱児童に人工的に紫外線を浴びさせて体内のカルシウム不足を補わせるためであった。

太陽燈は円筒形の装置でパンツ1枚の裸になった子どもが中に入ると円形の天井部分の360度の方角から紫外線が放射される。 子どもは眼を保護するために黒いガラスのゴーグルをかけさせられた。

照射時間は30分程度だったろうか(記憶があやふやだが)、外へ出ると水分補給のために水を1杯飲まされた。

昭和16年当時の学校は志津さんの三男のような子どもにとっては楽しい場所ではなくなっていた。 この年の12月8日(日本時間)に日本の海軍機がハワイ・オアフ島のパールハーバーに集結していた米太平洋艦隊に奇襲をかけ太平洋戦争が始まったが、学校での軍国教育はそれ以前から実施されていた。

校門を入ると右手にコンクリート造りの小さな建物があり、その中に天皇・皇后の写真が納められていて登校してきた生徒は目に見えない写真に向かって深々と一礼するように教えられていた。

この建物は「奉安殿」と呼ばれていた。 

校内ではいつの頃からだったか朝、上級生や先生に会った時には軍隊式に挙手の礼をすることが決められた。

志津さんの三男は偏食のうえに胃腸が弱く登校後に便所が間に合わなくておもらしをしてしまったことが2度ほどあり、そのことも学校を好きになれない理由になっていた。

2年生に進級すると登校拒否状態になり、志津さんが三男の手を引っ張って校門まで送って行かなくてはならない日もあるようになった。


食の大正・昭和史 第 百 回
2010年11月17日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第 百 回

                              月守 晋


●首都「新京」でのくらし(5)―路上の食べ物
子どもたちが学校へ通うようになり、社宅街の街路や小公園で遊んだり児玉公園まで出かけて行くようになると、帰って来た子どもたちの口から街で見たさまざまなことが志津さんに報告されるようになった。

子どもたちの報告の中でいちばん多かったのは路上で売られている食べ物のことだった。

社宅街にも中国人の食べ物売りは入って来た。

1輪車の台の上に直径50~60cmはある大きな餅を乗せて売りに来た。 白い餅の上にあずき色のインゲン豆を2~3cmの厚さにのせて蒸した餅である。 餅が冷めないように何重にも白い(かつては白かった)布がかけられいちばん上に綿入れのふとんをかぶせてあった。

子どもたちに「買って!!」とせがまれても志津さんは断固として拒絶した。

綿入れぶとんはほこりと手垢で黒々と光っていたのである。

四つ角のちょっとした空き地に大きな鉄鍋を据えつけて肉団子を売る中国人もいた。

鍋は円筒の罐の上に載っていて中で油が煮えている。 火力は木炭だったろうか。 豚か鶏の挽き肉をピンポン玉ほどに丸めた団子をこの油の中に放り込んで客の見ている前で揚げてくれるのである。

こんがりと茶色に揚がった団子はいい匂いがして美味しそうに見えた。

志津さんはしかし、この団子を買うこともなかった。 志津さんや子どもたちの耳には「ワンズユダゴ」と聞こえる肉団子の肉が何の肉だかわからない。 正体不明のものは買わないのが子どもの健康を守る手段であった。

同じ油に鶏卵をばんと割って沈め、揚げ卵にして売ることもあった。

康徳6(昭和14)年当時で新京では鶏卵10個の小売値は77銭だった。 1個7銭7厘である(東京では5銭)。 前年には4銭8厘だったから1.6倍の値上がりである。

太平洋戦争開始後に物価は年々上がっていったから、子どもたちが街頭で見た揚げ卵の値段も1個10銭はしたのではないだろうか。

たびたび引用させてもらっているが『少年の曠野―“満州”で生きた日々』(影書房/照井良彦)にパンクした自転車の修繕を持ち込んだ自転車屋で、店主一家と店員たちが昼食にジェンビン(煎餅)を「とくに小憎たちは見ているこっちが憎らしくなるくらいたくさん」食べるのを見せられたと著者が書いている。

「ジェンビン(志津さんたちはチェンピンと覚えていた)」はいわば中国風の“薄焼き”または「クレープ」である。

材料は小麦粉にトウモロコシ粉、またはコウリャンの粉を混ぜたもの。

街頭のチェンピン屋は肉団子屋のと同じような罐の上に鉄鍋の替わりに厚い鉄板を載せている。

この鉄板で小麦粉+トウモロコシ粉(またはコウリャン粉、または3種類全部)を水で溶いて焼くのである。

直径30cmほどの大きさに焼けたチェンビンに生ネギや中国味噌をくるくると巻きこんでかぶりつく。

これは志津さんの衛生観念に照らしても合格で、子どもたちはたまに買ってもらって食べたのである。

トウモロコシの粉に少量の小麦粉を混ぜてねり、セイロで蒸した一種の饅頭(マントウ)もあった。 形は円すい形で、底のほうから空洞になっている。

志津さんの3男は苦力(クーリー、中国人労働者)が昼食に食べているところを見ていたことがあったが、この空洞にネギと味噌を詰めてかぶりついていた。 副食は生の茄子が1本だった。


食の大正・昭和史 第九十九回
2010年11月10日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十九回

                              月守 晋


●首都「新京」でのくらし(4)―伝染病
哲二・志津さん一家が吉野町の祝ビルから西広場露月町の満鉄社宅に移り住んだ康徳7(昭和15)年秋、一家は異様な体験をすることになった。

その日は『満鉄を知る十二章』(吉川弘文館)の記述によれば9月30日であった。

新京の9月は日本内地に比べると気温は一か月ほど早く落ちてくる。 新京の9月の平均気温は14.9℃、10月になると一気に6.7℃に下がる。 ちなみに神戸の9月は22.2℃、10月が17.2℃である。(『年刊満州』康徳7年)。

朝から灰色の雲に覆われていたこの日の午後夕方近いころ、街路1本へだてた隣接地域に黒煙と汚れたような朱色の焰が上がり、やがて黒灰色の煙が街区全体の空にひろがった。

黒煙と焰が何日続いたろうか。 後日、引揚げ帰国後に家族間でたまには満州ぐらしの思い出話にふけることがあるときまってこの日のことが話題になった。 5日間ぐらい、いや1週間は続いたよ、と記憶がそれぞれに異なっていて定かではなかったが。

この時の黒煙と焰は“三不管(さんぷかん)”と呼ばれていた三角地帯に発生したペストを制圧するために採られた“焼き払い作戦”によって寛城子地区が焼亡した時の黒煙と焰だったのである。

現在は「東北地区」あるいは「東三省」と呼ばれる「満州」の地はペストの汚染地区だった。

『満鉄四十年史』の年表に記載されているだけでも次のように繰り返し流行している

  明治43(1910)年  年末から流行、付属地内の患者数228名、全満で4万名。

  大正9(1920)年  この冬腺ペストが大流行し、北満だけで死者8千人。

  昭和8(1933)年  農安地区でペストが流行し1639人の患者が出る。

ペストは急性伝染病で感染すると高熱を発し心臓障害や運動神経に障害を起こす。 皮膚が乾燥して皮下出血を起こし紫黒色に変わるため“黒死病”と呼ばれていた。 致死率は60%以上90%に達することもある。

流行するのは感染したネズミの血を吸ったノミが菌を人間にうつすためで、明治33(1900)年には当時の東京市が予防のためにネズミを1匹5銭で買い上げるという施策を実施している。

新京市で志津さん一家が見た黒煙と焰は寛城子地区のネズミを退治するためだった。

寛城子地区は「三不管」と称されていたとおり満人(中国人)・ロシア人・日本人の混在する雑居地区であり、衛生面で必ずしも安全な地区ではなかった。

満州国政府と関東軍は“国都”新京に発生したペストを制圧するために寛城子の三角地帯をトタン板を内側に傾斜させて囲い込み、ネズミの逃げ路を遮断して区域内の家屋に火をつけたのである。

住民は生活必要品だけを持ち出すことを許されて区域外に追い出されたというが詳細はわからない。 『少年の曠野』の著者は「患者発生の家は、患者家族もろとも家を焼かれるといううわさがあった」と述べている。

この作戦を実行するために“満州国”内はじめ朝鮮や日本からも合わせて500余名の医師が集められ検診と予防にあたったといわれている。

指揮官は石井四郎軍医大佐。

この名前で記憶をよみがえらせる人もいるだろうが、細菌兵器の開発のために満人などを生きたまま実験に使ったといわれている“731部隊”事件で周知の石井中将である。

この年のペストは12月初めに終息した。 死者26名、治癒した患者1名。

“満州”全域の患者数は2548名だった。


食の大正・昭和史 第九十八回
2010年11月04日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十八回

                              月守 晋


●首都「新京」でのくらし(3)
人気の漫画シリーズ『釣りバカ日誌』の作者北見けんいちさんは新京に5歳ころまで住んでいて、児玉公園で迷い子になったことがあるらしい(『ボクの満州―漫画家たちの敗戦体験』中国引揚げ漫画家の会編/亜紀書房)。 公園の近くで母親が「伊勢丹」という食堂をやっていて、客は日本人の軍人ばかりだったという。 冬には公園の凍った池でソリ遊びをお父さんにしてもらったと漫画入りで書いている。

西広場小学校でも冬には校庭に20~30センチ高さのだ円形の土手を築き内部に水を張ってスケート場に変えた。 水は一夜でカチカチに凍り2、3日かけて表面を滑らかにととのえれば立派なスケート場に早変わりした。 スケートは生徒の必須科目でもあった。

釣り好きの哲二は休日によく児玉公園に釣りに出かけた。 観光案内パンフレット『新京案内』(昭和14年刊)には「1期4円の料金を納め」るとあるが哲二さんは正直に料金を払ってはいなかったろう。 児玉公園には日本人と満人(中国人)各4名計8名しか管理人がいなかった(『満鉄付属地経営沿革全史』下巻)し公園の面積は15万坪余りもあったから釣竿をたれていても管理人に遭遇することはめったになかっただろうからである。 

前にも書いたが小河川や湿地を利用して造られた新京の公園は児玉公園以外の大同公園、白山公園、順天公園、牡丹公園などみな親水公園か伊通河支流をせき止めた人工湖をもつ公園でとくに当時の市街南端に96ヘクタール余の水面をもつ人造湖、南湖を中心に造られた南湖公園(黄龍公園)は絶好の釣り場にもなった。

京都で新婚生活を始めたころちょくちょく競馬場に通っていた哲二だったが、新京にも競馬場があることを知ってたまに出かけることがあった。

新京競馬場は大同広場から西北に延びている興安大路が新京―南新京間の鉄道線路のほぼ中間地点を越えたところにゴルフ場と並んであり、4月下旬から10月下旬まで土・日曜日と祭日に真夏20日間の休催日をはさんで春から秋まで開催された。

馬券は5円で単複があり『新京案内』によれば康徳4(昭和13)年の「秋季第一次七日目第三レースの[大風]で736円の最高配当が出た」という。

すでに学校に通っている長男・次男を連れ出すのは教育上よろしくないとでも思ったのか、哲二は三男を連れて何度か競馬場に出かけ何度かは少額ながら賞金を手にしたようである。

幼児だった三男には大勢の人がいたこと、遠くのコースを何頭もの馬が走っていたことぐらいしか記憶に残らなかった。

競馬場まではたぶんバスを利用したのだろう。 市内には23路線のバスが走っていた。 料金は同一系統10銭均一か1区5銭の2通りあり、駅前から大同大街を経由して興安大路―南新京駅というコースもあって、この路線が競馬場に最寄りのコースだったろう。

さて、新京鉄道工場に転勤になったときの哲二の満鉄内での身分は給与が月俸で計算される職員ではなく日給月給に諸手当のつく准職員あたりだったろうと思われる。

生活は決して楽ではなかったが満鉄で働いているかぎり社宅が与えられ、食料その他市価より安く必需品を購入できる社員消費組合が利用できた。

新京での生活費は「東京に比較して大体七割ほど高い」と『新京案内』が紹介している。 これは昭和12年11月に満州中央銀行が調査したもので以下の通りである。

  それぞれ東京を100とした指数で新京では以下の通りである。

  穀食品費 152.7     光熱費   86.3
  住居費   251.3     被服費   159.0
  雑品費   141.4     修養娯楽 132.0
  総指数   169.3

  


食の大正・昭和史 第九十七回
2010年10月27日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十七回

                              月守 晋


●首都「新京」でのくらし(2)
満鉄は鉄道の付属地に舗装道路、ガス・水道・電気などのインフラ整備の資金を注入し社宅、学校、病院などの施設をととのえて居住地としての環境を充実させていった。

「満州国」の首都としての新京(長春)の都市建設は建国が宣言された1932年(昭和7)年に建国宣言とほぼ同時に開始された。

新都市建設は満鉄付属地と旧長春市街に接する北部地域から着手され1937年9月までの5年間に人口33万人の近代都市が誕生した。

新市街地には政府庁舎、官公庁ビル、中央銀行、三菱・東拓・東京海上など大企業関連ビルほか政府高官公邸や官吏住宅などが整然と建てられた。

志津さん一家がくらしていた吉野町は満鉄付属地内にあり、1年後に移った西広場露月町の社宅は吉野町の祝ビルよりさらに新京駅に近い付属地内に立っていた。

康徳6(昭和4)年版の『新京案内』には市街地の構成を旧付属地5平方キロ、長春城内8平方キロ、商埠地(しょうふち)4平方キロ、寛城子(かんじょうし;ロシア東清鉄道時代の付属地)4平方キロ、新市街79平方キロとあるが新首都新京の市街はこれらすべてを包含している。

祝ビルに住んでいた間に長男と次男は室町小学校(明治41〔1908〕年創設)と新京でただ一つの幼稚園だった室町幼稚園に短期間ではあったが通ったという。 『写真集さらば新京』の写真キャプションには室町小学校には「高等科・幼稚園・青年学校・家政学校が併設されていた」とある。

西広場露月町の満鉄社宅は煉瓦造りの外壁を白っぽくコンクリートで塗り固めた2階建てで、中央に階段があり左右に計4軒のアパート風住居だった。

同じ型の社宅は4棟しかなく、他の社宅はみな赤煉瓦の4階建て、2か所に階段をもつ1棟16軒の集合住宅で屋上がフラットなベランダになっていた。

新京駅前の北広場から放射状に南西に向かって敷島通りが延びており円形の西広場に達しさらに南下する。

駅にいちばん近い社宅街から「いろはにほへと」順に和泉町・露月町・羽衣町・錦町・蓬莱町・平安町・常盤町と町名がつけられ南北に西一条通り・西二条通り・西三条通りが走っていた。

志津さんたちの入った社宅は西の端の3丁目にあった。

西広場には市民に飲料水を供給する給水塔がありランドマークになっていた。 広場の西に接して哲二・志津夫妻の4人の子どもが通った西広場小学校があり、東側は敷島高等女学校で隣接して寄宿舎(杏花寮)もあった。

西広場小学校の通りを一つへだてて関東軍の建物(憲兵隊?)が洋式の躯体に天守閣の屋根を載せたような姿で異彩を放っていた。

満鉄付属地内の学校は満鉄が社員の子弟を日本内地並みに教育するために設置していったものである。 本社地方部に学務課を置いて教育事務全般を管掌していた。

志津さんの子どもが新しく通いはじめた西広場小学校は大正14(1925)年11月に開校した。 校舎は3階建て5教室だったが児童数の増加に応じて建て増しされ昭和10年現在児童数1200人22学級に拡大していた(『満州教育史』文教社/昭和10年)。

新京は緑地の多い都市で市の面積の12.2%が公園緑地で公園だけでも4.9%あった。

子どもたちは社宅から歩いて15分ほどの児玉公園(入り口に児玉源太郎大将の銅像があった。旧称西公園)に遊びにいった。

小さな河川をせき止めて池(潭月湖)を造り、周囲の草原を整備して野球場、陸上競技場(冬はスケート場になる)、温室、動物園、テニスコート、プールなどが造られていた。


食の大正・昭和史 第九十六回
2010年10月20日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十六回

                              月守 晋


●首都「新京」でのくらし(1)

志津さん一家が新京に移って最初に住んだのは吉野町の祝ビルの2階であった。

吉野町は『写真集 さらば新京』(国書刊行会)の写真説明に「東京でいえば銀座通りにあたる」とある。

新京駅前の北広場から東南に向かって日本橋通りが放射状に延びており、日本橋通りに交差するように北から富士町、三笠町、吉野町、祝町と繁華街が並んでいた。

祝ビルはどうやら吉野町と祝町の接点あたりにあったらしく、志津さんたちの住居の下は靴屋だった。

斜め前に白系ロシア人(1917年のロシア革命のときに皇帝側の立場に立った人々)のパン屋があった。 店主はたいへん日本語が達者で、長男の比呂美はよく父親の大きな下駄をはいてこの店へお八つのパンを買いに行った。 ほっくりと焼けたおいしいアンパンが1個2銭だった。

ビルの裏側には共同浴場があった。 銭湯ではなくビルの住人たちが共同で運営し利用していた浴場だった。

志津さん一家がこのビルの住人になったのは、満鉄の社宅に空室がなくこのビルの何室かを社宅用に借り上げていたためだと思われる。

引揚げ時にみどり子のリュックの底に隠して持ち帰ってきた写真の中にこの祝ビルで撮った写真が1枚ある。 42mmx58mmの小さな素人写真にはビルの裏階段に並んだ大人2人と子ども2人が写っている。

右端に写っているのが「宮井」と万年筆で記名がある女性でその左隣にみどり子を抱いた志津さんと三男が並んでいる。 帽子をかぶった三男の顔は階段のコンクリートの手すりに半ば隠れている。 宮井さんはひょっとしたら同じビルに住む満鉄社員の妻女かもしれないが、いまとなっては確かめようがない。

祝ビルでくらし始めた年の夏、志津さんと下の子2人とが昼寝をしていると突然ビルの窓が薄暗くかげりにぎやかな人声がした。 おどろいてのぞいてみると、前の通りを大きな象が歩いているのだった。 派手に飾り立てられた象は興業にきた木下サーカス団の象だったのである。

にぎやかな音といえば中国人の雑技団の一行が通ったこともあった。 ピーヒャラ・ピーヒャラと笛を吹き、ジャンジャラ・ジャンジャラ・ジャンと銅鑼(どら)を鳴らしてにぎやかというよりは騒々しい鳴り物入りで進んでくる一行は移動しながら逆立ち歩きをしたり前方回転をして見せたりしていた。

その中に50センチから2メートルもある棒を足にはいて歩いている芸人がいた。 「高脚踊り」という芸人たちで旧暦の正月である春節や端午の節句などおめでたい日に通りを練り歩いた。

     ピーヒャラ・ピーヒャラ ジャン・ジャラ・ジャン
     ピーヒャラ・ピーヒャラ ジャン・ジャラ・ジャン
     高脚踊りはジャン・ジャラ・ジャンのジャン

という歌を子どもたちはすぐおぼえたものである。

満鉄(南満州鉄道株式会社)は日露戦争終結後のポーツマス条約によって日本が獲得した東支鉄道の大連―長春間の運営を行うために設立した半官半民の国策会社であることは前に述べた(1906[明治39]年11月)。

鉄道には駅舎や線路、操車場など鉄道運営に直接関係する設備のため以外にも社員用住宅を建設する土地も含む「付属地」がついていた。

満鉄は社員用住宅地に大きな資金を投じて道路、上下水道、電気、ガス、学校、病院などコミュニティに必要な設備をととのえた。


食の大正・昭和史 第九十五回
2010年10月13日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十五回

                              月守 晋


●哲二の新京転勤

志津さん一家の鞍山ぐらしが2年になった昭和12年の年末に、一家に4人目の子どもが誕生した。赤ん坊は志津さん待望の女の子だった。

年子3人の男の子を育てるには、お兄ちゃんのお古を下の子に順々に着せられるという“経済な”面もあるけれど変化は楽しめない。 男の子に赤い物や花柄を着せるわけにはいかないのである。

哲二も女の子の誕生に相好をくずして喜んだ。 夫婦は相談して誕生日を翌13年の正月3日として届け出た。

年令を満年令で数えるようになったのは昭和25年1月1日からである(「年令のとなえ方に関する法律」の公布は24年5月24日)。 数え年だとたとえ12月生まれであろうと正月がくれば否応なく1歳年をとる。 みどり子と名付けたこの女の子が生まれた昭和12年ころはもちろん年令は数え年であった。

お嫁に行くとき1つでも若いほうがいいだろうと夫婦は考えたのである。

みどり子が1歳半になった昭和14年5月、哲二は新京鉄道工場に転勤を命ぜられた。

昭和7(1932)年に「満州国」が建国され翌年2月に「満州国有鉄道」の経営と建設・改修等を満鉄が請負うこととなった。 事業の拡大に伴って機構の改革・増設が行われ社員数も増え昭和12年(「満州国」年号では康徳4年)度末で社員総数は11万6293人(うち職員1万9011人、雇員1万5761人、傭員8万1521人)を数えた。

明治40年に開設された長春駅は昭和7年11月に「新京」駅と改称され、翌8年には朝鮮の釜山―京城間の鉄道が奉天についで11月に新京まで延長された。 つまり朝鮮を南北に縦断して直接新京まで往復できるようになったのである。

「満州国」の建設と同時に長春は国都「新京」と改称され首都としての都市建設が計画され12年11月に人口50万人の最終計画が定まった。

哲二・志津の一家6人が移り住んだ昭和14年には新京市街は主要な部分はほぼ建築されていたようである。

いま手元にある14年度版の奉天鉄道局発行の観光パンフレット『新京』を見ると、新京駅前の北広場から南へ一直線に中央通、その中央通が児玉公園(日露戦争時の参謀総長児玉源太郎大将にちなむ)の横で大同大街と名前を変えて直径300メートルの大同広場へ達し、さらに建国広場まで延びている。

新都市の幹線道路である大同大街の幅員は60メートルあり、10メートルの歩道+12メートルの車道+16メートルの遊歩道+12メートルの車道+10メートルの歩道となっていて歩道と遊歩道には街路樹が植えられた。

45メートル幅員の道路は16メートルの中央高速車道の左右にそれぞれ2.5メートルの樹林帯+6メートルの緩速度車道+6メートルの歩道という構造になっていた。 新京で最も幅の狭い道路は宅地と宅地の間の4メートルの背割道路でこの道路の下に電線やガス管、上下水道管が埋められ幹線道路には1本の電柱も立っていなかった。

南北に走る道路に「街」を付け東西方向の道路を「路」と呼んで区別したが、街路に植えられた樹林の景観と南湖公園や児玉公園など数多く造られた公園とによって森の都、緑の都市と呼ばれるようになっていった。

志津さん一家が新京へ移住したころ大同大街が広場を南下して大同公園と牡丹公園にはさまれるあたりの街路の車線と分離帯の中に新都建設以前からあった孝子廟が残されていて幟旗がひるがえっていた。

子どもたちが学校へ通い始めると長男が「あの廟は道路のじゃまになるので塚ごとつぶそうとして樹を切っていたら血のように赤い樹液が出てきただけでなく鋸切りを使っていた人夫が何人も高熱を出して死んでしまったんだって。 それで残すことにしたんだって」という怪談を仕入れてきて披露した。

地元中国人の信仰を尊重して残したのだろうが日本人学校にはこんな怪談が生徒たちの間に流布していたわけである。

志津さん一家が新京に移住して最初に住んだのは吉野町の祝ビルの2階であった。

            [参考] 『満州国の首都計画』越澤明/
            ちくま学芸文庫:『満鉄付属地経営沿革全史』/南満州鉄道総裁室


食の大正・昭和史 第九十四回
2010年10月06日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十四回

                              月守 晋


●哲二の満鉄入社②

残されている「社員証明(長春地区)」によれば哲二の満鉄入社年月は昭和10年5月である。 これは敗戦後の昭和21年7月に満鉄連絡事務所長平島敏夫が発行したもので引揚げの際に長春特別市公安局が発給した「居住證」などと共に持ち帰ったものである。 この居住證にはロシア文字の併記があるので国境を侵して南下してきたソビエト軍が長春の街をまだ占拠していた時期のものだろう。

平島敏夫は38(昭和13)年1月から42年1月まで満鉄理事を務め45年6月から副総裁の地位にあった人物である。 (『満鉄四十年史』)

昭和10年5月の入社ということは志津さんが幼児2人を連れて1月末に鞍山に到着し、2月初旬に第3子を生んで満州でのくらしをスタートさせて約3か月後のことである。

渡満する前に手紙でまだ製鋼所の臨時工として働いていると知らされていて、そのとおりの哲二の稼ぎを頼りに借家ぐらしを始めた志津さんには先行きのくらしに不安を抱えながらの日々であった。

それが思いがけず予想よりずいぶん早く満鉄入社が決まったことは夫婦にはこの上ない喜びだったし、安堵の思いも大きかった。

これでやっと人並みのくらしができると思った。 志津さんは早速、神戸の養母みきに手紙で知らせたのである。

昭和10年5月という時期に哲二が採用された背景には前回に述べた満鉄の事業の拡大とそれに伴う従業員の増員という方針が有利に働いたと考えられる。

満鉄に採用された哲二はどこに配属されたのだろうか。

哲二は10代半ばから旋盤の技術を習って身につけ、結婚後も京都市電の修理工場から国有鉄道の工場で働いていた。

市電時代の先輩小山さんを頼って鞍山へ渡ったのも旋盤の技術を生かせる職場を満鉄に求めたためである。

1935(昭和10)年12月1日現在の「満鉄組織一覧表」(『満鉄四十年史』)には鉄道部の下部組織に鉄道工場(大連)が記されているが鞍山にはそれらしきものはない。

機構を改革して鉄路総局とした36年10月現在の組織表では総局の下部の工作局に鉄道工場があり所在地は大連・皇姑屯・新京・哈爾浜(ハルビン)・松浦・斉斉哈爾(チチハル)が記載されている。

新京鉄道工場は4年後に転勤になった哲二が勤めることになる工場である。

組織表に記載はないが各駅には駅員がおり機関区や検車区・工務区といった日々の列車運行の保全に携わる要員が必要だったはずで哲二は鞍山駅で機関車や車両の修理作業に当たっていたのだろう。

満鉄に入社できると生活面でも恩恵があった。

まず第一に日常の買い物に「満鉄社員消費組合」が利用できた。

消費組合は「日常生活ニ必要ナル物品ヲ購売又ハ生産シ之ニ加工シ若ハ加工セスシテ組合員ニ分配スル」ことを目的とし、加入するには一口5円の出資金を支払えばよかった。 5円の出資金も第1回目に1円を支払い残額を1年以内に払い込めばよかったのである。

分配する品目として白米、塩、砂糖、醤油、味噌、薪炭、雑穀、調味料、漬物類、缶詰類、びん詰飲料類、小間物類、雑貨類、呉服及び身回品類、その他日用品及び季節物が挙げられている。 (『満鉄社員消費組合十年史』)

本部は大連にあり大石橋、鞍山、奉天、四平街、長春、撫順など14の支部があった。

奉天の義光街にあった満鉄社宅団地は全長100メートル近い3階建ての社宅棟があり、甲・乙・丙3種の社宅棟の表通りに面した甲1号棟の中央通路寄りに購売組合の店舗がありその2・3階が高級社員の社宅になっていたと『少年の曠野』にある。


食の大正・昭和史 第九十三回
2010年09月29日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十三回

                              月守 晋


●哲二の満鉄入社①

1929(昭和4)年10月に起きたニューヨーク株式市場の大暴落がきっかけで始まった世界経済恐慌は満鉄の経営にも重大な影響を及ぼした。

加えて(1)銀価の暴落、(2)満鉄路線と競合して並設された中国側鉄道の発達と世界の貿易不振による輸送貨物の激減、(3)石炭需要の激減による収入減などが満鉄の経営に打撃を与えたと『満鉄四十年史』はいう。

(1)の銀価については29(昭和4)年4月に金対銀の比率1:1であったものが7月末に金90円:銀100円、日本の浜口雄幸内閣が「金解禁」(金輸出の解禁)に踏み切った11月末に80円:100円、翌30年1月に70円:100円、5月末には50円台に下落し31年には年初から40円台になり2月中旬に41円の底値をつけたという。 満鉄の運賃は金建てだったから2年足らずのうちに2倍半もの値上げをしたのと同じことになったわけである。

満鉄ではこの苦境を打開するため30(昭和5)年6月と翌年7月に月給の高い社員(月俸80円以上)を中心に2900余人の人員整理を行った。

31年9月18日に奉天(現瀋陽)駅北方9キロの柳条湖で中国軍によって満鉄線路が爆破されたと称する事件が起き「満州事変」が始まった。 柳条湖事件は関東軍高級参謀板垣征四郎大佐らによる策謀だったことが明らかになっているが、満鉄は全社を挙げて事変の終息するまで関東軍に協力した。 「この軍事協力は32年3月の「満州国」建設、33年3月の「満州国有鉄道」の経営受託と新線建設、熱河進攻とつづく」と『満鉄四十年史』は記す。

満鉄経理部が32年5月に作成した「昭和6年度満州事変費総括表」によると支出総額430万2661円余のうち満鉄の純負担額は274万3185円余で、この年の営業収支のうちの総支出額の1.57パーセントに当たる、という。

「満州国」の建設後、紆余曲折をへて「満州国」政府は満鉄と北満鉄路(帝政ロシアが建設した東清鉄道の南部支線のうち長春<新京>-ハルビンまで、及びシベリアに接する綏芬河<すいふんが:露名ポクラニチナヤ>から東国境の満州里まで)の1732.8キロ以外の全鉄道を国有として満鉄に経営を委託した。

以後満鉄は既設線の規格統一・改修と新線の建設に着手するとともに35年3月には北満鉄路を買収した。 社内機構の改革も実施し、奉天に鉄路総局、大連本社に鉄道建設局を設けて事業の拡大に対処する。

鉄路総局に所属した人員のうち日本人従業員数の推移をみると次の表の通りである。

   年度     職員      雇員     傭員
1933     402       36      93
  34    1578     1949     594
  35    2846     3934     709
  36    4439     6282    2218
  37   10032     7580   20163

つまり満鉄が全満州の鉄道経営の主体となることが決定した年から従業員の増強を始めているのである。 増えたのは日本人従業員ばかりではなく中国人の雇員・傭員・その他の従業員も33年の35,046人から37年には75,376人へと増加している。

このような変革の中で満鉄の誇る特急「あじあ」号が34年11月1日9時大連駅を出発、途中大石橋、奉天四平街に停車して17時30分に終着駅新京に到着した。 701キロを8時間30分で走り、平均時速82.6キロ、最高時速は120キロに達した。

「あじあ」の機関車は蒸気機関車であり、世界で初めて全客車に米国製の冷房装置を備えていた。 最後尾に展望一等車がつき、35年9月からハルビンまで運行区間が延びると食堂車にはロシア人少女をウェイトレスとして乗務させた。 「あじあ」号は満州観光の華であり国威の象徴でもあった。

その「あじあ」号が39年10月から鞍山にも停車することになった。


食の大正・昭和史 第九十二回
2010年09月22日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十二回

                              月守 晋


●医者のすすめる“満州ぐらし”②

『満州に適する健康生活』の著者牛久医学博士は「満州に於ける日本人の健康状態を見るに、結核や急性伝染病を始め其の他種々なる疾病に対する罹病率は、内地の夫(それ)に比較して非常に高」い、それは「満州の気候風土が直接原因ではなく、・・・・・・気候風土の異なる満州に於て、内地と同様の生活様式を続けて居った」ことに原因があると説くのである。 「和装を廃して支那服を採用すべし」という博士の提唱はこの信念から出たもので「郷に入っては郷に従へ」の諺のとおり「満州の自然環境の特殊性を認識しその特殊性に順応した合理的な生活を送らなくてはならない」という。

和装を支那服に替える、などという主張はしかし受け入れられるべくもなかった。 満州に移住していた日本人の大半は支那(中国)人に対して強い偏見を持っていたし蔑視してもいたからである。

博士の主張は住宅にも及んでいる。

満州に移住する邦人(日本人)の服装を洋服にせよと叫ぶ一方で和服を棄てられず日本人特有の二重生活を続けているが住居も同様で、レンガ造りの様式建築に畳を持ち込むことはできるだけ限られた部屋にとどめたほうがよいという。

畳には便利な面もあって、かつて日本が統治していた台湾には日本人が持ち込んだ畳の生活を便利に取り込んで生活しているという例をTVドキュメンタリーで見ることもあるし、欧米人の一部に積極的に畳とふとんのくらを実践している人たちのいることもニュースになったりしている。

満州の日本人も畳ぐらしの融通無碍さを捨てることはできず、哲二・志津さん一家が何度か転居を繰り返した満鉄の社宅も外観は立派な洋式建築だったが内部は4畳半・6畳・8畳の畳敷きの和式空間であった。 日本でのくらしとの唯一の違いは火鉢や囲炉裏に替わってペチカが構造体の中央にすえつけられていたことである。

日本人が満州のくらしでいちばん不便を感じたのは緑色の野菜の少ないことだった。

牛久博士は“在満邦人(満州に居住する日本人)”に必要な食生活の改善に関しても多くのページを割いている。

博士が第一に挙げているのはカルシュウム不足である。

その原因は冬期の日光不足と新鮮な野菜の不足に加えて糖分の過剰摂取にあるという。 内地の児童に比して満州の児童は冬の間に大幅に身長を伸ばす例が多いが、これは家屋の構造上、冬の室内温度が高く暖いためであるという。

しかも栄養面では蛋白質と糖分の過剰摂取によって身長だけが伸びる。 骨の質が軟弱な狭長型体質(胸幅のせまいひょろ長い体形)の児童が満州に比較的多いのはこの理由によるというのである。

さらに白米食や野菜・果物類不足によるヴィタミン不足、酸性食品に偏った食事内容によって起きる乳幼児の発育不全、こうしたもろもろの要因が重なって結核その他の感染病に対する抵抗力も弱くなるというのである。

博士は他にも齲齒(うし:虫歯)の多いことも指摘している。

日々の食事の栄養上の欠陥を補うためには博士が挙げているようにほうれん草・大根菜などの青菜類や人参・かぼちゃ・甘諸・大根・かぶ・ばれいしょ・れんこんなどの根菜にみかんなどの果物・さらにはキャベツ・白菜・ねぎなどの葉菜類を毎日の食事で欠かかさぬようにしなくてはならない。 

しかし満州では大豆、白菜、かぼちゃ、ばれいしょ、ねぎ、にんにく、唐芥子以外の野菜類を志津さんが目にすることはめったになかったのである。


食の大正・昭和史 第九十一回
2010年09月15日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十一回

                              月守 晋


●医者のすすめる“満州ぐらし”①

志津さんが臨月の身で2人の子どもを連れて3泊4日の船旅を無事に乗り切って大連で哲二に迎えられ、鞍山の借家に落ち着く間なしに第3子を生んで始まった親子5人の“満州ぐらし”は志津さんには戸惑うばかりの毎日だった。

幸い頼りになる小山さんの奥さんがいたので、何かと教えてもらいながら乗り切る毎日であった。

志津さんには“満州ぐらし”に対する予備知識はまったくなかったという。

「満州国」の建国宣言は昭和7(1932)年3月1日である。 この時、清朝最後の皇帝(宣統帝)だった愛新覚羅溥儀が摂政に就き年号を大同元年とした。 翌々(昭和9)年3月帝政を実施して摂政溥儀は皇帝となり年号を康徳と改元する。 摂政溥儀は康徳帝と呼ばれることになるわけである。

満州国の建国宣言が行われた昭和7年10月に日本からの武装移民団の第1次移民425名が佳木期(ジャムス、三江省樺川県)に、翌8年7月に第2次移民455名が佳木期の南東56キロの永豊鎮に入植した。

ところが両移民団ともに現地の武装した抗日集団の激しい攻撃を受け、ことに第2次移民団は目的の永豊鎮には入れずさらに南20キロの七虎力に、そこも追撃されて湖南営へと入植地を移した。

現地の抗日武装集団を鎮圧するために関東軍は航空機まで飛ばすことになったのだが、むろんこうした情報は志津さんたちのような一般人のもとには届いていない。

農業移植地の北満に比べれば志津さん一家のくらし始めた鞍山は平穏無風の日本企業が万事を取り仕切る城下町であった。

しかし、志津さん親子が移住した鞍山の2月は神戸生まれ神戸育ちの志津さんがかつて経験したことのない寒さだった。

満州新聞社発行の『年鑑満州』(康徳8<昭和16>年版)によると、後に志津さん一家が移り住む新京(長春)の2月の平均気温はマイナス12.5度、神戸のそれは4.5度である。 新京からは鉄路で約400キロ南に位置するとはいえ「冬の寒い時は零下20度を超える。 20度を超えると寒いというより痛い。 素手で金物を握ると皮がくっついて離れなくなる」(『満州の「8月15日」』)という志津さんには経験のない寒さであった。

『満州に適する健康生活』というハウトゥー本が大連市の書店から昭和15年9月に発行されている。 B6判260ページほどの小著ながら中味は濃い。 著者は現地で永く医療にたずさわった経験をもつと思われる医師(医学博士)である。 満州医科大学長の序文がついているところをみるとこの大学の卒業生かあるいは付属病院の勤務医だったか、いずれにしろ満州で健康にくらしていくための対処法に通じた専門家である。

まず取り上げられているのが気候で、1年の約3分の1を占める快晴日数の多さ(東京56日:大連・新京110日)と降水日の少なさ(東京146日:大連78日)をあげ、乾燥した空気、3~5月に起きる蒙古(もうこ)風について触れている(蒙古風は黄砂のことである)。

満州の気候は海洋の影響を受ける遼東半島付近を除き寒暑の差のいちじるしい「大陸気候」だから服装もそれに合わせなくてはならないと博士は説く。

博士が提唱するのは防寒防暑に適している支那(中国)服の採用という大胆な案で、中国服はからだにぴったりではなく肌との間に空気を取り込む構造になっているため防寒防暑の両方にすぐれているというのである。 しかも活動的で満州では和服よりはるかに理想的な衣服であると。


食の大正・昭和史 第九十回
2010年09月08日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第九十回

                              月守 晋


●鞍山でのくらし(2)

鞍山市北四条町の借家で満州での生活をスタートさせた志津さんは昭和10(1935)年2月初めに15分の安産で第3子の男児を出産した。

志津さんの第3子出産と同じ年同じ月に製鋼所職員として鞍山に入った数納勲郎は、北六条の社宅に新妻と共に落ち着いた。 社宅は6畳に4畳半二間の3部屋で風呂がつき、床から天井に届く丸型のペチカが3つの部屋の角にあって暖炉になっていた。 燃料はコークスか石炭である。 (『親と子が語り継ぐ 満州の「8月15日」鞍山・昭和製鋼所の家族たち』田上洋子編/芙蓉書房出版)

便所は汲取式で、冬にはカチカチに凍り固まった糞尿をツルハシで割って取り出す。

部屋の窓は二重窓になっていて、室内の空気を入れ換える小窓がついていた。

鞍山の冬は寒さが厳しく零下20度を超える日も少なくない。 社宅にはジャガイモや玉ネギを凍結から守る貯蔵庫が台所に付設してあった。

青物野菜がほとんど手に入らない冬期のカボチャは欠乏するビタミンを補給するためには欠かせないもので、どの家庭でもまとめ買いして貯蔵していた。

冬の鞍山でくらし始めた志津さんを困らせたのは日常の買い物だった。

『少年の曠野』には「日中は男っ気のない女こどもばかりの閑静な北十一条の住宅地に顔なじみの中国人ご用聞き、配達人、物売りなどがけっこう足しげく出入りした」とある。

照井少年の家ではリアカーで運んできた魚を中広場で売る魚屋から“衛生上心配のない”干物や塩イワシを買ったり、勝手口にキャンデー類の見本の詰まったガラスケースを持って注文取りの中国人親子が立っていることもあった。

他にも飴を切るハサミの音をチョンチョン二拍子に鳴らしながら売りに来る朝鮮飴売りや、ゆったりしたバリトンの売り声を聞かせる白系ロシア人の老人のパン屋もこの区画にやってきた。

志津さんはどこで毎日の食料品や日用品を買っていたのだろう。

近くに商店があったとしても日本人が必要とする品物は高価だった。

「日本人商店はサービスが悪かった上に、商品の値段も高かった」という(『満州の日本人』塚瀬進/吉川弘文館)。

たとえば東京で大16銭、小14銭の懐中電灯を大連で大50~70銭、小40~60銭で売り運賃がかかるためだと説明していたと同書はいう。 しかも彼らは中国人を客とは思っていず、中国人相手の商品をならべている日本人商店はなかったのである。

しかし対照的に中国人商人は日本人に買わせるように商売をしていた。 1920年代には小売商以外の床屋、洋服製造業、洗濯屋、料理屋など職人的な技術を要する業種でも中国人の店が日本人客を奪うようになった。

日本人店で技術を修得した中国人が独立して日本人に勝る品質・サービスの商品を提供するようになったためである。 日本料理の板前も気位と賃金の高い日本人に替わって、腕は確かでも給料の安い中国人に取って替わられた、という。(同書)

満鉄では物価騰貴に対処するため1919(大正8)年に満鉄消費組合を作り米、味噌、醤油、砂糖、漬物、茶、清酒などの生活必需品を供給して社員の生活の安定を計った。

この組織は各地の日本人商人や商工会議所の猛反対にあったために、会社から分離して社員自主運営の「満鉄社員消費組合」として25(昭和元)年に再出発した。

組合の販売価格は市中価格より8%も安く28年の組合員利用率は月収の45%に相当するほどに成長した。(『満鉄を知るための十二章―歴史と組織活動』天野博之/吉川弘文館)。


食の大正・昭和史 第八十九回
2010年09月01日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十九回

                              月守 晋


●鞍山でのくらし(1)

大連港の埠頭まで迎えに来ていた哲二に連れられて志津さん母子はバスを乗り継いで満鉄大連駅から連京線で鞍山に向かった。

父親に久しぶりで対面した子どもたちは、長男はすぐになついて膝の上に乗ったのに次男はちょうど人見知りする時期に当たっていたこともあって、父親と顔を合わせると泣きぐずって志津さんを困らせた。

大連から鞍山まで急行だと4時間36分、普通列車に乗ると8時間10分かかった。 運賃は2等8円60銭、3等4円75銭。 急行料金は500キロメートルまで1等3円、2等2円、3等1円、800キロメートルまでは各4円、2円50銭、1円25銭が必要になる。 

鞍山についた当座1週間ほどは小山さん宅でお世話になった。 小山夫妻はどちらもからだつきに似て鷹揚なあたたかい人柄だった。

その間にかねてから頼んであった借家が見つかった。 借家は小山さん宅の近所で、造り、間取りも小山さん宅と同じで庭にはこれも付近の昭和製鋼所の社宅同様風呂小屋がついていた。

借家に移って間もなく、昭和10(1935)年2月の初めに志津さんは第3子を出産した。 子どもは今度も男の子だった。 お産はごく軽く15分ほどですみ産婆さんも立ち会った小山の奥さんも、転居してすぐに雇ったニーヤも驚いた。

「ニーヤ」は中国人の「姑娘(クーニャン)」のことで、中国人の少女を安い賃金でお手伝いとして雇うことができた。 志津さんの記憶に誤りがなければ「1か月50~60銭」という安さであった。 それほど中国人少女には現金収入の途がなかったということかもしれない。

  <注>当時日本人は中国の人びとを「満人」と呼んでいた。

新しく借りた家は鞍山市北四条町にあった。

1932(昭和7)年生まれというから志津さんの長男と同い年になるわけだが照井良彦さんの『少年の曠野―“満州”で生きた日々(影書房/‘97)』に1937(昭和12)年から3年半住んだ鞍山でのくらしの思い出が語られている。

旅順(日露戦争最大の激戦地)で生まれ、教員だったお父さんの転勤に従って安東(鴨緑江をはさんで朝鮮半島に接する満州側の都市、現丹東)から鞍山に引っ越したのである。

照井一家が鞍山で最初に与えられた社宅は北十一条の「部屋数の多い二階建ての広壮な構え」の住居だった。 鞍山高等女学校に国語・漢文の教師として赴任したお父さんの身分が満鉄社員だったからである。

ちなみに満鉄組織の「地方部」所属の高等女学校は他にも奉天浪速、奉天朝日、新京、安東、撫順の5校があった。

北十一条の住宅は「舗装道路で囲まれた四方形の区画」で周囲をポプラとアカシアの並木が囲み、各社宅は四方の舗装道路に向かって玄関、内側に勝手口があり、社宅が囲む中側は中心にアンズの巨木のある木立ちになっていた。 社宅の子どもたちは「中広場」と呼ぶこの内庭で遊んだ。

その十一条の社宅を背景に撮った一家の写真が掲載されているが、なるほど煉瓦造りの立派な建物が写っている。

しかし2年後の39年春、一家は北十一条の社宅を内地(日本国内)からやってきた「地位の高い人」に明け渡し南一条の社宅に移る。 この社宅は「チマチマとした日本人街の一角に」あり、猫のひたいほどの庭がついていた。

しかしさらに一家は著者が小学2年のとき、南一条の社宅からも追い立てられ南三条の社宅に移される。 新築だったが中央階段で左右に振り分けられた2階建て4戸造りの集合住宅で、転居するたびに部屋が狭くなっていったのであった。

この2階建て4戸造り構造の集合住宅は、後に志津さん一家が住んだ新京の満鉄住宅と同じ造りである。


食の大正・昭和史 第八十八回
2010年08月25日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十八回

                              月守 晋


●志津さんの渡満 - うすりい丸(2)

昭和10年2月に大阪商船が発行した『日満連絡船案内』によると「三等室は小奇麗な絨毯(じゅうたん)を敷詰めた平座敷を多数の小座敷に区画」してある、と説明してある。

3等船室はふつう船底に近いエンジン機械室や貨物室に接するように作られている。 この室内パンフレットにもそう思わせるような、「通風採光には特に意を用ひ電動換気装置もあり、電燈、電扇(せんぷう)機、暖房器も完備し」という記述がある。 つまり、薄暗く風通しの悪い船室をできるだけ快適に過ごせるよう配慮されている、ということだろう。

644名の3等船室をどれほどの数の小座敷に収容したのかはわからないが、乳幼児を連れて臨月間近と見えるお腹をかかえた妊婦を他の乗客と相部屋にするとは思えないから、志津さんたちは親子だけで過ごせる小部屋を与えられたはずである。

うすりい丸など神戸―大連間の定期船の航程は次のように設定されていた。

  第1日 神戸 正午発
  第2日 門司 早朝着 正午発
  第3日 海上
  第4日 大連 午前8時着

       *11月より3月までは午前9時着

11月から3月まで大連到着が1時間遅れるのは、冬の海は荒れるせいだろう。

船に持ちこめる手荷物の量は船から満鉄の鉄道に乗り継ぐ乗客の場合、2等船客113キロ、3等船客は68キロに制限されていた。むしろや菰(こも)で包んだ物、箱物などは受け付けてくれない。

志津さんは鞍山に落ち着いて後に必要になる品々を前もって哲二宛に発送してあったから自分と子どもの着替えやおむつ、ミルクなど最小限のものを持ち込んだだけであった。

船内の食事は「案内」によると「一等は洋食、二・三等は和食」を供されることになっている。

どのような洋食が提供されたのか、「ニ・三等は和食」といってもどんな料理だったのか、具体的なことはまったくわからない。 2等と3等の船客の間では当然献立に差があったはずだが、志津さんの記憶も定かではなかった。

「案内」には「新鮮な材料を選び、調理を吟味し」とあるのだが。

5円のチップをはずんだおかげで“女のボーイ”さんが子どもたちを風呂にも入れてくれて志津さんは大変助かったという。

長男は誕生前から歩き始め、この連絡船に乗ったころには活発に動き回っていたから“女のボーイ”さんの存在は大きかった。

志津さん母子を乗せたうすりい丸は予定通り、神戸のメリケン波止場を出航して4日目の朝大連港の埠頭に横づけされた。

当時の大連港は4本の埠頭をもち、一時に34隻の船舶を係留する能力をもっていた。

小さな村にすぎなかった大連を商業港として開発したのはロシア帝国である。 大連という地名もロシア語の「ダーリニ―(「遠隔の」という意味)」にちなみ1904(明治37)年5月この地を占領した日本軍が翌年2月に「大連」と改称したものという(『満鉄四十年史』)。

港の構築も市街の設計もロシア帝国の立てた青写真を踏襲して建設が進められた。

志津さん母子のうすりい丸(この船名は満州とロシアの国境を流れる烏蘇里江にちなむ)が入った埠頭には満鉄の線路が引き込まれていて、運んできた船客の荷物や貨物を列車に直接移せるようになっていた。

また特徴的な半円型の屋根をもつ埠頭エントランスを入ると、5000人の客を収容できる待合室がつづいていた。

大連に入港した船の乗客は埠頭を8時30分に出る大連駅行きのバスの便があり、10分ほどで満鉄連京線の始発・終着駅である大連駅に行けたのである。


食の大正・昭和史 第八十七回
2010年08月18日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十七回

                              月守 晋


●志津さんの渡満 - うすりい丸(1)

志津さんが哲二のあとを追って満州に渡ったのは1935(昭和10)年の歳が明けて10日もたたないときだった。

満2歳半の長男の手をつなぎ、背に1歳3か月の次男を背負っていた。 志津さん自身のお腹には臨月間近な赤ん坊が宿っている。

神戸の港まで養母みきと、当時結婚して大阪に住んでいた姉のフサが見送りにきてくれた。

気丈なひとで他人に涙を見せたことのなかった養母のみきも姉のフサも、「もうこれが最後やな、生きているうちには二度と会えんワ」と志津さんの肩を抱いて泣いた。

フサは「姉」として共に育ったが、何度か説明したように生母みさの妹たちの1人であり事実上は「叔母」に当たる。

大阪の紡績会社に若い時から勤めたフサは志津さんが小学校を卒業する時や三菱造船に勤め始めた時など節目節目に着物や羽織などを買って送ってくれた優しい姉であった。

そして2人が泣いたように、志津さんはこの2人と生きて再び会うことはなかったのである。

昭和10年当時、満州へ渡るには新潟から汽船で朝鮮半島北東岸の清津港に渡り鉄道に乗り換えて満州に入る圣路、下関から関釜連絡船で朝鮮の釜山に渡り、鉄道で朝鮮を縦断し新義州から鴨緑(おうりょく)江を渡って満州側の安東に入る圣路、そして神戸港からの連絡船を利用する圣路があった。

大阪商船株式会社が満州への定期航路を就航させたのは明治38(1905)年1月のことである。 前年2月に始まった日露戦争のさ中で日本軍が遼東半島南端の旅順を落とした直後という時期である。

就航開始当時は舞鶴丸の週1便だったが翌明治39年には4便(大義丸、大仁丸、鉄嶺丸、開城丸)に増え、42年には南満州鉄道と連絡するようになった。

志津さんが2人の幼児を連れて渡満した昭和10年当時は8188トンの扶桑丸をはじめ吉林丸、熱河丸、うらる丸など10隻の大型客船が就航していたのである。

志津さん親子が乗船した「うすりい丸」は6386トン、航行速度18海里(ノット≒1850メートル)、昭和7年に就航したばかりの新造船だった。 エンジンはタービンである。

ちなみに昭和12年現在で「神戸―大連線」は就航船10隻で月に25回渡航している。

うすりい丸には1等特別室、1等、2等、3等の客室があり、定員は1等が65名、2等105名、3等644名だった。

客室のほかに食堂、談話室、喫煙室、バー、碁・将棋・麻雀台を備えた娯楽室、読書室、デッキビリアードなどがそろっていた。

料金は1等特別室が国内一大連間70円(神戸―門司間30円)、1等客室の神戸―大連間65円、同2等客室45円、3等客室19円、小児運賃が12歳未満は半額、4歳未満は1人に限り無料、2人目からは4分の1の額となっていた。

志津さん親子が乗ったのはむろん3等客室である。 乳幼児とはいえ子供が2人なので、志津さんの分19円に4分の1の4円75銭、計23円75銭を支払ったのである。

志津さんは係の“女のボーイさん”(と志津さんは言うのだ)に乗船早々にチップとして5円を手渡した。

“弟”の竹治さんの忠告に従ったのである。 竹治はこの頃大阪商船の乗員をしていて、うすりい丸にも乗ったことがあり、船旅の事情に通じていたのである。

おかげで志津さんの船旅は快適だった。 おむつの洗濯、赤ん坊のミルク造り、長男の遊び相手と何から何までやってくれるのでゆっくり休養できたのである。
 


食の大正・昭和史 第八十六回
2010年08月11日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十六回

                              月守 晋


●「満州」そして「満鉄」

「満州国」の建国が宣言されたのは志津さんと哲二夫妻の間に第1子が生まれた1932(昭和7)年3月1日である。 3ヶ月後の6月に夫妻の長男比呂美が誕生した。

「満州(以下、「洲」は「州」と表記)」という名称は中国東北地方の限られた地域に居住していた南方ツングース系の女真(じょしん)族の呼称であり、同時に半ば遊牧生活を営んでいたこの部族の生活域をも指していた。

清朝(1616-1912)初代の太祖ヌルハチは建州女真の出身であり、その勢力圏の拡大とともに「満州」の地域もひろがり奉天・吉林(きちりん)・黒龍江の3省に及んだ。

日本帝国と軍部が清朝最後の廃帝・宣統帝を満州国の執政(32年)から皇帝に即位させたとき(34年)満州国の領域はさらに北は黒龍江(アムール川)をはさんでソビエトに、西北境はモンゴル、西南と南境は中華民国領に接する範囲にまで拡大している。

中国はもちろん「東三省を武力で侵略してたてた傀儡国家」であるとして「偽満州国(ウェイマンチュウグオ)」と呼び一貫して認めていない。

哲二が鞍山に渡った最終目的は京都市電や日本の国鉄で身につけた旋盤の技能を生かして満鉄(正式名称は「南満州鉄道株式会社」)で働くことであった。

満鉄は哲二が鞍山に渡った1934(昭和9)年の11月1日に、特急「あじあ」号を初めて走らせた。 時速83.5キロメートル、大連から新京までの701キロを8時間30分で走行した。 最高時速120キロは当時、世界最速といわれた。

流線型のスマートな車体は淡緑色に塗装され、下部に白線が1本通っていた。 客車は展望1等車(4分の1が展望室、2分の1が定員30名の座席、読書室、化粧室、荷物室を備える)、2等車(定員38名)、3等車(定員44名2両)、食堂車(定員36名)ほかに手荷物、郵便車がついた。

あじあ号の客車には全車両に冷暖房と湿度を調整する空気調節装備が備えられていた。 これも世界初と誇れる設備だった。

「満鉄」は略称で正式名称は「南満州鉄道株式会社」である。 創設は1906(明治39)年11月で哲二と同じ年に生まれた。 当初の資本金2億円のうち半額を日本政府が出資し“半官半民”の会社といわれたが実態は国策会社である。

基盤となったのは1905年、ポーツマス条約(日露戦争の講和条約。 米ニューハンプシャー州ポーツマスで調印)によって清国の承認後にロシアから得た東清鉄道(旅順―長春間)及びその支線・付属権益・特権・財産・撫順等の炭鉱経営権であった。

これ以後資本金を29(昭4)年に8億円、40(昭15)年には16億円と増強した満鉄は鉄道と鉱工業を中心に多岐にわたる産業部門の子会社・関連会社を傘下に収め“満鉄王国”と呼ばれる巨大コンツェルンに成長した。

この間、主権者である中国側が黙視していたわけではもちろんない。 1920年代には排日運動が高まり、満州の地方軍閥は満鉄の路線に並行する新鉄道線を建設して対抗した。

満鉄は新京(長春)以北の新京―ハルピン間やシベリア地方に接する満州里―綏芬河(すいふんが)間などの北満鉄路(東支鉄道)を35(昭10)年にソ連から買収、満州全土をカバーする鉄道網を完成した。

「満州国」と「満鉄」の成立前には日清戦争・日露戦争以来の長い“前史”がある。 1931(昭和6)年8月18日の満州事変はその最終幕といえるだろう。

その前史をここで詳述することはできないしその任でもない。 しかし今後の日中関係に多少でも関心のある方は両国の近現代史に多少とも目を通していただきたいと希望している。

 [参考] 『忘れえぬ満鉄』国書刊行会
      『満鉄四十年史』満鉄会/その他


食の大正・昭和史 第八十五回
2010年07月28日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十五回

                              月守 晋


●鞍山製鉄所

満鉄の鞍山製鉄所が銑鉄の販売を開始した1919(大正8)年には第1次世界大戦のさ中だったので価格が高騰しトン当り125円だったが、大戦が終結した20年には77円、翌21年には46円に暴落したと『満鉄四十年史』(財団法人満鉄会編/吉川弘文館/2007年)が述べている。 「予定していた製鋼工場の建設は中断され……第二高炉も19年度中に完成したが操業を見合わせ……」という状況に見舞われたと。

もともと鞍山の鉄鉱石は鉄鋼含有量が40パーセント以下という貧鉱だった。 これを製造現場所員の研究が実を結び特許を取得した「還元焙焼法」によって乗り切り、第二高炉も稼働させることによって20年に91円19銭だったトン当り生産コストを第二高炉稼働後の28年には28円52銭にまで引き下げることができたという。 蘇崇民(元吉林大学日本研究所教授)の『満鉄史』によると毎年、日本政府から100万円の補助金が下付されていた、と書かれているが、鞍山製鉄所は創設時から官営の八幡製鉄所の支援を受け初代所長も八幡の技師であり、操業開始時に百数十人の八幡の熟練工が家族とともに移住してきていたのである。

しかし赤字体質に変わりはなく、生産を開始した1919年から1933年の15年間のうち黒字を計上したのは28年と29年の2年間だけで、15年間の累積赤字額は3321.6万円に及んでいる(『満鉄四十年史』)。

こうしたなかで製鉄所の組織改編がこころみられたが満州国の建国(1932[昭和7]年3月)以後の33年、鉄鋼を一貫生産する昭和製鋼所となり、37年には満州重工業開発株式会社の系列下に入っている。

むろん、こうした実情を把握したうえで、哲二が鞍山へ向かったとは思えない。

しかし哲二は鞍山に到着してほどなく小山さんの手引きで製鉄所の臨時雇工として働きはじめた。

製鉄所は工場用地、水道用地、市街地用として合計1996万平方キロの土地を買収していた。 製鉄所の「付属地」として「10万人規模を想定した市街地は製鉄所からの煤煙(ばいえん)を避ける位置に建設され、幹線道路は幅36メートル、駅前と中央通りには方形広場が」設けられていた(『満鉄四十年史』)。

哲二が渡満した1933(昭和8)年より2年前の31年、鞍山には6606人の日本人と9337人の中国人が住んでいた。 (『満州の日本人』塚瀬進/吉川弘文館/ちなみに日本人人口が最も多いのは奉天(瀋陽)の2万3739人。 長春(新京)には1万630人が住んでいた)

そのほとんどは製鉄所の社員、工員だったろう。

鞍山の市街は奉天へ向かう鉄道路線に沿って南北に延びており、駅から北東方向に東方連山と呼ぶ丘陵地があり、その小高い丘に鉄条網で囲まれ、守衛の常駐する三笠街と名づけられた住宅地があった。
広い庭つき、世界でも最新式といわれる暖房装置が設備された25軒の住宅である。 ここに住める家族は帝大工学部などを出たエリート社員一家であり、各製造課の課長を務める夫・父親を持つ人びとであった。

この住宅地の隅に巨大なボイラーの建物があり、各家庭にパイプでスチームが送られていて冬でも薄着でくらすことができた。

製鉄所に就職したときの初任給が110円(民間会社の大卒初任給は60~70円)だったという。

製鉄所に臨時雇いとして働きはじめた哲二がどれほど稼げたかは不明である。 当時日本内地では施盤工の日給が2円25銭だった(『時事年鑑』昭和9年)。 生活費の高い満州では日本内地の2割増しといわれていたから、その計算では1日2円70銭、月に25日働くとして67円50銭になる。


食の大正・昭和史 第八十四回
2010年07月21日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十四回

                              月守 晋


●転職先を探す

家庭の経済的崩壊を避けるためにはまた新たに収入のいい仕事先に移るしかないと転職することを決心した哲二が相談したのは“小山さん”だった。 小山さんは哲二がまだ独身で京都市電の車庫で修理工として働いていた時分の先輩であり、哲二が日常的に食事の世話を受けていた「すずめ寿司」の常連でもあった。 年齢は小山さんのほうが一回りほども上だったが温厚な世話好きで頼りになるひとだった。

小山さんは哲二が世帯を持つ前の年に3人の子供を連れて「満州」に渡り鞍山(あんざん/以下地名は日本語読みで表記)の製鉄所に勤めていた。 哲二とは文通によってお互いの消息を知らせ合い交友が続いていたのである。

昭和7年に生まれた長男にひきつづき、父親新二郎が逝った8年の初冬に次男が生まれていた。 そしてさらに翌9年の初夏には志津さんがまた身籠っていることがわかった。 男の子の年子につづいて第3子が生まれるとなれば、哲二・志津夫妻は結婚後4年にして3人の子持ちになるわけである。

ぐずぐずしている暇はなかった。

さいわい哲二の転職相談の手紙に小山さんから懇切な内容の返事がきた。それには「こちらへ渡ってきてすぐ正規社員になれるわけではないが、臨時の仕事なら口はあるから喜んで紹介する」というものだった。

外地の満州であれ臨時工であれ贅沢は言っていられなかった。 内地(日本国内)には200万人を超す失業者が巷に溢れているのである。 いま現在の勤め口より条件の良い仕事口が見つかるとは思えなかった。

満州へ渡る決心をつけると、哲二はまず預かっていた妹のナツを故郷へ送り帰した。 引き替えに兄から遺産分けだと幾ばくかのものが送られてきた。 それが渡航の費用になり残していく志津さんと2人の子どもたちの生活費になった。

哲二は昭和9年10月、単身で満州へ渡ったのだった。

小山さんの勤めていた鞍山製鉄所は後にやや詳しく述べる「満鉄コンツェルン(多分野にわたる企業を統括する総合企業対)」が1918(大正7)年5月に設立した会社である。 

鞍山は現在は中国東北部の遼寧省と呼ばれる地区にある。 遼東半島の最南端に位置する大連市から約300km北上した地点である。

鞍山に鉄鉱石が埋蔵されていることを発見したのは満鉄地質課長の木戸忠太郎だという。 この人は明治維新の元勲木戸孝允の次男にあたる。 木戸孝允は幕末、京都で倒幕運動に活躍した長州藩士桂小五郎のことである。 現在放映されているNHK日曜日の連続TVドラマ『竜馬伝』にも重要な脇役として登場している。

鞍山の鉄鉱石を発掘利用する権利を日本が獲得したのは1914(大正3)年のことであった。 この年7月第一次世界大戦が勃発するとイギリスの要請を受け入れて日本は8月に参戦、ドイツに宣戦を布告してドイツが権益をもっていた山東半島を攻略してその権利を手中に収めた。

さらに満蒙地域の事実上の日本領土化ともとれる「二十一カ条の要求」を当時の中華民国袁世凱(えんせいがい)政府に突きつけこれを承諾させた。

この条約は中国国内に反日民族運動の嵐を引き起こし、やがて1919年の全国的な民衆運動「五・四」運動に発展するのだが、ともあれこの条約によって認められた鉱山採掘権を活用して鞍山製鉄所が誕生したのである。

満鉄は3000万円を投資して銑鉄100万トン、鋼材80万トンの生産を目的に1919年4月、第1高炉の火入れが行われた。

第1年目の生産額は3万1620トンに過ぎずトン当り販売価格は125円だった。

  注:『年刊満州』康徳8(昭和16)年版に「唐の太宗が高麗遠征の際この付近で製鉄を行い、その時の採掘跡が鞍山製鉄所の鉱区内で発見されている」とある。


食の大正・昭和史 第八十三回
2010年07月14日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十三回

                              月守 晋


●生活苦

次男哲二夫婦のくらす京都朱雀御坊跡の長屋に末娘のナツが広島の田舎町から出てきたのと入れ替わりに、しぶしぶ故郷に帰っていった舅の新二郎は数ヵ月後に病の床につくとあっけなく亡くなってしまった。

哲二と志津は比呂美を連れて葬儀に出席するために哲二の生まれ故郷に向かった。 哲二にとっては高等小学校を出て以来12年ぶりの帰郷であった。

葬儀の終わった後で身内だけで撮った写真が残っている。 黒枠の新二郎の写真の下に哲二の末弟の人士、その右隣が兄一郎、比呂美を抱いた哲二、すぐ下の弟逸司、そして親戚の某、人士の左隣が一番上の姉の夫、その左に妹萩野の夫、親戚の某、左端が新二郎の生家である酒造家美也正宗の当主。 この人は鼻の下に形良くひげを蓄えている。

全員がすわっている前列の左端は親戚の最長老でこの人は見事な真っ白い顎(あご)ひげをのばしている。 その右へ順にナツ、萩野、長姉の長男、長姉綾野、親戚の某女、一郎の妻、親戚の某女、志津さん、親戚の某と並んでいる。

この地方の風習なのか、あるいはこの時代はそれですんだのか志津さんも哲二の姉妹も裾模様の入った黒い式服である。 同じ日に前栽を背景に同じ身なりで撮った哲二と志津夫妻の写真も残っている。 こちらのほうは結婚の記念写真として身内や親戚に配ったものらしい。

この時、長男比呂美は誕生日前の赤ん坊で志津さんのお腹には第2子がすでに育ちはじめていた。

哲二は京都市電の修理工から転じて国鉄(JRの前身)の修理工場で働いていたが、くらしは逼迫するばかりであった。 当時、哲二が国鉄の工場でどんな身分で働きどれほどの収入を得ていたのかは不明である。 正規の工員ではなく日給で働く臨時工のような立場だったろうと思われる。

1929(昭和4)年10月24日のニューヨーク株式市場の大暴落、いわゆる“暗黒の木曜日”に始まった世界恐慌の影響は翌年には日本にも及び“昭和恐慌”と称された深刻な不況期をもたらした。

産業界は操業時間の短縮や人員整理で対処したが輸出は前年比20パーセント以上も激減した。

悲惨だったのは農家で、不況によって物価が大幅に下落するなかでも農産物の低落はいちぢるしく昭和5年は“豊作飢饉”状態におちいった。 これは農家が買い入れる工業製品の価格に比べ農産物価格の低落がはげしいために起きた格差現象であった。

翌6年、とくに東北地方の農家は冷害による凶作に苦しみわずかな借金のために娘を身売りする家が続出した。

昭和8年には一転して米作は大豊作となったが(水陸稲の収穫量が7000万石を越す)、翌9年は西日本の旱(かん)ばつ、関西地方の室戸台風による被害(9月21日、死者・行方不明3036人、全壊流出家屋4万戸)、東北地方の冷害が重なったために前年より約2000万石も収穫量が落ちている。

安定したくらしを希んで国鉄に転職したのは、何年か臨時工を勤めていれば正規の職工に採用されるだろうという希望が哲二にはあったためである。 しかし生産制限や労働時間の短縮・企業倒産などによって経済全体が縮小してしまっていたから物と人を運ぶ輸送業が拡大発展に向かうはずはなく、そうであれば哲二の希望がかなう日がいつのことになるのか全く見通しは立てられなくなっていた。

哲二は散々頭を悩ました挙句、ふたたび転職を考えた。

転職先は「満州」であった。 幸い満州には小山さんがすでに渡っていた。 


食の大正・昭和史 第八十二回
2010年07月07日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十二回

                              月守 晋


●舅と義妹を迎える

志津さんと哲二の間に結婚した翌年、昭和7年6月に第1子が誕生した。 男の子だったが哲二が姓名判断の手引書と相談して比呂美と名づけた。

孫が、それも男児の孫が生まれたと知ると哲二の父親は喜んで京都へ出てきた。 哲二の兄もすでに嫁取りをすませていたがまだ子どもには恵まれていなかったのである。

哲二たちは哲二の郷里で結婚披露をしてはいなかったので、志津さんと舅(しゅうと)はこの時が初対面であった。 舅は還暦を迎えており両鬢(びん)を残して頭は“おびんづるさま”になっていた。 剛(こわ)い頭髪がびっしり生えている哲二とはあまりに違うので、笑いをこらえるのに志津さんは苦労した。

舅は比呂美を抱き上げ「だれかによう似とるノウ」と広島弁丸出しで喜んだ。 「だれかに」とはつまり「自分によく似ている」ということであった。

志津さんは舅に毎日の食事に何を食べさせればいいのか困ったが、哲二が「刺し身を食べさせてやってくれ」というので夕食にはいつも刺し身を買ってきて膳にのせた。

勤めの帰りに哲二が魚屋に立ち寄り1本のままを買い求めてくることもあり、そんな時には哲二が自分で3枚におろして刺し身に造ってくれた。 自分も刺し身好きだった哲二は器用に出刃包丁を使い、そんなおりには残ったアラを使って野菜の煮物ができるので重宝したのである。

毎晩毎晩、刺し身ではいくらなんでも飽きるだろうと煮付けにして出したところが、食べ終わった後で舅は「やっぱり刺し身がうまいノウ」という。

舅は1日3食、刺し身でもよかったのであった。

思いがけず舅の京都滞在が長引いて秋風が吹きはじめたころ、広島から哲二の末妹がやってきた。

父親の長滞在を心配した長兄が父親の帰郷をうながすのと同時に、妹に働き口を見つけてやってほしいというのであった。

哲二が「よう来た、よう来た」と喜んで迎えた妹ナツは「花柄の一重(ひとえ)の着物に緑色の地に3色の帯を締めて、化粧っけのない真っ黒い顔をして、足袋もはかず素足に下駄ばき」という姿で現れたと志津さんは語った。 「下着の着替えを入れた風呂敷き包みを1つ持ったなりで」と。

ナツは気立てのやさしいおっとりした性格のうえ、休みもせずからだを動かす働き者だったので出産したばかりの志津さんは大変助かった。 おしめの洗濯もまったくいやがらずに手を出した。

それにひとつきもすると黒かった顔も地色を取り戻し年ごろの娘らしくなってきた。 黒いといっても野良仕事で日焼けしていただけだったのである。

ナツが上京してきて4、5日たつと舅はしぶしぶ広島へ帰っていった。 京都ぐらしがすっかり気に入っていた様子だったが、さすがに娘と2人で哲二の厄介にはなれないと観念したらしい。

ナツは近所の店に奉公に出たこともあった。 しかし、おっとりした性格は客を応接する仕事には不向きである。 ひとつきもすると帰されてくるということがつづき、哲二も妹を働きに出すことをあきらめてしまった。

ナツに炊事や洗濯、縫い物などの針仕事、買い物をはじめ家計のやり繰り、さらには他人との応接など結婚前に身につけておくべき生活の知恵を教え込むことが志津さんの役割になってきた、

後年なつは「何から何までねえさんにしつけてもらった」と語っているが、そうしたさなか、志津さんは第2子をみごもった。


食の大正・昭和史 第八十一回
2010年06月30日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十一回

                              月守 晋


●哲二の背景

高等小学校を終えてほどなく、大阪で働きはじめた哲二は10余年の間に関西風の味つけになじんできていたはずである。

神戸育ちの志津さんの作るおかずの味に、さして違和感を感じることはなかっただろうと思われる。

哲二は広島県の三次(みよし)盆地に近い山村で育った。 町の北端を流れる可愛(えの)川は流れ下って江川(えのかわ)と名前を変え島根県を抜けて日本海に入る。

広島県には多くの島を抱く瀬戸内海沿いの温暖な地帯があり、県北は標高1000mを越す山が連らなる中国山脈が占め、その南北の間に名高い松茸の産地である中部台地と、中国山脈の支脈を成す東部高原がある。 島根県・鳥取県に接する県東北の備北山地は雨の日、雪の日が比較的多く三次盆地はここにあり深い霧がわくことで知られている。 県西北の芸北山間地が積雪量の多い寒冷地で、広島県は面積の70%が山地という県だが芸北山地は耕地面積が狭く、明治以降多くの海外移民を出した土地でもある。

哲二の生まれ在所は三次まで5里ほどの南北を山にはさまれた細長い町で南の端を可愛川が流れている。三次盆地では西城川・馬洗川(ばせん)・可愛川が合流しアユ・ヤマメ・ウグイなどの川魚が豊富で江戸期まで鵜(う)飼い漁が行われていた。

三次の名物は腹に豆腐のおからを詰めたアユずしである。

哲二の父親は村唯一の酒造家にうまれたが同じ村落内の親戚に養子に出され、さらにその家から分家して一家を立てた。 養子に出されたわけはわからない。 分けてもらった田畑が少なかったので、7人の子どもを育てるために荷車を引いて稼いだ。

1956年に筑摩書房から出版されてベストセラーになり、後に映画にもなった『荷車の歌』(山代巴著)は三次地方で荷車引きをして生活を立てた夫婦の物語である。

時代は明治30年代半ばから明治末までのことだろう。

物語の主人公はセキという女性で、夫の茂市と2人炭俵を三次の問屋まで運んで運賃を稼ぐ。夜中の12時に起きて荷を積み、歩き通して午前11時に三次に着く。 問屋で勘定をしてもらって昼弁当を食べてすぐ帰途についても山奥の家に帰り着くのは夜の9時過ぎになった。

こうして手にする1日の稼ぎは茂市が70銭でセキが40銭の合わせて1円10銭。 当時、米1升の値段が10銭だったから夫婦合わせて1斗1升の収入ということになる。

このころ、 寒冷地のこの地方では1反(10アール)の田に1石(150kg)の米ができればいいほうだったというから、セキ夫妻の稼ぎのほうがまだしも割が良かったのかもしれない。

哲二の父親が荷車を引いたのは三次とは反対の広島へ向かってであった。 目的地の可部までは途中に上根峠という傾斜のきつい難所があり、父親1人では上れないので母親が先引きをした。

可部までは片道8里(約30km)以上もあり、早朝に出発しても往復に2日がかりの仕事であった。

可部からは太田川の川船による水運に替わるが広島市まで約5里ほどの距離がある。

哲二の家の田は4斗詰めの俵で4~6俵(1石6斗~2石4斗)収穫できたというから『荷車の歌』で語られてい村落のくらしよりは楽だったに違いないが、 子どもがつぎつぎに生まれたので生活は楽ではなかった。

食事も麦飯が中心でおかずは畑でとれる野菜の煮物や、漬物で、魚などは自分たちがとってきた川魚のほかは祭日などにたまに食べることのできる“ワニ”ぐらいのものであった。


食の大正・昭和史 第八十回
2010年06月23日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十回

                              月守 晋


●料理の味

映画監督の山本嘉次郎のエッセイに京都の日常食について触れた文章がある。

山本嘉次郎は戦前、戦後を通じて軽いコメディや庶民のくらしに生じる哀歓をテーマに多くの作品を世に送りつづけた映画人である。

戦後の代表作は昭和24年に新東宝で撮った「銀座カンカン娘」だろう。 主演女優高峰秀子がスクリーンの中で歌う「あの娘可愛(かわい)やカンカン娘」のフレーズではじまる主題歌は戦後の世相の一面を象徴するものでもあった(ちなみにこの年日本人で初めて湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞した)。

“東京者”の山本嘉次郎が京都に移り住んだのは昭和と改元されたころで、当時の京都は現在とは違ってビルがほとんどなく撮影でビル街を撮る必要のあるときは神戸の海岸通りに出かけていたという。

「困ったのは食べ物で」と山本は書いている。

下宿でとる弁当のおかずが「いつもいつも、同じようなものばかり。高野豆腐、しいたけ、湯葉の煮たので、しかも、ひどく薄味で、水っぽい」。撮影所の食堂へ行けば「まめさんたいたん」と壁に貼り紙があり、なんだろうとためしに注文してみると「煮豆」だった。 「煮豆といえば味の濃いものと知られているが、これまた水っぽ」くて「悲しかった」し「死にたくなって」きた。

そして、「郷愁というものは、食べ物にしぼられるらしい。東京者にとって、海苔、塩鮭、納豆、塩せんべい、ぬかみそ漬、濃い醤油などのないことが耐えられなかった」とつづけている。

そばも「汁(したじ)が水っぽ」く、「天ぷらもだめ、蒲焼もだめ」で「寿し屋もなかった」し脂肪分の補給を必要とする東京育ちの若者の口に合うトンカツ屋もなかった。 寺町通りにあった洋食屋「村瀬」のトンカツは皿の左右にそれぞれ1寸以上もハミ出してしまうほど巨大なので知られ“わらじカツ”と呼ばれていたが、味が違ってなじめない。

やがて屋台店の1銭洋食を知る。 細い竹串の先にゴッテリ衣をつけた小指の先ほどのカツが刺してあり、目の前の大鍋で10本1たばにしてジュッと揚げてくれる。 これが1本1銭で屋台の正面に貼ってある番付表には「横綱360本」などと書いてあった。

『日本食生活史年表』(西東秋男/楽游書房)の昭和4(1929)年のページには「島田信二郎(もと宮内省大膳職)がつくったポークカツ、初めて「とんかつ」と呼ばれる」という記事がある。

その5年後の昭和9年、高級店でカツライスが50銭以上だった(『明治/大正/昭和世相史』社会思想社)とあるから、串カツ屋台の“横綱さん”は3円60銭の代金を支払ったあとでずいぶんと後悔したのではなかろうか。 

神戸生まれで神戸育ちの志津さんと京都で世帯をもった広島の田舎生まれの哲二さんは京の味になじんでいたのだろうか。

哲二さんは高等小学校を出るとほどなくして上阪した。 20歳ころまでは大阪の街の小さな鉄工所で働いていた。 京都へはある程度の施盤工としての技術を身につけてから移住したらしい。

志津さんと結婚するまでには少なくとも10年ほどは大阪・京都でくらしてきたことになる。 その間に味の好みも当然、変わっただろう。

広島の山村の実家で食べていたものは、味噌も醤油も手製であった。 副食は自家の畑でとれた野菜か山野草の乾物で、魚は日本海側から来る行商人から手に入れる塩物であった。 肉は飼っている鶏を祭日や行事日につぶすくらいである。

そして味は、塩味の効いた濃い味のものだったのである。


食の大正・昭和史 第七十九回
2010年06月16日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十九回

                              月守 晋


●昭和初期の家庭の食事

志津さんが結婚したころの日本の一般家庭ではどんな食事がとられていたのだろうか。

国内からはもちろん、世界中から食材を大量に輸入して大型スーパーやコンビニ店で販売するものを購入消費している現状とは違って、当時はまだ地産地消―くらしている土地で生産されるものを土地の人が食べるというのが普通であった。

そうではあっても一般の家庭で食べられた1日3度の食事は食材も料理法も似たようなもので、とくに都市部の家庭でのふだんのおかずはどこの家でも同じようなものを同じような料理法で食べていたといえるだろう(食事は「地域差、階層差が大きい」といわれている)。

『ちゃぶだいの昭和』(小泉和子/河出書房新社)は「戦前の朝・昼・晩」の項で東京の家庭で食べられていた朝・昼・晩3食の献立を写真つきで紹介している(『聞き書 東京の食事』農山漁村文化協会から小泉がまとめたもの)。

サンプルになついているのは①深川の左官職人の家、②日本橋人形町の商家、③四谷の月給取りの家である。

朝食は①が麦飯・豆腐の味噌汁・漬け物・佃煮、②が白飯・豆腐の味噌汁・納豆・煮豆・佃煮、③では白飯・大根の味噌汁・煮豆・白菜漬け。

昼食は①の弁当が麦飯に塩鮭かタラ子・漬け物、②では白飯・塩鮭・おから炒り・味噌汁・大根ぬか漬け、③は白飯・塩鮭・残り物である。

夕食が①では麦飯・いわし塩焼き・里芋とイカの煮物、②では白飯・ブリ大根・シチュー・白菜漬け、③は白飯・鍋物・野沢菜漬けになっている。

これをみるとどの家庭でも同じような食事をしていたことがわかる。 麦飯と白飯の違いはあるが朝昼晩とも米飯を食べている。それに味噌汁がつき主菜の焼き魚に佃煮または煮物がつき漬け物がつく。 つまり一汁一菜である。

階層の違いを感じさせるのは②の昼食ぐらいで、洋食のシチューが現れている。 

「ふだんのおかず」の項で「戦前、東京の家庭でふだんよく食べたおかず」の主役は「季節の魚」だと指摘している。 春の鰆(さわら)、鰊(にしん)、秋の秋刀魚、冬には鰯や鰤(ぶり)、他に鯖(さば)の味噌煮や鰈(かれい)の煮付けなど。

鮭は塩鮭としてほぼ1年を通して食べた。 貝では浅蜊(あさり)がよく食べられた。

乾物の野菜もよく食卓に並んだ。 切り干し大根と油揚げの煮物、芋がらの煮物、大豆が中心の五目煮豆などである。 芋がらは里芋のくきを干したもので「ずいき」ともいう。 湯で戻して一度ゆでて、醤油味で煮付けるのだが見た目が悪いので近ごろの子どもはたいてい気味悪がって食べたがらない。

五目煮豆に使う大豆は一晩水にひたして戻す。 水を吸った大豆は柔らかくなり2倍ほどにはふくれあがる。 この大豆に人参、ごぼう、こんにゃく、竹輪、こんぶをそれぞれ1cmくらいのさいの目に切ったものを合わせて煮て砂糖と醤油で味をつけるのである。 大豆は前もって30~40分ほど弱火で柔らかく煮ておかなくてはならない。

前回は「京野菜の料理」を紹介したが、京都には街を囲む四方の郊外産地から新鮮な特色のある野菜が豊富に流入していたので、今回紹介したような東京の街でくらす家々ほど乾燥野菜に依存する度合いは低かったのかもしれない。

ともあれ志津さんの子どもたちは「ずいき」の煮付けなど食べた記憶をもっていなかったのである。



食の大正・昭和史 第七十八回
2010年06月09日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十八回

                              月守 晋


●朱雀御坊の長屋ぐらし(2)

『聞書京都の食事』に紹介されている京都の野菜の料理を次に引用してみよう。

はりはり鍋  京菜とくじら肉の鍋。 カツオ節とこんぶでダシを取り吸い物より少し濃い目に味つけし、京菜のぶつ切りとくじら肉の薄切りを入れて煮る。 京菜は煮すぎないように歯ごたえを残す。
水菜とお揚げの炊き合わせ  だしじゃこ、ぶつ切りの水菜、細切りのお揚げを淡口醤油で吸い物よりやや濃い目に味つけして炊く。
九条ねぎとお揚げの炊き合わせ  東寺のある九条地域で栽培されたのでこの名がある。少々辛味があり青い部分も食べる。 大きく斜目切りしたねぎと細切りの揚げをカツオダシと淡口醤油で煮る。
賀茂なすの田楽  賀茂なすは丸なすで身がふつうのなすより固くしこしこしている。 輪切りにして油でじっくり焼き、甘味噌にゴマをふって食べる。
山梨なすの煮物  なすと干しニシンの煮物で味つけは醤油。干しニシンは一晩水につけて戻し、1寸ほどに切って使う。 
おかぼ炊き  鹿ヶ谷かぼちゃの煮物。 京都で“おかぼ”と呼ぶ鹿ヶ谷かぼちゃは濃い肌色のひょうたん形。 淡口醤油と砂糖で味つけする。 ひょうたんの底に十文字にひもをかけ冬至の日まで保存する。

以上の他に堀川ごぼうの煮しめやきんぴら、聖護院だいこんと油揚げの短冊切りの煮物、えびいもの炊いたん(1個が300gを超す大きな里いもの子いもを炊いたもの)、鷹ヶ峰とうがらしの焼いたん(長さが14~15cmもある緑色の大とうがらしを素焼きする)などがあげられている。

市電の七条線が昭和3年には七条千本まで延びており、9年には西大路七条までさらに延ばされた。
山陰線を西に越えて七条通りの北300mほどのところに現在の地図で「中央卸売市場」が図示されている。

『京都の市電』(立風書房/1978年)の写真ページに「七条線の中央市場付近」の写真が掲載されているが、買い物籠を下げた婦人たちに混ざって志津さんもこのあたりを歩いたかもしれない(中央市場がそのころすでに設けられていたなら、の話だが)。

ともあれ急なくらしの変化にとまどいながらの志津さんの長屋ぐらしは始まったのである。

志津さんが長屋ぐらしを始めていちばん困ったのは、共同で使わなくてはならないトイレであった。

志津さんはそれまで借屋とはいえ一軒家に住み、結婚話が起きたころに住んでいた神戸市林田区金平町の家は養母みき(養父は大正4年に死亡)が苦心して手に入れた自宅であった。

トイレに入るのに他人を意識しないですんだのである。 しかし長屋の共同便所となるとそうはいかない。 住人はみなそれぞれ勤め人だったから、朝の出勤前にはよく鉢合わせすることになる。 男たちが出かけた後は隣家や前の家の子どもや小母さんたちの番になる。

使いそびれて我慢をしているうちに経験したことのない便秘に襲われたという。 しかしやがて他人の気配が消える時間帯が来ることに気づき、その時間に用を足すようになって便秘から解放されることができた。

朝7時には哲二を送り出し、その後は朝食の後始末をして掃除、洗たくをする。 洗たくといっても2人分だからたいした量ではないが1週間ごとに持って帰る哲二の作業服を洗うのは一仕事だった。

電車の修理作業に携わっていたから旋盤を使うことが多く、作業服には機械油が染み込んでいた。 その油を抜くために、石けんを塗りつけた後水に浸しながらすりこぎのような棒で叩かなくてはならなかった。


食の大正・昭和史 第七十七回
2010年05月26日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十七回

                              月守 晋


●朱雀御坊の長屋ぐらし(1)

朱雀御坊の三軒茶屋でスタートした志津さんの新婚生活はまず、共同で使う井戸と便所になれることから始められた。

長屋の内にも小さな流しとガス台がついており、そのうえ“おくどさん(かまど)”までついていた。 しかし志津さんはガス代の節約を考えて薪(まき)を燃やしてくどで煮炊きをすることのほうが多かった。 薪を使えばおき(燃えさし)で消し炭(けしずみ)がとれ、消しずみで七輪(土製のポータブルなこんろ)も使えたからである。 (七輪は「七厘」とも書き、1銭に満たない七厘で買えるほどの木炭で煮炊きに間に合うことからといわれる)。 

薪は哲二が勤めからの帰りに買って運んできてくれた。

京都でも明治期からガス会社が事業を始めており、ガスを家事用に使う家も多かったという。 それでも京都の町にかまどが多く残されたのは、京都・大阪周辺では「かまどは家についたもの」という風習があり「かまどなくして家なしとまで考えており、畳・建具は借家人持ちとする借家であっても、かまどは家とともに貸し与えられる。燃料用のガスが入っていても、この家を借りている住人は、自由にかまどを撤去することはできない。(『台所用具の近代史』古島敏雄/有斐閣)」という事情があり“おくどさんつき”の長屋に住むことになったというわけである。

ちなみに家庭用のガス料金は志津さんが結婚した昭和6年では1㎥当たり7銭5厘だったという(ただし東京ガス:『物価の文化史事典』)。

屋根がついた井戸は手こぎのくみ上げ式ポンプで、周囲が半畳分ほど空き地になっていた。 この空き地が洗たく場になり、米をといだり野菜を洗ったりという日々の水仕事の場所になる。 この井戸を4軒で共同で使っていた、と志津さんはいう。

“井戸端会議”ということばがあるように、顔を会わせれば世間ばなしに花が咲いたことだろう。 志津さんはここを台所代わりにもしていたという。 「薄暗い長屋内の流しを使うより明るくて気がせいせいした」というのだが、七輪を持ち出して煮炊きでもしていれば京都地産の“京野菜”の料理法を教えてもらえるという余得もあっただろう。

「野菜は土を選び、水を選ぶ。 最も適した土地で綿々とつくり伝えられて、京都特有の野菜はできあがった」と『聞書京都の食事』(日本の食生活第26巻/農山漁村文化協会)は地名を冠した次のような野菜をあげている。

聖護院かぶ、聖護院大根
賀茂なす
壬生(みぶ)菜
堀川ごぼう
鹿ヶ谷かぼちゃ

志津さんの娘にいわせると志津さんは「煮物が上手だった」という。 三菱に勤めに出ている間にも養母みきから料理のことは多少は習っていただろうが、京都の長屋に移り住んで井戸端で同じ長屋の小母さんたちから教わったことのほうがむしろ多かったにちがいない。

京都では1年を通して鮮度と味のよい野菜が供給されてきた。 それは精進料理、懐石料理を発達させた寺社仏閣が多いという文化史的側面と相まって、気候や水はけのよい肥沃な土壌といった自然条件にも恵まれているからだと、前掲の『聞書京都の食事』に説明されている。

さらにこうした野菜の食べ方に京都人の生活文化が密接に関係しているのだ、と。

たとえば堀川ごぼうは一家の健康と繁栄を祈って正月料理に欠かせないし、鹿ヶ谷かぼちゃは7月25日の安楽寺のかぼちゃ供養の火に中風(ちゅうぶう)除けとして食べられるのである。


食の大正・昭和史 第七十六回
2010年05月19日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十六回

                              月守 晋


●京都の路面電車

新婚当時の哲二の職業は京都市営の路面電車(正式名称は「京都市営電気鉄道」)の修理工であった。

京都はよく知られているように日本の都市ではいちばん最初に路面を営業電車が走ったまちである。

それは明治28(1895)年2月1日のことであり、走らせたのは「京都電気鉄道株式会社」であった。区間は塩小路東洞院から伏見油掛まで6.7kmの伏見線である。同年4月には木屋町鴨東線(京都駅前―木屋町二条―南禅寺)の4.6kmと木屋町二条―堀川中立売間の2.8kmが開通した。その後も路線を延ばしていったが、明治45年6月11日に市営電車が営業を開始、京電と市電の併立時期に入るのだが大正7年7月、市電が京都電気鉄道株式会社を買収し統合された。市電のほうは1435mmの標準軌間だった。

明治28年に初めて京都市内を走った電車は長さ約6m、幅約1.8mの定員16名という小型のもので、車体は木製で開業当時は動力のモーターが1個だったがその後2個に改装された。モーター1個では力不足だったのである。

京電の軌間(レールとレールの間)は1067mmの狭軌で単線、定員はすぐに28人に訂正されているがスピードは時速約10kmだった。現在42.195kmのマラソンを世界のトップランナーなら男性の場合2時間05分台で走るのに比べるといかにものんびりしている。

実際に開業当時は正式の停留所が設けられてなくどこでも乗れ、「降ろしとくれやす」と声をかければどこででも自由に降りられたのである。

その電車を走らせる運転台には正面にも左右にも囲いがなく、雨のときには雨合羽(あまがっぱ)を着こみ、降雪のときには防寒具を身につけて運転しなくてはならなかった。

しかも京都府の「電気鉄道取締規則」によって「告知人」を乗せていなくてはならなかった。告知人は12歳から15歳くらいまでの少年で会社の直接雇用ではなく、請負いの親方のところから送られてくる。つまり“派遣労働者”だった。

少年たちの仕事は道路の交差するところや通行人の多い街路にくると電車から飛び降りて電車の前を走りながら「電車が来まっせ、危のおまっせ!」と叫ぶのである。明治29年1月現在で21名の告知少年がいたというが、社名入りの半纏(はんてん)を着て昼は旗、夜は提灯を持って“先走り”した。そして電車が無事通り過ぎた後、電車を追いかけて走りふたたび飛び乗るのである。飛び降り飛び乗りに失敗してけがをする少年も多く、会社は再三先走りの廃止を市当局に願い出るが「夜間のみ廃止」が認められたのが31年9月のことであり、電車の前面に救助網を取りつけたりして事故防止に対処したため37年11月にやっと全廃になった。

乗車賃は1区2銭で2区が4銭、半区1銭という区間制だった。3区半だと7銭という計算になる。割安の回数券もあり54区分で1円、60区分も1円だった。通学乗車券は2区間1か月分が1円25銭(大正7年当時ですでに市電になっている)である。

哲二が市電からもらっていた給料がどれほどだったかはわからない。新婚当初、志津さんは哲二から毎月15円渡されていた。15円あれば2人分の生活費としてじゅうぶん足りたし、残業手当もついていたので余裕があった。哲二は煙草は吸ったが酒は下戸で盃1杯飲むと真っ赤になって寝てしまった。ただ賭け事が好きでよく競馬場に出かけた。しかし生活費を喰い込むようなことはなく、たまにもうけたときには生活費の足しにと渡してくれた。

しかし結婚して数か月後、哲二は市電をやめて国鉄(日本国有鉄道、JRの前身)に勤めを変えている。


食の大正・昭和史 第七十五回
2010年05月12日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十五回

                              月守 晋


●京都の新居

昭和6年6月、“山崎の小父さん”宅で広島県出身の哲二と仮祝言を挙げた志津さんが結婚生活をスタートさせたのは京都であった。

住まいは当然のことながら借家で、それも三軒長屋のうちの1軒だった。長屋というのは文字通り長い建物を壁で仕切って借家にしたもので、表通りに面さない裏長屋がふつうであった。広さも間口が9尺(約2.7m)、奥行きが2間(けん、1間は6尺、1尺≒30cm)と狭く、前に入口と台所を兼ねた土間、その奥に1部屋の気取って現代風にいえば1Kという借家である。

トイレは共同トイレ、水道は引かれておらず井戸を共同で使う。しかしありがたいことに志津さんたちの長屋は部屋がもう1部屋奥についていて2部屋あった。

しかも家賃が月50銭と格安だった。

これにはわけがあって、哲二は当時京都市営の路面電車の修理工場で働いており、市電の七条千本の停留所に近い「すずめ寿司」で朝晩の食事の世話を受けていた。

ほとんど毎日顔を見せて店の賄い料理を食べ、月々の支払いをきちんとする哲二を店主は信用し何かと世話をするようになっていた。哲二が結婚すると聞いて、地元の事情にくわしい店主が伝手を頼って探し出し斡旋してくれたのである。

志津さんの話では「このあたりは朱雀御坊のあったところ」だという。

現代の京都の市街は基本的に8世紀末に創建された平安京の設計プランが生きている。基盤の目のように整然と区画された平安京の中心に大内裏(だいだいり)の朱雀門から真っすぐ南の羅生門(らじょうもん)まで朱雀大路が通じていた。現在の千本通りである。大内裏を背にして右手を右京、左手を左京と呼んだのである。

朱雀は都を守護する四神の一つで南の方位をつかさどり、鳳凰(ほうおう)の姿であらわされる。ちなみに北方をつかさどるのが亀であらわされる玄武(げんぶ)、東方が青龍であり西方が白虎である。

「朱雀」の名称は現在も地名として残っている。七条通りの北側、山陰本線の西側の中央卸売市場や新千本通り、七本松通りにはさまれた一帯である。幕末ころの地図にはこのあたりに「朱雀村」の名称が記されている。

現在市販されている京都市街図を見ると、新千本通りが七条通りに突き当たる七条新千本の信号機を西へ100mほど行ったところに「七条千本」というバス停があり、さらに西へ200行くと七条七本松の信号機、その南に権現寺がある。地図によってはこの権現寺に並んで東側に「朱雀御坊」の名と卍の印を落し込んであるものがある。

志津さんのいう“朱雀御坊”がこれかもしれない。

「坊(ぼう)」は方形に区画された土地のことだが、「寺」の意味でもある。「坊門」はまちの門のことだし、僧侶の住まいを「僧坊」という。

哲二・志津の新婚夫婦が住むことになった長屋はかつて、「朱雀御坊」で雑用に従事していた人たちの住居に当てられていたのかもしれない。

≪参考≫『京都時代MAP』新創社編/光村推古書院


食の大正・昭和史 第七十四回
2010年04月28日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十四回

                              月守 晋


●志津さんの“仮祝言”

箪笥(たんす)、長持、お針箱
これほど持たせてやるからにゃ

「けっして帰って来てはならぬ。向こうの家の嫁としてちゃんと納まるようにしなさい」ということばがつづく。

これは志津さんがいつのころからか聞き覚えた里謡(民間でうたいつがれた歌)である。長持は長さ150cm、高さ60cmほどの蓋付きの箱で衣類や調度品を入れておくもの。白木作りの素朴なものから漆塗り、蒔絵飾り、定紋付きの大名道具まで身分に応じて種々あった。

“嫁入り”の支度は実家の経済力が反映される。現在でも名古屋あたりのようにトラックに何台という量を競う地方もあるようだが、親の甲斐性(かいしょう)に関係なくお互いの身の丈(たけ)に合わせて身内とごく親しい友人、知人の前で式を挙げるのが世間一般のことであった。

昭和6年6月、志津さんは哲二と“仮祝言”を挙げた。祝言の会場はふたりの間を取り持った“山崎の小父さん”宅である。

志津さんの娘時代の写真が2枚残っている。1枚は18歳ごろ、もう1枚は20歳前後のものである。写真の中の志津さんは2枚とも日本髪を結っている。

18歳ごろの髪型はどうやら「ゆいわた」と呼ばれた型らしい。(まげの中央を布で結んでまとめてある)。絣(かすり)の着物に花柄の帯、明るい地色の羽織である。

「カネボウに勤めていた姉さんが銘仙の羽織を買って送ってくれた」と言っていたその羽織かもしれない。

穏やかな表情をしていて、眼鏡をかけていない。

このころはまだ三菱造船に通っていたのだが、こういう日本髪、和服姿に白足袋、日和下駄という服装だったのだ。

もう1枚のほうは中年の婦人といっしょに写っている。この婦人が“山崎の小母さん”だろう。志津さんの頭は相変わらず日本髪で眼鏡をかけている。着ているのは太い濃淡のある縞(しま)の着物で、羽織には地紋が入っているらしいがはっきりとはわからない。表情が心なしか暗いように思われる。

志津さんと哲二の仮祝言の記念写真が残っている。

障子を背に並んで写っていて、哲二のほうは機械工らしく刈り上げの短髪で黒い羽織の下に細かい四角な網目の織り柄の着物に袴(はかま)を着用という姿である。

志津さんのほうは絞りらしく見える大きな花と葉の柄の着物に明るい単色の帯、その上に袖に小さな花柄の入った羽織を重ねていて頭は“山崎の小母さん”と写っていた写真の髪型のままだ。眼鏡も同じものをかけているようである。

昭和3(1928)年当時、和装の花嫁衣裳には最低で600円、いちばん多かったのが1000円クラスで最高は3000~3500円かかったという。“黒一越縮緬八掛詰袖模様小袖”をはじめじゅばん、下着、丸帯、白羽二重足袋等々から草履まで18品そろえて311円35銭かかった(『婦人画報』昭和3年10月号より引用/『黒髪と化粧の昭和史』)。

志津さんたちの仮祝言では、哲二の袴はひょっとすると借り物かもしれないが、ともかく自分たちの現に持っている衣裳ですんだのだから負担は小さかったのである。

記念写真の志津さんの左手中指に黒い指輪がはめられている。

これは志津さんの話によると“黒ダイヤ”の指輪だということで、哲二にこの時もらったものだという。哲二からの初めてのプレゼントだったわけで、「これがいちばんうれしかった」と志津さんは言うのであった。


食の大正・昭和史 第七十三回
2010年04月21日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十三回

                              月守 晋


●結婚の準備(2) 前回のつづき
「主婦之友」昭和6年3月号が紹介する「新家庭向のお臺所道具」

10.フレンチフライパン(手付き鍋に金網のざるを入れたもの。煮物を形くずれせず取り出せる) 2円
11.すき焼き鍋 1円
12.フライパン 50銭~
13.蒸し焼き器(魚、野菜、菓子など) 1円60銭
14.親子鍋(どんぶり飯用) 40銭
15.コスモス鍋(胴の部分が二重になっているので早く煮えなかなか冷めない) 2円(小型)
16.角型蒸し器(ご飯、茶碗蒸し用) 2円10銭
17.コーヒーポット(「新家庭の必需品」とある) 2円10銭
18.サイフォン(コーヒー、紅茶用) 2円60銭(小型)
19.シチュー鍋(ほうろう引き) 80銭~
                               計 32円5銭

誌上に紹介されている台所用具全品を購入すると198円7銭かかることになる。

『にっぽん台所文化史』(小菅桂子/雄山閣/‘98)には昭和5年11月号の「婦人倶楽部」に掲載された「三越マーケット台所用具係が選んだ新世帯道具」のうち30円内外と50円内外でそろえられる品数・価格一覧が引用されている。

夫婦2人の勤め人の新世帯用に標準的な“万人向き”の品を選んだということなので、孫引きをちゅうちょせず引用してみよう。

[参拾円内外]の部は「御飯茶碗 4ヶ 40銭」で始まる。以下お椀4ヶ60銭、お箸1膳15銭、同1膳9銭(夫用と妻用か?)、箸箱1ヶ45銭、湯呑み2ヶ30銭、西洋皿3枚48銭、小皿5枚45銭、やかん1ヶ40銭、急須と茶碗1そろい70銭、茶筒1ヶ25銭、茶托5ヶ30銭、菓子器1ヶ50銭、ニュームお釜(6合たき)1ヶ1円、ニューム鍋小1ヶ30銭、大1ヶ60銭、お玉杓子1本10銭、七輪1ヶ40銭、バケツ小1ヶ28銭大1ヶ50銭、すり鉢1ヶ35銭、すりこ木1ヶ7銭、まな板1ヶ55銭、等々で50品目計23円66銭である。もっとも高価なものは「ねずみ入らず」の6円だ。

ちなみに「ねずみ入らず」はねずみに食われぬよう食物を入れておく網戸の戸棚である。

50円内外でそろえようとなると基本的な品目に変わりはないが単価が高くなり、スプーン、ナイフ、フォークといった洋食用のものが加わり、七輪はガス七輪になり(1ヶ1円40銭)、庖丁にも肉切り庖丁が加わってくるのである。いずれにしてもその日から生活が始められるよう品ぞろえされている。

志津さんが参考にするとすれば、「30円内外」の部だったろう。三越の台所係はさらに70円、100円という標準も選んでいるのだが『にっぽん台所文化史』には除外されている。

ふとんは“嫁入り道具”として欠かせないもので最上の高級品はふとん地が正絹のものである。正絹地にも厚く光沢のある紋を浮き織りにした緞子(どんす)、縦横に色違いの縞模様のある綾(あや)織りの八端(はったん)、白くつやのある羽二重(はぶたえ)、よりのかかっていない糸で織った銘仙(めいせん)と段階がある。

正絹地につづいて正絹に人絹を混ぜたものがあり木綿物がある。

中に入れる綿も上等な白綿から混ぜ物をしたものまで幾段階もあった。現在のように羽毛ぶとんや羊毛ぶとんは普及していなかったのでずっしりと重味のあるふとんも少なくなかった。

嫁入りには夫用と自分用、それに来客用と合わせて3組は持参するのが慣例だった。この他に夫婦それぞれの座ぶとんを1枚ずつ、お客さん用に1組5枚の座ぶとんも必用とされていたのである。 


食の大正・昭和史 第七十二回
2010年04月14日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十二回

                              月守 晋


●結婚の準備
結婚を決心した志津さんは結婚に向かって準備を始めた。

新しく家庭を営むとなると暮しに欠かせない日用家具、炊事器具などをそろえる必要がある。寝具のように女性の側で、つまり花嫁さんが持参するのが当然と慣習化されていたものもあった。

「主婦之友」昭和6年3月号に写真入りで紹介されている「新家庭向のお臺(台)所道具」を引用してみよう。これには当時の価格もついている。ここで紹介されている道具類は主婦之友社代理部で扱っているかデパートの銀座松屋で売られていたものである。

1.テンピ(上火の要らない簡便型) 4円~
2.ガス台(調理台兼用、高さ2尺5寸<約75cm>) 16円~
3.石油厨炉(石油燃料の調理用ストーブ) 18円~
4.藁(わら)製おひつ入れ(1升5合入り) 3円10銭~
5.幸(さいわい)テンピ(簡単にパン、菓子が焼ける) 2円10銭~
6.魔法飯びつ(コルク製保温・冷蔵両用、2升入り) 6円~
7.米びつ(マホガニー製、内部トタン張り、2斗<30kg>入り) 4円80銭~
8.食器戸棚(3段重ね) 65円
9.流し臺(内銅張り、水切簀(す)の子付き)18円~
10.ふきん掛け(ニッケル製) 50銭
11.軽便棚(金属製) 2円50銭
12.錆(さび)ない包丁 野菜用1円~、 魚用1円60銭~
13.パン切ナイフ 40銭~
14.泡立て器 10銭~
15.缶切り  25銭~
16.水こん炉 1円20銭
17.大根おろし 60銭
18.ガスこん炉(ドイツ製、ほうろう引き) 6円50銭(鉄製3円10銭)
19.アルミ製の箱(洗った食器入れ) 2円50銭
20.ほうろう引きボール 小17銭、大68銭
21.ほうろう引き臺物(バタ、砂糖入れ) 50銭
22.ぬか味噌の水くみ 50銭
23.皿洗いブラシ 20銭
24.お料理フォーク 90銭
25.瞬間湯わかし (一方を水道口に接続して火にかけるとたちまち湯が出る。上で煮物、焼物ができる) 1円60銭
26.計量さじ (大1、茶さじ1、茶さじ2分の1、4分の1各1) 15銭
27.計量コップ 25銭
28.芋つぶし 1円60銭
29.パン焼き網 15銭
30.魚焼き 35銭
31.同上 2円50銭
32.火おこし(炭おこし) 80銭
33.茶焙(ほう)じ(石綿製) 32銭
                         計 166円2銭

次の19種は煮たき用の鍋、釜類である。
1.軽便圧力釜 3円
2.蒸し器兼用鍋 2円80銭
3.煮物用鍋(これには「理想的の鍋」という名称がつけられていて「落ちつきもよく燃料代も経済的」とある) 50銭~
4.神仙炉(煙突型の蓋付き。現在のトルコ鍋のような形) 2円60銭
5.湯豆腐鍋(平鍋) 60銭~
6.天ぷら鍋(座敷用) 3円
7.天ぷら台(揚げた天ぷらを置く) 3円
8.二重鍋(特に湯煎に最適) 1円~
9.玉子焼(手あぶりの上で使用できる) 45銭
  (以下次回へつづく)


食の大正・昭和史 第七十一回
2010年04月07日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十一回

                              月守 晋


●婦人雑誌のすすめる家庭料理(2)

「婦人世界」昭和6年3月号には「新恋愛小説」と銘打った吉屋信子の「鳩笛を吹く女」が掲載されている。

登場するのはもう勤めに出ている娘絢子とその母親咲子、そしてこの家の2階に間借りしている大学生浩介。折しも風邪を引いてしまったらしく寝込んでいた咲子を、朝から具合の悪そうなのを心配していた浩介が大学から早目に帰ってきて介抱に励む。医者を呼びに行き、朝から何も食べていない咲子のために重湯を作るのだが、まずガス七輪(しちりん)に火をつけて炭をおこし、おこった炭を長火鉢に移し、その火の上に一握りの米を洗い入れた小鍋をかける、のである。

やがて医者が往診にやってきて、しかるべく手当てをして帰ってゆく。小鍋の重湯はちょうどそのころ煮あがって病人の枕元に運ばれるのである。

家庭の炊事にガスが使われるようになったのは関東大震災後、といわれているが「婦人世界」の読者のうちのどれほどの家庭でガスが使われていただろうか。

1943年、太平洋戦争さなかの昭和18年に沼畑金四郎著『家庭燃料の科学』という燃料をテーマにした書籍が出版された。その内容は「一、ガス使用の知識 二、木炭使用の知識 三、薪使用の知識 四、練炭と炭団(たどん)使用の知識 五、その他の燃料使用の知識・・・・・・」となっていて雑誌の特集などでも燃料に関する記事が多く見られるという(『日本食物史』江原絢子他/吉川弘文館)。

ちなみに「練炭」は石炭、木炭、コークスなどの粉を粘着剤を加えて練り固めたものであり、「炭団」は炭の粉をふのりなどで丸く団子状に固めたものである。

昭和6年当時の都市生活を営む一般家庭でガスを使って炊事をするという家庭は半数にも満たなかったろう。多くの家庭では七輪やかまどを使い木炭や薪を燃やして、時間と手間をかけて料理を作っていた。一椀の重湯を作るにもまず火をおこすところから始めなくてはならなかったのである。

さて昭和6年3月号の「婦人世界」には「誰(だれ)にもすぐできるフランス式な おいしい春の家庭晩餐料理」が紹介されている。調理にはガスを使わなくてはならない。

メニューは以下の通りである。

ポタアジュ・ア・ラ・ピュレ・ド・ポア
青豌豆(えんどう)のポタアジュ
クロメスキ・オー・フロマアジュ
バタ・メリケン粉・鶏卵のお好み焼き(?)
ボフ・ブイイ・メエトル・ドテル
ゆで牛肉のソオスがけ。ソオスにはバタ、メリケン粉、挽き肉、玉ネギ、ニンニク、パセリ、塩、胡椒、香料などを使用。
アスベルジュ・ア・リュイル
ゆでアスパラガスのソオスがけ
サラアド・ド・レイチュ
チサ(レタス)のサラダ
ガトオ・ナンテ
焼き菓子のデザート

「フランス式な」料理に“あこがれ”はあってもいざ実際に作るとなるとそう簡単にはいかなかったろう。食材を買いそろえるだけでも一苦労したに違いない。

それに比べれば「かわり御飯のたき方十二種」のほうはまだしも手を出しやすかったろう。

一、蒲公英(たんぽぽ)の御飯
二、嫁菜の御飯
三、芹の御飯
四、土筆子(つくし)の御飯
五、桑の御飯(桑の若芽をゆでて使う)
六、(小松菜、油菜、水菜、かぶ菜など)飯
七、桃花飯(桃の花弁をゆでて使う)
八、山吹御飯(くちなしの実で色づけ)
九、蓼(たで)の御飯(たでの葉を使う)
十、紫蘇(しそ)の御飯
十一、雛(ひな)の御飯(白酒とよもぎを使う)
十二、変わり五目飯(カキを使う)

このころの主婦が季節の野草を上手に食用として取り入れていたことがよくわかる記事である。


食の大正・昭和史 第七十回
2010年03月31日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十回

                              月守 晋


●婦人雑誌のすすめる家庭料理(1)

昭和6年3月号の「主婦之友」には不景気だった時世を反映してか「一人前十銭以下」でできる「春先きの惣菜料理三十種」が紹介されている。

「惣菜」は日常の食事の副菜、つまり毎日食べる食事のおかずである。

昭和6年当時、10銭で何が買えたかというと、以下の通り。

 白米(2等)約600グラム  牛肉30グラム  塩1.35キログラム  醤油約2合 
 豆腐2丁半  鶏卵3個  砂糖285グラム

さて、1人前10銭の春のお惣菜。

①蛤(はまぐり)の串揚げとキャベツの芥子和え

蛤のむき身をよく洗って水気を拭き取り、3,4個ずつ串に刺してメリケン粉とパン粉をつけ、ラードまたは油でキツネ色に揚げる。

糸きりのキャベツをさっと熱湯に通し、よく水気を切って芥子をといた酢醤油に浸して串揚げと盛りつける。

 <材料費> 蛤のむき身 1人分5銭  キャベツ1銭  その他の材料 4銭

②鱈のパイ

鱈、じゃがいも、牛乳、玉ネギを使った現在のグラタンのような料理。

 <材料費> 鱈1人当り 3銭5厘ほか総計で10銭。
③1人前10銭のチキン・ホットパイ

④1人前9銭5厘の豆腐のキャベツ巻

豆腐、人参、むき身をいり、キャベツで巻いて煮込む。味付けは醤油、あんかけにする。

 <材料費> 豆腐1人前半丁で2銭5厘。人参、キャベツ、むき身が5銭。調味料2銭。

⑤1人前9銭の炒溜糖醋魚片(チャリュウタンゴウペン)

白身魚を薄くそぎ切りにして塩少々をふり片栗粉をつけてキツネ色に揚げる。斜め切りのねぎ、もやし、生姜の薄切りをラードでいため、魚を加え、醤油1・酢1・スープストック2・砂糖と味の素少々を混ぜ合わせたたれを加えてからめる。

 <材料費> 魚1人分 100グラム5銭、もやし1銭、生姜とねぎ1銭、他計9銭

⑥1人前10銭の水餃子(ぎょうざ)

⑦1人前10銭の豆芽炸粉(チャツイサーフン)春さめと豚肉のスープ煮

豆そうめん(春さめ)、もやし、玉ねぎ、ほうれん草、豚肉のスープ煮。豚肉と玉ねぎは前もってラードでいためておく。

 <材料費> 春さめ3銭、豚肉23グラム3銭5厘、もやし、ほうれん草各1銭、他。

⑧1人前9銭の紅焼白菜(ホンショウペーサイ)白菜とカニのいため煮

 <材料費> 豚肉25グラム4銭5厘、白菜としいたけ3銭、その他1銭5厘。

以上8品は東京割烹女学校長秋穂敬子の指導によるもの。

青山割烹講習会長宇多繁野の指導する8品は5人分45銭から50銭の料理。

①むき身とわけぎのぬた 35銭

②まな鰹(またはかれい)の酒蒸し、50銭

③むき身のくわい衣揚げ 45銭

赤貝、あさりなどの貝をすり下ろしたくわいの衣をつけ胡麻油で揚げる。

④豚・こんにゃく・人参の胡麻味噌だき 50銭

⑤このしろの生姜味噌焼き 31銭

⑥さつま飯 45銭

土佐の名物料理、小鯛を使う。

⑦八宝菜 50銭

われわれが現在食べているのはいため物だが、ここで解説されているのは豚肉、白菜、玉ねぎ、人参、竹の子、いんげんをたっぷりの水で煮込む清し汁。片栗粉でとろ味をつける。

⑧焼蟹捲(シャオハイキン) 50銭
カニの玉子巻き。


食の大正・昭和史 第六十九回
2010年03月25日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第六十九回

                              月守 晋


●志津さんの結婚と婦人雑誌(2)

前回は昭和6年の「主婦之友」3月号「家庭円満方法号」の内容を紹介した。

今回は同じ昭和6年の「婦人世界」3月号の内容を紹介しよう。

この年の秋、広島の山間の農村出身の哲二と結婚することになる志津さんは当時の多くの結婚を控えた女性たちと同じように、参考にするためにこうした婦人雑誌の記事に触れることもあったと思われる。

この号の“売り”は「どうしたら良い児が生まれるか」という特輯(集)で、次のような内容になっている。

   *こうして良い子を―良い子を得る秘訣公開 帝国大学教授・医学博士永井潜
   *ほんのちょっとした心がけで よい子が出来る 本誌主筆池田林儀
   *結婚の理想的年齢は何歳か 医学博士齋藤玉男
   *何を食べれば良い児が生れるか 医学博士高田義一郎
   *夫として何を注意したら良い児が生れるか 女医竹内茂代
   *良い児を生む胎教十則 医学博士杉田直樹
   *良いお母さまが語る胎教の実験談
   *良い子を生む母親の心得十ヶ条 医学博士今井環  
   *血族結婚は果たして悪いか 帝国大学教授・理学博士三宅驥一

内容は80年前のものとはいえおおむね穏当なものである。高田博士の論はヴィタミンA、D、Eを多く含む食品の摂取をすすめているものだし、杉田博士の胎教10則も、要は母胎に負担のかかる過度な行為を戒めるというごく常識的な教えにすぎない。

医学・科学の進化した今日でも正しい常識として受け取られるだろう。

しかし「良いお母さまの語る胎教実験談」には“???”となる話もふくまれている。たとえばクリスチャンであった母親が妊娠中に宗教上のことで非常に悩んだために生まれた児が精神病を煩ったとか、英語の教え子のような美しい二重瞼(まぶた)の児をと願ったら親たちや兄姉にも似ないくっきりとした二重瞼の女児に恵まれた、というような“実験談”である。

また「遺伝」について論及した記述などを読んでいると改めて今日の科学が到達した深化の度合いを感じさせられる。

「主婦之友」昭和6年3月号にはゲイリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒ共演の米映画の名作「モロッコ」の宣伝やウテナ水白粉の広告に新派女優の水谷八重子(初代)が登場していて、このころが青春期だった年代の者にはなつかしい雑誌なのだが、それはさておき本題にもどろう。

結婚してすぐに台所を預からなくてはならない新婦のために「主婦之友」は次のような料理記事を提供している。

   *料理に上達する秘訣(料理講座第3講)
    ――家庭料理の本領はこういうところにある――

   講師は本山荻舟(てきしゅう/明14~昭33)。新聞記者・大衆作家として知られ東京京橋で料理屋を経営する食味研究家でもあった人である。『飲食日本史』(昭31)、『飲食事典』(昭33)など食に関する著作が多い。

講座は目分量と手心、我が家の味、材料が主で加工は従、材料を見分ける眼、手順が第一、という5つの小見出しで進められていてこの小見出しを見るだけでも家庭料理には何が大事と荻舟が考えているかわかるだろう。

まず大事なのは自分で実際に作ってみて経験を重ね自分なりの料理法を身につけることで、台所がどれほど合理化され計量器が完備されても作り手の“手心”抜きでは美味しい料理はできないという。

そして“手心”とは、生産地や季節による材料の品質の違い、人数の多少や使える調理道具・調味料の違に応じて“手加減をすること”だというのである。

家庭料理で必要なのは料理屋料理の模倣ではなく“我が家の味”を作ること。そのために必要なのはいい材料を入手することで、安ければいいという考えはまちがっている、と。

「頭のいい女性(あるいは男性)は料理上手」という慣用句を思い出させる講座である。


食の大正・昭和史 第六十八回
2010年03月17日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第六十八回

                              月守 晋


●志津さんの結婚と婦人雑誌(1)

志津さんが結婚を決心したころ、家庭生活のガイド役をになっていたのが“婦人雑誌”であった。

昭和5(1930)年当時、発行されていた婦人雑誌には次のような雑誌があった。

  誌 名     発行元/発行者     創刊年月

婦人世界     実業之日本社      明39(1906)・1月
婦人之友     羽仁吉一・もと子    明41(1908)・1月
婦人公論     中央公論社       大5 (1916)・1月
主婦之友     石川武美ほか      大6 (1917)・3月
婦人倶楽部    講談社         大9 (1920)・10月
女性改造      改造社          大9 ( 〃 )・10月
家の光      産業組合中央会      大14(1925)・5月
              *「家の光」は家庭雑誌

志津さんの姉たちもよくこうした婦人雑誌を家に持ち帰ってきた。定期購読者ではなかったが本屋に立ち寄って写真ページや記事に興味を引かれると財布の口を開いていたのである。

価格はどの雑誌も50銭。「婦人倶楽部」は創刊時にページ数300ページで80銭だったがページ数はその後増えてゆき400ページを超えている。しかし価格のほうは昭和4年に一挙に50銭に値下げし、昭和9年500ページを超えたところで60銭に値上げされた。

発行部数は関東大震災(大正12年)の前年まで「主婦之友」と「婦女界」の二大雑誌がそれぞれ60万部、第3位の「婦人倶楽部」が40万部だったものが、震災の影響が購買欲にマイナスに働くことを恐れた「婦女界」が20万部減の40万部としたのとは対照的に「婦人倶楽部」は「婦女界」が減らした20万部を上乗せして60万部を発行。以後この逆転した順位が定着してしまった。

各誌とも50銭の普通号と年4回60銭の特別号を発行した。特別号には別冊付録がついた。「主婦之友」には大量の別冊付録がつき、それが欲しくて買うという女性が多かった。

別冊付録は洋服の型紙、料理読本、住まいの工夫といった実用物が中心だった。

志津さんも姉たちが読み終えた雑誌を借りてよく読んだ。吉屋信子の小説になじんだのも姉たちに借りて読んだ婦人雑誌を通してだった。

参考までに志津さんが結婚した昭和6年の「主婦之友」3月号をのぞいてみよう。

表紙絵は髪を七三に分けて結った「耳出し髪」の若婦人の肖像で「耳出し髪」は「耳かくし髪」の変型であるらしい。この髪型は昭和4年ごろから流行しはじめたという(『黒髪と化粧の昭和史』廣澤榮/同時代ライブラリー163/岩波書店)。

この号は「家庭円満方法号」だと目玉となるテーマの刷り込みがあり、「一目でわかる婚礼画報」が折畳式付録でついていた(巻頭にとじ込んであったらしいが、入手した際には無くなっていた)。

結婚の季節が開ける3月号らしく写真を多用した画報には婚姻関連の項目が多い。

   *花嫁の髪の結び方    45分で下梳(す)きから結び上げるまでを20枚の写真と説明文で解説してある
   *花嫁のお化粧    22枚の組写真で解説
   *花嫁衣装の着付    4ページの組写真
   *朝から晩までの花嫁の一日    4ページの組写真

こうした写真入りの解説は結婚を間近にひかえている女性にとっては気休め以上に、手順を前もって知ることができたという安心感を与えるものだったろう。

「家庭円満方法号」と銘打ってあるように、円満な家庭を作るためのアドヴァイスが次のように並んでいる。

   *夫婦円満の方法についての良人(おっと)ばかりの座談会(8人の名士)
   *家庭を円満にするための金言(32名士)
   *一日を仲良く暮らす夫婦円満法(新渡戸稲造)   


食の大正・昭和史 第六十七回
2010年03月10日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第六十七回

                              月守 晋


●志津さんの結婚話(2)

ニューヨークの株式市場の暴落で始まった世界的な経済恐慌は昭和5(1930)年3月には日本の経済をも襲った。

三菱造船もその影響から逃れることはできなかった。この間の事情を『新三菱神戸造船所五十年史』(昭和32年)は次のように述べている。

「……昭和二年度から急速度に加わった不況の波は当所全生産部門を麻痺状態に陥れ、創業以来の重大危機に直面した。五年にはやむをえず一挙に790人に上る大幅の人員整理を行った」(同書第2編 経営)。

造船の人員整理はこれ以前にも大正8年に初めて職員78名の整理を実施したのに続き、12年に職員27名・工員173名の計200名、14年に職員48名・工員556名の計604名、総計882名の人員整理を行ってきていた。

経営環境の悪化を「……工事量に悩む同業者間の競争はますます激烈となり、原価の半値以下でなければ受注できぬ状態だった」と同社史は説明している。

このような社内事情の中では、志津さんは自分の居場所を見つけることがだんだんむずかしくなっていたのではないかと思われる。

高等小学校を出てすぐの14~15歳の少女にも勤まる受付や事務補助のような仕事をしながら「この歳にもなって……」と20歳の志津さんが考えなかったとはいえないだろう。

ともあれ志津さんは結婚に向かって一歩を踏み出す決心をした。

結婚適齢期を過ぎてしまった“娘”の行く末を案じていた養母みきもこの結婚に同意した。養父傳治(でんじ)はすでに大正5年に死没しており、一家の支柱は養母だった。働きに出て一家の経済を助けていた“姉”たち(実母の妹たち)も大正9年と14年に嫁いでいた。

家には志津さんと同じ三菱造船に勤める兄と弟竹治、それに末弟末冶が残っていたが竹治は船員になって家を出ており、末治は分家して独立させることになっていた。

この家はやがて兄の悟(さとる)が嫁を迎えて新たな一家を築いていくことになる。悟は志津さんの4歳上、24歳になっていたから結婚するのに早過ぎる年齢ではない。

山崎の小父が紹介してくれた男性は、広島県の山間の農村の出身だった。

広島県に三次(みよし)という町がある(現在は周辺の町村と合併して市になっている)。霧の名所として知られる中国山脈に近い山間の町である。

忠臣蔵の発端となった江戸城中での刃傷(にんじょう)事件で式典指導係の吉良上野介に切りつけた赤穂浅野5万3千石の当主内匠頭(たくみのかみ)の奥方・阿久里の実家がこの三次浅野家だった。

男性はこの三次盆地の入り口に近い農村から高等小学校を出るとすぐ、伝手があって大阪に働きに出てきたのである。

志津さんとの縁談が起きた当時は、京都の路面電車の修理工場に勤めていた。志津さんとは5つ違いの年上で、かなり腕のいい旋盤工という話であった。

後日、夫となったこの男性の口から「白い清潔な足袋(たび)を履いて熱心に洗濯をしている志津さんを見て、よし、この女性(ひと)と結婚するぞ」と思ったと聞かされた。

志津さんは老後、自分の娘から「どうしてお父さんと結婚したの」とたずねられて「おじいちゃんが自分で勝手に一緒になると決めて帰ったのよ。……今から思えば夢のような話よね」と応えた。

男性の名は児玉哲二。

志津さんは哲二と昭和6年9月に結婚することになった。

  <参考>  『昭和文化1925~1945』/南博
          +社会心理研究所/勁草書房 ‘87


食の大正・昭和史 第六十六回
2010年03月03日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第六十六回

                              月守 晋


●志津さんの結婚話

昭和5(1930)年、志津さんに結婚話がもちあがった。志津さんは数え年の20歳になっていた。

志津さんの記憶によると「結婚話はある日急に起きた」んだという。それは秋のことで「山崎の小父さん」が1人の若い男を連れて志津さんの家にやってきた、という。山崎の小父さんというのは志津とは一回りも年上の従姉(いとこ)の「旦那さん」である。

山崎の小父さんと若い男は小1時間、養母の“みき”と雑談をして帰っていった。

2人が帰った後で“みき”に呼ばれた志津さんは「あの若い男のことをどう思ったか」とたずねられた。

「どう思うも、こう思おうも」志津さんは「顔もろくに見ていなかった」のだった。

「あの人はあんたのお相手候補や。腕に職のある人や。こんなご時世やから、食べていけることが一番やで」と養母はひとり言のように口にした。

志津さんの周囲ではこのころ、志津さんの結婚が遅れていることを心配する声が出はじめていた。「女は結婚するなら“はたち前”」にという時代だったのである。

当時の法律の定めでは「男性は満17歳以上、女性は満15歳以上」になれば結婚が認められていた。また男女とも満25歳以上になれば親権者の承知不承知にかかわらず本人同士の自由意思で結婚することが認められていた。

志津さんにはそれまでに好きになった男性はいなかったのだろうか。

どうやらそうではないらしいのである。

志津さん一家の手元に奇跡的に残った10数枚の古い写真がある(詳細はこの連載の昭和20年ごろの回で述べる)。その中の1枚に「…家の小母さん」と裏書してある写真があって、その小母さんがどうやら志津さんが淡い恋心を抱いた男性の母親らしいのである。

その一家は志津さんの家の近所に住んでいたらしく、日頃から親しい付き合いがあった。

当の青年はこのころ盛んになっていた左翼運動に関係していたらしく、行方がわからなくなっていた(昭和5年2月~11月末までに関西地方で共産党員やシンパ500名余りが検挙されたがこの事実は報道禁止になっていて翌6年4月に記事がやっと解禁されている)。

志津さんはあい変わらず三菱造船に勤めていた。しかし常雇いとはいっても日給月給の身分は変わらず、仕事も受付と事務雑用と繁忙部課の手伝いであった。

三菱造船に勤め始めたころの日給は50銭だったが、5年の歳月を経ても賃上げはなかった。

すでにこの連載でも触れているが、1929(昭和4)年10月24日のニューヨーク株式市場の大崩落(いわゆる“暗黒の木曜日”)に始まる世界恐慌の大波は日本経済も直撃した。

世界恐慌が日本経済を襲ったのは翌年の1930(昭和5)年3月であった。商品市場・株式市場が暴落し、とくにアメリカ市場に輸出できなくなった生糸価格の落ち込みは全農家の半数に及ぶ220万戸の養蚕農家に深刻な打撃を与えた。

生糸の価格は29年を100として30年には65.7%に、31年には45.3%に落ちた。さらに30年に大農作だった米価もこの年、28年を100として88.2%に、31年には59.7%まで低落している。

鉱工業も例外ではあり得ず、生産指数は29年を100として30年は78.4%、31年は68.3%まで落ちている。

このような場合、企業は倒産を防ぐため必ず人員整理に走る。29年に4.33%だった失業率は32年には6.88%に達し年間60~70万人の工場労働者が解雇された。

  (参考資料は次回に明記)


食の大正・昭和史 第六十五回
2010年02月24日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第六十五回

                              月守 晋


●『割烹指導書』の中の洋食と中華料理

大阪府の家政研究会が編集した『最新割烹指導書』(後編)には第1学期第1課で西洋料理の朝食としてホットケーキ、オートミール、ハムエッグ、りんごの砂糖煮、コーヒーが取り上げられ、第4課で昼食としてライスカレー、サラダ、いちごのゼリー、いちご水が、晩餐の西洋料理として第2学期第8課でコンソメ、ビーフステーキ、パイナップルババロア、スポンジケーキという献立が組まれている。

以上の他にも後編では次のような洋食が上がっている。

第5課 病人料理
ポタージュ (野菜スープ) ボイルドライス
ポタージュはゆでて裏ごししたばれいしょ500gを牛肉のスープストック200gでゆるめ、2dℓの牛乳を加え火にかける。食パン50gをさいの目に切って(耳を除く)バタでいためスープ皿に入れ、熱くなった前のスープを注ぐ。

ボイルドライスは250gの米を柔らかめの飯にたき、塩で味つけした後牛乳2dℓを加えて煮込み、さらに泡立てた卵1個をかけて半熟の頃合いに供する。

小泉和子『ちゃぶ台の昭和』(河出書房/02年)に、「戦前(太平洋戦争前、1940年前)に一般に洋食がどのくらい普及していたかをみるために、大正5(1916)年から昭和15(1940)年までの女学校の教科書9冊を調べてみたら、朝昼晩の献立90例のうち洋食はわずか8例」だったという記述がある。

その内容は「魚のフライ2例、オムレツ、ハムエッグ、ビフテキ、ライスカレー、チキンライス、豚肉のカツレツ」だった。

『最新割烹指導書』(後編)には既述の他にもドーナツ(シナモン味/第11課)、タピオカのポタージュ、フィッシュ・フリッター(鯛)、ローストビーフ(ブラウン・ソースも)、アップルパイ(以上第12課)、クラムチャウダー、チキンカツレツ、シュークリーム(第19課)を実習することになっている。

さらに「付録」のページにもチキンライス、ハッシライス(ハヤシライス?か。作り方は「ライスカレーと同様」とある)、ロールキャベツ、パイ(魚、肉、野菜、果物)、ワッフル、ビスケットが取り上げられ作り方が簡単に説明されている。

結局、前編では西洋料理が5種、デザート2種、飲料1が取り上げられ、後編には料理が15種、デザート・ケーキ類9種、飲料2種の作り方が解説されていることになる。

小泉の調査に比べると料理の数だけでも2倍強もあり、ケーキやパイ、ソースの作り方まで取り上げられているので当時の教科書としては画期的なものだったろう。これは“高等”女学校用だったということが関係しているのかもしれない。

神戸では大正時代に元町通りと栄町通りの間に中国人の商店が多く俗に南京町と呼ばれ、当時5千500人といわれた中国人の台所を支えていた、という(『目で見る大正時代』国書刊行会)。

志津さんの口からもよく「南京町で・・・」ということばが飛び出したが、志津さんのシナ(中国)料理は“肉まん”がせいぜいだった。

しかし『最近割烹指導書』では後編13課と17課で支那(シナ)料理を学ぶことになっている。

第13課では八宝湯円(豚肉団子の清まし汁)、鶏巻(鶏肉のミンチを“豆腐皮”で巻く、と説明されているが“ゆば”のことか?)、チャーハンを作る。

第17課では鯉の丸あげ、エビ団子の揚げ物、山芋のあめ煮を実習する。

付録にもはまぐりのスープ、八宝豆腐、海参(なまこ)のスープ、えびと青豆のいため物、細切り豚肉のいため物(炒肉絲)、シュウマイ(焼売)など10種の料理法が載っている。


食の大正・昭和史 第六十四回
2010年02月17日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第六十四回

                              月守 晋


●高等女学校の『割烹指導書』後編(2)

前回は第1学期第1課で習う「西洋料理」の朝食を紹介した。
西洋料理の昼食を習うのは第4課で、献立は「ライスカレー、サラド、ストロベリーゼリー、ストロベリー水」である。

まずはライスカレー。

<材料>
・飯 米350g 水5dl(デシリットル)
・掛汁 バタ10g カレー粉7g(大さじ1) メリケン粉15g(大さじ2) スープ5dℓ 塩4g 
胡椒少々
・具 人参100g グリーンピース75g 馬鈴薯100g 鶏卵300g(6個)

<作り方>
適宜の大きさに切り塩・胡椒をした牛肉をバタで色づくまでいためて別の器に取り置き、後に野菜を入れてよくいためる。次にメリケン粉とカレー粉を加えて充分にいため、色がついたら作り置きのスープ(煮出用牛肉200gを細かく切り1ℓの水が半量になるまでとろ火で煮つめる。前編第18課で既習)で徐々にのばし、最初にいためた牛肉を入れてしばらく煮込んだ後塩・胡椒で味をととのえる。これを皿に盛った温かい飯にかけ、卵を1個ずつ割って入れ供する。

取り合わせの「サラド」は「ストロベリー、キュウリ、ばれいしょ、レタス」のサラダで「オリーブ油中さじ4、西洋酢中さじ2、塩少々」を鉢でよく混ぜ合わせた「フレンチドレッシング」で食する。

デザートの「ストロベリーゼリー」にはゼラチン40g(約10枚)を使う。また「ストロベリー水」は布巾(ふきん)でイチゴをしぼってジュースにするもの。冷水で薄めて砂糖を加える。

ちなみにわが国最初の民間の日本語新聞「海外新聞」を慶応元年に創刊した岸田吟香は明治9年にレモン水を発売して評判になった。明治政府の勧業寮はアメリカからイチゴの種苗を同8年に輸入しているのだが、39年に初物のイチゴ1粒が5銭もした。東京で盛りそば1杯2銭というころの話である。

西洋料理を「晩餐(ばんさん)」として実習するのは第2学期の最初の時間第8課においてである。

第8課で実習するのは「コンソメ、ビーフステーキ、パイナップルババロアン、スポンジケーキ」という献立である。

<コンソメの材料>
牛肉200g 玉ねぎ80g 人参80g 甘藍(キャベツ)1枚 グリーンピース50g(3分の1缶) 水1.5ℓ  塩少々 胡椒少々

<作り方>
1 牛肉を細かく切り水にひたしておく
2 野菜を2~3切れに大きく切っておく
3 グリーンピースに熱湯をかけておく

牛肉とひたした水をとろ火にかけ、煮立ってきてあくが浮いてきたら手早く取り、野菜を入れて半量になるまで煮詰め、塩・胡椒で味をつける。鍋を火から下ろし、牛肉と野菜をこし取る。こし取った人参をあられに切りグリーンピースと共に皿に盛りスープを注ぐ。

ホテルなどで現在出されるコンソメスープは何日もかけて煮込んで野菜と肉のうま味を引き出すようだが、この実習のスープが2時間という制限時間内の仕上げになるのはやむをえない。

北海道で開拓使がキャベツや玉ネギを初めて栽培したのは明治4年のことだが、キャベツは明治30年代の終わりころにはふつうの野菜として八百屋で売られていたという。生で食べても火を通してもおいしく食べられるので重宝されたのだろう。

ちなみにキャベツの千切りがつきもののカツレツは東京銀座の煉瓦亭(れんがてい)が明治32年に発案したものという。40年代末には家庭料理として定着していた。


食の大正・昭和史 第六十三回
2010年02月10日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第六十三回

                              月守 晋


●高等女学校の『割烹指導書』後編(1)

『割烹指導書』後編は高等女学校の最終学年となる5年生が前編と同じように隔週1回2時間の実習を1年間つづけると、卒業後すぐ結婚しても十分一家の主婦がつとまるよう編集されている。

内容は一般的な庶民の家庭というよりも中流以上、月収が130円を超える程度の余裕のある5人家族の家が想定されているのではないかと思われる。

ちなみに昭和8年の都知事の年俸が5300円、月額440円余りであり公立小学校教員の初任給は月額40~55円、大工の手間賃は1日わずか2円だった(上記数字の出典は『物価の文化史事典』)。

さて、下巻の第1課は「西洋料理」の朝食で内容は次のとおりである。

・ハットケーキ(表記は原本のまま)
・オートミール
・ハムエッグ
・林檎(リンゴ)砂糖煮
・コーヒー

ホットケーキの材料は

メリケン粉200g  玉子100g(2個)  焼粉(ベーキングパウダー)5g  砂糖80g  牛乳1デシリットル(100cc)  バタ40g  砂糖蜜0.5デシリットル

材料がそろったらまず生地を作る準備。

1 メリケン粉を3~4回ふるいにかける
2 摺り鉢に卵黄を入れ、砂糖をふるいながら加え、摺りこ木でよく摺り混ぜる
3 卵白を泡立てておく

・作り方

準備2の摺り鉢に牛乳を加えてよく混ぜ、次に1のメリケン粉をさらにふるいながら入れて軽くかき混ぜ、3の卵白と焼き粉を加えてさっと混ぜ合わせる。

ホットケーキパン(フライパンでもよし)を火にかけ、バタを引き、上記の生地を金杓子ですくい、適当な大きさにひろげて焼く。

温かいうちに砂糖蜜をかけて供す。

お読みになればおわかりのように、このころはホットケーキ1枚焼くのにもずいぶんと手間をかけていたのだ。いまは小麦粉に砂糖や麦芽糖、ショートニング、コーンスターチ、食塩、脱脂粉乳、植物油脂その他もろもろを加えて調合した「ホットケーキミックス」をスーパーあたりで買ってきて、牛乳と卵を割り入れてフライパンで焼けば簡単に出来上がる。

簡単で便利といえば便利だが、味気ないような気もするがどうだろうか。

この朝食メニューで注目されるのはオートミールである。オートミールは燕麦(えんばく)のおかゆだ。これも現在はインスタント食品として容易に手に入る。しかしこの指導書では二重鍋で煮ることになっているから、オートミール用にひき割りした燕麦がデパートや西洋食品専門店などで売られていたのであろう。

さて、次はコーヒー。覚めやらぬ脳髄に活気を与えるために濃いめのコーヒーは良い選択だが、この指導書ではどうやら煎(い)ったコーヒー豆を豆のまま使うらしい。指導書の解説文をそのまま引用すると、
「コーヒーポットにコーヒーを入れ、熱湯を注ぎて火に掛け、沸騰したる時直ちに火よりおろしてコーヒーカップに注ぎ、・・・・・・」
とある。

これを読んで思い出すのは学生のころ観たアメリカ映画の西部劇である。夜になって野営をするカウボーイたちが焚き火の上にやかんを掛け、コーヒー豆をひと握りほうり込んで沸くのを待つ。

高等女学校生がポットに入れるコーヒーは30g、大さじ5杯分のコーヒー豆である。「豆」と断定した理由は「但し粉末コーヒーを用ふる時は分量を減ずる事」とわざわざ注意書が入っているためである。


食の大正・昭和史 第六十二回
2010年02月03日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第六十二回

                              月守 晋


●高等女学校の割烹指導書の西洋料理(2)

『最新割烹指導書』で西欧の家庭料理の定番であるシチュウ、オムレツ、プディングが取り上げられるのは第18課である。シチュウは牛肉・玉ねぎ・ばれいしょ・人参のシチュウ、オムレツは鶏肉と玉ねぎのオムレツ、プディングは食パンとカレンツを使うもの。

シチュウの牛肉は煮出用と具に用いるものをそれぞれ200グラムずつ使う。昭和8年に牛肉の値段がどれほどしたかというとロースが100匁(375グラム)1円25銭7厘([『物価の事典』/『昭和の歴史』別巻『昭和の卋相』では1等牛肉100匁1円26銭]である。

出汁取り用は安い肉を使うとしても牛肉代だけで1円20銭はかかったろう。ちなみにばれいしょ100匁は20銭、玉ねぎは3銭9厘だった。

この指導書では煮出用牛肉を細かく切って1リットルの水に入れ、とろ火で水が半量になるまで煮つめる。次に大切りにした人参、じゃがいも、玉ねぎをシチュウ鍋でバタでいため、そこへ出汁を加え、具の肉を塊のままいっしょにとろ火で煮込む。肉と野菜が軟らかくなったらメリケン粉15グラムを水で溶いて加えとろ味をつけ、塩とこしょうで味付けする。塊の具の肉を取り出し5切れに切って鍋に戻し、温めてから皿に分けてもる。

大阪家政研究会編『最新割烹指導書』は第2学期を第8課「サンドウィッチ・サラド・レモンティ」で開講し第9課は「飯・鱧(はも)と蓴菜(じゅんさい)の清まし汁・なすの鴫焼き(しぎやき)・ずいきの白ごま和え」に移る。

清まし汁に使う出汁の取り方は第5課で昆布の出汁の取り方を既習している。

第2学期第10課以下の献立は第1学期につづき各月の旬の食材を生かしたものに工夫されている。

第10課 小豆飯、鶏肉と冬瓜(とうがん)の清まし汁、れんこ鯛の塩焼(かぶの付け合せ)
  この課で串を打って魚を焼く方法を学ぶ。

第11課 栗飯、松茸となるとえびの清まし汁、鯖のフライ(パセリの付け合せ)
  このころ、松茸は女学校の料理実習に使えるほど安かったことがわかる。

第12課 松茸飯、金銀豆腐と青のりの清まし汁、きんとん
  「金豆腐」は卵豆腐のこと。「銀豆腐」は絹こし豆腐のことである。「きんとん」には栗とさつまいもを使用する。

第13課 萩(はぎ)の餅、蛤(はまぐり)の酒蒸し、枝豆、大根おろしの酢の物
  「萩の餅」はおはぎである。小豆あん・きな粉・青のりの3種を作る。

第14課 第15課で「正月料理」を学ぶ。第14課で雑煮、煮しめ、御祝儀物(黒豆・田作り・数の子・酢ごぼう)の作り方を、第15課では「一の重」から「與(4)の重」まで多彩な料理を作ることになる。「一の重」は鯛なます、「二の重」は焼物、「三の重」は口取り、「與の重」は甘煮、これほど多くの料理を作るとなると一回2時間の実習ではとても全部はでき上がらなかったろう。

第16課 茶わん蒸し、おひたし、汁粉

第17課 椀味噌汁、筑前だき、あちゃら漬け

第18課 前述

第19課 潮汁、いなりずし、箱ずし

第20課 雛(ひな)節句料理

付録として既習料理を応用した1週間分朝昼夕3食の献立(1~10月)と漬物の漬け方が説明されている。


食の大正・昭和史 第六十一回
2010年01月27日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第六十一回

                              月守 晋


●高等女学校の割烹指導書の西洋料理

大阪家政研究会編『最新割烹指導書(前編)』(大正15年初版発行/昭和8年8版)は第8課で西洋風の献立を初めて取り上げている。

その内容は次のとおりである。

・サンドウィッチ(キウカンバー、ハム、エッグ)
・サラド(レッタス、トマト、エッグ)
 マヨネーズソース
・レモン ティ
 
材料・作り方は以下のとおり。

・サンドウィッチ
 食パン 800グラム(2斤)  キュウリ 200グラム(中1本)  ハム 100グラム  鶏卵 150グラム
 酢 0.5デシリットル  食塩 少々  こしょう 少々  バタ 100グラム  西洋粉からし 30グラム
 パセリ 少々

<準備>
1 食パンの固い部分(耳)を切り除き、薄く切って2枚ずつ合わせておく
2 きゅうりを薄く輪切りにし塩・こしょうをしておく
3 ハムを薄く切っておく
4 鶏卵を半熟にしておく(沸騰した湯に3分入れて取り出す)

<方法>
・キウカンバーサンドウィッチ
 食パンの1枚の内側にバタ、もう1枚には酢でといたからしを塗り、先のきゅうりをはさむ
・ハムサンドウィッチ
 食パン2枚の内側にバタ・酢ときからしを塗りハムをはさむ
・エッグサンドウィッチ
 半熟卵に塩・こしょうを加え、よくかきまぜてつぶしパンにはさむ
 
出来上がったサンドウィッチは固くしぼったぬれ布巾で包んでおき、テーブルに出すときに適当に切ったパセリを飾る。

・サラド
 玉萵苣(たまちしゃ=レタス) 50グラム(2株)  トマト 200グラム(2個)  鶏卵 200グラム  
こしょう
(マヨネーズソース用)
こしょう 0.5グラム  塩3グラム からし1.5グラム  酢0.3デシリットル  サラド油又はオリーブ油 1デシリットル 卵黄 30グラム

<準備>
1 玉ちしゃを1枚ずつはがし、よく水洗いして布巾で水気をよく取っておく
2 トマトに熱湯をかけて皮をむき薄く輪切りにしておく
3 卵を固ゆで(沸騰した湯で6分煮る)し、薄く輪切りにしておく

<方法>
玉ちしゃを皿に盛り、マヨネーズをかけ、トマトと卵をその上に体裁よく置く。

マヨネーズの作り方は先に示した材料から塩、こしょう、からし、卵黄を皿の中でよく混ぜ、次に酢を少量入れてさらによく混ぜた後、オリーブ油を少しずつ落としながら混ぜ合わせる。油がよく混ざったら残りの酢を少しずつ入れてゆるめてゆくのである。

レモンティを入れるのに土びんを使用するところが時代を感じさせる。


食の大正・昭和史 第六十回
2010年01月20日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第六十回

                              月守 晋


●高等女学校で使われていた割烹指導書(4)の2

前回は味噌が歴史的にどのように食べられていたかということに話がそれてしまい、肝心の味噌汁の作り方まで及ばなかった。指導書で解説されている作り方は以下のとおりである。

味噌汁は5人分。材料は白・赤味噌各100グラム、かつお節20グラム、水1リットル、豆腐250グラム(半丁)、ねぎ50グラム(約1本)。

<準備>

 1 水を鍋に入れて火にかける

 2 かつお節を削る

 3 ねぎを切る

 4 味噌をする

昭和5~10年ころの日本の家庭では、かつお節を使うときには自宅に備えてある削り器で使っていた。ビニールの小袋に3グラムとか5グラムずつ小分けにされた削りぶしなどはなかったのである。

同じように味噌も使うたびごとに摺り鉢ですって使っていた。大豆の粒が残っていないこし味噌も湯の中でこし綱を使ってよく溶くのがあたりまえだった。

作り方は「水が沸騰してきたらかつお節と味噌を入れ、煮立ってきたらねぎと賽(さい)の目(さいころ形)に切った豆腐を入れ、再び煮立ってきたら鍋を下ろして椀に盛る」のである。

煮すぎると汁が辛くなるし、豆腐も硬くなると注意がある。また使う味噌によって甘味・辛味が一様ではないので適宜量を加減するようにと注意がある。

味噌汁のほかにはこんにゃくと人参・(干し)椎茸の白あえを作ることになっている。

こんにゃく、人参、椎茸を千切りにし、干し椎茸を戻した湯を加えて煮立たせ、味の素(1グラム)、砂糖(20グラム)、塩(2グラム)、醤油(0.3デシリットル/30cc)で下味をつける。こんにゃくはあらかじめ水からゆでておく。

白ゴマ25グラムを洗って煎り、すぐに摺りつぶし、この中に豆腐1丁(500グラム)、塩(2グラム)、砂糖(30グラム)を入れてよく混ぜ合わせ、先に煮た具を加えてよくあえる。豆腐はあらかじめ布巾で絞ってよくつぶしておかなくてはならない。

以上で第1学期の第1課、2時間の実習でご飯と豆腐とねぎの味噌汁、こんにゃく・人参・椎茸の白あえの食事が出来上がった。

第2課は桜飯とかまぼこと三つ葉の清汁(すましじる)、鰆(さわら)と蕗(ふき)の煮付けの実習だ。

桜飯というのは醤油とみりんで味をつけ色をつけた飯である。魚の煮付けには敷きざるか竹の皮を敷いて煮ると煮くずれしないと注意書がある。

この指導書は季節感に配慮して献立が立てられている。

第3課では「たけのこ飯」に筆しょうが、第4課では「えんどう豆飯」に木の芽和え、第5課で「そら豆飯」にキスの吸い物、第6課には「ちらしずし」が取り上げられ、第7課では「アイスクリーム」があらわれるといった具合である。

ひと月に2回、2時間の実習が原則だから「アイスクリーム」の実習は7月、夏休み前ということになる。この実習で「アイスクリーム」の作り方を覚えたこの教科書の元の所有者「松岡サチ」さんも夏休みには自宅でさっそく腕前を披露したかもしれない。

この指導書では第8課に「サンドウィッチ・サラド・レモンティ」の洋風献立が現われ、第18課に飛んで「シチウ・オムレツ・ブレッドプヂング」が取り入れられている。次回ではこうした西洋風献立の料理法をどのように教えているのかを見てみよう。


食の大正・昭和史 第五十九回
2010年01月14日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十九回

                              月守 晋


●高等女学校で使われていた割烹指導書(4)

前回に指導書で教えられている「湯立て式」の飯の炊き方を紹介したが、今回は「豆腐とねぎの味噌汁」の作り方である。

まず材料。

*白赤味噌 各100グラム
*鰹節(かつお節) 20グラム
*水 1リットル
*豆腐 250グラム(半丁)
*葱(ねぎ) 50グラム(約1本)

作る量は第57回で触れたように家族5人分である。

ここで指定されている味噌の量は5人分としても少々多すぎるように思われる。白赤各100グラムだから総量は200グラム、1人分の量は40グラムになる。ためしにわが家の味噌汁の味噌の量を計ってみたら1人分約15グラム、指導書の半量以下である。

この違いは副食物としての味噌に対する依存度の違いの現れかもしれない。高等女学校でこの指導書によって料理実習が行われていたころには、2010年の現在ほど食材も調味料も種類は豊富ではなかったし、高栄養食品としての味噌に頼る度合いは格段に高かったと思われる。つまり味噌そのものが「おかず」として食べられていた。

奈良時代の東大寺には中国から伝わった仏教の教典を書き写す「写教所」が設けられていた。官給の紙に官給の筆、これも官給の墨を磨って17字詰25行と定められていた写教にいそしむ写教生には、1日かかって3千字を写すと5文の日当、白米2升(現在の8合)、調味料として塩と醤(ひしお=もろみ)、それに未醤(みそ)1合(ごう)が現物支給されていた。この当時の未醤は粉味噌だったといわれ重要な調味料であり副食物だった。

さらに時代が下って平安時代になると、平安京の西の京には味噌を商う店が27軒もあり近江、大和、飛騨が産地として名高かったという。(『日本食生活史年表』)。

味噌を味噌汁として食べるようになったのは室町時代からだと言われ、うりやなすなどの野菜を味噌漬にして食べるようになったのは平安時代以前のことだといわれている(『図説江戸時代食生活事典』)。

味噌の原料は大豆(蒸す、又はゆでたもの)、米麹(こうじ)か麦麹または豆麹のいずれか、そして食塩である。これらを混ぜ合わせて6カ月~1年間密閉した容器で熟成させる。
塩分の多少によって辛味噌と甘味噌に分かれ、米麹を使うか麦麹を使うかでも甘辛の違いができ、色も白いものから赤味を帯びたものまで変わってくる。これは米と麦のでんぷん質が関係しているためである。

愛知県岡崎の「八丁味噌」のように豆麹と食塩とだけで仕込み、3年もかけて熟成させる味噌もある。八丁味噌は色も茶色から深煎(い)りのコーヒー色まで色が濃いのが特徴である。また八丁味噌の産地は愛知、岐阜、三重の3県に限られているようである。

味噌は汁物としてよりもまず調味料として使われ、「おかず」として食べられた。野菜だけでなく魚肉や獣肉の漬け床としても使われ、江戸時代には彦根藩の伊井家が江戸の将軍家と紀井・尾張・水戸の御三家に牛肉の味噌漬を献上するのが慣例になっていたという。

「おかず」の味噌には「なめ味噌」がある。炒(い)り大豆を油で揚げて味噌と合わせた大豆味噌。いためたねぎを合わせるねぎ味噌。柚(ゆず)味噌、落花生味噌、鯛味噌や鰹味噌のように魚肉を炒り合わせたもの。

長野県伊那地方ではコオロギやイナゴを煎りつぶして合わせたコオロギ味噌、イナゴ味噌も食べられていた。


食の大正・昭和史 第五十八回
2010年01月06日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十八回

                              月守 晋


●高等女学校で使われていた割烹指導書(3)

*飯の炊き方 指導書前編第1学期の第1課は「飯の炊き方」「豆腐とねぎの味噌汁」「こんにゃく・人参・しいたけの白和(あ)え」の作り方を学ぶ。この献立は朝食用に考えられているのだろう。

米の分量が700グラム、水が1リットルである。<準備>として1水を釜に入れて沸騰さす 2米をよく洗いザルに入れて水気を切る。

炊く<方法>は「沸騰した湯の中に米を入れて杓子(しゃくし)でかきまぜて中央を少しくぼませ、火の勢いがおとろえぬように注意し、再び沸騰してきたら火勢をやや落として4~5分煮た後火を引き、そのまま10分間蒸らしてからかまからおろし、2~3分置いてから飯びつに移す」のである。

読んでの通り現在の炊き方とは大変に違っている。

日本人は縄文時代後期から米を煮て食べてきた。しかし炊き方は一様ではなく時代によって、また身分階層によっても異なっていた。

平安時代の貴族たちは糯米(もちごめ)を甑(こしき)で蒸した強飯(コワイイ)を毎日定まった食事で食べていた。つまり現在の「おこわ」が常食だったのだ。

宮中の宴や天皇の供御(くご/天皇の食事)も強飯であった。しかし民間では固粥(かたがゆ)が一般的でこれは姫飯(ヒメイイ)とも呼ばれた。現在、ふだんわれわれが食べている「飯」である。

固粥より水分の多いものは「粥(シルガユ)」と呼ばれ、これはすなはち現在の「かゆ」である。

「飯」の炊き方にもいろいろあって上記の「蒸す」やり方の他に「湯立て」「炊干し」「湯取り」などの炊き方があった。

割烹指導書の飯の炊き方は「湯立て」式である。中尾佐助『料理の起源』(NHKブックス)によると「湯立て」法は米の炊き方としてよりもヒエの炊き方として残ってきたという。焼畑農業を伝えてきた越前白峰村では「鍋に湯をわかし、煮えたったところにヒエの実を入れ、ゴロギヤという細い板でよくかきまわし、そのあと蒸して飯に」したといい、この村の農民が平野に下ってきて米の飯をふるまわれたとき「ウジの煮たのを食べるようでうまくない」と述べたという。

『料理の起源』の出版は昭和47年(1972)だがその40年ほど前に出版された高等女学校生徒が使用した実習指導書には、「湯立て」式炊飯法が歴然と生きていたことになる。

「炊干し」法は現在のわれわれが毎日採っている炊飯法である。一定量の米を洗い(現在は無洗米という洗わないでもすむ米が多いが)、ザルなどに上げて水を切り、20~30分置いたのち米と同量の水で炊く。現在は電気釜が勝手に炊きあげてくれるが、大正の頃の子供はかまどに羽釜をかけフゥーフゥー火吹竹を吹いて火を勢いよく燃えあがらせたのち、「初めポッポッ、なかシュッシュッ、ブツブツ時に火を引いて、おせん泣くともふた取るな」と歌いながらご飯を炊いたのである。

「湯取り」法という炊き方の特徴は“おネバ”を捨ててしまうことである。

鍋や釜でまず水をたくさんわかしておき、沸騰したら米を入れ、ふきあがってきたらしばらく置いて釜の中に細長い竹ザルを突っ込み、煮汁(おネバ)をすくい取って捨て、火を弱火にして蒸すという方法である。

東南アジアの米を常食とする地域、国では現在もこの方法で飯を炊く。出来あがった飯はパサパサしておいしくないし、栄養分も不足している。


食の大正・昭和史 第五十七回
2009年12月29日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十七回

                              月守 晋


●高等女学校で使われていた割烹指導書(2)

わが国で最初に設立された女学校は東京女学校で、明治5年11月に東京帝国大学の前身の南校の敷地内に設けられた。その後明治15年に東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)に吸収されて付属高等女学校となり、男子中学校と同程度の学力水準の教育が行なわれた。

この間に公立・私立の女学校が各地に新設されて増えていったが明治32年2月に各道府県に「女子ニ須要ナル高等教育ヲ為ス」女学校の設立が義務づけられた。

しかしこの女学校では男子中学に比べると修業年限が1年短くて4年、理数科のレベルは低く設定され、外国語も学ばなくてよいなどの抑制策が採られる代わりに中流階層以上の「良妻賢母」を育成するために修身や裁縫、家事・音楽に力をそそぐように教科が組まれている。

高等女学校の数はその後も増加をつづけ大正2(1913)年に中学校数を超え、生徒数も14年に上回った。こうした事情が考慮されて9年には5年間の修業年数が認められている(太平洋戦争中の昭和18年に男子中学校と共に戦後の21年まで4年間に短縮された)。

一方国は「質素勤勉/気風ヲ備フル主婦」の育成を目指して修業期間2-4年の「家政に関する学科目」を主に学ぶ“実科高等女学校”も設置したがさほど広がらなかった。

高等女学校または普通女学校で「家事」という科目が教えられていた背景には以上のような国の思惑があったことはさておき、進学していたら志津さんも学んでいたであろう「家事科」の「割烹実習」がどのような内容をもっていたか、大阪家政研究会版の指導書に一通り目を通してみよう。

この指導書の新しい長所といえる点は食材や調味料の分量をメートル法で明示してあることだろう。

前に『趣味と実用の日本料理』(婦人之友社/大正14年刊)というタイトルの料理本の内容を紹介した(第28回~30回)。この本では「酢、塩、砂糖で味をつけ」と説明されていても調味料それぞれの分量は明示されていない。食材についても同様で、この料理本をテキストにして実際に料理をするとなると、家族の人数・味の好みを自分なりに考えて分量を決めなくてはならない。塩が多すぎたり酸っぱすぎたりと作り手は試行錯誤、苦労したことだろう。

調味料などの分量が「大さじ2杯」などとはっきり示されるようになったのは「ラジオ料理」が初めてで、以後汁物、煮物、酢の物などの調味料の割合を示した料理書が多くなった。「当時、調味料の分量を示した料理書や料理記事は赤堀割烹教場のものを除いてまだ少なく、特に料理人の書いたものには数量が公開してあることはほとんどなかった」という(『にっぽん台所文化史』小管桂子)。

『最新割烹指導書』では「分量はメートル法により五人分宛として成るべく熱量計算などに都合よきよう按排」されている。メートル法の採用は「我国の度量衡統一の実現を速進し」たいからだと説明されている。単位はグラム(瓦)とリットル(立)である。

家族の人数を5人としたのは、それがこの頃の標準的な家族数だったからだろう。

「初学者に調理の技術を学ばせるため」と「凡例」が示すとおりに第1学期の第1課は「飯の炊き方」で始まっている。

分量は米700グラムに水が1リットル。

この分量を見てたいていの人は「ヘン」だと思うだろう。それは「炊き方」が違うためである。


食の大正・昭和史 第五十六回
2009年12月24日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十六回

                              月守 晋


●高等女学校で使われていた割烹指導書

ラジオ放送だけではなく大正末期から昭和初期にかけて、雑誌や単行本を媒体として食肉や加工肉、洋野菜や牛乳、バター、マヨネーズなどを使う西洋風料理が一般の家庭にも徐々に取り入れられるようになっていた。

シナ料理も大正13年4月から「婦人之友」が連載した料理記事をもとに15年に出版した『素人にも出来る支那料理』がベストセラーになり、昭和7年までに十数版を重ねるロングセラーになった。また昭和4年に刊行された『四季の支那料理』は11年までに50版を数えるロングセラーになった。(『にっぽん台所文化史』)。

こうした時代の推移に教育界も反応し、家事実習に採り入れるため指導書を編輯、教室で生徒に習わせはじめた。

『最新割烹指導書(前/後編)』(家政研究会編/大正15年初版発行)はそうした教科書の一種である。編集を担当した「大阪家政研究会」は大阪府下の公私立高等女学校の家事科教員が全員所属する団体であった。その会員中から委員が選ばれ内容構成と執筆に当たった。

内容は高等女学校か同程度の女学校の最終2学年で、隔週1回2時間の実習で修得できるように編集され、料理の配列も学期ごと、季節ごとに選ばれている。

いま手元にある『最新割烹指導書(前・後編)』は前編が昭和8年3月25日発行の第8版、後編は昭和7年3月発行の第7版である。編輯兼発行者はすでに書いたように家政研究会、発行所も同じく家政研究会で、所在地が大阪市東区高麗橋2丁目三越内となっている。この三越はもちろんデパートの三越だろう。

ボール紙のケースに前・後編別々に入っている。本体は横12.5cm×縦18.5cm(B6判)、表紙は丸背・布張り・題名などは色箔押しされている。前・後編とも扉(2色)の後に4色の口絵(前編は1丁で「正月重詰」後編は2丁で「茶会の食卓飾り」と「晩餐会の食卓飾り」)、さらに白黒の写真ページが前編に9丁、後編に8丁ついている。

写真ページの内容は前編が正月用調度品、野菜の切り方(基本切の一)(基本切の二)、野菜の切り方(応用)、魚の切り方(一)(二)、魚の刺し方、料理用器具(一)(二)が掲載され後編にはナフキンの折り方(扇形)(リリ一形)(薔薇形)(冠型)、鳥の包丁法(一)(二)、台所模型(大阪市電気局懸賞一等当選)(裏面に平面図)といった内容である。

「鳥の包丁法」は丸々1羽の鶏(毛はむしってある)をどのように包丁を入れてさばき食肉にするかを6枚の写真とキャプションで図解したページである。

定価が前編は60銭、後編が70銭である。ページ数が前編108、後編162と後編のほうが54ページも多いのでこの定価になったのだろう。

ところでこの指導書にはその淡いピンク色の見返しにかつての持ち主の姓名が「五年橘(たちばな)組 松岡幸子」としるされている。後編のほうには「サチ」と片カナ表記されていて、どうやらこちらのほうが本名らしい。「サチ」より「幸子」のほうがカッコイイと考えたのではないだろうか。

この指導書を入手したのは東京神田の古本街の1軒だった。かつての所有者の「サチ」さんは大阪市の高等女学校でこの指導書で料理を実習したのだろう。卒業後結婚して東京へ移り、いろいろあって平成20年前後に所蔵する書籍を整理した、とおぼしい。

昭和8年に高等女学校5年生だとすると、5歳ほど若いがほぼ志津さんと同世代である。昭和8年から平成20年までの「サチ」さんの歳月がどのように流れたかは他人のわれわれには想像もつかないことである。


食の大正・昭和史 第五十五回
2009年12月16日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十五回

                              月守 晋


●ラジオの料理番組

大正14(1925)年3月22日、ラジオ放送が東京で始まった。この時はまだ仮放送で放送局も芝浦の仮設局だったが、7月12日からは本放送が芝の愛宕(あたご)山の新局から開始された。当時の聴取者数はわずか5455人で受信料が月1円。受信機も鉱石検波器を使った精度の悪い鉱石ラジオがほとんどだった。

同年6月1日には大阪でも仮放送が開始され、7月15日には名古屋でも始まった。翌15年8月6日、東京・大阪・名古屋の3社団法人の放送局が合同し「日本放送協会」が設立された。

放送の始まった当時の番組は天気予報、経済市況、ニュース、家庭(婦人)講座、子供の時間、音楽・演芸などで、東京では英語講座も始められた。

そして家庭婦人を対象とする料理番組も始まった。

東京の放送局が「料理献立」の放送を開始したのはまだ仮放送中だった大正14年5月24日である。3局合同後に聴取者数が一挙に20万人を超えたほどラジオ人気が高まっていたので、聴取者としての家庭の主婦を対象とする番組が発案され実行されたに違いない。

大正15年1月からは著名な料理教師や料理人がその日その日の献立と料理法だけでなく食品や栄養に関する知識も加えて放送した。

その放送内容は「けさ放送のお献立」という見出しで読売新聞が紹介した。

大正15年1月から昭和2年1月まで放送された料理献立は2年5月に『ラジオ放送四季の料理』というタイトルの単行本となり出版された。

余談ながら昭和2年はいろいろと事件のあった年で、3月には7日に北丹波地方で3589人の死者を出した大地震があり、同月14日には片岡蔵相の失言に端を発した金融恐慌が起き、7月24日は芥川龍之介が劇薬をのんで自殺と”物情騒然“たる年であった。

こうした世情の中で8月13日、日本放送協会が甲子園から第13回全国中等野球大会(現在の全国高等学校野球大会の前身)の実況放送を行った。これが最初のスポーツ実況放送である。

ところで『ラジオ放送四季の料理』の月別の献立が『にっぽん台所文化史』(小管桂子/雄山閣)に収載されている。解説によると献立数は305種あり、うち洋食が84、シナ(中国)料理が11で残りはすべて和食(210種)だという。

またこの本には付録がついており「ハム料理」と「缶詰の話(付・簡単なる缶詰料理)」が紹介されているという。これを加算すると洋食の総数は97種類になるようだ。

こころみに11月の献立を書き移してみよう。

<和食> きつね飯 蟹の玉子炒り 塩鮭の鳴門巻 薩摩汁 炒り豆腐 千枚漬 鶉豆(うずらまめ)の粉吹煮 烏賊(いか)の芥子(からし)焼 煮込おでん 鯖の名古屋焼 さつま揚おろし大根 ぬた 大根の信田巻 鰯のつみ入(そぎ豆腐、青味、椎茸、白味噌仕立) 菠薐草(ほうれんそう)のスープ 油揚瓢(ひょうたん)の胡麻和(あ)え 大根の酢漬

<洋食> 蛤(はまぐり)のスープ 薩摩芋牛乳煮 ライスカレー シナモントースト(お茶のお菓子) スヰートポテトボール 菠薐草のスープ ベークドマカロニー 牡蠣(かき)ベーコン

料理名を見ただけではどんな料理なのかわからないものもある。「きつね飯」とはどんな料理なのか。「菠薐草のスープ」が和食にも洋食にも挙がっているがなぜだろうか。


食の大正・昭和史 第五十四回
2009年12月09日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十四回

                              月守 晋


●志津さんの三菱造船所時代(5)―つづき

志津さんの仕事は前述したように「受付」だったが、徳大寺所長時代の三菱神戸造船所は不況の真っただ中にあり大勢の職員・工員の人員整理をさぜるを得ない環境にあったから他の部署で人手不足のときは出来る仕事を手伝いにも行かされた。

算数が得意だった志津さんは庶務課庶務計算係や会計課に伝票整理などの手伝いにちょくちょく行かされていたらしい。志津さんの記憶によれば徳大寺所長の秘書に「イデ トラオ」という人がいて、志津さんを「よく働く子だ」といってわが子のようにかわいがってくれ毎月「少女の友」(明治41年2月実業之日本社より創刊、竹久夢二の表紙や口絵、挿絵が少女たちに人気だった)を書店から取り寄せて渡してくれた。

三菱造船の『五十年史』をみると、大正6年11月の職制表には所長、副長と並んで「秘書」の肩書と氏名が記されている。徳大寺所長時代の昭和7年9月の職制表からは「秘書」という役職は消えているが、徳大寺氏の所長就任は大正15年だから、志津さんが勤めていた昭和5年ころまでのどの年かで廃止されたのであろう。

また昭和7年の職制表の庶務課人事係に係長として「井田虎雄」という氏名が記載されていて、ひょっとするとこの「イダさん」が志津さんの記憶に残っていた「秘書のイデさん」かも知れない。

しかし『和田岬のあゆみ』(上)にはもう一人別の「イデ」さんが登場している。大正14年に入社したこの人が入社時に勤務を命じられた時の会計課長は岡田光太郎、その次の課長が「井手」さんで「表向き大変厳格な人で、文章でも帳簿の記入でも厳しく訂正してくださいまして、大変勉強になりました」と回想している。「井手」さんの名が「トラオ」だったかどうかはわからない。

いずれにしても志津さんの造船所勤めは上司にもかわいがられて楽しい毎日だったようである。

昼食の休憩時間には構内からポンポン船、ランチに乗って元町に出て金つばを買ってくることもあった。金つばは小麦粉の薄い皮で小豆餡を包んで焼いた菓子で、俳人芭蕉が活躍していた天和貞享時代(1681-1688年)の京都ではうるち米の粉の皮で包んで白っぽく焼き「銀つば」と呼んでいた。それが江戸に入って小麦粉の皮でキツネ色に焼くようになり「金つば」に変わったのだと菓子研究家が書いている。「つば」は形が刀の鐔(つば)のようにだ円形をしていることから付けられた。

志津さんたちばかりでなく、昼休みに造船所のドックとメリケン波止場を定期運航するランチを利用して“元ブラ”としゃれこむ者が大勢いたと、元職員の1人も追憶している。

昼休みのもう一つの楽しみは「バレーボール」だった。

アメリカで創案されたバレーボールはYMCAの大森兵蔵によって明治41(1908)年に日本に伝えられた。それが職場や家庭婦人など女性の間で盛んになったのは大阪で大正12(1923)年に第6回極東大会が開催され、日本の女子チームが参加して大活躍を見せて以来である。このころは12人制で昭和2年の第8回極東大会のとき、日本の提案で9人制に変わった。

志津さんが職場で楽しんだのもこの9人制のバレーボールで、設計部門のように終日机に向かう職員などは運動不足になるからと、徳大寺所長が所長盃を出して奨励したこともあって昭和5、6年ごろはもっとも盛んだったとある手記にある。

ともあれ志津さんは10代の後半を日給月給の身分ながら“職業婦人”として充実した日々を送っていたのである。


食の大正・昭和史 第五十三回
2009年12月02日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十三回


                              月守 晋


●志津さんの三菱造船所時代(4)―つづき②

志津さんの記憶では「木村のパン」の他に玄米パンも売っていた。

玄米パンも大正の米騒動から生まれた代用食で、タンパク質やミネラル、ビタミンが多く栄養価の高い玄米を混ぜたパンを食べれば節米にもなり一挙両得だと「玄米パン食」を提唱したのは当時の東京市長田尻稲次郎であった。『近代日本総合史年表』(岩波書店)などには大正8年に「売り出された」と記されている。

志津さんもたまには買って食べたらしく「中に何も入ってなく香ばしい味がした」そうで、大きかったが1個5銭もした。

大正9年入社の職員の回想によると「昼めし」は各人まちまちで「直営の五銭のうどんを食う者、森田食堂の二十五銭の弁当を食う者、藤井のパンを買う者など千差万別であって」とある(『和田岬のあゆみ』上)。

ある設計課員(大正9年入社の手記には「昼食休みには課長食堂の一部に店を開く美人パン屋の前に集まって、ジャンケンで餡(あん)パンを賭け…」とある。造船所に出入りするパン屋は「木村」だけではなかったらしい。

また別の職員(9年入社)の回想からは「みかど」という食堂があって喫茶や来客用の食事を作っていたことがわかる。コーヒーやケーキは執務時間中にも販売されていて値段は5銭均一、伝票にサインして月末に給料から精算された。

この元社員の手記からは社員一般が利用できる「会社直営の食堂」と「請負いの森田食堂、丸芳食堂」があったこともわかる。値段は10銭から15銭と「割安な値段」だったという。

また市電柳原線の切戸町電停近くで営業していた「かき」の専門店は、昼食前に電話で申し込めば50銭でおいしい「かき飯」を出前してくれた。50銭は志津さんの日給1日分である。

『五十年史』には「創業当時から従業員食堂を設け弁当持参者の喫食場にあて、その後専従者に経営させて和洋食・めん類を販売させ」とある。さらに大正11年9月に「工員食堂に炊事設備を設け初めて直営の工場給食を開始し」たとある。はじめは昼食だけだったが11月から残業食も始め、12月からは職員の希望者にも利用させ、その数月平均3万5千食ほどになったとも。こういう過程を経て昭和30年代以降の各企業の厚生施設としての「社員社堂開設」へとつながってきたのだろう。

●志津さんの三菱造船所時代(5)

志津さんは和服に白足袋、下駄ばきという姿で自宅から20分ほどの道を歩いて通勤した。男性に比較すると女性の洋装が一般化するのは敗戦後といってよく、志津さんの通勤姿はこのころの女性のごく一般的な姿であった。『和田岬のあゆみ』(上)に昭和の初め、会計課で高砂海岸に汐干狩に出かけたときの記念写真が掲載されている。30余人のうち女性と判別できるのは4人で、みな和服にはかまを着けている。

孫引きになるが『黒髪と化粧の昭和史』(廣澤榮/同時代ライブラリー/岩波書店)に現代風俗・世相を研究して「考現学」を提唱した今和次郎の調査が引用されている。

これは東京銀座での女性の和服と洋服の比率を調査したものでその結果は以下の通りである。

 大正14年  和服99%(33)   洋服1%(67)
 昭和 3年   〃 84%(39)   〃16%(61)
 昭和 8年   〃 81%      〃19%

 *大正14年の調査対象1180人。( )内は男性の比率。昭和8年は女性のみで調査数は462人。

志津さんも写真の女性たちのように、和服にはかまを着けて通ったのだろうか。


食の大正・昭和史 第五十二回
2009年11月25日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十二回

                              月守 晋


●志津さんの三菱造船所時代(4)―つづき①

弁当代わりに木村のパンを買うこともあった志津さんだが、小さい時から甘い物が好きではなかった彼女はジャムパンやクリームパンがあったとしても買うことはあまりなかったかもしれない。

第1次世界大戦は大正7(1918)年11月に終わったがこの年は年初から全国で米価の暴騰が始まり、7月ついに「米騒動」が富山で起こり全国的に広がったことは前に書いた。

政府や府県当局は米飯の代用となるさまざまな代用食を家庭でできる米価対策として奨励した。たとえば東京府は知事名でカボチャを炊き込んだ南瓜(なんきん)飯、白米とおからを半々に炊く卯(う)の花飯、さらにじゃがいも飯やさつまいも飯をすすめている。

米価の高騰はパン食を並及させた。米騒動後には東京と名古屋に製パンのメーカーも誕生した。東京パンと敷島パンである。

日本のパン食普及と戦争は妙に関係が深いようだ。明治維新の最終戦となった元年6月の東北征討のとき、薩摩藩が上野凮月堂に黒ゴマ入りのパン5千人分を兵隊の食糧として納入させた。

維新後、政府は宮中での外国要人との宴会をフランス料理で接待することに決めたが、このためフランスパンとフランスケーキが上流社会の人士に認知されることになった。またイギリス式の三斤棒山型パンは維新を推進した薩摩と長州両藩の後ろ盾がイギリスだったために維新の要人や軍人の見なれたパンであり、明治10年には金板の長方形の焼型で焼く型焼きのイギリス式食パンがいちばん売れていたといわれる。

明治37-38年の日露戦争後は日本で俘虜(ふりょ)生活を送ったロシア兵の中に、革命で混乱している故国に帰還することを嫌って日本にとどまり行商で生計を立ててくらしている元兵士がいた。彼らの商品は固焼きのロシアパンで、日持ちのするわりには酸味がさほど強くはなかったので短い期間ではあったが人気があったという。

第1次世界大戦が終わった後にも同じような現象が起こった。日本各地の収容所に分散されて俘虜生活を送ったドイツ兵俘虜の中にも、戦争終結後の内乱のさなかにある祖国に帰らず、日本でパン屋を開業する者が出た。神戸のジャーマンベーカリーの創始者もこうした兵士の1人であった。ドイツ式のパン焼き窯(かま)は性能が高く火通りのいいパンが焼けるため、日本全国にドイツ窯で焼く小規模のパン屋がふえたのである(『パンの日本史』安達巌/ジャパンタイムズ)。

大正大震災後の13年、新聞各社が和洋折衷(せっちゅう)料理の例としてこぞって和風サンドイッチを紹介している。

たとえば東京朝日新聞が紹介したのは「パンにバターまたは卵白を焼いたものを敷き焼いた干物か鯛味噌をはさむ」というもの(同紙3月22日)。神戸又新日報の和風サンドイッチは「焼き肉、または煮魚の身をほぐしたもの、または魚の干物のつぶしたもの、または煮豆をすり鉢で十分にすりつぶしたものをはさむ」というもの。(同紙4月27日)

読売新聞が5月11日の紙上で紹介したのは「鯛とあんず、卵入りのサンドイッチ」というものである。これがどんなサンドイッチになるのか、想像できるだろうか?

志津さんが買って食べた「木村のあんパン」から話がだいぶ広がってしまったが、神戸又新日報式の和風サンドイッチの中では「煮豆をすりつぶしてはさんだ」ものあたりならば、志津さんも手を出したかもしれない。

 参考:『近代日本食文化年表』小菅桂子/雄山閣


食の大正・昭和史 第五十一回
2009年11月18日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十一回

                              月守 晋


●志津さんの三菱造船所時代(4)

養母みきのすすめで「鐘紡」から三菱造船所に勤めを変えた志津さんは着物をきて白足袋に下駄をはいて造船所に通った。造船所は自宅から歩いて15~20分の距離だった。

勤務時間は朝8時から夕5時までの拘束9時間、昼食時の休み時間が45分だったから実働8時間15分である。

仕事は前述したように受付で、徳大寺所長時代の職制表(昭和7年9月)には総務部の下に庶務課人事係があるので、たぶんここに配属されたのだろう。

勤めには弁当をもって通った。おかずは好物のシャケの粕漬けと養母お手製の奈良漬けで、白米のご飯という弁当である。粕漬けは「受付用の火鉢の上で焼いて食べた」というのだが、もちろん火鉢の出ている冬の時期のことだろう。しかしそれにしてものどかな話である。魚の焼ける匂いをどう処理していたのだろうか。

弁当を持参しない日には「小使い室に来る木村パンを10銭で」買って食べたという。

よく知られているように東京・木村屋の初代安兵衛があんぱんを初めて売り出したのは明治6(1878)年のことであった。ちなみに同じ年に明治政府の遣欧使節岩倉具視(ともみ)の一行がフランスでチョコレート工場を視察した。日本人初のチョコレートとの遭遇だった。

安兵衛がパンを製造販売しはじめたのは明治2年のことで、当時は屋号も「文英堂」と名乗っていた。あんパンの販売と同時に「木村屋」に改めたのである。このころ、製パン業者は木村屋の他には神田でパン屋を圣営する外国人の店が2軒と東京・京橋の風月堂くらいのものであった。

それが15年にはパンの小売店は東京で116軒にふえ、あんパン1個1銭で売るようになり、38年には全国の駅でも1個1銭で売られるというように普及した。

あんパン1個が2銭になったのは大正3(1914)年のことで、当時はそばのもり・かけが1銭5厘、天ぷらそばが3銭だったから2銭という代価はかなり割高に感じられる。

志津さんが10銭も出して買った「木村パン」はあんパン1個が2銭だったので「あんパンの他にもいろいろなパンを買って」食べたのである。

そのなかにクリームパンやジャムパンが入っていたかもしれない。

パン食に不可欠なバターやジャムの普及には、インドカリーで名高い東京新宿・中村屋の創業者、相馬愛蔵・良(のち黒光)夫妻がかかわっている。夫妻は明治34年に東京本郷の帝国大学前にパン屋を開業したが、バターやジャムの量(はか)り売りも始めた。当時のバターやジャムは良質の国内産はほとんどなく輸入物に頼っていた。

夫妻は開店から2年後の36(1903)年に小豆あんの代わりにカスタードクリームを使ったクリームパンを売り出した。カスタードクリームの食味は日本人に好まれ、クリームパンは短期間のうちに全国に広まったのである(『パンの百科』締木信太郎/中公文庫)。ちなみにシュークリームを初めて売り出したのは東京の村上新開堂で明治10年のことである。

同じ明治10年5月、東京・内藤新宿(現新宿)の勧農局でジャムや桃李の砂糖漬を製造販売している。このジャムはいちごジャムだったがこの後、あんずや梅のジャムも作られた。

このころのジャムは缶詰で、38年1月から雑誌「ホトトギス」で発表の始まった夏目漱石「吾輩は猫である」にも苦沙弥(くしゃみ)先生がジャムを8缶もなめて奥さんに小言をいわれる場面が描かれている。このころ、ジャムはパンにぬるものではなく直接口に入れてなめるものだった。


食の大正・昭和史 第五十回
2009年11月11日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十回

                              月守 晋


●三菱造船所時代(3)

*修業生* 大正4年に神戸市内の尋常高等小学校高等科2年を終えて「店童」として三菱造船所に入社した少年は修業生制度のあることを知って、学力不足を補うために夜間の市立兵庫実業補習学校に通った。2年後に造機製図修業生採用試験に合格、同時に25銭の日給が倍額の50銭になった。修業生の身分は「社員と職工との中間」だった。

修業生の年限は5年間で無事終了すると「技手」に昇格できた。修業生の間は教室に当てられた本館応接室や職員食堂、職工食堂で午前中は学科、午後は製図実習、帰宅後も夜間市立兵庫実業補習学校へ通うことが義務づけられていた。このころ製図室から多くの病人、とくに胸を病む者が出たという。

少年は11年3月卒業試験に合格、4月1日付で技手に昇格した。

*職工学校* 三菱造船所は大正8年に「職工学校」も設けている。 大正12年に他の会社からこの学校の教諭として転職したのちに校長も勤めた人物の回想によると「能力のある幹部職工を養成するため」であった。

「職工」を現わす言葉として流行語にもなった“菜っ葉服”がこの学校の制服だったが、ボタンだけは三菱のダイヤモンドマークに「エ」の字をはめ込んだ金ボタンだった。しかし当時は学生服は黒か茶褐色ときまっていたので菜っ葉色の「青服」は世間的にも学生らにも評判が悪大正10年には1、2年生による“制服改正”運動が起きたという。もちろん学校側は「萌え出る若葉の色は高遠な理想、希望に輝く将来を暗示する」ものだと断固としてはねつけている。

この職工学校は『和田岬のあゆみ』に眼を通してみたかぎりでは昭和10年までは継続して運営されている。

*年期制度* 小学校や高等小学校を卆業した少年を採用する制度として「年期制度」という制度もあった。小学校卆業だと数えどしの12歳、高等科2年を終わっていてもせいぜい14~15歳である。現在なら“労働基準法”違反だが当時は明治44年制定の「工場法」で15歳未満の子どもを就労させることができたのである。

職工学校の創立後に年期制度は廃止されたが大正6年当時、小学校卆の年期が4年、高等科卆は3年3か月で日給が15銭と17銭だったという。

*身分制度* 大正14年に本社である三菱合資会社の従業員資格等級(身分制度)を現す用語が統一されたのにならい、造船所でも統一された。

 役員 三菱合資の総理事、常務理事、参与。分系各会社取締役、監査役
 
職員 役員以外の正員と準員
・ 正員…本社使用人
・ 準員…事業所限りの傭員

雇員 事業所限りの傭員に準ずる者

職工 職工・鉱夫・仲仕・水火夫などの労働者で雇員以外の者の総称

明治の創業時には工員にも小頭・小頭心得・組長・伍長といった資格等級があり、これが大正に入って小頭・小頭心得を工長・工長心得といった現代風の呼称に変えられた。さらに昭和に入ると現場の作業員の他にも製図とか記録といった事務的仕事にたずさわる工員もふえたのでこれら間接工に1等から3等まで「1等製図手」「3等記録手」というふうに「手」制度が設けられた。

従業員は構内に出入りするときには記章をつけていなくてはならない。

志津さんが働いていたころの事務関係職員は紺色の円の縁に白地に赤のダイヤモンドマーク、技術関係者は銀円の縁に紺地に白のダイヤモンドマーク。工員で第1通用門から出入りする者はだいだい色の地の横長の矩形の真ん中に黒線が引かれその上に赤色ダイヤモンドと下に職番(工員の個人番号)、第2通用門出入り者は形が縦長だ円形で同じようにマークと職番が入っている。職員記章は銀台で七宝焼き、工員記章は真ちゅう製だった。


食の大正・昭和史 第四十九回
2009年11月05日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十九回

                              月守 晋


●志津さんの三菱造船所時代(2)

志津さんが勤めに出ていたころの三菱造船の所長は、徳大寺則麿というひとであった。この人は神戸が本籍地で、東京帝国大学工科大学造船学科を出て明治36年10月に三菱合資会社に入社、大正14年7月に神戸造船所副長、翌15年6月に所長に昇格している。所長としては第7代目に当たるが、神戸造船の所長は代々、東京帝大の造船学科出身者で占められていて徳大寺所長の前・後任も同窓の先輩・後輩である。

志津さんはこの所長のことを、お公家さんのような面長の美男子だったといっていた。昭和30年ころまで邦画の俳優に徳大寺伸という男優がいて“お公家(くげ)さん”の出身といわれていたが、写真を見ると徳大寺所長も端正な顔立ちで“お公家さん”を連想させる雰囲気をもっている。

徳大寺所長の在任期間は昭和9年1月までの約8年間だが、この8年間はまさに昭和不況期に重なる期間で、所長直属の4部4人の部長のうち3人までもが昭和6年から7年の2年間に急死しているという。

ここの所長を勤めた後は東京本社に転任されて三菱合資会社系列の役員、さらには本社参理事といった地位を目指すのが通例だったようだが、徳大寺所長は本店入りを拒否して六甲に新居を構えて引退してしまったという(『和田岬のあゆみ』中/李家孝)。

大正10年ころからドックに修理に入ってきた船の錆落としに雇われて「ケレンケレンに行ってくるワ」と出かけていた兄・悟もこのころ造船所で働いていたはずだが、悟と同じように神戸市内の小学校を出たあと尋常高等小学校の高等科2年を卒業して大正4年、縁故を頼って入社した人物の回想記が『和田山岬のあゆみ』(中)に載っている。

*店童* 入社時の身分は「店童」というもので、“コドモ”と呼ばれる給仕だった。和服に木綿の縞のはかま、麻裏ぞうりという服装で出社し所属は庶務課だったが他の課の店童が休むと会計課、見積課、受付けとどこへでも回された。兵庫本町にあった郵便局にも本役の受付係りが休みのときは自転車に乗れないので人力車を走らせて代行したという。大正10年入社の元社員の回想に「社用で出かける時には玄関先で交通掛の人力車(5,6台あった)に乗せられ」とあるので、人力車がこのころの社用の乗用車だったのだ。


そのころの「私の日給が25銭で、東京帝大卒業者の初任給が月45円」だったという。

通勤は国鉄東海道線の兵庫駅から和田岬線に乗り換えるか、30分ごとに出ている造船所と三菱倉庫のランチ(小型原動機船、メリケン波止場-高浜-倉庫-造船所)に便乗するか、徒歩で西宮内通り-兵庫大仏(能福寺大仏)前-真光寺前-運河回転橋-真っ直ぐ造船所のコースか、回転橋を渡って尼寺の前を左に曲がり外墓の塀ぞいに新川遊廊横から和田神社前に出るコースを取っていた。

話は横道に入るが、大正から昭和の初期、11月15日から始まる「誓文払い(歳末大売り出し)」では西宮内商店街は河内屋、明石屋、紀ノ国屋、山下、山梅などの呉服屋が店先に商品を積み上げて、赤いねじり鉢巻きに赤じゅばん姿の店員が黒山の買い物客相手に口上も面白く売りさばいていたという。

能福寺の大仏は露坐仏で正月の参道の両側には小さな店がずらっと並び、お年玉をもらった子どもをねらって、生姜糖(しょうがとう)にみりん粕(かす)、タコの代わりにコンニャクの入ったタコ焼きもどきの玉焼き、焼きするめ、ひょうたん型の器に入ったニッキ水、綿菓子、べっ甲あめなどを売っていた。

大仏の線香台を捧げている2人の童子は「おびんずる」と呼ばれ、お詣りきた人は線香の煙に手をかざしておびんずるの頭をなで、その手でおぶっている背中の子の頭を「かしこなれ、かしこなれ」となでたものだという。(『神戸の遊びと遊び歌-大正・昭和の兵庫かいわい』三船清/のじぎく)



食の大正・昭和史 第四十八回
2009年10月28日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十八回

                              月守 晋


「鐘紡」 (つづき)

前回では女工寄宿内に女学校を設置したことを述べたが、鐘紡では早くも明治36年に共働きや乳幼児をもつ未婚女工のために乳幼児室を設け保育料も支給している。2年後には4才~6才児をあずかる幼稚園も作った。さらに従業員のために食品や生活雑貨を低価格で販売する共済会、社宅、病気、事故、死亡などに備える従業員とその家族のための共済組合(掛け金の半額を会社が負担)、総合病院(入院患者100人を収容)などの対従業員厚生組織、施設を40年までに整備している。

紡績業というと“女工哀史”と結びつけやすいが、その点鐘紡は従業員の質と生活の向上に努めその成果を製品の品質に反映させるという近代的な経営を実践していたといえるだろう。

●三菱造船に勤める

鐘紡に短期間勤めに出た後、次に志津さんが働くことになったのは三菱の神戸造船所だった。

「5年ほど勤めた」ということだから、結婚した年から逆算すると大正15(昭和元)年の5月ころからではないかと考えられる。

造船所は兵庫港の西南端、和田岬にあった。創業は明治38(1905)年だから志津さんが勤めはじめた年には21年間操業していたことになる。

造船所には実母みさのすぐ下の弟(戸籍上は志津さんの長兄になっていた)悟がこの5年ほど以前からドックに入った船の錆落としなどの仕事に通っていた。しかし当時の情勢から考えても悟の縁故でということは考えにくい。大正15年の神戸は第1次世界大戦後の経済不況のまっただなかにあり、三菱造船所も経営不振にあえいでいたのである。

大正11年に創業以来初めて78名の職員をリストラしたのに続き翌12年には職員27名と工員173名を、14年には職員48名と工員556名を退社させていた。11~14年の人員整理で153名の職員と729名の工員、計882名の首を切っているのである。

以上の数字は『新三菱神戸造船所五十年史』(昭和32年)の記述によったものだが、同書によれば大正4年末の在籍数は職員361名、工員4228名の計4859名でピーク時の大正7年の在籍数1万1047名に比較するとほぼ半減していることになる。

造船所の建設地は『五十年史』によるとまず民有地を買収し、「和田岬、今出在家町にわたる官有浜地一帯の交換下付を受け、元和田倉庫会社の敷地と倉庫を全部買収」し、さらに和田神社を移転し、漁家を立退かせて造船所建設用地にあてた。

明治30年代初めころの和田岬は「自砂青松の海水浴場で、岬の突端に灯台と勝海舟が築造した砲台があり、その隣に和楽園という有名な遊園地があった」と『和田岬のあゆみ』(上)に倉庫の解体と移転を請負った大林組の元社員が回想している。

『和田岬のあゆみ』(上・中・下巻/昭和47、48年刊)は神戸造船所に勤務した元職員の回想記集である。三菱造船所の職員は大学・工業高校を出たいわばエリートである。工員身分の従業員の回想はふくまれていない(わずかの例外はあるが)ので、志津さんの“兄”の悟さんたち階層の人びとがどんな処遇を受け何を思って働いていたのかは分からない。

ともあれ志津さんは三菱神戸造船所(職員たちは“神船”と略称で呼んでいた)に勤めることになり、与えられた最初の仕事は「受付」だった。

「用件のある外来客をそれぞれの課に電話連絡するか、直接その課へ案内すること」と志津さんは説明した。もらった給与は日給で50銭であった。


食の大正・昭和史 第四十七回
2009年10月21日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十七回

                              月守 晋


●志津さんの就職

大正8年以来の第1次世界大戦終結による戦後不況、昭和2年3月に突発した金融不況とあいつぐ企業倒産に世の中が苦しんでいたこの時期に、女中奉公をやめて養母みきの手元に引き取られた志津さんは、女中奉公に出された時と同様、みきのすすめで「鐘紡」に勤めに出ることになった。

現在は化粧品や医薬品、食品などのメーカー「カネボウ」として知られているが創立された明治19年(1886)年には綿花を取引する商社だった。この商社が翌年、東京隅田川の河畔の鐘ヶ淵に紡績工場を建て、地名にちなんで明治22年に社名を株式会社「鐘淵紡績」と変えたのである。

志津さんが勤めることになったころの「鐘紡(かねぼう)」は日本でもトップの紡績会社に成長していた。

鐘紡が神戸に紡績工場の建設に着手したのは明治27(1894)年6月で、29年9月から4万錘(すい、糸を巻き取りよりをかける機械)規模の大工場として操業を始めた。

工場が建設された場所は和田岬に近い、大正7年の「神戸市街全図(和楽路屋刊)」では湊西区御崎材となっているところである。明治時代の地名では兵庫県八部(やたべ)郡林田村と東池尻村にまたがった地域に相当するようである。

この場所を選んだのは、その頃の綿花綿糸の輸入輸出の中心地大阪ではすでに多くの紡績会社の工場がひしめいており、問題になっていた会社間の職工獲得競争をさけるためだったといわれている。また、神戸は兵庫港と神戸港2つの港をもち新産業地域として発展が見込まれる土地であった。

養母みきのすすめで鐘紡に通い始めた志津さんだったが、勤めた期間はさほど長くはなかったようである。せいぜい2,3か月くらいの短期間だったようだ。

仕事は郵便係だった。社内社外から兵庫支店工場に届く郵便物を仕分けし、各部署に配達してまわる。各部署から他の本支店(東京本店、住道支店、中島支店、洲本支店)に出される郵便物を各本支店ごとに仕分ける、といった単純作業である。

「鐘紡」は大正6年に病没した実母みさが女工として勤めていた会社である。みさはこの会社で電気技師をしていた大垣静夫と出会い、恋におち、志津さんを生んだのである。

しかし、そういう事情を詳細には知らされていなかった志津さんには、かつて実母みさと父親の静夫が働いていた同じ会社で働くことになっても特別の感情をもちようがなかったようである。

ところがある日突然、その父親が志津さんをたずねて家へやってきたという。

「烏帽子をかぶったモダーンな人やった」と志津さんはいう。だが、それ以上の感情はもたなかったと。会えたのが3年前だったら事情は大きく異なったろう。しかし父親は「モダーンな人」という感想を志津さんに残しただけで去っていった。そして2人が出会う機会は2度とやってこなかったのである。

鐘紡は女子工員に対する労務管理の点では先進企業だった。たとえば兵庫工場では明治37年に女学校を寄宿舎に設置し、40年11月には本科4年、幼年科6年、専科3年の学校教育令による女学校へ発展させた。本科では修身(道徳)、国語(読み、書き、作文、話し方)、算術、唱歌、裁縫、体操を教えた。

志津さんの実母みさが鐘紡に勤めはじめたのがちょうどこの時期だから、ひょっとするとみさも私立鐘紡兵庫女学校の女生徒の1人だったかもしれない。

    [参考資料]『新修神戸市史』Ⅱ/第2次産業


食の大正・昭和史 第四十六回
2009年10月15日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十六回

                              月守 晋


● 金融恐慌と神戸(2)

第六十五銀行が預金取り付けに見舞われたのは鈴木商店が同銀行株式の20パーセントを所有する大株主であることが判明したためだった。

鈴木商店は第1次世界大戦の戦需景気に乗って経営を拡大してきたが大戦終結によってそれ以後は巨額の損失を出し業績を悪化させていた。鈴木の資金面を引き受けていたのが台湾銀行で、第1次大戦後の不況が始まった大正9年10月に9千万円だった対鈴木商店の融資額は昭和2年には3億7千万円に増大していたという(『兵庫県百年史』県史編集委員会)。しかも台湾銀行が所持する震災手形は9970万円でそのうち9200万円が鈴木商店とその系列会社の振り出したものだったのである。(前掲書)。

4月8日の第六十五銀行の休業につづき、18日には台湾銀行と近江銀行の市内2支店が休業に入った。近江銀行の休業は関西の経済界に衝撃を与え、その余波が19日、20日にかけての滋賀・大阪・岡山・広島・山口各県の地方銀行の休業となって現れた。

鈴木商店は4月2日に破産したことを公表した。神戸製鋼所・帝国人絹、日本金属、帝国汽船などの60余社を数えた子会社、傍系会社はそれぞれ台湾銀行の管理下に入って経営をつづけるか売却された。破産後の鈴木商店の業務は大阪の直系会社日本商業会社が日商株式会社に縮小されて引き継いだ。

● 市民生活への影響

金融恐慌は市民生活にも悪影響を及ぼした。

支払猶予令(モラトリアム)が4月22日に公布されると市民生活にも影響が出はじめた。モラトリアムの期間は4月22日から5月12日までの3週間とされ、モラトリアムから除外されたのは公共団体の債務の支払い、給料と賃金の支払い、1日500円以上の銀行預金の引き出しとされていた。

モラトリアムが実施されると米や鮮魚、野菜などの食料品の仕入れがすべて現金取引になり、資金の乏しい小売業者は仕入れに難渋する事になった。その反面、掛け売りがふえ、不景気を反映して消費物価が値下がりをつづけたため利益を出すのに四苦八苦の状態だった。

県内の産業も打撃を受けた。主要産業だったマッチ工業とゴム工業は原料の購入や賃金の支払いがスムーズにいかなくなり組合では生産額を半減することを決議している。

鈴木商店だけではなく市内に拠点を置く大企業も甚大な影響を受けた。

神戸市内に拠点をもつ川崎造船所は大戦終結と同時に造船不況に見舞われ、戦後を見すえた製鉄、航空機部門への進出のための巨額の資金投入が十五銀行の休業(4月21日)によって困難となり経営危機におちいった。

神戸市議会も万が一、川崎造船所が閉鎖されることにでもなれば市政にこうむる影響は甚大だとして6月4日に緊急会議を召集し「株式会社川崎造船所救済ニ付意見提出ノ件」を審議した。黒瀬市長は「職工が一万六千人、従業員全部ヲ加ヘマスルト一万七、八千人ニナル。其家族等ヲ加へマシタナラバ七、八万人ニナル。其他関係ノ商工業者ヲ加へマシタナラバ十数万人、関係者ガアル」と影響の大きさを述べた。

地元の「神戸新聞」「神戸又新(ゆうしん)日報」も連日“川崎造船所問題”をとりあげたがけっきょく政府の救済策は実現せず、会社は7月23日に3037人の工員を解雇、8月5日に254人の付属員、翌6日に206人の所員を解雇して事業を縮小整理した。

   【参考資料】「歴史と神戸」第29巻第1号
   『新修神戸市史』産業経済編Ⅲ



食の大正・昭和史 第四十五回
2009年10月08日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十五回

                              月守 晋


●女中奉公をやめる

年号が「大正」から「昭和」へと変わった大正15年の春志津さんの女中奉公は突然終わりをつげた。養母みきが迎えに来たのである。志津さんには「いつまでも女中奉公みたいなもんつづけていてもつまらんから」と理由を告げた。

幼少期から病気がちだった大正天皇に代わって公務を代行するため皇太子裕仁親王が摂政に就任したのは大正10(1921)年11月25日である。天皇は当時42歳、明治34(1901)年4月29日生まれの裕仁親王は21歳、この年3月から9月までヨーロッパ諸国を旅行し、帰国して2か月半のちの11月16日には神奈川県と東京府とを演習場とした陸軍特別大演習を父天皇に代わって統監した。

天皇の病状が初めて公表されたのは前年、大正9年3月のことであり、その後同年7月、翌年4月、10月とつづき、皇太子の摂政就任が発表された同じ日に行われた第5回目の病状発表では「御姿勢は端整を欠き、御歩行は安定ならず、御言語には渋滞を来たす様ならせられ」「御脳力は日を逐ひて衰退あらせられ」と詳細に説明された。

大正天皇が神奈川県葉山の御用邸で崩御されたのは大正15(1926)年12月25日である。享年47歳。

天皇の死去によって「昭和」と改元され、わずか1週間の元年を経て翌昭和2年2月7日東京新宿御苑で大葬が執り行われた。

そして3月15日、昭和の金融恐慌がはじまるのである。

● 金融恐慌と神戸

大正12年9月に発生した関東大地震は思いがけない影響を神戸にもたらした。震災によって破壊された横浜港が使用できなくなり、代わって神戸港が輸出入品の扱い量を増加させたのである。神戸港は全国の港が取り扱う貿易額のシェアを11年の32パーセントから13年には41パーセントへと増加させている。震災後に生産と輸出の拠点を神戸に移した企業も少なくなかった。

しかし震災の影響は昭和2年には牙をむいて日本経済に襲いかかる。その元凶が「震災手形」だった。(1)

震災手形は14年までに整理を終えることになっていたが、昭和2年現在にも経営不振の企業が振り出した決済不能の手形が大量に残っていて、その額は2億700万円にも達していた。

昭和2年1月、政府(若槻内閣)は善後処理法案と損失補償公債法案を議会に提出、審議が紛糾してながびくなか3月14日に片岡大蔵大臣の誤情報に基づく失言(「東京渡辺銀行が破綻しました」)でいっきに恐慌へ突入したのだった。

片岡失言の翌15日には渡辺銀行とその姉妹銀行のあかぢ貯蓄銀行に預金者が引き出しに殺到し両行が休業、この休業がさらに預金者の不安をつのり、取り付け騒動は全国の各銀行にひろがった。

神戸では3月22日に市内で3支店を経営していた村井銀行の各支店が休業したが、23日に手形2法案が議会を通過したため取り付け騒ぎはやや沈静し、全国的にも25日頃から平静さを取り戻しはじめたのである。

しかし、市内に本店を構え三井・三菱と肩を並べようとするほど総合商社として急成長を遂げてきていた鈴木商店とその系列会社を擁する神戸では4月に入ってからが恐慌の本番だった。

まず4月8日に市内に10の本支店、大阪市に3支店をもつ第六十五銀行(資本金1000万円)が800万円の預金引き出しにあいこの日から2週間の休業に入った。

(1) 震災手形・・・・・・震災発生後、政府は被災地の債務に対し30日間のモラトリアム(支払猶予令)を発布する一方、市中銀行が割引した手形の損害を日本銀行が補償する「震災手形割引損害補償令」を併せて発布した。


食の大正・昭和史 第四十四回
2009年09月30日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十四回

                              月守 晋


●大阪庶民の“うまいもん”

蝶子の父親種吉が住まいのある路地の入り口で商っているのは牛蒡(ごぼう)、蓮根、芋、三ツ葉、蒟蒻(こんにゃく)、紅生姜(しょうが)、鯣(するめ)、鰯などを揚げて1銭で売る1銭天婦羅である。

味がよいので評判だったが元手の7厘には炭代や醤油代が含まれていず損をしている。

こういう書き出しで始まる織田作之助「夫婦善哉」は昭和15年に発表されたものだが物語の時代は大正から昭和10年ごろまでだろうと思われる。

織田作之助は昭和14年から敗戦直後の22年2月に喀血死するまで9年という短い期間だったが多くの作品を発表して人気作家であった。

大阪で生まれて府立高津中、三高へと進んで小説を書き始めるが大阪の庶民のくらしを題材としたものが多くそれが評価され人気を呼んだのである。

神戸と大阪では同じ関西といっても都市としての成り立ちも歴史も違うので、食生活を含めてくらしぶりはずいぶんと違っていたろうと思われる。

志津さんが初めて家を離れて働き始めた他郷で出会った食生活がどのようなものだったのか、織田作品から探ってみようというわけである。

「夫婦善哉」は法善寺横丁に現在も実在するぜんざい屋で、織田作品は昭和30年、森繁久弥の柳吉、淡島千景の蝶子、豊田四郎の監督で映画化されこの年の日本映画ベストテンの2位に選ばれた。

梅田新道の安化粧問屋の息子である柳吉が“うまいもん屋”として蝶子を連れてゆくのは戎橋筋そごう横のどじょう汁と皮くじら汁の「しる市」、道頓堀相合橋東詰のまむし(うなぎ)の「出雲屋」、日本橋(大阪では「ニッポンバシ」と発音する。東京は「ニホンバシ」)「たこ梅」、法善寺境内の関東煮の「正弁丹吾亭」、鉄火巻と鯛の皮の酢味噌の千日前常盤座横「寿司捨」、その向かいのかやく飯の「だるまや」などである。

これらはたぶん、作者自身の好みでもあったろうか。

織田の小説にこうした食べ物やその値段が子細に語られるのは「これだけは信ずるに足る具体性」の表現だという作者の信念を作品「世相」を引いて青山光二が解説している。

ともあれ、織田作品から志津さんが13歳から18-19歳ころまでの大正13年-昭和5年ころに大阪市中で目にすることのできた食べ物を拾ってみよう。

( )内は作品の題名

*ミルクホールの3つ5銭の回転焼(「雨」)
*露天売りの1杯5厘(半銭)の冷やしあめ(「俗臭」)
*麦飯と塩鰯の昼飯(「俗臭」)
*玉子入りライスカレー(「夫婦善哉」)
*二ツ井戸の市場の屋台のかやく飯とおこぜの赤出し、鳥貝の酢味噌(「夫婦善哉」)
*味噌汁・煮豆・漬物・御飯の4品18銭の朝食(蝶子と柳吉の関東煮屋が朝帰りの遊客目当てに出す。「夫婦善哉」)
*風呂屋の晩菜の河豚(ふぐ)汁(「人情噺」)
*竹林寺門前の鉄冷鉱泉(「むねすかし」とルビがついている。発泡性のミネラルウォーターか)と焼餅(「わが町」)

志津さんにはこのような大阪の“うまいもん”を目にする機会もなかったろう。

商人の街である大阪では朝は前日の残り飯を粥(かゆ)にして食べ、昼に魚などの副食つきのたいた御飯、夕食に昼の余り物で茶漬けを食べるというのが一般だという(『上方食談』石毛直通)。

志津さんも朝晩は粥か茶漬け、昼はせいぜい煮豆などをおかずに台所で食べさせられていたのだろう。


食の大正・昭和史 第四十三回
2009年09月25日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十三回

                              月守 晋


●行儀見習の奉公(5)

志津さんの口から“座敷牢”という衝撃的なことばが出てきたのは行儀見習の奉公に出ていたころの話を聞いていた時ではなく2、3日後に駄菓子をつまみながらお茶を飲み雑談に興じていた時のことであった。もっともお茶を飲み菓子をつまんでいたのは聞き手とまわりにいた人間のほうで志津さんは甘い物嫌いのうえにお茶を決して飲まなかった。

志津さんの甘い物嫌いは子供のころからのことだったし、水しか飲まなくなったのがいつごろからのことなのかいっしょに暮らしていた子供たちも気づいていなかったのである。

神仏などに願いごとをし、その願いごとが成就する(かなう)まで、たとえば自分のいちばん好きな物を口にしないことを誓う「願かけ」が昔はよく行なわれていた。「酒は生涯1滴も飲まない」とか「お茶をたつ」と誓う行為を「酒だち」「茶だち」と称して周囲も「そんならしょうがないや」と付き合いの悪いのを容認したのである。

志津さんが何か願いごとがあって「茶だち」を始めたのか、それとも何かをきっかけ-----、たとえば身近な人の死などをきっかけにお茶を飲むことをやめてしまったのか、それはわからない。しかし志津さんは死ぬまで温かいお茶を飲むことはしなかった。

話が妙な方向にそれてしまったが、しかし、絹の反物を商う商家に「座敷牢」などというまがまがしい部屋が造られるなどということがあったのだろうか。

映画の中では見たことがある、という人はいるだろう。時代物の映画では藩政改革をこころざす跡継ぎの若殿を側室と手を組んだ悪家老が策略をめぐらせて狂人に仕立てて、格子で囲った一室に閉じ込めてしまうというストーリーだ。格子の囲いには小さな出入口が1つついていて、厳重に鍵がかけられ番人に見張られている。部屋は格子の外の障子を立てられると一日中、日光が入らず薄暗い。

「座敷牢に入れられた時は、障子の桟を数えていた」と志津さんはいうのである。

昔の日本家屋には「ふとん部屋」という小部屋があった。使われなくなった古ぶとんや臨時に雇った手伝いの人に使わせる予備のふとんを収納してある長3畳とかせいぜい5畳ほどの部屋である。たいてい女中部屋の隣りとか表座敷から離れた家屋の裏手の薄暗い隅にあった。

志津さんのいう“座敷牢”はこういう小部屋だったのかもしれない。志津さんがこうした部屋に閉じ込められた理由もわからない。が、たぶん、志津さんの“強情”が原因の1つだったかもしれない。これは理不尽と思うとテコでも動かないところが志津さんにはあった。そんな志津さんを「少しこらしめてやれ」とふとん部屋に押し込めたのかもしれないのである。

自由学園の創始者であり、雑誌「家庭之友(5年後「婦人之友」と改題)」の創刊者でもある羽二もと子(明治6年-昭和32年)は女性のための啓蒙書を数多く書いているが、その中に『女中訓』がある。「訓」は「教えてわからせること」で、つまり「どうすればりっぱな女中になることができるか」の指導書である。

大正元年に書かれているが、つまりは働いている家のために腹を立てず、他人をうらやまず、時間をむだにせず、頭を働かせて要領よく、主人やまわりの人に好かれるように努めなさい、ということである。

こころざしに違(たが)えて女中奉公をしていた志津さんはむろん、こんな模範的な奉公人ではいられなかったのだ。


食の大正・昭和史 第四十二回
2009年09月16日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十二回

                              月守 晋


●行儀見習の奉公(4)

絹の反物を商う商家に奉公に出された志津さんがもらった給金は1か月15銭だったという。これは全額、小づかいとして使うことのできる金銭である。

これが高いのか安いのか。明治末年の例で年額15円という例があるが、これは食事の支度から掃除、洗濯と休む暇もなく追い使われて、主家の家族とは別の粗末な食事にプライバシーに欠ける居間つづきの女中部屋でのくらしというから月割1円25銭、月30日として1日4銭1厘6毛の賃金はやはり安いというべきだろう(『<女中>イメージの家庭文化史』清水美知子著/世界思想社/より引用)。

丁稚(でっち)さんの場合はどうだったのか。

“薬の街”というわれた大阪道修町のくらしを書き留めた『薬の大阪道修町 今むかし』(三島佑一/和泉書店)という本には昭和6年~10年に高等小学校2年を卒業して数えの15歳で店に入った3人の丁稚生活経験者の回想談が収載されている。

昭和6年に奉公したOさんの店では月給2円、9年のHさんの店では初年度50銭で2年めに1円、10年に勤めはじめたSさんの場合は4月が50銭(ただし同額を店が貯金してくれた)で5月に1円、12月には2円になったという。

記述によれば当時素うどんが6銭で夜店の串カツ1本1銭、コップ酒1杯7銭、道頓堀弁天座の封切入場料が50銭だったという。座談会の開かれた平成16年当時の価値換算で、1円が4000円になるという。

こういう店の食事は主人家族のものも含めて質素、というより粗末なものだったらしい。下っ端の丁稚などは一番最後になるので実のない汁だけの味噌汁を飲むはめになった。それでもご飯だけは腹一杯食べられたというから救いはあったのである。

この頃の一般的な家庭での副食物も、平成21年の現在の状況から考えるとたいへん貧弱なものである。

大正14年に当時の東京市が行った“下町”といわれる深川の小学校で320人の児童を対象にした「副食物調査」では、朝はほとんどが味噌汁に漬物、昼は野菜や豆に漬物、魚という答えが出るのは夜だけでそれも半数以下の135名だけである。夜にも漬物と答えた児童が58名あり、卵という答えは3食通じて夕食にわずか5名、肉は昼に食べるという児童が1名だけだった(『近代日本食文化年表』小菅桂子/雄山閣)。

このシリーズで何度か引用させていただいた松田道雄『明治大正京都追憶』(岩波同時代ライブラリー)に、母堂が女中さんたちから「ごじゅう」とか「いちろく」という商家の食事の慣わしを表現することばを聞いてびっくりするという話が出ている。
「ごじゅう」とは5と10のつく日(5日、10日、15日、20日、25日、30日)にだけ魚を副食につけること。「いちろく」は1と6のつく日(1日、6日、11日、16日、21日、26日)にだけ魚がつくのである。

若い時代を東京でくらした両親が牛肉好きで毎日牛肉か魚を副食にする松田家の食習慣を、京都の中京の商家につとめていた女中さんたちは「毎日牛肉か魚を副食にするのを奇異に感じたようだ」と著者は書いている。

志津さんは奉公先でどんな扱いを受けていたのか。朝何時に起き夜何時に寝られたのか。子守のほかに掃除、洗濯もさせられたのか。3度の食事にどんなものを与えられていたのか、志津さんは思い出せなかった、というより思い出そうとしなかった。それほど、いやな体験だったのだろう。その志津さんの口から「座敷牢」ということばが出てきたのである。


食の大正・昭和史 第四十一回
2009年09月09日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十一回

                              月守 晋


●行儀見習の奉公(3)

志津さんが出された奉公先は絹の反物を扱っている店だった。

「店の旦那は」と志津さんはいうのだが、店の主人は群馬県出身のひとで、実家もワイシャツ用の絹反物を商っていた。奥さんの実家は大阪の街屋町でやはり商売をしている家だった(「たしか織物を扱うお店だったと思う」と志津さんはいったが記憶が定かではなかった)。大柄なひとで店員の食事の世話を先頭に立ってやり、手がすくと表の商売も手伝っていたという。

祖母みきがどんな手づるがあってこの奉公先を探しだしたかはわからないのだが、志津さんのこの家での仕事は女中の仕事兼子守だった。

一口に女中といっても奉公先によって仕事もさまざまだし、身分も違う。

『女中奉公ひと筋に生きて』(吉村きよ著/企画・構成游人社/草思社刊)の話者・きよさんが女中奉公に出たのは太平洋戦争後の昭和21年だった。志津さんが奉公に出たときからは25年ほども後のことだが、社会一般のくらしの規範は敗戦前とまだ変わってはいなかった頃である。

きよさんの奉公先は12キロメートルほど離れた村のお大尽様の屋敷で、母親に前渡しされた1年間の給金は2百円だった。

この家にはきよさんを含めて女中が3人おり、上番(うわばん)、中番(なかばん)、下番(したばん)に分かれ受け持つ仕事も違っていた。

上番の受け持ちは主人夫妻の身の回りの雑用や外出時のお供、来客へのお茶出しなどで、洗濯もさせられるが洗濯物は主人夫妻の肌着やハンカチなどの小物、主人のもも引きや奥様の腰巻など大きなものは中番女中の仕事である。下番は洗濯もさせてもらえない。下番の仕事は水汲みや飯炊き、味噌汁作りなどもっぱら土間での仕事である。掃除も分担があり上番は屋敷内の掃除だけやっていればよく、庭の草取りも中番と下番の仕事だから奥様にいいつけられるまでは手を出してはならない。

この屋敷では赤ん坊が生まれると女中とは別に13歳になる子守りをやとって世話をさせた。おむつを替え洗うのも子守りの役目だった。

志津さんが奉公先で与えられた仕事は女中の仕事よりも、もっぱら男の子の子守りだった。男の子の赤ん坊はよく泣くし、もともと女中奉公などに出たくはなかったのだから子守りに身が入らず、赤ん坊がぐずったりすると足をつねったりして背中の子をわざと泣かせたこともあったらしい。

志津さんがもらった給料は1か月につき15銭だった。生活していくのに必要なお金は全部お店が見てくれたので15銭の給金は全額、祖母に渡していた。祖母は着替えの肌着などを届けによく顔を出したようである。実父の大垣の眼から隠すために奉公させたとはいえ、少々、意固地なところのある志津さんに無事に勤まるか心配で様子を見に来ていたのかもしれない。

ところで大正13~15年当時の15銭はどれほどの実力があったのか。

大正13年に東京神田須田町で開業した食堂は野菜サラダ、カツレツをそれぞれ5銭、カレーライス、ハヤシライス、その合いの子ライスを各8銭で売り出した(『日本食生活史年表』)。

内職の手間賃ではズボンのボタンつけ1枚1銭5厘(23銭)、くつ下かがり1ダース12銭(24銭)、紙風船張り200枚30銭(20銭)など。(大正15年の読売新聞の記事、( )内は1日の稼ぎ額)。


食の大正・昭和史 第四十回
2009年09月02日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第四十回

                              月守 晋


●行儀見習の奉公(2)

名傍役として人気のあった俳優花沢徳衛は小学校5年生の11歳で指物師に徒弟奉公に入り、親方の家の雑用から材料運び、道具の手入れと何でもやって夜は仕事場の板の間にござを敷き、10歳の子守とふとんを並べて眠ったと自伝『芝居は無学の耳学問』(近代文芸社)に書いている。

昭和初期まで、小学校を終えぬ女の子が家の事情で子守や女中奉公に出される例は少なくはなかった。

宮城県登米の大工の娘に生まれた早園さつよは小学3年の秋、9歳で大百姓の家に子守に出された。その家には先妻の遺児の2人の男の子と後妻が生んだ2か月ほどになる女児がいて、さつよはこの赤ん坊の子守にやとわれた、といっても給金はない。さつよの表現によれば、「娘同様に扱うから子守に貸して」くれと頼まれて貸されたのである。「貸す」と言えば体裁がいいがそれは「扶持(ふち)抜け」、つまりさつよの食い扶持を1人分抜き家の負担を軽くするためだった。

さつよはこの家で、母乳代りに生米をすり鉢ですり、その米粉を炊いて重湯を作って飲ませ、寒中に背中を赤ん坊に濡らされた着物で昼夜を過ごす。

約束では給金がない代りに袷(あわせ)に襦袢(じゅばん)、羽織をそろえて(これを「一通り(ひととおり)」といった)1年に一通りずつ着せてもらえることになっていたが、14、5歳でやめるときにもらえたのは安物の反物でぬった脛(すね)の長さしかない着物だった。

さつよはその後も年7円の前借で子守に出され、16歳で岡谷の製糸工場の女工になる(これも30円の前借だった)。子守先の食事は大根と麦のカテ飯(混ぜ飯)にお菜が菜っ葉漬けで量をふやした自家製納豆、たまに貧弱な塩引(塩ザケ)がついた。(『さつよ媼(おばば)おらの一生、貧乏と辛抱』石川純子著/草思社)

これまでに何回か引用させていただいた松田道雄『明治大正 京都追憶』(岩波書店)には著者の母親の弟が小学校を卒業すると同時に名古屋の陶器会社に就職し、9か月は耐えたものの「骨と皮だけになって京都に逃げてきた」ことが書かれている。

その会社では1日2食で睡眠時間も5、6時間しかなく、休日もなかったという。

第12回に志津さんが養母のマッチ箱貼りの内職を手伝ったという話を書いた折、大正5年8月に農商務省が「十歳以上十二歳未満ノ者ノ就業ヲ許可スル場合ノ取扱方」を訓令第10号として通達し、第1条で許可される「簡易ナル業務ノ範囲」を第3条で「就労時間」についても規定し、「1日の就業時間は6時間を超えてはならない」ことや「毎月4回の休日を設けること」などを定めていることを述べた。

松田さんの叔父さんは明治42年に小学校を14歳で卒業したというから、この法律が成立する前の事例だが花沢徳衛は志津さんと同年の明治44年生まれ、早園さつよは明治43年生まれの1歳違い。

りっぱな法律があっても、世の中にはその法律では保護されない少年少女たちが多勢いたということである。

さて、志津さんの「奉公」ばなしにもどろう。

「行儀見習」というのは、中級程度レベルあたりの家庭で、さらに上級レベルの家に娘を嫁がせたいと願う親達にとられた方法で、行儀見習に出す先は身分家柄・社会的地位が「あの家ならば」と世間に認められている家が選ばれる。

養母みきが急に志津さんを「行儀見習」に出すと決めたのはひょっとすると、また引き取りに来るかもしれない大垣静夫に志津さんを会わせないようにするためだったかもしれない。


食の大正・昭和史 第三十九回
2009年08月26日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十九回

                              月守 晋


●行儀見習の奉公

実父の大垣静夫が会いに来てくれれば女学校に上げてほしい、と頼めるとひそかに願っていた志津さんはしかし父親に会うことができなかった。

約束どおり父親は志津さんに会いに来て、引き取って帰りたいと申し出たらしいのだがそれを養母みきがきっぱりと断ってしまったというのだ。

「手放すのがおしくなったんだね」と兄嫁の千賀は語った。

大正15年当時、神戸市内には男子の中等学校に相当する公立の女子教育校として県立第一神戸高等女学校(明治後期設立?)、同第二高女(大正14年設立)、市立第一高等女学校(明治後期設立?)、同第二高女(大正11年設立)、女子商業学校(大正6年)、市立湊東と同葺合の両女子技芸学校(共に明治後期の創設か?)があった。

在籍生徒数は県・市立高等女学校の4校で総数3051人である。

市内には明治前期創立の神戸女学院をはじめ親和高等女学校、神戸家政女学校(共に明治後期)、大正に入って甲南高等女学校、森高等女学校、成徳実践女学校、山手高等女学校、野田高等女学校などの私立女学校も設立されていた。

志津さんが小学校6年生だった大正12年の神戸市立小学校の在籍児童数は7万3105人、その6分の1が6年生だとすると翌年の卒業児童数は1万2184人である。

この半数の6092人が女生徒と仮定してその3分の1の約2000人が募集定員450人の県・市立女学校の3校(県立第二がまだ設立前なので)への入学を目指すとすれば倍率は4.4倍となる。

このくらいの競争率なら成績の良かった志津さんのことだから楽々と入学を決めていたかもしれないのだが、実際はそうはうまく運ばなかった。

女学校どころか志津さんは養母みきの意志で、行儀見習が名目の奉公に出されてしまったのである。

「奉公」とは「他人の家に住み込んで、使用人として働くこと」であり。

男の子なら商工業のノウハウを身につけるために住み込んで働く丁稚(でっち)奉公。これは徒弟奉公ともいい、5年~10年の期間を定めて修業し大工や左官などの技術、あるいは商いの仕入れ、販売、帳付けなどの要領を学んでいく。

食事は食べさせてもらえるが給金などはなくわずかなお駄賃がもらえる程度で、休日も藪(やぶ)入りといって盆と正月の年2回の節季だけである。

映画やTVドラマの渋い傍役(わきやく)として人気のあった花沢徳衛は満で数えて11歳の小学5年生のとき、横浜の指物師(釘を使わず板を組み合わせて家具を作る)に徒弟奉公に入った。

約束ではあと1年残っている小学校の課程は夜学に通わせる、年季明けには指物師用道具一式、徴兵検査に着てゆく紋服袴(はかま)、独立して仕事場を持つときの資金200円をくれることになっていた。

ところがまず「夜学へ通わせる」という約束が破られ、寝るときは細工場の板の間にござを敷き、そこへ10歳の子守娘とふとんを並べて眠るという毎日だった。

けっきょく7年後、正月の藪入りで実家に帰っている間に疫病にかかり、それを契機に年季を2年残して奉公をやめた。もちろん、道具一式も200円の仕事場開設資金も、その他の権利いっさいを放棄して許されたという話である。


食の大正・昭和史 第三十八回
2009年08月19日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十八回

                              月守 晋


●実父に会いたい

関東大震災の翌年、大正13年春に志津さんは小学校を卒業した。

志津さんは勉強が好きで、学校が好きだったから上級生になるとどうにかして女学校に上がりたいと考えるようになった。6年生になった志津さんは3,4年の担任の先生が休みの日には先生に代わって算数や読み方を教えたことがあるくらい成績も良かったのである。

それに、近所の小母さんの口からか、上から2番目の(ということは実母みさのすぐ下の妹)フサさんからか、あるいは遠縁の新在家の伯母さんからか、

「志津ちゃんが小学校を卒業する頃には、志津ちゃんのお父さんが志津ちゃんを引き取りに来て、女学校にも上げてくれはるかもしれんで」

と聞いていたのである。ともかく、実の父親が女学校に上げてくれるという夢が志津さんの頭にこびりついてしまっていた。だから小学校を出る頃になると、父親が今日は会いに来てくれるか、迎えに来てくれるかと待つようになっていたのである。

調べてみると実母のみさが死没したのは大正6年7月である。ということは、実母は志津さんが小学校の1年生だった夏まで生きていたことになる。そのことを志津さんが事実として知ったのは還暦も過ぎた頃のことであり、教えてくれたのは兄として育った悟の妻、千賀の口からだった。

そう教えられて志津さんは育った家の2階の部屋に、長姉(実は実母)みさが男の人といっしょに住んでいたことを記憶に甦(よみが)えらせた。

千賀の説明では、その男性は加戸某(なにがし)といい、島根県那賀郡の出身だった。島根県は大正5年に病没した養父傳治の父親の出身地でもある。傳治の父親は松江藩の下級武士だったが明治維新で禄をはなれると、どういうつてがあったのか畳職人としての腕を身につけて開港地兵庫に出てきて世間を渡った。小さな漁村に外国船を迎え入れるための港が造られ、その港を中心に市街が発達していった神戸だから、人が集まり住宅の建築が増えれば畳の需要は当然増えるし途絶えることはない。

傳治の父親はたぶん、時代の動きを下級武士なりに見通して畳職を生活の手段として選んだのだろう。

傳治一家と加戸某とが元松江藩士という縁で結ばれているとすれば、志津さんの実母みさと加戸某を結婚させたのも傳冶・みき夫妻だったかもしれない。

ともあれ実母みさは大垣静夫との仲を祖母みきの反対で裂かれ、志津さんを産んだのち加戸と結婚して実家の2階でくらしていた。
加戸との婚姻届は大正6年1月に出されているから、結婚していた期間はわずか7か月にすぎないということになるが、実際にはそれ以前からいっしょに生活していたことは間違いない。

千賀の話ではみさは男の子を出産したが赤児は間もなく死亡し、みさもまた産後の肥立ちが悪く我が子の後を追った。

みさと加戸との結婚はしあわせなものだったようである。

みさは遺言で自分の死後は3人の妹のうちの1人と結婚してほしいと、言い残して死んでいる。

そして遺言どおりに、3人の妹のうちの真ん中の妹キヨと3年後の大正9年に加戸は再婚し、妻の家に同居しているのである。

さて、志津さんは願いどおりに実父・大垣に会えたか、というと残念ながらそうはならなかったのである。


食の大正・昭和史 第三十七回
2009年08月05日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十七回

                              月守 晋

●食の東西交流 - 関東大震災(5)

地震の被災者が何よりも困ったのは食べ物と飲み水が苦労をしても手に入らないことだった。


震災の状況が明らかになった直後から全国から救済品が続々と送られてきた。救済品は東京では芝浦の埋立地に集められ、府内各区役所に配給されることになっていた。しかし実情は芝浦の倉庫はほとんど焼失し、輸送手段もないまま野天積みされていた米穀類は腐敗し、馬鈴薯は芽を出すという始末だった(10月5日「大阪朝日新聞」)。

震災の年の前年に早稲田大学の文学部仏文科を休学したままこの年に中退していた井伏鱒二は、大学に近い下戸塚の下宿屋の2階で地震に遭った。地震後、茗渓館というその下宿屋では玄米しか売らないからといって、ビール瓶に入れた玄米を棒で搗(つ)かせて各自の食べる分だけ精米させたという。

太平洋戦争(1941, 12, 8-1945, 8, 15)の末期、苦労して手に入れた闇米の玄米を1升瓶に入れて棒で搗き、5分米ぐらいに白くして食べたという話を聞かされたことがあったが、この精白方法は大正時代からすでに行われていたことがわかる。

地震後7日目に井伏鱒二は中央線で郷里の広島県深安郡加茂村に帰るのだが、途中、甲府駅で空豆を1袋、上諏訪か岡谷ではあんパン1つと空豆1袋、中津川駅で大茶碗に味噌汁と握り飯をもらって息をついている(『私の履歴書』日本経済新聞社)。

震災後、関東・東京から多くの人びとが関西・大阪に移り住んだ。そういう人びとの中に江戸流の握りずしの職人がいて、これまで箱ずしや鯖ずしが主流だった上方に握りずしが流行りはじめたといわれている(『日本食生活年表』西東秋男/楽游書房など)。

鯖ずしの本場は京都で比良や比叡の山坂を越えて運ばれてきた若狭の鯖が使われた。この鯖は生鯖ではなく浜で塩をした塩鯖だったが流通事情が良くなった現在は生鯖を京都の各店で塩切りして用いるようである。

箱ずしは四角な木枠にすし飯をつめ、その上に卵焼き、鯖の身の薄切り、赤貝やとり貝などの貝の身、きくらげなどを置いて中ぶたで押さえる。2段にする場合は中間にシイタケやかんぴょうの煮つけをみじん切りにして敷き並べる。使う具は何でもいいのだが、魚のすり身を混ぜ合わせて焼いた卵焼きは欠かせないものである。

こう書いてくるとわかるように、ずいぶんと手間と時間がかかるものである。それに比べて東京風の握りずしは酢飯が馴れるまでといってもさほどの時間ではない。この酢飯の上に魚の薄切りをのせ握ればいいのだから上方のすしに比べればずっと手軽である。それにしても店をかまえているすし屋で握ったはしから客が口に運ぶようになったのは大正12年の大震災以後の話で、屋台店のマナーが店がまえのすし屋に持ち込まれてしまったためだという(『すしの本』篠田統/岩波現代文庫)。

震災でやむなく緊急避難のつもりで関西へ移住した谷崎潤一郎は東京日本橋の生れの東京育ちで、濃い味の関東風の味付けになじんでいたのが関西に住むようになってからこぶ出しの利いた薄味の京都風の味付けでなくてはならなくなった。谷崎は以後晩年まで関西に33年間住むことになるが、おいしい物好きだった谷崎を関西に引き止めた要因の一つは関西の味だといえるかもしれない。

「料理の味は西から東へ移動する」という(『食味往来』河野友美/中公文庫)。また、「京都の味は“料理屋の味”として、大阪の味は“庶民の味”として東京へ流れる」ともいう(同書)。さらに、「上品にできないものは東京に進出しにくい」といい、「タコ焼き」をその例にあげている。

大勢の人が移動した関東大震災後には人と共に様々なものが西から東へ、東から西へと移動したに違いない。

【関東大震災発生後に次のような忌わしい事件が起きていることをわれわれは忘れるべきでない】

・ 朝鮮人・中国人の大量虐殺
・ 労働運動家10人が軍隊によって殺害された亀戸事件
・ 甘粕憲兵大尉による大杉栄・伊藤野枝扼殺事件(野枝のおい7才の宗一も)


食の大正・昭和史 第三十六回
2009年07月30日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十六回

                              月守 晋


●関東大震災(4)

地震で住居を失いほとんど着の身着のままの被災者を苦しめたのは飢えと渇きだった。水道管は強震のため破裂し、地震発生後30分以内で利用できなくなっていた。東京市や横浜市で火災被害が大きくなったのは消火用水が使えなくなり、川や堀、池の水に頼るしかなかったためでもあった。

渇きに苦しむ被災者のうちでもねじ切られた水道管が吹き出す水を飲めた人たちはまだしも幸運だったかもしれない。

『手記・関東大震災』(参照:第33回)に回想記を寄せた服部福(当時23歳)は安田善次郎(安田財閥の創業者)邸の庭の池の水を水面に顔を入れて夢中で飲んだ。黒煙と竜巻が立ち昇る火災地獄の中をパンツ1枚の姿で逃げまどった末のことだった。

震災を生き残った人びとは飲料水の確保と共に食料の入手にも苦労した。

小学3年生の長男を頭に5人の幼児と震災前々日の8月30日に生まれたばかりの女児と6人の子持ちだった生方敏郎は、書生がほうぼう探して1斤(600グラム)ずつのビスケットとカルケット、それに少々の果物を手に入れてきてくれた。

そうこうするうちに馬場孤蝶宅から使いが来て、梅干しとかんぴょうの煮つけの入った大きなむすびが届けられ遅い昼食にありついた。(『明治大正見聞記』中公文庫)

芥川龍之介は余震がおさまるとすぐ渡辺庫輔と2人、どこからか借りてきた大八車を引いて近くの青物市場に行き、南瓜と馬鈴薯をたくさん積んで帰ってきた。

「食糧が必ず足りなくなるし、食糧難が一番こわいと言って・・・・・・。」
(『追想 芥川龍之介』 芥川文述+中野妙子記 / 筑摩書房)

倉庫や倉庫内に保管されていた物品も火災に遭って消失した。東京府下の京浜倉庫連合会加盟の8倉庫には価格にして822万8636円分の内国米、44万7421円分の台湾米の他朝鮮米、外国米、大麦小麦、豆類、各種粉類など大量の食糧が保管されていたのだがすべて灰になってしまった。

9月11日に政府は一般人に玄米一升を40銭で売ることを決定しているが、この値段を基に試算してみると、国内米だけでも2万57石が焼失したことになる。

横浜でも同様に59万4239円分の国内米の他248万5440円分の外国米や台湾米、朝鮮米が灰燼に帰した。

政府は飢餓地帯と化した東京・横浜地区からできるだけ罹災者を地方へ分散させることにした。9月3日鉄道省が一般被難民の無賃利用を発表、翌日から実施した。始発駅は東北線が田端駅、信越線が日暮里駅、関西方面には信越線篠ノ井から中央線経由という迂回路が採用された。東海道線は品川-御殿場間が全線不通、東北線の起点上野駅は上野-日暮里間の線路上に被災者がひしめいていて使用不能になっていたのである。

震災地には戒厳令が布かれ、①公務旅行者、②東京市内に帰宅を必要とする家族がいる者、③多量の食糧を携帯する者、以外は東京市内には入れなくなった。

こうした処置によって16日までに東京市から297万人が退去し、190万人が入京した(『明治・大正家庭史年表』)。

皇居御堀端の日比谷公園はテントやバラック建ての並ぶ避難地になっていたが、9月下旬にはこの公園から有楽町一帯に400余の露店が並んでいた。おでん屋、ワンタン屋、雑炊屋、すいとん屋、汁粉屋、うどん屋、稲荷(いなり)ずしなどで多くは被災した家庭の主婦や娘さんがくらしのために始めた露店だった。代金は10銭から20銭だった(『下町今昔』秋山安三郎 / 永田書房)。



食の大正・昭和史 第三十五回
2009年07月22日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十五回

                              月守 晋


●関東大震災(3)

臨時震災救護事務局調査による統計によれば全潰、半潰、全焼、半焼による被災世帯数は東京府、神奈川県、千葉県では次のとおりであった。


        全世帯数      全潰      半潰
 東京府   827,000  16,481  23,246
 神奈川   274,300  66,853  61,521
 千 葉   262,600  14,385   7,525

                  全焼      半焼
 東京府           310,371    758
 神奈川            65,029     19
 千 葉               449      -

以上の被災世帯数に埼玉、静岡、山梨、茨城4県のものを合算すると全世帯数2,122,900のうち約
35.8パーセント、592,264世帯が被害をこうむった(神奈川の場合は上記の被災世帯数には津波などによる流失被災が含まれている。)

関東大震災というともっとも被害をこうむったのは東京府下の住民だったと思い込みがちだが、被災世帯数の割合いは東京府で約42.4パーセント、神奈川県で約73.8パーセントであり、最大の被害をこうむったのは神奈川県民だったことがわかる。

作家尾崎一雄は大正9年、父親の死から始まる自伝的回想記『あの日この日』に被災体験を書いている(『あの日この日(一)』講談社文庫/昭和53年)。

郷里の神奈川県下曽我村の実家で、当日、朝寝をした尾崎は11時に母親に起こされ、下隣りの山村政治宅へ出向いた。「一緒にパンを食べよう」と誘われていて、食卓には目玉焼きと輪切りトマトの皿が載っていた。政治氏がバタやジャムをつけて皿に盛った食パンに手を出そうとしたとき、「ミシリ、ガタガタと来た」。「顔を見合してゐるとドカンと突き上げられ、二人共あぐらのまま飛び上がった。つづいて、横ざまに薙ぎ倒された。畳が生き物のやうに動き、部屋中の物が一度に倒れてきた。」

戸外に「抛り出さ」れた2人は梅の木に取りついた。(“曽我の梅林”は現在も観梅の名所として知られている)。

梅の木につかまって独楽(こま)のように振り回されて5分か10分かたったころやっと歩けるようになったので西側の道路に出てみると宗我神社の坂下の御影石の大鳥居が無くなっており足柄、箱根の山々に赤ハゲの山崩れがほうぼうに見えた。

回想記には手描きの略地図が添えられているが、倒壊をまぬかれたのは1軒だけで法輪寺と民家1軒が半壊、尾崎家を含む他の22軒はみな倒壊し死者が子供1名大人2名の3名、自力で動けない負傷者が5名出た。

収録されている小田原警察署の「震災調査表」には戸数340、人口2,090のの下曽我村で死者27名、負傷者480名、生死不明2名を出し、全壊戸数320、半壊15、倒れなかったのはわずかに5戸だけという惨状だった。小田原町では5,155戸のうち全壊・半壊・全焼で4,572戸、88.7パーセントの家屋が被災している。

余震は1日に356回、2日289回、3日173回、4日143回と続き15日を過ぎた頃からやっとひと桁(けた)台に落ちついてきた。

被災者は2日頃から飢えと渇きに苦しみはじめた。平成4年現在神奈川県茅ケ崎市に住み、自伝的回想記『三代を生きる』を出版した香川弥生子さんは震災当時は東京品川に住んでいた。明治44年の生まれだというから、志津さんと同年の生まれだ。

大地震の前にはさまざまな前兆現象が起きるといわれているがその日朝、母親がわざわざ弥生子さんを呼んで「あの赤い太陽はどうしたことだろう」と指さし2人で空を眺めたという。


食の大正・昭和史 第三十四回
2009年07月15日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十四回

                              月守 晋


●関東大震災(2)

豊中中学校で校庭の草むしりをしていてM7.9の関東大震災の揺れを経験した西山夘三(建築家、東大名誉教授)は、学校では誰かが「地震だ!」と叫んだ程度にしか感じなかったが、矢つぎばやに出た新聞や号外で「大変なことが東京を中心に起こっている」ことをだんだん知ることになった。(『大正の中学生』西山夘三/筑摩書房)

西山が目にした号外には「地震と駿河湾大海嘯」といった見出しがついていた。

「海嘯」は津波のことである。

震源地が相模湾の深度1300メートルの海底にあったため湾南西部の海底に長さ24キロメートル、幅2~5.5キロメートルに及ぶ範囲で100~180メートルの陥没が起き、反対に北東部では100メートル以上の隆起が生じた。

この陥没と隆起の影響で津波が起き周辺の沿岸を襲ったのである。津波の高さは伊豆の伊東で12メートル、三浦半島剣ヶ崎で6メートル、鎌倉3メートル、房総半島の南端布良で9メートル、伊豆大島の岡田港で12メートルを記録した。

鎌倉に住んでいてこの地震に遭遇した当時18歳の中学生だった中村菊三は、「上下左右などというものではなく、目茶苦茶に続いた」揺れが少しおさまった後、海岸に近い長谷に住んでいた姉夫婦の安否をたずねて履物が見つからぬまま裸足で雪の下の家を飛び出した。

途中、潰れた家々から助けを求める声が聞こえてきたが、1人の手でどうにか引っ張り出せる人は助け、1人の手には余る救助不可能と判断した人には「後で」「待ってて」と声をかけるだけにして途を急いだ。とくに瓦屋根の下になっている人は重量がただならぬ上に道具が皆無だったのでどうにもならなかった。

八幡宮の二の鳥居では重なり合って落下している御影石の下になって、中年の男性が「地の中にめりこんでいる」のを見た。

江の島電鉄の由比ヶ浜の停留所では線路の上に女性の死体を見た。着物が濡れ、髪が乱れていて、大津波で押し流されてきたものと思われた。死顔が姉ではないことを確かめて、手を合わせた。

この付近では潰れた家の材木がほうぼうに積み重なって塊になってい、「倒れかかった電柱や垣根には、着物や蒲団、その他色取り取りの物が、とても想像出来ない高い所に引っ掛って」いた。

長谷の停留所裏にあった二階屋の姉の家はみごとに潰れ、庭が濡れていて、津波の到達を想像させた。

姉夫婦の姿を発見できぬまま中村は何となく海の様子を見たくなり由比ヶ浜に出ようと潰れた家屋の残骸がふさぐ途を抜けて稲瀬川の橋まできて驚愕する。

霊山ヶ崎も稲村ヶ崎も半面が赤土むき出しになっており、崩落した土砂が磯一面を埋めつくし、昨日までの美しい緑の色がまったく失せていたのである。

海は「灰色というか薄黒く、どろんとして、小波一つない不気味な静けさ」で、渚は百メートル以上も沖へ広がっており白砂は濡れた灰色に変わり「怪しい形相」を見せている。海に舟は1隻もなく「小坪(鎌倉材木座海岸に隣接、現逗子市小坪)の沖に、見たことのない大きな岩が二つ浮き上がってい」たのだった。(『大正鎌倉餘話』中村菊三/かまくら春秋社)

巨大地震は容易に地形を変貌させる。この地震と同じく「相模トラフ」を災源とする元禄16(1703)年11月23日(西暦では12月31日)の地震では房総半島南部が最大5.5メートルも隆起し「元禄段丘」と呼ばれている段丘を造った。現在の館山市の市街やJR館山駅はこの段丘上に発達しているのだという。


食の大正・昭和史 第三十三回
2009年07月09日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十三回

                              月守 晋


●関東大震災


大正12(1923)年9月1日、午前11時58分44秒、激烈な地震が関東地方を襲った。激震に見舞われたのは東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨、茨城の1府(都制施行は昭和18年7月)6県、北海道と九州をのぞき本州・四国の全域で強弱の差はあったけれども大地の揺れに人びとは襲われたのである。

その日は2学期が始まる日で、始業式だけで学校は終わったので志津さんは11時過ぎには自宅にもどっていた。一息ついて昼食の支度を手伝おうと茶ぶ台を出した。

養父はすでに亡くなっていた(大正5年)から家には養母のみきと2歳年上の竹治、1歳下の留一と志津さんの4人しかいなかった。茶ぶ台に4人分の茶碗を並べ始めたその時、畳がどんと突き上げられ、部屋全体が揺れだした。

志津さんは夢中で部屋を飛び出し、裏の垣根を乗り越えてカネボウの社宅の広場に逃げ込んだ。

『神戸新聞による 世相60年』(西松五郎著/のじぎく文庫刊/昭和39年)には地震の発生した時間を「午前11時59分20秒」と記しているので震源の相模湾西部(大島と初島の中間)の最深部の海底で11時58分44秒に発生した地震波は36秒後に神戸に届いたことになる。

当時、大阪府豊中中学校の2年生だった建築家・京大名誉教授西山夘三は校庭の草取りをしていた。「もうすぐ昼の十二時だというとき」、その地面がゆらゆら揺れだしかなりの時間揺れていたが辺りを見回しても「これという変化はない」。だれかが「地震だ」と叫んだだけだったという。(『大正の中学生』西山夘三著/筑摩書房)

志津さんがあわててカネボウ社宅の中庭に逃げ込んだころ、東京府本所区横綱町(現墨田区)の「食堂に奉公してい」た同じ12歳の西条久代は被服廠跡の前の小林宅に出前に行き、そこで地震に遭遇していた。揺れが少しおさまったので店にもどろうとしていたところ、出前先の奥さんに「いいから私たちと逃げなさい」とすすめられて逃げ込んだのが被服廠跡だったのである。

この被服廠跡には、ここなら安全と信じた数万の市民が避難地として逃げ込み旋風火災に襲われて3万2000余人が焼死した。東京全市の死者・行方不明者が合わせて10万3300人余(大正ニュース事典/資料編))という人数だから実に約3分の1の人びとがここ1か所で命を落としたことになる。

少女は火災が起きたことは覚えていたが意識を失っていて、気がついたのは震災から3日後のことだった。小母を探しにきた消防団の人が死体を引き起こすのに使っていた鳶口(トビぐち)の先に当たって、激しい痛みを感じ意識を取りもどしたのだった。大勢の焼死した人びとの下敷になっていて命が助かったのだ。

少女はその後、助けてくれた人の家で1年間のお礼奉公をしたという。(『手記・関東大震災/私を助けてくれた人』西条久代(当時12歳) 関東大震災を記録する会編/清水幾太郎監修/新評論社/75年)

太平洋戦争の末期、昭和20(1945)年3月9日の夜から翌10日にかけて、アメリカ空軍のB29爆撃機の空襲によって、約12万人の東京都民が死傷したが、地震という自然災害による二次災害の火災のためにこれほどの死者を出した悲劇は他に例がない。

被服廠跡の広場は高さ8メートルほどのトタン塀に囲まれていて、出入口は2か所しかなかった。この限られた空間に火災をさけて荷車、運送馬車、リヤカーなどに万載した家財道具と共に何万もの避難民がなだれ込んでいたのだった。


食の大正・昭和史 第三十二回
2009年07月02日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十二回

                              月守 晋


●コメの飯

料理本の紹介から野生の小鳥を食べる食習慣へと、話が少々横道にそれてしまったけれど、志津さんの生まれた明治末年頃(志津さんの生まれ年は44年)にこの世に生をうけた人びとの思い出、回想録などを読むとこの時代の人たちは大人も子どももたくさんの米の飯を食べていることに驚かされる。

『[新編]十代に何を食べたか』というタイトルの本がある。(‘04年平凡社社ライブラリー/’84年 同じ書名で未来社より刊行)。

この本には志津さんの生まれ年と前後して生まれた数人の人びとの想い出話が収録されている。

歴史学者(考古学)の樋口清之さんは1909(明治42)年奈良県生まれ。「米主食(それも朝は粥(かゆ)、昼は麦飯、夜はその麦飯に粥をかけたもの)が農村では普通」で「豆や豆製品(高野豆腐、湯葉)が庶民の常食」だったという。

「動物蛋白が極度に少な」く「山菜野菜の類が極めて多」くて動物蛋白といえば「河にいる淡水魚やシジミが中心」だった。

樋口さんが子どもの頃の奈良平野では冬には隣の和歌山県から「クジラの生肉」を売りに来たし、県内でとれる「牛肉よりもシカ、イノシシの肉を食べた記憶の方が多い」と述べている。

丸岡秀子(婦人問題評論家)さんは1903(明治36)年長野県生まれ。「野沢菜だけをおかずにごはんを何度もお代りした」という。ただし、1か月のうち1日と28日には塩鮭の切り身か干しイワシが1匹ついた。

10代の後半に佐久郡の農村から長野市の女学校に進み寮に入った。「“ライスカレー”と片仮名で献立が書かれた」物に初めて接したのはこの寮で、大皿の中の固い物が牛肉というものであることを知る。そして「割り合いに固くて、それほどおいしい物でもない」と思ったのである。

大釜で炊くご飯がおいしくて、みんな「三杯飯は普通で、四杯も五杯も食べる友人もいた」し、丸岡女史自身も「四杯目にも遠慮なく出し」と旺盛な食欲を充たしていた。前回に引用した小島政二郎『舌の散歩』には、「年のせいか間食(あいだぐ)いをしなくなったら、テキ面にソバとかスシとかを食う機会がなくなった」と書いている。

ソバ1杯で昼食をすます、ということは現在の私たちのくらしではよくあることだが、小島政二郎と同じ時代に生きた明治人にはソバやスシはほんの小腹ふさぎで、その分、しっかり3度の食事にコメの飯を食べていたということだろう。

次の話はもう昭和に入って5年という頃だが、作家の青山光二がその当時の旧制第三高等学校生徒の食事情を回想している(『食べない人』筑摩書房)。

その頃、三高の東門の前の通りには飲食店が軒をつらねていて、そのうちの1軒、「青龍」が行きつけの店になった。青龍の食事代は16銭。壁に貼ってあるメニューから客は好きな料理を選んで注文する。青山はよくブリかカツオの味噌煮を注文したが、これに味噌汁と漬け物がついて、セルフサービスのご飯は何杯でもお代り自由で16銭だった。

青山自身は茶碗に2杯がせいぜいだったが運動部の連中にはあきれるくらいお代りをする連中がいた、という。

栄養士の近藤とし子(大正2年生れ)は「私の十代の頃は、日本人のほとんどは一日に摂るエネルギーの80%から90%は米で摂って」おり、米の蛋白質はリジンが足りないだけで蛋白価は78と高く、大豆やアズキで必須アミノ酸のリジンを補えば完全食になると述べている(前掲『[新編]十代に何を食べたか』)。


食の大正・昭和史 第三十一回
2009年06月24日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十一回

                              月守 晋


●手間をかけていた家庭料理(2)

野鳥食については中江百合『季節を料理する』(昭和41年/旺文社文庫)でも取り上げられている。

この本の著者は略歴によれば明治25年の生まれ、16歳で中江家に嫁ぎ料理研究を始めた、とある。

初版本は『日本料理十二か月』のタイトルで昭和34年、東京創元社から刊行されている。

この本では「2月の献立」として「雀(すずめ)のたたき煮」、「四季の一品 冬の一品料理」として「鶉(うずら)のたたき」が紹介されている。

「雀のたたき煮」の材料は、

 ・雀10羽  ・だし カップ4分の3  ・砂糖 大さじ1~2  ・醤油 大さじ2 
 ・大根おろし カップ1と2分の1  ・長ネギ 2本

料理法は雀の羽根をきれいにむしり、残った毛を焼き取り、腹の下からはさみを入れて断ち、臓物を取り出す。食べられる部位(肝など)と食べられない部位を分け、食べられる内臓、骨つき肉を庖丁でよくよく叩いて指先でさわってもざらつかないほどに叩いたら、ひと口大の団子に丸めて煮立たせただしに放り込む。よく火が通ったら砂糖、醤油を加えてひと煮立ちさせ、大根おろしを加えてさらにひと煮立ちさせて火を止める。これを大根おろしも煮汁も共に深鉢に取り、上から6センチに切ったさらしねぎをふりかける。

「鶉のたたき」のほうは、丸々1羽の鶉が材料だ。雀と同じように処理したものをよく叩いて、3分1を残し、3分の2をから炒(い)りし、残した生の3分の1と混ぜ、これをぬれ布巾の上でかまぼこ型にまとめ、強火で
40分蒸してできあがり。

かまぼこ型にまとめず、いきなり団子に丸めてだし汁で煮てもよく、これは“鶉の丸(がん)”と呼び最上の椀種になる、とある。

『食いしん坊』という食べ物随筆がよく知られている作家・小島政二郎に『舌の散歩』という著作がある(昭和34年6月~11月「サンデー毎日」連載)が、これには太平洋戦争前の名古屋の腰掛け飲み屋「大甚(だいじん)」のメニューが紹介されていて、その30品ばかりの品数の中に“焼き鳥(スズメ)”が入っている。

筆者が学生の頃、昭和30年代の初めの頃にも東京新宿の紀之国屋書店の裏通りに、雀の丸焼きの焼き鳥を酒の肴に出す店があった。学生の身分には高価な店だったのでついぞ入る機会はなかったが、スズメやツグミなどの野鳥を、たぶん特別の許可を取って出していたのだろう。卒業する頃には店はなくなってしまっていたと記憶する。

こうした少ない例をあげても、野鳥を食べる食習慣は全国的にあったと思えるのだがしかし、神戸市をふくむ兵庫県全域を見ても、野鳥食があったかどうかは分明ではない。

『伝承写真館 日本の食文化⑧近畿』(農山漁村文化協会発行)の「兵庫の食とその背景」に紹介されている「兵庫の食を支える農畜産業」の節の「風土性による調査地域の特徴(昭和初期)」の一覧表中で、「野の幸・山の幸」として播磨山地の覧で“野うさぎ、蜂の子”があげられている。

兵庫県は北は但馬海岸が日本海に向き合い、南は瀬戸内海を抱いていて豊かな多種多様の魚介類に恵まれている。そのうえ三田(さんだ)牛、但馬牛などの肥育牛、いわゆる“神戸ビーフ”の産地でもある。

わざわざ雀や鶉などの野生の小鳥を食用に捕えようなどという考えははたらかなかったのかもしれない。


食の大正・昭和史 第三十回
2009年06月17日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十回

                              月守 晋


●手間をかけていた家庭料理
『趣味と実用の日本料理』を読んでいると、大正時代の家庭の主婦は日々の食事の支度にたいへんな時間と手間をかけていたんだな、ということがわかる。

お客を迎えてのちょっとあらたまった季節ごとの献立にしても、家族に食べさせる日々のお惣菜にしても、下ごしらえから始めて食卓に上せるまで手間を惜しまず時間をかけて1品1品をととのえなくてはならない。

1例をあげると「2月のお惣菜」で取り上げられている「鎗烏賊(やりいか)けんちん蒸し」では、

 ①水洗いしたヤリイカの足を抜き、残った袋の部分に両面から針で数十か所穴をあける
 ②穴をあけたイカの袋を醤油に漬けておく(約20分)
 ③豆腐をにえ湯でさっとゆで味噌濾(こ)しに入れて水気を切る
 ④人参、しいたけ、みつ葉、つぶしぎんなん、麻の実を細かくきざみ、③と共に煮る
 ⑤④がぶつぶつ煮えたら味りん少々、砂糖、醤油で少し辛めに煮上げる
 ⑥⑤の汁を切り、玉子を割り入れて手早く混ぜ、少々冷ます
 ⑦⑥を①のイカの袋に詰め、袋の口を糸で縫って蒸籠(せいろ)で10分間むす
 ⑧蒸したイカを冷まし輪切りにして皿に

この料理書には材料についても、調味料についてもいっさい分量が示されていない。材料の分量は家族の人数に合わせて適宜に準備しろ、ということだろうし、調味料の量も家族の舌に合わせて加減してくださいということなのだろう。

しかし、イカを自分でさばいて下味をつけ豆腐と野菜の具を詰めて蒸すという手間を、いまどきのたいていの主婦はたぶんかけないだろう。似たようなものがスーパーの総菜コーナーなどで容易に手に入る。

さらに時代の変化を感じさせるのは、この料理書にはひんぱんに蒸籠、すり鉢、裏ごしが使われるということである。ゴマひとつとっても、この頃は主婦がすり鉢を使って用意していたものが、現在はいりゴマからペーストまで既成品のびん詰で容易に手に入る。

1947(昭和22)年に狩猟法が改正されてカスミ網の使用が禁止されると、江戸期以来つづいていた野生の小鳥を食う習慣が徐々に消えていった。

しかし志津さんが少女だった大正時代にはまだ野生の小鳥、スズメやウズラなどがふつうに家庭でも料理されて食べられていた。

『趣味と実用の日本料理』にも小鳥料理が取り入れられていて、「12月の献立」の中に「小鳥大根」が紹介されている。12月は秋の穀物の実りの時期にたっぷりと食べて肥え太った小鳥が、容易に入手できたからだろう。

肉屋で入手したその小鳥を、大正の主婦は自分でさばいて料理し、食膳に上ぼせた。「小鳥を普通にこしらえ、すねなどは骨つきのまま、胸は二つ割にしておき・・・・・・・」と説明してある。

「小鳥のこしらへ方」と小見出しを立てた解説文では、

「まづ足の先を、肉にかからぬように庖丁し、そっと疵(きず)を入れてまるく切り(両方とも)、胸にも一本庖丁を入れ、羽がいは二番目のふしから切り捨てます。足の先から倒(さか)さに皮をむき(小鳥は羽をむしるのではなく、皮をむいてしまうのです。綺麗(きれい)にむけます)云々・・・・」(原文のまま)

と処理法を丁寧に説明してある。しかし平成20年の主婦にはとても無理かもしれない。


食の大正・昭和史 第二十九回
2009年06月10日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十九回

                              月守 晋


●家庭料理の食材
『趣味と実用の日本料理』(大正14年婦人之友社刊/婦人之友料理叢書第1篇/水町たづ子著)にはどんな食材が使われているだろうか。

<魚介類>
●魚類  タイ(小ダイ)、マグロ、ボラ、サヨリ、コイ、ブリ、サワラ、マイカ、サバ、アジ、キス、スズキ、アナゴ、クロダイ、アユ、マス、サケ、イボダイ、タラ、アマダイ、ヒラメ、ヤリイカ、タコ、ホウボウ、シラウオ、イサキ、カレイ、カツオ、コチ、イワシ、ドジョウ、フナ、カズノコ、タラコ

●貝・甲殻類  サザエ、ウニ、アワビ、クルマエビ、イセエビ、ナマコ、カキ、タイラガイ、トコブシ、ハマグリ、ムキミ(アサリか?)、トリガイ、ミルガイ、シバエビ、カキ、カイバシラ

<野菜類>
●葉物  ホウレンソウ、花ナ、ヨメナ、ツルナ、コマツナ、キャベツ、ミツバ、ネギ、タマネギ、ワケ
ギ、トウナ、ウド

●根菜  ダイコン、ニンジン、ヤマイモ、クワイ、ナガイモ、ショウガ、ゴボウ、カブ、コカブ、ハス、
サトイモ、ヤツガシラ、ジネンジョ、ツクイモ、サツマイモ、タマネギ

●生り物  キュウリ、ナス、カボチャ、ウリ、ユウガオ、エンドウ、エダマメ、トウガン

●山菜・きのこ類  シイタケ、フキ(フキノトウ)、ワラビ、ゼンマイ、ツクシ、タケノコ、ジュンサイ、
キクラゲ、ユリネ、マツタケ、シソ(シソノ実)、タデ、クズ、ミョウガ、ユズ、キク、ダイダイ、皮茸(こう
たけ)、ムカゴ

●乾物  アズキ、(白、黒)ゴマ、ソバ、クズ、クロマメ、コンブ、新粉、ケシノ実、トウガラシ、カンテ
ン、スルメ、ギンナン、干しカズノコ、クルミ、青ノリ、水前寺ノリ、シロインゲン、カツオブシ、松葉コ
ンブ、コウヤドウフ、麻ノ実、ユバ、ソラマメ、ダイズ、ズイキ、アラメ、干しシイタケ、干しアユ、浅草
ノリ、ゴマメ

●半製品  トウフ、コンニャク、アブラアゲ、卯ノ花(オカラ)、カマボコ、焼キフ

●肉類  豚肉、牛肉、鶏肉、小鳥肉、鶏卵、合い鴨、鴨

●果実  柿、栗、りんご

●調味料  塩、砂糖、醤油、みりん、酢、味噌(白味噌、三州味噌、赤味噌、甘味噌)、油(ゴマ
油)、バタ、からし、山椒、七味唐辛子、陳皮、しょうが

●粉物  うどん粉、 葛粉、パン粉

●漬物  たくあん、味噌漬、粕漬、うりの鉄砲漬、早漬(小かぶ、きゅうり、なす、キャベツ)、梅干
し、ぬか漬、らっきょう、しょうが酢漬、奈良漬、紅しょうが

●びん・缶詰  筍の缶詰、グリーンピース缶詰、松たけ缶詰、鯨(くじら)びん詰

●調理用具  七輪、蒸籠(せいろう)、すり鉢、ざる、玉子焼鍋、金網、焼き鍋、フライパン、裏濾
(こ)し網、冷蔵函(ばこ、氷を用いる冷蔵庫)

料理用の火力としてガスが都市の一般家庭でも使われるようになったのは、大正12年の関東大震災後のことといわれる。9月1日午前11時58分という昼食時だったため、昼食を準備していた各家庭のたきぎのかまどや炭を使う七輪が火元となって各所で火災が発生したといわれ、震災後はスイッチをひねればすぐ消せる安全性がかわれてガスコンロ(ガス七輪といった)が普及した。

料金は東京ガスの場合1㎥当たり大正8年に8銭だった。


食の大正・昭和史 第二十八回
2009年06月03日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十八回

                              月守 晋


●西洋料理の日本化
いま手元に1冊の料理本がある。『趣味と実用の日本料理』のタイトルで婦人之友社から大正14年9月に出版されている。手元の本は昭和15年2月に発行された第10版だから、ロングセラーになっていたことがわかる。著者は水町たづ子という人だが、経歴などは不明である。この料理指導書は同社の「料理叢書」の第1編として出版された。以後の第2編『家庭で出来る和洋菓子』、第3編『素人に出来る支那料理』、第4編『家庭向きフランス料理』、第5編『四季の家庭料理』、第6編『家庭経済料理』シリーズで発行されている。

定価は1円。大正末から昭和初期にかけて「円本(えんぽん)時代」と呼ばれる時期があった。きっかけを作ったのは改造社が予約をとって大正15年12月から刊行しはじめた『現代日本文学全集』(全63巻、第1回配本『尾崎紅葉集』)である。わずか1円で300~500ページの廉価版とはいえ堅表紙・上製本の現代文学全集がそろうとあって大人気になった。その成功を見た他社が追徒して、世界文学全集(新潮社)、世界大思想全集(春秋社)、小学生全集(文芸春秋社)、近代劇全集(第一書房)などがあいついで発行され、その数は200種類を上回ったという。

貧乏が看板の文士たちの懐を多額の印税がふくらませたが、使い途は洋行、海外遊学だった。当時、若い女性のあこがれだった吉屋信子も昭和3年、シベリア鉄道経由でフランスに渡っている。

『料理叢書』は円本ブームのほぼ1年前からの刊行だが、1円均一で市内のどこにでも走ります、という「円タク(1円タクシー)」が大正13年に大阪に現れて話題になっていたから、1円という定価設定にはそういうことも影響しているのかもしれない。

ちなみに大正13年に資生堂の高等化粧水大びんが1円、朝日新聞の月ぎめ購読料1円(大正12年)、ラジオの受信料が月1円(同15年)だった。

さて本題に戻ろう。

この家庭料理指導書は全体が「お献立十二ヶ月」、「吉例の御祝儀献立」、「お惣菜十二ヶ月」、「鍋八種」、「かはり飯十二種」、「風がはりな漬物十五種」に分けられている。重点はもちろん「お献立十二ヶ月」と「お惣菜十二ヶ月」である。

「献立十二ヶ月」は来客や改まった席での料理が意識されていて、月々の旬の食材を作った比較的手のこんだ料理が並んでいる。たとえば2月の献立には花菜や蕗(ふき)のトウといった季節のものが用いられ、焼き物には鯔(ボラ)が登場する。ボラは12月から1月の寒い時季に脂ののる魚で臭味もなくなる。

12か月の献立に使われているのはほとんど和食の食材であり料理法であるが、例外もある。

5月の酢の物にはキャベツ(キャペヂと表記されているが)をゆがいて細切りしたものと魚身の細切りの酢味噌和(あ)えが取り上げられ、8月の献立に登場する「はらみ茄子(なす)」という料理には牛肉と豚肉の5:5の合い挽きが使われる。ナスのへたを切り落として身をほじくり出し、代わりに合い挽き肉を詰め、醤油・みりん・だしの煮汁で煮つめるというもの。

「献立」よりも「お惣菜」のほうには洋風食材がより多く登場する。

2月の「豚団子汁」には豚の挽き肉とキャベツ、4月の「牛肉の酢味噌(牛肉のかたまりをとろ火でゆで、薄切りにして酢味噌で食べる)」 同じく4月の「牛肉ごもく焼き」は牛豚半々の合い挽きに人参、きくらげ、グリーンピース、生姜(しょうが)を加えたいわばハンバーグ。フライパンではなく玉子焼鍋が調理に使われている。

以上の外にも「豚そぼろ」、「ソップ(スープ)仕立吸物」、「ゆがき豚麹(こうじ)味噌」、「豚のさしみ」、「フィッシュボール」などが取り上げられている。


食の大正・昭和史 第二十七回
2009年05月28日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十七回

                              月守 晋


●明治と昭和にはさまった時代

「大正デモクラシー」という言葉がある。松尾尊兊『大正デモクラシー』(日本歴史叢書/岩波書店)によると「日露戦争のおわった1905年から、護憲三派内閣による諸改革の行われた1925年まで、ほぼ20年間にわたり、日本の政治をはじめ、ひろく社会・文化の各方面に顕著にあらわれた民主主義的傾向をいう」とされている。歴史学者の井上清は「1910年前後から1920年代にいたる」期間を“”つきでこう呼んでいる(月刊誌「流動」 1974年臨時増刊「大正デモクラシーの時代」収載)。

神戸市の川崎・三菱両造船所の労働争議もこの時代の流れの中の大きな波動であったのだが、結果は争議団側の「惨敗宣言」で終わった。

『明治大正見聞記』の著者生方敏郎は「大正十年が労働問題で賑わったのは事実、日本ばかりでなくイギリスでも大変だった、ロンドン市民がエメラルドのような碧空を仰ぎ見ることのできる日が幾日か続いたというのだから大変な事件だ」「神戸の労働騒ぎも永く続いてなかなか真剣に見えたが、終(しま)いはコソコソとお終いになってしまい、折角の大山鳴動一鼠を出すの感・・・・しかし一般社会に何らかのショックらしいものを与えた」と述べている。

“霧のロンドン”と呼ばれたロンドンの霧の発生源が市内・郊外の工場の煙突が吐き出す煤煙だったことは広く知られていた。

大正デモクラシーの時代は文化・生活・風俗の面でも西欧を手本にして近代化(モダナイズ)が試みられた時代でもあった。

小菅桂子『にっぽん台所文化史』(雄山閣/‘98)には「大正期は第一家電時代」という見出しが立てられていて、「主婦之友」の大正7年4月号に掲載された東京・高田商会の「文化生活と家庭の電化・・・・云々」という広告を紹介している。その広告文は家庭の電化とはいかなるものかということを、「家庭の電化とは煮炊き料理は勿論(もちろん)風呂を沸(わ)かしたり洗濯をしたり掃除をするのに電気を利用すること」と解説している。

同書には大正11年にサーモスタット付き電気釜400円、電気七輪25~30円、トースター30円、コーヒー沸かし50円、牛乳沸かし32円位と売り値も紹介されているのだが、小学校教員の初任給が40~55円、銀行員の初任給50円という時代では、おいそれと家電製品を買いそろえるというわけにはいかなかった。ここで紹介されているのは米ウェスチングハウス社製のものだが、わが国で本格的な家庭電化が始まるのは太平洋戦争後、それも昭和30年代のことで、昭和30年に電気洗濯機の月産が5万台を超え(正価2万8000円)、家庭用電気釜が東芝から発売された(タイムスイッチで時間を設定できる自動炊飯器、6合炊き、600W、定価3200円/大卒初任給1万円)。

小菅氏によると「大正時代の食生活は、明治時代にほとんど無差別に取り入れた西洋の食品や料理を、日本型の食生活の中に吸収同化した時期であったと見ることが出来」、「西洋料理が日本人の日常食のなかに根を下ろし、両者が融合して新しいパターンを作りあげた」のが大正時代だという(前掲書「西洋化は料理から」)。

つまり食生活の面では、“新時代”が始まっていたということだろう。

わが志津さんの関東炊きジャガ芋やジャガ芋コロッケはまさにそのよい例なのだ。

ちなみに長野県伊那地方でバレイショの作付けが普及しはじめるのが明治3年(1870)のこと。「男爵」と呼ばれている品種がアメリカから北海道に輸入されたのが明治40年(1907)、ジャガイモ全体の生産量が105万トンと初めて100万の大台を超えたのは大正5年(1916)のことである。(『明治・大正家庭史年表』/河出書房)


食の大正・昭和史 第二十六回
2009年05月20日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十六回

                              月守 晋


●怠業、罷業、同盟罷業(2)

第一次世界大戦は日本の経済・産業を成長させると同時に、人びとのくらしや考えかたにも影響を及ぼし変化させていったようである。

第一次大戦の戦後不況は大正9年春ころから始まり、長い不況の時代に入る。神戸市には川崎、三菱両造船所をはじめ橋本造船所、ダンロップゴム、神戸製鋼所などの大工場が多くの労働者を抱えて操業していたが、不況の波はこれらの大工場にも及び、ことにその下請中小企業に大きな打撃を与え、多くの失業者を出しはじめていた。

影響は神戸市の特産品であるマッチ産業の職工・内職者、港湾労働者、ゴム工場労働者らにも及んでいた。『神戸市史/歴史編Ⅳ』によると、「マッチ産業は沢山の中小企業によって成り立っていたが、兵庫県下で通勤職工は約三万人、そして軸木並・箱貼・製函などの内職者は一ニ、三万人に及んでいた。このマッチ産業も早くから不景気の打撃を深刻に受けており、膨大な労働者の生活難を引き起こすことになったという。

志津さんと養母みきがたずさわっていた箱貼りの内職も注文がなくなってしまった。そのため、志津さんが楽しみにしていたお手伝い賃の5銭ももらえなくなり、お八つに買って食べていた関東だきのジャガ芋も買えなくなっていったのである。

神戸市ではこうした事態を予測して、早くから失業対策を立てていた。神戸市職業紹介所にやってくる求職者の多くは、予測どおり第3次産業への就業希望者だったが、求人数が多かったにもかかわらず、実際の就職人数は少なかった。

その理由を『市史』では、

「求人側が住み込みを希望するケースが多いのに対して、求職者は勤務時間に制限がなくなることを恐れて“丁稚(でっち)・小僧の類”でさえ通勤・月給制を要求していたからであった」

と分析している。つまり

「(不況とはいえ)相当広い階層にわたって、俸給生活者と類似した生活スタイルを求めるようになって」

いたのである。
こうした時代の流れの中で大正10年、神戸市で操業する大工場で組織的な労働争議が起きた。

年初から橋本造船所、ダンロップゴム、神戸製鋼所の工員が待遇の改善を求めて罷業(ストライキ)を起こしていたが、6月25日、三菱造船所の内燃機の工員たちが日給と手当の増額などを求めて嘆願書を会社に提出、これが戦前最大といわれる労働争議の引き金になった。

三菱につづいて川崎造船所でも7月1日に全作業部門が統一して 1)解雇及び退職手当、2)自己都合退職手当、3)日給の引き上げ、4)病欠手当、5)応召期間(兵役が義務だった)の日給半額支給、など9か条の要求書を作成し翌2日会社に提出した。

こうして始まった川崎・三菱造船所の労働争議は会社側と労働者側とが真っ向うから対立する中で日を追って拡大・激化の一途をたどっていく。

争議団側には外部団体の支援も加わっていたが、会社側と争議団の間の乱闘、警官による争議団メンバーの逮捕・拘禁、争議団内部の対立と暴力ざた、警官隊と争議団の流血にいたる衝突など事態が日に日にエスカレートする中で県知事が軍隊の出動を要請、会社側の争議団切りくずしもあって、8月12日、労組側が「惨敗宣言」を出しようやく1か月以上にわたった争議に終止符が打たれたのだった。


食の大正・昭和史 第二十五回
2009年05月14日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十五回

                              月守 晋


●怠業、罷業、同盟罷業(1)
大正8年から10年(1919~21)にかけて新聞紙上にひんぱんに現れた流行語は、怠業(たいぎょう)、罷業(ひぎょう)、同盟罷業といったことばだった。

怠業は「仕事を怠けること」、つまりサボタージュ(sabotage)である。もっともsabotage本来の意味は「労働争議中にわざと機械・設備を壊して生産を妨害すること」なので大正8年9月18日、神戸川崎造船所の1万6780人の職工が正午の汽笛を合図にいっせいに整然と始めた“サボタージュ”はむしろ英語でいうslowdown「作業効率を故意に落とすこと」であった。

事実、新聞各紙も「仕事には就かないものの作業位置を離れず、ただ機械が動くのにまかせて手も出さず見ていた」と工員たちの様子を伝えている。

争議の発端は労働者側が

1. 日給の歩増し
2. 特別賞与(社長が春に約束した375万円)の分配期日の明示
3. 年2回の賞与支給
4. 食堂、洗面場他衛生設備の完備

を会社に要求したことによるものだった。

サボタージュは上の要求に対する会社の回答を不満として始まった。
20日には兵庫分工場3300名の職工のうち鋳鋼部の1300名がサボタージュに参加した。そして27日、電気工場の800人を除く怠業参加者全員が同盟罷業、つまり「ゼネラルストライキ」に突入する。

こうした労働者側の動きに対して会社側は27日午後、職工側交渉委員と社長との会見の席上で突如、葺合・兵庫両分工場でも1日8時間労働制の実施とほぼ要求どおりの給与引上げ実施を社長の口から発表する。

この優遇策から外されることを恐れた職工側交渉委員は、29日から正常勤務に戻れば分工場同様の労働条件改善が受けられるという口頭での約束を取りつけて総罷業を中止するのである。

川崎造船所の労働争議はこうして終息したが注目されるのは会社側が提示した「1日8時間労働制の実施」だろう。

それまでの就労時間は全工場10時間で製鈑工場にいたっては11時間と決められていた。「世界工業界の大勢に鑑み」と会社は説明しているが、低賃金+長時間労働がもたらす安い製品価格は世界の市場でひんしゅくを買っていたのかもしれない。

ともあれ新労働条件は同年10月1日から実施された。それによると

(1) 営業時間 (午前6時30分招集、同7時就業、正午~0時30分昼食、午後3時半停業)
(2) 日給は就業時間8時間に対し従来の10時間と同様額を支給し、更に従来至急せる歩増し7割を
本給に繰り入れ支給す。従来の7割歩増し制度は廃止。

この他にも日給の賃上げ、残業代の支給も定められた。残業代は3時間は日給の1割、4時間は2割、5時間4割、6時間4割5分、7時間5割、8時間5割5分、引き続き24時間作業の徹夜には日給の4日分を支給する、とある。

志津さんの誕生した明治44年(1911)、日本で最初の労働立法である「工場法」が公布され、大正5年9月1日から実施された。この法律では15歳未満の男子工と女子工の就業時間が1日12時間に制限されている(2時間以内の延長、つまり残業を認めている)。

そのことを思えば、1日実動8時間(拘束9時間)という勤務条件は画期的なものだったといえるだろう。


食の大正・昭和史 第二十四回
2009年05月07日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十四回

                              月守 晋


●ケレンケレンに行ってくるワ
志津さんの長兄(実際には叔父にあたるのだが)の悟(さとる)は明治40年生まれで志津さんの4歳年上だったが、大正10年頃には正規の職工ではなくとも、三菱造船所で働いていた。

仕事はドックに修理のために入ってきた船の錆(さび)を落とす作業で、「ケレンケレンに行ってくるワ」といって家を出て行った。

後年、同じ造船所で“この人にしかできない”といわれるほどの熟練の技能を持つ職工になったのだが、小学校卒業の学歴しか持たない数え年15の当時の悟が「見習職工」の身分さえも得ていたのかどうかは疑問である。

作家・吉川英治に“四半自叙伝”と副題のつけられた『忘れ残りの記』という作品がある。この中に横浜の船渠(ドック)で働いたときの体験が語られている。

ドックの会社の重役の口ききで実際は18歳の年令を規則通りの“20歳”といつわって仕事を得た英治は即日働き始める。配属されたのは「船具部」で、「最下級の雑役部といってもよく、体さえ強健ならば素人でもすぐ役立つ部門」だった。技術を要するのは塗工ぐらいで、その他の雑役の中に船腹船底の錆落しの作業も加わっていた。

労務時間は朝7時から夕5時半まで、英治の日給は42銭だった(明治42年)。

船具部が担当する仕事の中でもサビ落とし、貯炭庫作業、船底の水槽洗いなどの「ペンキにまみれたり、鼻の穴から肺の中まで粉炭で黒くしたり、セメント箒(ほうき)とセメント罐(かん)を持って、・・・・・最船底部の穴から穴へと這い込む」ような仕事は「かんかん虫」と呼ばれていた臨時雇用の労働者に割り当てられていた。かんかん虫には「上は腰の曲がったお婆あさんから幼は十四、五歳の少年少女まで」がふくまれていたのである。

「かんかん虫」の呼び名はドックに入ってきた船を固定させるためにいっせいに振るう大ハンマーの響きや、錆び落としや石炭を砕く時に出す小ハンマーの音に由来するものなのだろう。

悟が口にした「ケレンケレン」も「錆落としの音の表現だ」と志津さんはいう。「こんまい体にだぶだぶのナッパ服を着て、腰弁下げて」と早朝家を出てゆく兄の姿を志津さんは描いてみせた。

「ナッパ服」は「菜っ葉服」で文字通り「菜っ葉色をした服」であり、工員たちが常用した作業服である。

「腰弁」のほうは明治政府の省庁が整備された明治10年代には生まれていた古いことばで、17年2月20日の「東京日日新聞」に「腰弁無くなるか」と書かれているそうである。(『明治大正風俗語典』槌田満文/角川選書)。

外食より安くつく手作りの弁当を腰に下げて出勤する下級役人を、やや軽侮をこめてこう呼んだようだ。役人達の通勤コースが「腰弁街道」と俗称されていた、とも解説されている。

「菜っ葉服」に「腰弁」姿で「ケレンケレン」に出て行った悟が、ドックの船体に張りついて、“ケレンケレン”と船胴を響かせて得た賃金がどれほどだったのかはわからない。

未成年でしかも常雇いではない(非正規雇用者)だったろうから、日当は50銭にもみたなかったろう。

大正10年という年は神戸市にとって、社会的に大きな転換時であった。その影響は神戸市域だけにとどまらず、日本全国に波及していく。

それが戦前(太平洋戦争前)最大の労働争議といわれる川崎、三菱造船所争議である。


食の大正・昭和史 第二十三回
2009年04月16日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十三回

                              月守 晋


●新開地(3)
志津さんは「天勝の奇術を見に行ったことがある」という。

初代・松旭斎天勝は大仕掛けのマジックもさることながら、妖艶な舞台姿で人気があった。色白の豊満な肢体に道具立ての大きな目鼻立ちは舞台映えがして、大きな目で流し目でもされると、観客にどよめきが起こった。

人気絶頂の大正5年、当時の芸能新聞「都新聞」が天勝の胸元もあらわな水着姿の写真を「これが“人魚を食べているといふ天勝の素肌”!」とキャプションをつけて掲載、そのおかげで東京・有楽座の「サロメ」の初日が開演3時間前に満員札止めになった。オスカー・ワイルド原作の「サロメ」は当時人気の音二郎・貞奴の川上一座の大当り演目。

天勝の「サロメ」は奇術一座の舞台にふさわしく、王女サロメの掲げる盆の上で、聖者ヨカナアン(聖書「マタイ伝」のバプテスマのヨハネ)の首がカーッと目をむき「すされ!バビロンの娘よ」とサロメを叱咤して観客を驚かせた。

志津さんが天勝の舞台を見たのは大正8年か9年のこと。明治19(1886)年生まれだから、天勝は33歳か34歳。奇術師としても油ののりきった時代だったろう。

劇場がどこであったかはわからない。

志津さんが好きだった映画俳優の名を挙げると女優では栗島すみ子、夏川静江、田中絹代、山田五十鈴、原節子。なかでも栗島すみ子と田中絹代がひいきであった。

『日本映画俳優全史(女優編)』(猪股勝人+田山力哉著/教養文庫/社会思想社)の記述によると、栗島すみ子は「メリー・ピックフォードがアメリカ初代の恋人なら、日本最初の恋人はこの人」だという。明治35年東京生まれの栗島すみ子の父親は栗島狭衣を芸名とする新派の俳優。すみ子も父親の関係で6歳のときから子役として舞台に立っていたが19歳のとき松竹蒲田撮影所に迎えられヘンリー小谷監督の「虞美人草」の主役で映画デビューした。「虞美人草の花そのままの純情清麗な容姿でたちまち満天下の人気を集めた」という(上掲書)。

「(栗島すみ子の)代表作として一世を風靡した小唄映画」と『わたしの湊川』がいう「船頭小唄」は明治43年に開館した新開地で最も古い菊水館で封切られた。翌13年夏、これも小唄映画と分類される沢蘭子主演の帝国キネマ製作「籠の鳥」が相生座で封切られ、こちらのほうも連日入りきれないほどの大観衆を集めた。

「おれは河原の 枯れすすき」とうたう「船頭小唄」(野口雨情作詞・中山晋平作曲)、「あなたの呼ぶ声忘れはせぬが 出るに出られぬ籠の鳥」(千野かほる作詞・鳥取春陽作曲)と嘆く「籠の鳥」、前者は10年、後者は11年と小唄のほうが先に作られて流行していて、それを映画化したものである。

『むかしの神戸』185ページの「昭和初期の新開地の劇場分布図」を見ると、相生館は電車路に向かって本通りの右側、本通りを横切る1本目の通りの角から2軒目、本通りの左側に面し1軒目は松本座で菊水館、朝日館、有楽館、湊座と映画館、大衆演劇場が肩を並べている。

どういうわけでが志津さんの男優の好みは渋好みで、美男俳優よりも月形龍之介や小杉勇のファンだった。

月形龍之介について『わたしの湊川・新開地』の著者は「・・・阪妻(阪東妻三郎)と対照的に風貌が陰気で暗い影がつきまとい、・・・・・最後まで主演俳優としての大きな人気はつかみ得なかった。彼の俳優としての魅力は色悪や虚無的な浪人といった役どころにあり、後に重厚で渋い脇役俳優として戦前から戦後にわたる長い俳優生命を持ち続けた」と評している。


食の大正・昭和史 第二十二回
2009年04月08日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十二回

                              月守 晋


●新開地(2)
小学生の志津さんは映画が好きで、大正5年から住んでいた東海道本線兵庫駅北側(山側)の羽坂通り3丁目の住居から市電通りを東へ、神戸駅の方向へ歩いて30分ほどの新開地へ姉たちに連れられて映画を観にいった。記憶に残っているいちばん古い映画は“目玉の松ちゃん”の忍術映画である。“目玉の松ちゃん”こと尾上松之助は地方の芝居小屋を旅して回る巡業一座の座頭だった。日本映画の父と呼ばれる牧野省三監督に見出され、サイレント(無声)映画時代の大スターに昇った俳優である。“目玉の松ちゃん”の愛称は彼3作目の作品である「石山軍記」で楠七郎に扮したとき、櫓の上から目玉をギョロリとむいて敵をにらみつけてみせたのが観衆に大いにうけたことによる。

志津さんにはどこの映画館で観たのか記憶がなかったが、『わたしの湊川』によれば日活(日本活動写真株式会社)が売り物にしていた尾上松之助主演の活動写真は錦座で上演されていたようである。

志津さんが観た松之助扮する忍術使いが猿飛佐助だったのか霧隠才蔵だったのか、あるいは児来也(じらいや)だったのかもわからない。しかし松之助扮する忍術使いは当時の子供たちに圧倒的な人気のあるヒーローで、『わたしの湊川・新開地』の著者も「松之助の忍術ものやトリック撮影に胸を高鳴らせた、松之助が大好きだった」と回想している。

アメリカ映画やヨーロッパ映画も明治末から大正の初めにかけて輸入され、上映されていた。

チャップリンの喜劇が「日本の見物に明確な印象を与えるようになったのは、大正4年(1915)1月、みくに座に封切された「メーベルの困難」で」と田中純一郎が書いている(『日本映画発達史Ⅰ 活動写真時代』中公文庫)が、神戸では大正6年から錦座の正月興行でお目見得した。この正月興行は“ニコニコ映画大会”と呼ばれ、短編喜劇をまとめて10本くらいいっきょに上映するのである。

チャップリンの2巻物のドタバタ喜劇も上演されて大変な人気だった。志津さんも観たらしいのだが、残念ながらタイトルまでは覚えていなかった。

入場料は、志津さんの記憶によると「3銭から5銭」で「5~6人が並んですわる長椅子」にすわって観た。無声映画だったので弁士がついていて「上手な弁士のときには客の入りもよかった」という。

入場料については『わたしの湊川・新開地』の写真ページに「三等三十銭、二等四十銭、一等五十銭、子供各等半額」という昭和初期の松林館の銅版の観覧料表示板が載っているが、『むかしの神戸』には「五十銭もあれば活動をみて、お腹いっぱい食べてお釣りが来ました」という郷土史家の懐古談が紹介されている。作家の田宮虎彦は志津さんと同じ明治44年の東京生まれだが、3~4歳のころから神戸の堀割の6軒つづきの棟割長屋の1軒に母親、兄と暮らしていた。(父親は船員で不在がちだった。)

堀割という地名は「測候所山の中ほどを掘り割って、奥平野(おくひらの)から港の方へ下りてゆく近道にした道筋」と田宮は説明している(『神戸 我が幼き日の・・・・』中外書房/昭和33年刊)。

幼いころ、田宮はよく三宮や新開地に遊びに行った。昨今の子供と違って、昔の子供は月ぎめの小遣いなどもらえなかったので、母親の財布から小銭をそっと盗み出して小遣いにあてることがままあった。「私は母親の財布からギザギザのついた五十銭銀貨をこっそり盗み出しては、三宮や新開地へ出かけていったのだった。一杯が一銭か二銭だったひやしあめを飲んだり、子供は五銭の活動写真館にはいったりしたのだ」と田宮の回想では、活動の子供料金は5銭である。

新開地には200軒をこす店が並び食べ物屋も多くしかも安かった。鯨肉が名物の店、天丼の「奴」、ビックリうどんにビックリぜんざい、粕うどん、ポンポン飴、天ぷらやすしの屋台、コーヒー店。劇場内では「みかんにおせん、あんパンにラムネ」と木箱を首につるした売子が回ってきたのである。


食の大正・昭和史 第二十一回
2009年04月01日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十一回

                              月守 晋


●新開地
小学生のころ、映画好きだった志津さんは家から歩いて30分ほどの新開地の映画館によく連れていってもらった。

神戸の繁華街といえば元町と新開地である。元町は明治7年、11の町が元町通、栄町通、海岸通、北長狭通と改称されて生まれた4つの通りの1つだが、東隣が外国人居留置に接していたので明治3年には市田写真館、6年には「元祖牛肉すき」を掲げる月花亭(げっかてい)が開業するなど、居留地外国人も買い物に訪れるハイカラな雰囲気の商業地として発展した。

一方、新開地は湊川の流路付け替えで生じた埋め立て地にできた街である。神戸市は狭い海岸平地に発達した町で町並みのすぐ背後に山地が迫っている。豪雨でも降ると六甲山地はあちらこちらで崖くずれや斜面崩落が起き、市内を流れる河川の氾濫を引き起こした。旧湊川は維新後5回も洪水を起こし、5度目の明治29年の大洪水の後、湊川の流路を付け替えるために民間会社が設立された。工事は順調に進み34年に新流路が完成、38年には付け替えられた旧流路の埋め立て工事も完成した。

新開地はこの埋め立て地に生まれた新市街地なのだ。埋め立て当初は当時流行しはじめていた自転車の練習場になっていたらしいが、2年後の40年に神戸駅近くにあった劇場・相生座が移ってくると同時に活動写真館(映画館)の電気館、日本館が開館し、これが引き金になって劇場、寄席、映画館がつぎつぎに開かれ敷島館に朝日館、菊水館、松本座、錦座さらに菊廼座、湊座、稲荷座と開設は相ついだ。

旧湊川の高い堤防にはさまれた流路を埋め立ててできた新道は5.8キロメートルあり、ちょうど神戸地区と兵庫地区の中間にあたるので、両地区を結びつける役割も果たした。

活動写真館の電気館と日本館は相生座の真向いに開場した勧商場の地階にあった。

関西では勧商場、関東で勧工場と呼ばれた施設はいわばショッピング・センターで、明治10年に開かれた第1回内国勧業博覧会の残品を売るために翌11年1月、麹町丸の内に東京府(当時)が建てたのが最初である。内部は商品別に13に区分されていた。これが明治期を通じて全国にひろがり、経営形態も官営→半官半民→民営へと移っていった。

新開地は「明治44年の正月には劇場、活動写真館、寄席など20館に増え、新開地を訪れた人は三が日で40万人を超えた」と『絵はがきに見る明治・大正・昭和初期/むかしの神戸』(和田克己編・著/神戸新聞出版センター刊)には述べられている。

『神戸市史/産業経済編Ⅲ』には「大正11年の資料によると、新開地には20の興行施設のほかに200の小売店舗が集積しており、飲食料品・雑貨・衣料品などの店が多数軒を連ね、露店も多く見られた。さらに特徴的であるのは、新開地という一つの商店街の中に勧商場が5軒も存在したことである。この事実は、新開地がきわめて大きな購買力を持っていたことを示すもの」と述べている。

鉄筋建築の地上3階地下1階の演劇の殿堂聚楽館が大正2年にオープン、13年には神戸タワーが湊川公園内に建てられ、昭和に入っても3年に湊川温泉、9年にアイススケート場が開設され、神戸一の繁華街へと成長するのである。

斎藤力之助『わたしの湊川・新開地』は明治41年に兵庫区西宮内町で生まれた著者が大正7、8年の小学4年生ごろから昭和20年の敗戦の年まで、活動写真・演劇・映画を観にかよった時期の回想記である。著者がかよった16の映画・演劇館とそこで観た映画・演劇の詳細が語られている。

この書やその他の資料にも頼りながら、志津さんの新開地体験を追ってみたい。



食の大正・昭和史 第二十回
2009年03月25日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第二十回

                              月守 晋


●松井須磨子の死
話が前後するが、大正8年正月5日、1人の女優の死を告げる号外が休日の東京や大阪の街を行く人びとを驚かせた。当時16歳の少年だった荒尾親成の回想によれば、「まだ松ノ内で賑っていた(大阪)長堀の高島屋玄関口にはいろうとした瞬間、けたたましい、号外、号外の鈴の音が近づいて、求むるままに父が一枚の号外を手にした。よく見るとなんと「女優松井須磨子縊死す」とあって酷(ひど)くショックを受けた」(『目で見る大正時代』図書刊行会、P.122)。

荒尾親成は市立神戸美術館長を務めた人である。

須磨子は正月1日から東京・有楽座の舞台に立っていて、中村吉蔵作「肉店」のお吉、メリメ原作・川村花菱(かりょう)脚色「カルメン」のカルメンを演じていた。須磨子は32歳。前年11年4日、スペイン風邪で死亡した芸術座の主催者であり恋人でもあった島村抱月の後を追った自死であった。

号外は神戸でも出されたとみえ、志津さんにも号外を見た記憶があるという。その後、雑誌でも目にしたというのだが、姉たち(実際には叔母になるのだが)が読んでいた婦人雑誌をのぞいてみたのかもしれない。

この頃の須磨子は「カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪とけぬ間と 神に願いをララかけましょか」という抱月・相馬御風合作の詩、中山晋平作曲の「カチューシャの唄」を全国に流行させた歌手でもあった。

「カチューシャの唄」はトルストイ原作の「復活」を劇作化した芸術座の舞台の劇中歌として歌われたもので、カチューシャ役の須磨子の美声もあって大流行したのである。

「ここ数年、正月興行には年中行事のように、彼女は神戸湊川新開地聚楽(しゅうらく)館に来ており(荒尾「大正時代の神戸」前掲書)」ということだから、この歌には神戸でも大勢の人が親しんでいたにちがいない。

後年、彼女の子供たちは母親が台所などで口ずさんでいるのを耳にしてしぜんに覚え歌ったものである。

ちなみに「復活」の初演は大正3年3月26日から31日まで芸術座第3回公演の演目として上演されたもので、8年1月に解散するまでに440回も上演されている。大正4年には当時“外地”と称した台湾、朝鮮、満州にも渡っている(“外地”の反対語が“内地”であり、本州、四国、九州を指していた)。

“須磨子のカチューシャ”がかかった聚楽館は和楽路屋の市街全図(大正7年刊)で見ると、湊川公園から南下して多聞通りの市電路に突き当たる右側の角にある。

大正2年9月に東京・帝国劇場にならって神戸の財界人のバックアップで建てられた名劇場だった。バレエのアンナ・パブロアがここの舞台で踊り、京劇の名優梅蘭芳(メイ・ラン・ファン)も大正8年5月に「貴妃酔酒」などを上演、妖艶な女形姿を披露した。
また10年3月には当時15歳だった初代・水谷八重子と14歳の夏川静江(のち映画界に入る)がチルチル、ミチルの兄妹を演じたメーテルリンク作「青い鳥」が上演され、市内の全中学校、女学校が午前中に団体で観劇している。

しかし志津さんには「青い鳥を観た」という記憶はなかった。
(聚楽館は昭和2年に松竹映画の上映館になり、9年には建て替えられている。)

志津さんの住居から新開地までは小学生でも歩いて30分の距離、映画好きの志津さんはよく姉たちに連れていってもらった。

  《参考》 『随筆松井須磨子---芸術座盛衰記』 川村花菱/青蛙房
       『こんな女性たちがいた!』 講談社


食の大正・昭和史 第十九回
2009年03月18日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第十九回

                              月守 晋


●神戸市の米騒動(2)続き
神戸市の米騒動で放火・破壊・強迫・強奪などの被害を受けた件数は各警察署別に次のとおりだった(『神戸新聞による世相60年』/のじぎく文庫)。

       三宮署管内       179
       相生橋署管内      148
       湊川署管内       200
       兵庫署管内       167
      ----------------------------------------------
               計     694 (8月23日付同紙)

『新修神戸市史 歴史編Ⅳ』には「歴史と神戸」創刊号からの引用で「神戸米騒動受刑者職業別人数」が掲載されている。それによると最も多いのが職人で懲役5年以上27人、未満15人、罰金4人の計46人、仲士が18人、12人、4人の計34人、商業が16人、5人、1人の計22人などで、総計では5年以上の懲役が89人、5年以下懲役55人、罰金23人の総数167人だった。

騒動の鎮圧には警官のみならず、軍隊も動員された。13日の夜、当時の清野兵庫県知事の要請を受けて姫路師団の400名が第1陣として出動し、その後増員されて総計は1140名に達している。この頃、こうした騒動に軍隊が動員されるのは当然と考えられていたようである。

米騒動は神戸市に、市民の生活を安定させるための社会政策を立案、実施させることになった。それが米の安定的な廉売事業、公設食堂と公設市場の設置である。

その資金には皇室からの「窮民救済」のための下賜金、市内の富裕層からの救済義金などが当てられた。8月25日までに集まった義金は140万円に達し(大正7年の国の歳出額は10億1703万円/『物価の文化史事典』)、うち80万円が米の廉売資金に、50万円が物価調節費に、10万円が貧民救済費として使われた。極貧者への施米、官公吏・教員などへの米の廉売(1斤25銭)は11月末まで続いた。

皇室からの下賜金(2万6704円)に義金を合わせた3万5154円を基金として市内3か所に公設食堂が開設され、新たな寄付金を基に市営の小売市場が物価を調節することを目的として開かれた。

<公設食堂>
名 称 場 所 開設年月
中央食堂 相生町1丁目 7年10月
東部食堂 東遊園地内 7年11月
西部食堂 真光寺境内 8年2月

<公設市場>
中央公設市場 湊川公園内 7年11月
東部公設市場 旭通1丁目 7年11月
西部公設市場 芦原通5丁目 8年5月
(上記3市場は湊川、生田川、芦原と改称)
熊内公設市場 葺合町 9年5月
三宮公設市場 三宮町1丁目 9年5月
宇治川公設市場 北長狭通8丁目 9年5月
平野公設市場 大倉山公園下 9年5月
入江公設市場 川崎町 9年5月
長田公設市場 長田町1丁目 11年11月

『新修神戸市史 歴史編Ⅳ』に収蔵されている当時の東部公設市場の写真を見ると、店は木造の長屋建ての平屋で、その前の通りには現在のアーケード風にやはり木造の屋根がついていて買物客の日よけ、雨よけになっていて、市当局の市民に対する配慮をうかがわせている。

この項をもう1人の自伝を引用して締めくくりたい。

「それは暑い夏の日であった。どこからいうのでもなく私の家が襲われて焼かれるという噂が立った。・・・・私たち家族は近くの福海寺という寺に逃れ、そこの本堂の近くの十畳の部屋にかくまってもらったのであった」

筆者は明治42年神戸生まれ、映画評論家の故淀川長治さんである。(『淀川長治自伝 上』/中公文庫)


食の大正・昭和史 第十八回
2009年03月11日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第十八回

                              月守 晋


●神戸市の米騒動(2)
8月12日午後6時ころ、白シャツに足袋裸足、手ぬぐいの鉢巻き姿という70名ほどの1群が湊川公園に繰り込んできて、夕涼み客やヤジ馬と合流し3千500名ほどにふくれあがると、群集は北新開地の路面電車道に押し出した。

ここで群集は2隊に分かれ1隊は多聞通りを東進、主力隊は勢力を増しながら有馬道付近で3隊に分かれ、その1隊が9時ごろに楠町7丁目の兵神館(借家管理業)を襲って破壊、別の1隊は荒田町方面に向かってこの地域の白米商(と引用記事には表記してある)を片っぱしから襲撃した。そして「本隊ともいうべき大集団が「鈴木商店をほおむれ」と呼号しつつまっしぐらに相生橋をこえ東川崎町1丁目の鈴木商店に殺到」した。

相生橋をこえて相生橋警察署前を南下したおよそ800名は神戸商業会議所前を東に折れて宇治川筋にある神戸新聞社前の鈴木商店に押し寄せる。

ときに午後8時20分。

手元にある大阪・和楽路屋が大正7年に発行した神戸市街全図は縮尺1万2000分の1、ただし単位は丁(60間、約109メートル)という代物だが、湊川公園を出て5丁(550メートル)ほど南下すると新開地、電車路の多聞通りを東へ10丁半(約1.1キロ)湊川神社前を通って相生橋を渡ると警察署、そこから電車路を東へ1丁半、警察署から3つ目の通りをはさんで東側に神戸新聞、西側の斜め向かいに三菱会社が書き込まれている。記事には「わが神戸新聞社前なる鈴木商店」とあるので、三菱の北側、地図では空白になっている部分に鈴木商店があったようである。神戸新聞社の東隣が神戸又新日報社である。

別動隊約150名が襲った鈴木家旧宅は本店からさらに東へ6丁ほどの栄町4丁目にあったが、群集は家財道具を表道路に投げ出し積み上げて放火、焼尽した。

ちなみに志津さん一家が当時住んでいた羽坂通3丁目は、湊川公園から南下して多聞通にぶつかったところで西へ電車路を兵庫停車場まで進むと停車場の北上にある。湊川公園を南下する通りをはさんで、神戸新聞社や鈴木商店とちょうど同じ距離くらい西の方向である。

ところでこの騒動に加わった人びとの間には、お互いの行動を規制する暗黙のルールのようなものが働いていたようである。

たとえば米屋に対しては、「一斤二五銭で売ることを強要する『強買い』が行われた。・・・・・あらかじめ打ち合わせをしたわけでもないのに、騒動をおこした側には一定のルールがあった・・・・。この二五銭という値段は、騒動の前年の標準米価であり、民衆の生活状態が最も良かった時の米価であった。つまり、民衆は自分たちの本来こうあるべきだという共通の倫理感と生活秩序に基づいて騒動に立ち上がった・・・・・」(『新修神戸市史 歴史編Ⅳ 近代・現代』PP.551-555)。

上掲書には、鈴木商店の焼き打ちの際にも「付近の住民に注意を促すなど、周りに迷惑がかからないようにという配慮が見られ、ねらいは鈴木商店だけであるという目的の明確な行動」だったと述べられている。

これを裏付けるようなインタビュー記事を『神戸新聞による世相60年』が載せている。鈴木商店に放火した時が20歳の青年、インタビューを受けた時は60歳の老人になっていた。彼は13日夜神戸を脱出し、以後20余年間、横浜をはじめ各地を転々とし、再び神戸に戻って時効になるまで潜伏していた。

「一斤二十五、六銭の米が六十二銭八厘というベラ棒に高い米になったのは、鈴木が米を買い占めて、米を倉庫に隠しているからだ、という噂が八月四、五日ごろ出ていました。<中略>鈴木が目当ての放火で、別に神戸新聞や近くにあった民家に火をつけることははじめから考えていなかったので、井上医院などに、わざわざ行って、「いまから鈴木に火をつけるから、お前さんちは逃げて下さいよ」といってまわった・・・・」


食の大正・昭和史 第十七回
2009年03月05日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第十七回

                              月守 晋


●神戸市の米騒動(1)
当時、神戸市兵庫区羽坂通3丁目に住んでいた数え8歳の少女がその眼に焼き付けたのは、6尺棒を持った沖仲士や入れ墨をしたやくざ者たちの集団に、近所の金持ちの家が襲われる光景だった。「金目の品物が2階からぼんぼん投げ捨てられる」のを、志津さんは自宅玄関の格子戸からのぞき見た、という。

神戸市の米騒動の目撃者としては、当時大阪府茨木中学校4年生だった大宅壮一が日記に以下のように書き残している(『大宅壮一日記』青地晨編/中央公論社/昭和46年刊)。

8月13日 火曜日 晴
 -----神戸の鈴木商店が焼かれた。米屋の襲撃は、薪炭商、八百屋、醤油屋、家主、富豪と、どこ
まで及んで行くか知れない。   
青年会が終ると、すぐ上本町の姉の家へ出かけた。電車は上本町二丁目で停ってしまった。姉の
家の前通りは身動きもならぬ程の群衆である。

群衆は姉の家の筋向かいに鈴木商店の宿寮があったためだった。騎兵の発砲が空砲と知って散っていた群衆はふたたび集まり、折からやってきた警察車に関の声を上げて押し寄せ、窓を破った。その群衆を騎馬兵が馬頭を揃えて押し返した。

この後16日の日記には「鈴木商店の焼跡が電車の窓からみじめに見えた」と書いている。大酒家の父と放蕩者の兄に代わって家業を切り盛りした壮一は同じ日に、

「兵士、巡査、在郷軍人、壮丁等の張番をしている辻々を、麦藁帽子を冠り、風呂敷を負うた物騒な
 風体で通り過ぎるのは怖ろしかった」

とも記している。

富山の漁村の主婦たちに始まり、全国の37市、134町、139村(『近代日本総合年表 第3版』岩波書店)にまで広がった米騒動がとくに神戸市で激しかったのはなぜなのか。『新修神戸市史Ⅳ. 歴史』の説明を要約すると、第1次世界大戦の好景気で潤って「人並み」の生活が保障されるかに見えた日雇い労働層も新開地のような歓楽地に、家族そろって着飾って遊びに行けるようになっていた。ところが大正7年7月17日に政府がシベリア出兵もありうると認めたとたん市の小売米価はじりじりと上がり始め、7月2日に1斤
34.3銭だったものが23日37.7銭、30日39.5銭になり、シベリア出兵を宣言した8月2日以降は急騰し、7日には55.3銭、8日には60.8銭と7月2日の約1.8倍にはね上がった。

米価騰貴は軍需を見越した思惑買いや買い占め、売り惜しみによるもので、事情を知った市民の間に商社、問屋、米殻小売商に対する不満、怒りがたまっていた。前掲『神戸市史』によれば、好景気の余慶にあずかれなかった俸給生活者、いわゆる月給取りの中には弁当の代わりにビールびんにお粥を詰めて役所に通勤しなくてはならない者もあったという。

『神戸新聞による世相60年』(西松五郎著/のじぎく文庫)には8月12日夜、社屋を焼き打ちされた神戸新聞社が社会部記者を総動員して姉妹社の神戸社の設備を利用して発行した13日付の平版大型1ページの記事内容が紹介されている。

この記事によると11日夜湊川公園に集まった群集は12日の払暁前、いったん解散した。ところが12日午後6時ごろ、白シャツに足袋裸足、手ぬぐいの鉢巻きという約70名の1隊がどこからともなく公園に入ってくると、夕涼みをしていた者やヤジ馬などがたちまち合流し、3千500名ほどにふくれあがった。

群集は配置されていた私服警官の制止もきかず、亦流のような勢いで北新開地の電車路に繰り出した。


食の大正・昭和史 第十六回
2009年02月18日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第十六回

                              月守 晋


明治44年(1911)年生まれの志津さんが幼・少女期をすごした大正という時代はどんな時代だったのか、志津さんの記憶を追いながらひととおり眺めておきたい。

大正2年10月、中国で袁世凱を大統領とする中華民国政府が樹立、英独露日など13か国が承認した。

3年7月23日、オーストリア帝国がセルビアに宣戦布告、第一次世界大戦始まる。8月、日本がドイツに宣戦布告。

6年11月7日(ロシア暦10月25日)ロシア10月革命、ソビエト政権樹立。

志津さんが身近に起きた大事件として80歳を過ぎても鮮明に記憶としていたのは米騒動であった。

米騒動は大正7年7月23日、富山県下新川郡魚津町の漁民の主婦たち40人余りが、米価が暴落するさなか、県外に米を持ち出されてはますます高くなるばかりだと、港に集まって船積みを阻止しようとしたために起きた紛争が始まりだと伝えられている。

8月3日には同県中新川郡水橋町でも200人ほどの漁師の妻女が同じように米の廉売を要求して行動を起こした。ここの主婦たちは何組かに分かれて町長や米殻商を回り、米を安く売るように追って駆けつけた警官隊と抗争になった。

富山県下で起きた騒動の情報はたちまち県外にも広まり、他の府県でも同じように大小の米騒動が発生、全国的な規模に発展していく。

米の値段は明治45年には作付面積が300万町歩(300万ヘクタール)を超えたにもかかわらず相場の影響を受けて乱降下し、堅実な生活をのぞむ一般の家庭・生活者を困らせていた。

米価騰貴の直接の原因は明治43年の大水害(東北・関東・関西・九州)による凶作だったが、東北・北海道では大正2年にも年平均の20%以下という凶作に見舞われていた。

ところが米価は大正2年から5年にかけて低落に転じ、政府がその対策として4年10月に「米価調節調査会」を設置し、5年1月には「米価調整令」を公布して政府が直接、米の売買に係われるように法的な処置をととのえている。

しかし、政府のこうした努力を嘲笑うように、6年5月になると米価は一転高騰しはじめたのだ。7年4月、政府はさらに「外米輸入令」「外米管理令」を出し、積極的に米価調整に乗り出した。実際にこの年の外米輸入量は366万石に達している。

富山県で発火し全国にひろがった米騒動という大火は、こうした情況下で起きた事件だった。

兵庫県下での米騒動は8月11日から14日にかけて神戸市、明石市、尼崎市、姫路市、川辺郡小田村、沖名郡富島村、同岩屋町、同仮屋町、美嚢郡三木町、飾磨郡鹿谷村、同花田村、同高田村、揖保郡龍野町、同室津村、などで起きた。

「神戸又新日報」が8月13、14、15日の紙上でこれらの騒動を報道している。

最大のものは11日から14日にかけて発生した神戸市の騒動で、数万人が鈴木商店と神戸新聞社を焼き打ちにし、米殻商、仲買店、取引所を襲った。米殻商には米の安売りを強要し、湯浅商店、兵庫館本店などが放火に遭った。群集を鎮圧するために軍隊と警官隊が動員され、いたるところで衝突し流血が繰り返された。

3年6月28日にオーストリア皇太子がサラエボでオーストリア国籍のセルビア人青年に暗殺された事件が導火線になり、7月28日に第一次世界大戦が始まった。

日本は8月23日、ドイツに宣戦布告して大戦に参戦するのだが、この大戦は日本に多くのにわか成金を生み出した。

鈴木商店はその典型的な例であった。


食の大正・昭和史 第十五回
2009年02月03日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第十五回

                              月守 晋


養母の手伝いをするばかりではなく、志津さんは友だちともよく遊んだ。志津さんの記憶によると、その頃の女の子遊びといえば「なわ跳びだとか、けんけん、通しゃんせ、陣取り、お手玉」などだった。

近所の空き地や通りで遊んでいると紙芝居のおじさんがやってきた。当時の紙芝居は現在幼稚園などで活躍しているような平面の画用紙に描いた絵で場面を変えてストーリーを進行させる形式のものではなく、登場人物を1人ずつ板紙に描いた紙人形にして、操り棒で動かす式のものだったようである。紙人形には裏側にも表側とは違う絵が描いてありストーリーに従って裏返して使うのである。紙人形には棒あめのようににぎり棒がつけられ、裏返しやすいようにくふうされていた。ストーリーは時代物が多かったと志津さんはいう。

加太こうじ『紙芝居昭和史』(岩波現代文庫)によれば絵本形式の紙芝居が現れたのは昭和5年のことで、絵の大きさはハガキ大だった。それが7年には倍の大きさになり、さらに週刊誌2ページ分の大きさの画面になったという。

紙芝居が普及したのは伝説的ともいえる名作「黄金バット」が生まれたことにもよるが、世の中が不景気(全国の失業者数32万2527人)だったためでもあった。

紙芝居で1日に2円50銭売り上げると、子供に観覧料代わりに1本1銭で買わせる飴の仕入れ値35銭(7本1銭)、話のタネ絵の借り賃30銭、自転車の借り賃10銭、計75銭の経費を払って手元に1円75銭が残る。これで月に25日働くと43円75銭の稼ぎになる。大正5年当時、男性の機械職工の日雇賃金が82銭5厘、鋳物職で78銭8厘だという(森永卓郎監修『明治・大正・昭和・平成物価の文化史事典』展望社)からずいぶんといい稼ぎである。このため、紙芝居を仕事にする人が急激に増えていた。(前掲加太『紙芝居昭和史』によれば東京市内と周辺郡部で大正末~昭和初年に約40人だった紙芝居屋が昭和8年には2000人近くに増えたという)

学校が休みの日には近くの浜へ行って、貝やカニを採って遊んだ。夏には海水浴もした。海水浴といっても水泳着があるわけではなく、いつも身に着けている腰巻きのまま海に入るのである。

海水浴場に初めて水着姿の女性が現れたのは神奈川県大磯海岸で、明治28(1889)年8月のことである。太いシマがらの水着が流行したのが40年から43年、明治末頃には男性用はさらしのシャツのような水着になり、女性用はキャラコで半袖の肩がちょうちん型にふくらんだ当時の看護婦のような水着が流行した。女性の水着がノースリーブに変わったのは大正の末年である。

志津さんの小学生時代の日常は洋服ではなく和服がふつうだったから、必然的に腰巻のまま海に入るということになったのだ。

一方、男の子の遊びはどうだったのか。古島敏雄『子供たちの大正時代』には「棒ベース」や「ゴムまり野球」「スポンジボール野球」が紹介されている。

松田道雄『明治大正京都追憶』には学校に上がる前の幼児が年上の小学生の遊び仲間に組み入れられる過程が説明されている。「つかまえ」という遊びでは、就学前の子はつかまっても鬼になることは免除され、代わりにおしりを三度たたかれて釈放される。これを“しりみっこ”と呼んでいたことなど。「けんけん」という遊びも具体的に解説されている。電子ゲーム全盛の現在。幼稚園児から小学6年生までを含む集団で遊ぶことがあるのだろうか。


食の大正・昭和史 第十四回
2009年01月21日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第十四回

                              月守 晋

養母みきの内職だったマッチ箱貼りの手伝いをすると、毎日小遣いをもらうことができた。たいていは1銭か2銭で、長田神社の祭日など特別な日には5銭もらえた。1銭は1円の100分の1だが、当時の1銭はなかなか実力があって前にも紹介したように1銭にぎって駄菓子屋に行けば買えるものはいろいろあった。子供はその中から、今日は何を買おうかと知恵を働かせたのである。

ちなみに大正3年、森永製菓が売り出した20粒入りの紙サック入りキャラメルは10銭、大正10年発売の江崎グリコのハート型キャラメル・グリコは10粒入り5銭だった。チューインガムも米国リグレー社製の「ダブルミント」「スペヤミント」2種が、クリスマスと正月贈答品として大正4年に1包10銭、進物用20包入り1円75銭で売り出された。新聞の広告にはチュウインガムには「噛(か)み菓子」と説明がついている。

甘い物があまり好きではなかった志津さんは、子供の集まる駄菓子屋ではなく近所の酒店によく行った。この酒店では店前に関東煮(かんとだき)の鍋が置いてあり、神戸港で働く沖仲士や港内の作業員が1日の仕事帰りに立ち寄って冷や酒を飲みながら小腹をみたしていた。

「関東煮」は関東風の「おでん」のことで、関西で「おでん」といえば「こんにゃくの焼き田楽」のことなので区別して「関東煮」と呼ぶのである。

関西と関東では煮込むタネにも違いがあってクジラの舌(サエズリ)、同じくクジラの脂身・いり皮(コロ)、棒天(ちくわのような揚げ物)、タコの柔らか煮、そしてジャガイモは関西の関東煮に特有のもの。

関東のおでんにはちくわぶ、はんぺん、イカが入りじゃがいもではなく里芋になる。

「おでん」は「田楽」の御所ことばで「お田楽」の略であり、やがて民間にも広まったと食物史には書いてある。こんにゃくの田楽は江戸時代の元禄年間(1688-1704)に屋台が現われ、8代将軍吉宗の享保年間(1716-1735)には味噌田楽が現れた。その後それが味噌煮込み田楽に変わっていったのである。

さらに醤油汁で煮込む「江戸おでん」の出現は幕末になってからだという。

志津さんがお八つ代りに食べたのは好物だったジャガイモで、2個串に刺してあるのが1銭から2銭だった。ジャガイモのほかには三角の厚揚げも食べた。

田辺聖子の『道頓堀の雨に別れて以来なり』は6年間にわたって中央公論誌上に連載された豊醇な現代川柳・川柳作家史だが、その中で川柳作家たちの集まった上燗屋(じょかんや)のことにも触れている。この場末の一杯飲み屋の関東煮はこんにゃく、厚揚、豆腐、卵が大鍋でぐつぐつ煮られていたと説明されている。

また「大阪の古いかんとだき屋、今でもあるミナミの<たこ梅>」では川柳の同人誌「番傘」が創刊された大正2年当時、こんにゃく1つが2銭、タコの足が1串10銭だったとも。

それにしても、港湾の仕事帰りの沖仲士のおっちゃんや兄ちゃんに混じって、ジャガイモの串をかじっている小学生の女の子とは、実際に目にしていれば、声をあげて笑いたくなるような、オイオイと声をかけてやりたくなるような、珍妙な光景ではなかろうか。

京都の町医者の子だった松田道雄さんは、知人の家のおない年の子供が動物園で屋台店の餡パンを買ってもらって食べ、1日のうちに疫痢で死んで以来、父親の食品管理が一層厳重になり「患家からもらうカステーラ、人形の形をしたビスケット、田舎から送ってきたモロコシの粉で母がつくる団子、熱湯をかけてこねたはったいの粉ぐらいしか」お八つにもらえなかったと書いている。


食の大正・昭和史 第十三回
2009年01月08日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年--- 第十三回

                              月守 晋


昔の子どもは家の手伝いをよくした、という。この“昔”は昭和20年代くらい、せいぜい下っても30年代前半ぐらいまで、の意味である。

手伝いの中味は家の内外の片付けや掃除、買い物、親戚や近所の付き合いのあるお宅へのお使いなどといったことが主なものであろう。

八百屋や雑貨の小売り、あるいは手工業的な製造を家業として営んでいれば、当然のこととして子供は親の手助けをした。

現在では薬は医者に処方してもらった処方箋を持って調剤薬局に行くか、街中のいたるところに店を構えているドラッグストアで必要な薬を手に入れるというのが一般的だが、昔ながらに“富山の置き薬”を利用している家庭も少なからずある。

置き薬の主なものは「腹痛の赤玉、かぜの頓服、水当たりに仁丹、化膿した傷につけるたこの吸い出し(たこの絵の袋に入っている)、頭痛の時のノーシン、貝の容器に入った傷薬の赤膏薬、竹の皮包みのひび・赤ぎれ膏、虫下しのセメンエン」などであった(『くれぐしの里 ?奥会津回顧-』五十嵐キヌコ/書肆舷燈社)。 

これらの薬は富山で家内工業として製造されていたから、神戸のマッチ製造と同じように、外稼ぎに従事していないおばあさんや母親、子供たちが袋状の印刷、のり付けなどを手伝った。納税証明の印税を、女学校から帰ってきた娘さんが1枚1枚薬袋に貼りつけるのを手伝った(『反魂丹の文化史-越中富山の薬売り-』玉川しんめい/晶文社)。

同書によると、大正の末期に内職でやる袋貼りは小袋1000枚が3銭、1日に3000枚貼るのがやっとで日稼ぎ9銭になったという。また昭和3年の調査で富山県内の売薬製造場数が法人ではなく個人資格で
1021個所に対し、職工数は男女合わせて2472人だった。つまり1つの製造場に2.4人の職工が働く零細企業だったということである。

話がそれてしまったが、静さんのくらしに戻そう。

養母の内職を学校へ行く前と帰ってからと手伝いをすると、お小遣いがもらえた。お小遣いは自由に使えて、近所の店でお八つを買うこともできた。

静さんの家の近所にあった駄菓子屋に並んでいたのは鉄砲玉と呼んでいた真っ黒な、2cm大のアメ玉やイモヨウカン、ニッケ、ラムネ、ミカン水などだった。ミカン水は透明で甘味が少なく5厘から1銭、ラムネはミカン水より少々高くて3銭で、飲むと胸がすーっとした。

『子供たちの大正時代』(古島敏雄/平凡社)には「饅頭は一つ一銭位、一銭店で買う飴玉は一銭に四つか五つ買えた」という記述がある。長野県飯田町での話である。“一銭店”は駄菓子屋のことだろう。

『明治大正京都追憶』(岩波書店)の著者松田道雄さんは1908年、明治41年の生まれだから44年生まれの静さんの3歳年上だが、学校に上がったときから友だちと夜店に行かせてもらえたと書いている。
「たいてい十銭銀貨を一枚もらっていった」ということだが、10銭のお小遣いは子供の小遣いとしては破格の額だろう。松田さんは京都の町医者の子として育ち、自分も父親と同じ道を歩いた人だ(ロングセラーになった『育児の百科』『私の赤ちゃん』などの著書がある)。

10銭銀貨を握って友だちと出かけた夜店の子供の集まる店は「べっ甲飴、鯛焼き、かるやき、こぼれ梅(味醂(みりん)の酒粕)、飴饅頭、関東煮(おでん)、一銭洋食を売る屋台、夏は冷やし飴屋」だったと書いてある。


食の大正・昭和史 第十二回
2008年12月24日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---  第十二回

                              月守 晋


大正6年に数え年7歳で小学校に上がった志津さんは朝、学校へ行く前と学校から帰ってからと養母がやっていた内職を手伝った。

内職はマッチの箱貼りであった。

日本でのマッチ製造は元加賀藩士清水誠が明治7年にパリから技術を持ち帰ったのが最初だという。清水は明治3(1870)年、藩の留学生としてパリに渡り、パリの工芸大学で造船学を学んでいたが、4年の廃藩置県以後は文部省の留学生という身分で学業を続けていた。しかし、7年春に留学生制度そのものが廃絶されてしまう。清水の苦境を救ったのはフランス政府で、彼を金星観測補助員として雇ってくれたのである。

同じ年、清水はヨーロッパ漫遊中の宮内次官吉井友実(ともざね)と出会う。談話中、吉井は日本の対外貿易が巨額の赤字になっていることを憂え、机の上のマッチ箱を指差して「せめてこれくらいは輸入に頼らないでもすむようにできないものか」と嘆いた。清水はかねて製造工業に興味をもっていたので、「帰国後には私が工場を起こしましょう」と応じたのである。

同年10月、フランスから同国の金星研究員を伴って帰国した清水は12月に神戸諏訪山での金星観測に同行、フランス政府への恩義を果たした。

吉井との約束を果たしたのは翌8年で、東京三田四国町の吉井別邸に仮工場を建て、日光のポプラ樹を軸材に選びマッチ製造を開始する。さらに9年9月、本所柳原に本工場を建設し「新燧社(しんすいしゃ)」と名づけ、自身は海軍を退官して本格的にマッチ製造に乗り出すのである。新工場には旧士族の婦女子を多数雇用したので、困窮士族の救済にもなると新政府から感謝されたという。新燧社が製造したのは発火点の低い黄燐(りん)マッチであった。

神戸では明治10年に刑務所(当時は監獄と言った)で製造を始めたのが最初で、民間では12年に本多義知が明治社を湊町(現兵庫区)に、13年6月に滝川弁三が同じ湊町に「清燧社」を起こしている。

これ以後、神戸市を中心として兵庫県のマッチ製造額は増大の一途をたどる。明治30年には全国比率の53.9%大正元年には65.4%を占めるまでに発展した(大正8年、神戸市単独の生産額は全国生産額の52.5%)。神戸市の工場が製造したのは「安全マッチ」が主力で、兵庫に次ぐマッチ生産地大阪府では黄燐マッチが多かった。黄燐には人体に害を及ぼす有毒物が含まれているので、大正8年
10月にワシントンで開催された国際労働会議で生産停止が決議されている。

吉井の嘆きは明治15年ごろには早くも解消され、マッチは明治・大正期を通じて日本の主要輸出品の1つに成長した。

マッチ製造業で問題になっていたのは、大人の職工に混じって大勢の子どもが働いていたことだった。

神戸の場合、大正元年の統計で5553人の女子労働者のうち15歳以下が29.1%にもなる。

14 - 15歳 944人 17%
12 - 13歳 553人 10%
11歳以下 114人  2.1%

また男子は総数1698人のうち22.1%が15歳以下だった。

14 - 15歳 253人 14.9%
12 - 13歳 109人  6.4%
11歳以下  14人  0.8%

未成年者の就労を政府がただ傍観していたわけではない。大正5年8月3日、農商務省は東京府を除く庁府県に「十歳以上十二歳未満ノ者ノ就業を許可スル場合ノ取扱方」を訓令第10号として通達している。それによると


第1条 「簡易ナル業務ノ範囲」として

①菓子、巻煙草、黄燐マッチ、ブラシ、ボタンの各工場では箱詰め、綴付け、包装、ラベル貼り

②紙箱、マッチ箱製造では箱貼り


などと具体的に指示している(???略)。

また第3条で就労時間についても

①1日の就業時間は6時間を超えてはならない。

②1日の就業時間が3時間を超える時は30分以上の休憩時間を設けること。

③毎月4回以上の休日を設けること。


この通達がどれほど遵守されたかは定かではない。大正元年当時、年少者の賃銀は出来高払いが普通で、子どもたちは多く稼ごうと思えば就労時間や休憩を無視せざるを得なかったのであり、生産量が急増する3?8年間に、どれだけ改善されたかもわからない。

ともあれ、日本の(神戸の)マッチ製造業は工場で働く労働者(工場法の適用を受けられる)と工場周辺に住む内職家庭がそれぞれほぼ50%ずつを分担することによって成立していたのである。

《参考》 『神戸市史Ⅱ 第2次産業』
     『兵庫県百年史』
     『明治はいから物語』人物往来社


食の大正・昭和史 第十一回
2008年12月17日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---  第十一回

                              月守 晋

<承前>
「遠方から来る生徒は給食をたべていた。麦茶も出してもらえた」と志津さんは語っている。

わが国での学校給食は明治22(1889)年、山形県鶴岡町の私立忠愛小学校で始まったといわれている。

これ以後、全国的に学校給食が普及したのかというと、そうではないらしい。神戸市の場合、大正2
(1913)年に44万人だった市の人口は8年には63万人に増加、市立小学校の在学児童数は6万4千人を越していた。市立小学校は39校あった(翌9年には新設5校、町村合併による編入5校を加え49校となる)が教室数が不足し、398学級で2部授業を実施していた。

8年3月末日をもって、それまで家屋税負担額を財源としていた学区制(つまりは行政区)が廃止され、教育行政・施設などの問題には市が全面的に責任を負うことになった。神戸市はこの機会をとらえて、長年懸案になっていた校舎不足、教室不足という教育施設問題を解決するための財源として、8年に300万円、翌9年にも公債を発行してその総額は700万円に達している。

つまりこの時期、神戸市は施設整備に最大限の努力をしていたのであり、福祉的な給食事業にまで手を回せただろうかという疑念がわく。

そして残念ながら、多分、そこまでの余裕はなかったろうと想像されるのである。

●金融恐慌を起こした大臣失言
『新修神戸史』が学校給食について記述するのは、昭和初期の不況期以後の対策についてである(行政編? くらしと行政)。

大正12年の関東大震災は東京・横浜地域の銀行にも、業務を継続できないほどの打撃を与えていた。これらの銀行の預金貸出高は約24億円あったが、確実に回収できる額は600?700万円に過ぎず、預金者に対する支払い能力は全く無いという状態だった。昭和2年3月14日、震災手形の処理方法を議論する衆議院予算委員会で、片岡直温(なおはる)大蔵大臣から歴史的な大失言が飛び出す。「本日昼ごろ、東京の渡辺銀行が破綻いたしました」事実は渡辺銀行はどうにか当日の決済を切り抜けていたのだが、この発言で取り付け騒ぎが起きる。これが“昭和金融恐慌”の発端である。

各地で体力のない中小企業が休業に追い込まれるなか、波動は第一次世界大戦の戦需ブームでのし上がった新興商社の鈴木商店、鈴木と密接な関係にあった台湾銀行に及んだ。その経営危機が表面化すると各銀行からの融資が止まり、ぼう大な赤字を抱えていた鈴木商店は破綻に追い込まれる。そして直系銀行だった神戸第六十五銀行が業務を休止する。連鎖的に株式相場も暴落し、経済パニックの暗雲が全国を覆いつくした。

さらに追い打ちをかけたのが1929年10月24日、後に“暗黒の木曜日”として記憶されるニューヨーク株式市場の大暴落に始まる世界恐慌であった。

「昭和2年の金融恐慌および4年以降の世界恐慌によって地域経済は壊滅的な打撃をこうむった。
<中略>当時総失業者数は1万2000人にのぼっていた」と『神戸市史』はいう。

この不況期に派生した「家庭困窮による欠食児童、栄養不良児の増加は深刻な社会問題となり、
<中略>昭和7年、政府は「学校給食臨時施設方法ニ関スル件」(文部省訓令第18号)を出し、こうした事態に対応した」

「神戸市も昭和8年から52校、1200人を対象に給食を開始した」と市史にある。しかし、児童1人当たり
20円かかる給食コストに対して、県の支援金7万余円と国庫交付金7470円ではとうてい足りず、市の負担と地元有志の寄付金に頼らざるを得ないのが実情だった。そのため寄付金の集まらない区では給食設備もないため1食7?8銭の給食弁当を市営食堂から調達する有様で、これは味も悪く児童にも不評だった、という。

ともあれ以上の話は、昭和8年以降のことである。志津さんが小学校に在学した大正6?12年間に、市や区の公的な施策として困窮家庭の児童に対する給食が実施されたという記述は見つからないのである。

とすれば、志津さんの“給食”記憶は幻なのか。あるいは心の広い篤志家(とくしか)がいて、給食経費を負担してくれていたのだろうか。

事実は霧の中である。


食の大正・昭和史 第十回
2008年12月03日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---  第十回

                              月守 晋


学校での楽しみの1つは昼食の時間である。いまでは小学校での昼食はクラス全員が同じものをいっせいに食べる給食と定まっているが(食品アレルギーなど特別な事情をかかえる生徒は別にして)、志津さんが小学生だったころの神戸では弁当を持って来るのがふつうで、学校の近くの家の子のなかには食べに帰る子もいたという。

志津さん自身はというと、たいてい弁当を持っていっていたが、家に食べに帰ることもあった。

弁当といえば“のり弁”が定番だが、志津さんの弁当にはのりの代わりにチリメンジャコや花かつおがふりかけてある日もあった。いちばんうれしかったのは鮭の粕漬けの弁当で、鮭の粕漬けは志津さんの大好物だった。

酒粕漬や味噌漬は外国人に自慢できる日本特有の魚介類、食肉類の保存法である。

鮭は古い時代から日本人にはなじみの魚である。縄文時代のゴミ捨て場の跡から鮭の骨と判別できる骨が出土しているし、記録されたものとしては8世紀に編輯(へんしゅう)された出雲風土記(いずもふどき)や古事記などにもその名が出てくる。

しかし酒粕に切り身を漬けこんでおいて食べるようになったのは、大量に酒粕を利用できるようになってから、つまり濁酒(にごりざけ)から清酒を造る技術が普及しはじめる16世紀以降のことだろう。

神戸市は灘五郷(なだごごう)と呼ばれた地域(今津郷、西宮郷、魚崎郷、御影郷、西郷)を市域内または隣接市にもっている。酒粕は酒醸の副産物として大量に造られただろうし、それが魚介類や野菜の漬けこみ用に利用されることも多かったろう。

弁当から話が飛んでしまったが、元に戻そう。

“のり弁”は庶民の弁当と思っていたらそうでもないらしい。

1902年(明治35)年の生まれというから志津さんよりは9歳年長、しかも旧鳥取藩主家の池田侯爵家の長女というから、志津さんから見ればはるか雲の上のご身分のお姫様ということになるが、徳川幹子(もとこ)『わたしはロビンソン・クルーソー』(人間の記録?/日本図書センター)にも“のり弁”のことが語られている。引用してみよう。

「学習院女学部の付属幼稚園に通うようになると、お昼はお弁当。私のお気に入りは『べったりお
海苔(のり)』でした。ご飯とご飯のあいだに海苔が敷いてあって、いちばん上にいり卵がのってい
るのです」

志津さんの持っていった“のり弁”との違いは、「いちばん上にいり卵がのっている」ところ。志津さんの弁当はここにものりが敷いてあった。

この記録には弁当の他のおかずのことも語られている。魚がおかずのときは“味噌焼き”だったこと(現在の弁当箱のようにふたがぴったり閉まらないので、煮魚だと汁がこぼれてしまうから)、いちばんの豪華版は“牛肉のつけ焼き”の入った弁当だったこと(1週間に1度)など。

幹子さんは学習院女学部の小学科に進むが、そのころ席を並べて隣にすわっていたのが、久邇宮良子(くにのみや ながこ)女王、大正13年に昭和天皇の皇后になられたかただった。その良子女王の「お弁当だって、わたしのお弁当の中身とそう変ったところはありませんでした」という。「違いといえば皇后さまのお弁当はお昼近くになってから届けられたから、スチームを利用しなくても暖かいお弁当だったことぐらい」と。

寒い季節にはスチーム暖房の上に弁当を並べて温め、時間になると当番の子が小使い部屋に暖かいお湯の入った土瓶を取りに行った。田舎の小学校ではこのスチームが、一辺1mはある大きな角火鉢になる。この火鉢の周辺に、裸にしたアルミの弁当を並べて温めるのだ。

志津さんの記憶では「遠方から来る子は給食をたべていた」ということだが、これはひょっとしたら記憶違いかもしれない。

小学校での給食は明治22(1889)年10月、山形県鶴岡町で始まったと伝えられている。実施したのは同町の私立忠愛小学校。この学校は仏教団体が創設したもので、貧困家庭の子供たちに教育を奨励することを目的とした。

この明治22年という年は維新後、ヨーロッパ諸国並みの近代国家を造り上げようとしていたわが国を初めて経済恐慌が襲った年で、その原因になったのは凶作による物価騰貴だった。翌23年から米価が暴騰し、各地で米騒動が起きている。東北地方は凶作の打撃を最もこうむる地方だった。

忠愛小学校では僧侶たちが托鉢(たくはつ)で集めた資金を基に、握り飯と簡単な副菜を給食した。
(次回につづく)


食の大正・昭和史 第九回
2008年11月26日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年--- 第九回

                              月守 晋


この原稿を書いている神奈川県の地方都市では、いまでも週に何回か独特のラッパの音色を響かせて豆腐屋が回っている。豆腐屋がラッパを吹きはじめたのは明治37?38年の日露戦争以後のことで、ロシア帝国(当時)との戦争に勝って戦勝気分で吹きだしたんだ、と秋山安三郎『下町今昔』に書いてある。

秋山安三郎は明治19年東京浅草の生まれ、記者生活50年で劇評・随筆で活躍した(昭和50年死去)。

東京の下町では真夏の夕方、陽が沈んで暗くなり始めたころ「まめやぁ枝豆」とゆでた枝豆をザルに入れて呼び歩く枝豆売りの小母さんが来たという。

志津さんの子どものころの神戸でも家の前の通りや裏路地を、さまざまな行商人がそれぞれに独特の売り声を上げて回ってきた。

金魚売り、風鈴売り、風船売り、花売り、豆腐屋、竹竿売り、それに魚屋。

朝早く町屋を回ってくる行商人に「いわし売り」がいた。まだ生きていて、ざるの中でぴんぴん跳ねているいわしを「小母さーん」と追っかけて買ってくる。ざる1杯が2銭から5銭くらい。すぐに腸わたをとってうろこをよく洗い落とし、頭はついたままのを醤油とみりん、お酒でさっと煮つける。これが朝食のお菜になる。

“神戸っ子”の歴史学者直木孝次郎(なおきこうじろう)氏も「神戸でうまいものは牛肉だけではない。瀬戸内海の生きのよい魚がある。・・・・・・季節によっては「大鰯(いわし)のとれとれー」という呼び声が巷に流れていた」と書いている(『伝承写真館 日本の食文化?近畿』農文協編/P.P 170?171)


■ 豊かな瀬戸内海の魚類

兵庫県は唯一、県域の南北が海に接し海産物に恵まれている。日本海と瀬戸内海ではとれる魚類が違い、それだけ多くの種類の魚介類を県民は楽しめることになる。

神戸市では明治40(1907)年に魚介類卸売市場として兵庫南浜魚市場が開業したのにつづき駒ヶ林魚類定市場(林田区)が42年に、大正元年に脇浜魚市場(葺合区)、同6年に神戸魚市場(湊東区)、同8年に湊川海産物問屋(湊東区)、そして11年に宮前魚市場(兵庫区)が設立されている。

いっぽう、市民が日常生活に必要な品々を安定して安い価格で手に入れられる市場が人口の増加や生活の近代化・多様化にともなって必要になってくる。

神戸市に米、肉類、魚類、乾物、野菜、果物、味噌、醤油、漬物、砂糖などの食料品や雑貨、薪炭、文房具など日用の生活品までを小売する公設市場が市会決議をへて開設されたのは大正7年11月開設の東部公設市場(旭通)と中央公設市場(湊川公園内)が初めてである。

その後大正15年までに芦原(8年兵庫区)、熊内(9年葺合区)、三宮・宇治川(9年神戸区)、長田(11年林田区)、西須磨・東須磨(12年須磨区)、西代(13年須磨区)、中山手(15年神戸区)が開設され、昭和10年の灘区・灘公設市場の開設で終わっている。

公設市場では江戸期以来の“盆・暮れの年2度払い”とは違い現金即払いだから、毎日この市場を利用するとなると計画的に買物をしなくてはならない。売るほうも毎日の仕入れ量を予測を立てて計画的に行うようになる。公設市場は日給にしろ月給取りにしろ、賃金労働者が大部分の都市生活者に新しい近代的な生活者意識をうえつけていった。

公設市場の成功は私設小売市場の普及と発達という好影響ももたらした。現在でも大中小都市に“○○銀座”とか“XXアーケード街”とか地域の中心になっている小売商店街が残っているけれど、神戸には昭和6年3月現在で12の公設市場と75の私設小売市場ができて市民の消費生活を支えていたという(『神戸市史?/第三次産業』)。

さて、話をもどそう。

志津さんが子どものころ、瀬戸内海沿岸でとれた魚貝類は次のようなものだった。

いわし めばる
べら あなご
さわら いかなご
かれい たちうお
あじ たこ
かに えび
大貝 まて貝
いたぼがき 青のり
(以上『日本の食文化?』)


『神戸市史』には上に掲げたほかに、神戸市域の漁(明治期)として次の各種が記されている。

はも このしろ こち
くろだい はぜ さっぽ
どろめん いな すずき
あぶらめ せと貝 わかめ

直木教授のエッセイにはくじらを食べたことも書かれている。引用しておこう。

「神戸ではくじらもよく食べた。<中略>冬場、その赤肉をかたまりで買ってきて小口から小さく切り、水菜といっしょにたくのである」(前掲書「食は神戸にあり」p.170)。


食の大正・昭和史 第八回
2008年11月12日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年--- 第八回

                              月守 晋


小学校に上った志津さんの得意科目は国語だった。すぐ上の姉(実際には叔母だが)多加が明治38年生まれだから、志津さんとは6つ離れているし、その上の35年生れの喜代とでは9つも違う。

主にめんどうを見てくれたこの姉たちが、片仮名の読み方を教えてくれたので、1年生になったときはイロハ47文字をほぼ読めるようになっていた。他に好きな学科は図画だった。後年、志津さんの1人娘緑子が美術大学に進学するが、その素質は志津さんゆずりだったのかもしれない。

明治時代の小学校では学業成績の優秀な生徒に賞状と賞品を与えることが全国的に行われていた。また品行方正(行いの正しい者)、皆勤無欠席、精勤(よく努力する)などの名目でも表彰された。

賞品として与えられるのは翌年の教科書がもっとも多く、習字用の半紙(1帖(じょう)20枚)、筆記帳、硯箱(すずりばこ)や字典なども与えられている。

賞状・賞品の授与は大正時代に入るとぐんと少なくなった。賞状賞品目的の勉学になりがちな点が反省され、学習の達成度に優劣順をつけて評価することの教育効果を疑問視する声が大きくなったためである。

われらが志津さんが賞状を受け賞品を授与された、という話は残念ながら聞いていない。まあそこそこの成績に、子どもらしいふつうの生徒だったのだろう。


■ 9月入学の小学校

「田舎町の生活誌」と副題のある古島敏雄著『子供たちの大正時代』を読むと、大正時代の小学校には“桜の花の4月”入学ばかりでなく“紅葉の秋9月”に新1年生を入学させる地方もあったことがわかる。

4月入学のばあい、前の年の4月2日から今年の4月1日までに生まれた数え年7歳(昭和25(1950)年1月1日から満年齢が実施された)の児童が新1年生として入学した。この制度に変わりはなかったが、著者が生まれ育った長野県伊那郡飯田町(現飯田市)では4月から9月末日までに生まれた児童を数え7歳になった9月に入学させたのである。

4月?9月生まれの児童数と10月?3月(4月1日を含む)生まれの児童数とを比べるとほとんど同数だったが、9月入学児と翌年の4月入学児の児童数とでは4:15と圧倒的に4月入学児のほうが多かった。「これは実際秋に入る筈(はず)の月に生れた人たちのなかで、親の計らいで翌年4月に入学した人の多かったことを示すのであろう」と古島教授は書いている。

明治45年(1912)年4月14日生まれの著者は大正7年9月に小学へ入学し、13年4月1日からは中学生になった。本来なら小学校卒業年は13年7月だから、中学校へは半年の飛び級で入学していることになる。しかし同級生のうちの中学進学者2人と女学校進学の3人は翌年4月に入ったという。つまり半年間は高等科へ行くなどして待機していたのだ。

飯田町の秋季入学制は著者の入学した年を最後に2年間で廃絶された。やはり全体の教育体系の中で続行するのは無理だったのだろう。


■ 子供の遊び

志津さんの子どものころの女の子の遊びといえば、なわ跳び、お手玉、通しゃんせ、陣取り、けんけんなどであった。近所の遊び仲間となわ跳びやけんけんをして遊んでいると、紙芝居屋の小父さんが回ってくる。お話は時代物が多かった。

半澤敏郎編著『童遊文化史』(全4巻+別巻1/東京書籍)には「大正全期の女児」の遊戯として60種類が掲げられている。生前の志津さんが子どものころに遊んだ経験のあるものに○印をつけてもらったのが、次に掲げる遊びである。

おてだま まりつき
おはじき いしけり
なわとび かくれんぼ
ままごと じんとり
あやとり カルタ
おにごっこ はねつき
たけあそび はないちもんめ
ハンカチおとし とおりゃんせ
うまとび すごろく
たけうま ちよがみ
めんこ じゃんけんあそび
ビーだま じてんしゃ
ブランコ トランプ
かごめかごめ さみせん
ぬりえ

いまこの文章を書いている筆者(昭和10年生れ)にも、「たけあそび」と「さみせん」がどんな遊びなのか見当がつかないのだが、この時代の子どもの遊びの特徴として次の2つのことが上げられるだろう。

 1. 室内ではなく外で遊ぶ遊戯が多い。
 2. 1人遊びではなく複数の友達と遊ぶことが多い。


食の大正・昭和史 第七回
2008年10月29日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年--- 第七回

                              月守 晋


■ 志津さん小学校に入学

大正6年(1917)、志津さんは小学校に上がった。神戸市林田区の尋常高等小学校である。

明治元年(1868)に外国船の出入りする港として開港された漁村はその後、人が集まり町ができ、明治22年には神戸市へと発展した。市制が施行されたこの年、学区が整備され、葺合(かきあい)区・神戸区・湊川(みなとがわ)区・兵庫区をそれぞれ第1?第4学区と定めた。尋常小学校と簡易小学校はそれぞれの学区に組み入れられ、高等科の課程をもつ尋常高等小学校は第1と第2学区を併せて
1校、第3と第4学区を併せて1校、都合2校設けられることになった。

尋常高等小学校は6年生修了後に、さらに2年間上の課程を学べる学校である。

この当時の小学校は、各学区=各行政区(葺合区、神戸区などの)が設立し、必要となる経費(校舎維持費や教師の給料など)を負担する仕組みだった。基になるのは各区が所有する共有財産(宅地、畑地、山林・原野などで収入の見込めるもの)と家屋税だった(家屋税については話が複雑になるので説明を省く)。

当然のことながら裕福な区があり、そうでない区がある。

志津さんの住んでいた林田区は明治29年に新しく区になったところで、それまでは林田村だった。明治30年以降、林田区は神戸市の工業の中心地として発展し、大正10年には人口が10倍にも伸びた。就学年齢の児童数も増加したが、小学校の設置数も児童数の増加に見合って増えたわけではないので、教室は詰め込み状態になっていた。

志津さんの記憶では「高等科のあった尋常小学校に6年間通った。男女共学で1クラス40人?50人いた」ということだったが、神戸市史(歴史編?近代・現代)によると、林田区の1学級あたりの児童数は大正元年50.51、3年 57.88、6年は62.83である。神戸区の場合はそれぞれ52.66、52.67、52.42 だから、10人近くも多い。

志津さんの記憶違いでなければ、高等科を併設した高等小学校だったので、尋常小学校よりは条件が良かったのかもしれない。

もう一つ考えられるのは、大正3年(1914)7月に始まった第一次世界大戦の時期(終戦は7年11月)は教育の制度、あり方全般について見直しが始まっていて、8年3月末日に?尋常小学校、高等小学校の学区制を廃止し、神戸市営として統一する、?明治中期から行われていた教室不足、教員不足にともなう2部授業の廃止、?理科、図工、手工、裁縫、唱歌などのために特別教室を設けること、などが決められたこと、が上げられる。

この決定によって、教育費は県と市が全般的に負担し、すでに国も7年から義務教育費の国庫補助を実施していたから、教員の待遇が改善されて教員数が増加し、小学校数も8年から12年の間に新設9校、増改築37校と飛躍的に増加、改善された。

神戸市の統計が示すところでは、林田区の1学級の生徒数は志津さんが3年生の年の大正9年は54.9人、5年生の年の11年には51.6人と激減している。

話が脇道に入るが、同じ神戸市の統計で小学校教員の月給平均額の推移を見ると次のようになる。

年度          男子                   女子
大正1年      28円70銭                18円98銭
大正5年      30円20銭                20円32銭
大正7年      53円22銭                26円67銭
大正9年      93円35銭                62円57銭
大正14年      94円82銭                65円70銭

女子教員の月給は男子教員のほぼ3分の2の額であることかがこの表から読み取れよう。

神戸市は以後も教育環境を改善し充実させるためにさまざまな施策を実施している。大正15年には教室不足が解消されて昼夜2部授業が廃止され、各学区に計8校の単立高等小学校が新設された。

さらに大正8年以降、小学校の卒業生に就職する際に必要な知識・技能を身につけさせるために日清戦争後の明治29年から創設されていた湊川、兵庫、神戸各実業補習学校の教育内容も実情に合わせて改められた。週6間制の授業が隔日の3日制に、2年間の学年制が6か月の学科制に、教科面でも英語、法律、機械、製図、簿記など実践的な教科が加えられている。

神戸は外国との貿易・観光の拠点として発展したため川崎・三菱の両造船所をはじめ製鋼・ガス・鉄道などの工場、銀行・商社など関連する近代企業が多数集まっていた。これらの企業が自社の年少未熟従業員の職能アップのために、補習教育校を利用するということもこのころから盛んになっている。

志津さんは後に三菱造船所に勤めることになるのだが、実業補習校の利用にもっとも熱心だったのは川崎造船所で、社費で職工・図工・写真工をはじめ給仕・倉庫番・小使まで補習校で学ばせた。成績の優秀な者には臨時に日給を上げて学ぶことを奨励している。


<参考> 『 新修神戸市・歴史編4』
 『 図説・明治百年の児童史 』


食の大正・昭和史 第六回
2008年10月22日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---  第六回

                              月守 晋


■ 幼稚園の開設と普及

「幼稚園」という名称を発案したのは中村正直(まさなお・号を敬宇。明治4年『西国立志伝』を翻訳出版し多大の影響を与えた。1832-91)といわれている。世界で最初の幼児教育の施設として1837年ドイツでフレーベルが開設したキンダーガーテンKindergartenを和訳した。

わが国で最初の幼稚園は「学制」が制定されて3年後の明治8年、京都の上京区第30区小学校(柳池小学校)に付設して開園された。「幼穉(チ・おさないの意)遊嬉場」と名づけられたこの施設では定まった課業はなく、1人の女教師に見守られるなか大きな木製の積み木や絵本で自由に遊べばよい、とされていた。

残念なことにこの施設は1年半後に閉園されている。

TVタレントのタモリ氏は入園することになっていた幼稚園を入園前に“視察”に行き、団体遊戯をしている様子を目にして「あんな恥ずかしいことはできないよ」と思って幼稚園に入るのをやめてしまったけれど、行っておけばよかったなと今になって後悔してると発言していたが、幼児の興味を尊重して、1人遊びのできる柳池遊嬉場なら、喜んで通っていたかもしれない。

「学制」領布の4年後、明治9年11月16日に初めて「幼稚園」の名称をもつ施設が東京で開園した。これが東京女子師範学校付属幼稚園である。ドイツ人の松野クララが首席保母を務め、豊田ふゆ、近藤はまらが保母として働いた。お手本にしたのはフレーベルの幼児教育理論とその実践施設であるキンダーガーテンだった。

開園時の幼児数は75名、それが年度末には男児101名、女児数は57名、計158名に増えた。通ってくるのは馬車や人力車に乗せられ、女中や書生につき従われた上流富裕層のぼっちゃん嬢ちゃんばかりだったという。

その後、明治11年にこの付属幼稚園で保父をしていた豊田英雄が鹿児島県の委属を受けて同県の幼稚園施設に尽力し、翌12年には近藤はまが東京芝公園内に近藤幼稚園を設立した。

幼稚園の数は時代が下るとともに増え、明治40(1907)年には全国で園数386、保母数1066人、園児数35,285人にまで伸びている。この数字は大正6(1917)年には園数677、保母1892人、園児55,573人と増加する。しかし、同じ大正6年に神戸全市だけでも学齢児童数(年度末に6歳1日以上に達した児童数)は59,204人を数えるのだから、全国の総児童数からみればほんの一握りの上層富裕家庭の子供しか幼稚園に通わせてはもらえなかったということだろう。

わが国の幼稚園は公立よりも私立を中心に普及した。特にキリスト教や仏教などの宗教団体が布教目的で設立に尽力したことが大きく貢献している。

この稿を書くのにあたって参考にさせていただいた研究書(『図説・明治百年の児童史』上・下/唐沢富太郎著/講談社) には明治期の幼稚園教育の様子を写した写真が収蔵されている。それらは、たとえば明治23年に尾道幼稚園が年令5歳11か月になる小川亀藏少年に与えた1年10か月間の保育修了證、2人がけの長机長椅子を円型に並べてすわっている児童らの写っている華族女学校(女子学習院の前身)付属幼稚園の教場(明治31年11月号の雑誌「少年世界」に掲載された)、着物の上におそろいの白いエプロンを着て女の子は手ぬぐいをあねさんかぶり、男の子は向こう鉢巻きにして、どうやら団体遊戯を演じているらしい13人の児童たち。足元を見ると裸足だとわかる写真など、など。他にも積木遊びをしている日本女子大学校付属幼稚園の教室、蓄音機を聞いている東京女子高等師範学校付属幼稚園の園児たちの写真もある。

明治44年生まれの志津さんが幼稚園に入れてもらえる年令の数え4歳に達したころ、つまり大正3年当時、志津さんが育った神戸市林田区内に公立、私立を問わず幼稚園が開設されていたかというと、たぶん一つもなかったろう。この件については市史などの資料にあたってみてもわからないままだ。

ところで、翌大正4年に、神戸の南京街で老祥記という店が、“豚まん”を専門に売り出した。神戸の中国人町である南京街は、元町通りと栄通りの間にあり、多くの中国人が商店を構えて、当時神戸に住んでいた5500人ほどの中国人の台所を支えていたのである。豚まん1個の売り値は2銭5厘だったとか(古川ロッパ『ロッパ悲食記』)。ちなみに、この年日本で初めて売り出した米国リグレー社のチュウインガムは10銭だった。

志津さんの記憶によると、志津さんが15歳で勤め始めた三菱造船所の売店では、豚まんは1個2銭だったという。


<参考> 『図説明治百年の児童史』 上・下/唐沢富太郎/講談社
 『日本歴史事典』 河出書房


食の大正・昭和史 第五回
2008年10月15日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---  第五回

                              月守 晋

ライスカレー、コロッケ、トンカツ、この三つが“大正の3大洋食”といわれているようである。

コロッケについては、志津さんの3男にありありと思い出すことのできる記憶がある。それは夕闇の迫った薄暗がりの台所で、母親が小声で歌いながら揚げ物をしている姿だ。

    ワイフもらって うれしかったが
    いつも出てくるおかずが コロッケ
    今日もコロッケ 明日もコロッケ
    これじゃ年がら年じゅう コロッケ
    アッハ ハッハ ハッハ ハ
    やれおかし

益田太郎冠者(かじゃ)作詞の「コロッケの唄」が実際に世の中に現われたのは大正9年のことだが、どこかペーソスを含んだこっけいな節まわしとあいまって、ことに安月給のサラリーマン層を中心に広まった。

この年、大正9年、東京の割烹講習会が馬鈴薯(ばれいしょ)の料理144種を紹介する料理本を刊行した。

馬鈴薯はそれほど食材として安価で料理がしやすく、どんな料理にも使えてしかも、おいしく食べられるすぐれものだ、ということだろう。

食材といえば、ライスカレーには必ず使われるタマネギは明治4年に北海道開拓使(それまで蝦夷地
<えぞち>と呼ばれていた呼称を明治2年北海道と改め、開拓使という行政府をもうけて農業、資源開発にのり出した)がアメリカから取り寄せて栽培を始めているし、明治19年には東京の洋食店でライスカレーが7銭で食べられたというから、必要な香料(ターメリック)もルーの形でか粉末の形でか輸入されていたに違いない。

トンカツの材料、ブタ肉は牛肉に比べるとこのころから安かった。明治27年に東京の煉瓦亭(れんがてい)がトンカツをメニューに加えたというが、38年の神戸又新日報の記事ではブタの上等肉でも牛ヒレ肉より4割は安く売られている。

トンカツのつきもののキャベツは勧業局が明治7年にぶどう、梨、りんごなどの果樹の苗と共にキャベツやトウモロコシの種子を輸入して各地に配布しており、秋田県内では明治18年に“玉茎(たまくき)”と呼ばれて栽培する農家がふえたという。

つまり、大正の3大洋食の基礎となる食材は明治時代にほぼ調っていたわけで、その食べさせ方、料理法が問題だった。

高価な牛肉のカツレツに代えて安い豚肉を使ったトンカツ、牛肉のミンチ少量をジャガイモをゆでてつぶしたものに混ぜて俵(たわら)形または小判形に丸めて油で揚げるジャガイモコロッケ、そして皿とスプーンを使って食べる洋風汁かけ飯ともいうべきカレーライス、大正の3大洋食はまさに、西洋食に対する日本的対応の精髄であったといえよう。

さて、幼女期の志津さんがどんな日を過ごしていたのか、実は本人にもまったく記憶がなかったために再現することが出来ない。ただ、実父が身近にいないとはいえ、実母には志津さんが6才になるまで、それとは教えられてはいなくても、年齢のずいぶんと離れた姉として接することが出来た。他の兄姉も“末娘”にはやさしくて、志津さんはかわいがられて育ったのだ。

しかし、幼稚園には通っていない。

この国に最初の幼稚園が出来たのは明治9年のことである。東京女子師範学校に開設された付属幼稚園がそれである。男女の区別なく満3才以上6才以下の児童を受け入れ、唱歌、修身、戸外遊び、お話の時間などドイツ式の保育が行われた。入園者は75人で、さすがに裕福な上流階級の子供で占められていた。

幼稚園数はその後も増え、大正元年に533、4年には635になっているが、保育料も年額22円と高額
だった。(次回に続く)

  参考 : 『近代日本の心情の歴史』 見田宗介/講談社


食の大正・昭和史 第四回
2008年10月08日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年--- 第四回

                              月守 晋

「大正も二年と進むと、そこは纔(わず)かに一年のことだが、何とはなしに世の中が一変したかのような感じが、誰の胸にも響いた。」と生方敏郎が書いている(『明治大正見聞史』)。

明治帝崩御は前年7月30日だから、実質的には5ヶ月たったにすぎないが、「華やかになるかのようにも暗くなるかのようにも、自由なようにも同時に危いようにも思われ出した」という。

新聞記者という立場に立っていたとはいえ、時代の変化・動向を鋭敏にかぎとる感覚にたけていたといえるだろう。


■ 洋食の先進都市、神戸

神戸は開港(1868年)以来、洋食の先進都市だった。明治2(1869)年には早くも元町6丁目に「関門月下亭」が牛肉のすき焼きを食べさせ始めた。その後外国人の間に牛肉は神戸が世界一という評判が広まり、明治10年には西洋料理の店「外国亭」が開業したという(『神戸と居留地---多文化共生都市の原像』神戸新聞総合出版センター)。

明治43年には牛鍋屋が35店(東京275、大阪158)、牛肉料理店も42店(東京503、大阪144)あった(農商務省/上掲書)。

神戸の西洋料理、料理法の普及には居留地に開業したオリエンタル・ホテルやインペリアル・ホテルなどの影響が強かったろうと思われる。オリエンタル・ホテルは明治3年、インペリアルは明治35年の開業。オリエンタルには明治22年にイギリスの作家キプリングが旅行記の中で「本物の料理が食べられる」と賛辞を述べ、35年に開催された日英同盟成立祝賀会では、仔牛の蒸(む)し物や鶏肉の煮込み、七面鳥の焼肉などの肉料理がテーブルに上った。キプリングは日本人給士たちのこともほめているが、厨房(ちゅうぼう=調理室)にも日本人の見習いがいたはずで、そういう人たちが西洋料理を広めることに、いろいろな形で貢献したにちがいない。

牛肉の「大和煮(やまとに)」の缶詰も神戸が発祥の地である。考案者は鈴木清という元武士で、すき焼風に味付けした牛肉が日本人の口に合うと考え工夫したのである。

大和煮だけではなく、味噌を使って牛生肉を保存しようとする店も現れている。神戸海岸通りにあった長光本店という店で、明治39年ごろには新聞広告を出すまでになっている。大和煮の缶詰はその10年前に、すでに全国的なヒット商品になっていた。

ちなみに、42年度に神戸市で屠殺された牛、豚、羊などの頭数は1万2478頭で、肉の量にして297万8103斤(斤=約600g/178万6862kg)だった。東京(6万9678頭)、大阪(1万5576頭)についで3位の多さである。

『神戸と居留地』からの孫引きになるが、神戸又新日報明治38年4月15日の新聞記事によれば、牝(めす)牛ヒレ肉100匁(もんめ=375g)の値段は50銭(東京75銭)、同ロース肉で40銭(東京65銭)だった。そばのもり・かけが共に3銭、白米1升14銭だったから牛ヒレ肉100gと白米1升の値段がほぼ同じだったということになる。

仮に上の肉類を全て神戸市民が消費したとすると、市民数30万人として1人当たり1日の消費量は約16gである。

■ 大正元?3年の食のトピックス

大正元(明治45)年
* 牛乳の生産量が年間33万石(ごく)600万キロリットルになる。1人当たりの年間消費量は800ミリリットル。
→東京ではミルクホールが大繁盛した。
* 鶏卵の生産量が年間8億個を超え、年間1人当たり消費量は16個となる。

大正2年
* 森永製菓がミルクキャラメルを発売。バラ売りで1斤(きん)80粒40銭。
→大正3年には「ポケット用、1箱10銭」と箱入りになっている。

大正3年
* 「婦人の友」買い物部が食品の通信販売を始める。浅草のり(1帖10?12銭の3種類)と味付けのり、焼のり、のりの佃煮など。
→読売新聞もライスカレー、ホワイトソース、シチューなど「西洋料理の素」を販売する。1個30銭

→東京日本橋の岡本商店が「ロンドン土産即席カレー」を販売。湯で溶いて肉・野菜を加えて使用。
15人前缶入り30銭。


食の大正・昭和史 第三回
2008年10月01日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---  第三回

                              月守 晋

■1枚の写真

大正2年の正月を迎えて、志津さんは数え年3歳になった。

話が脇道にそれるけれど、日本人は昔から正月を迎えると自分の年齢に1歳を加えて数える慣わしだった。この数え方にはお母さんのおなかの中にいた10月10日(とつきとおか)が無意識のうちに加算されていると考えたい。受胎のメカニズムはわからなくとも、授かった生命を胎内で懸命に守り育ててくれた母親の努力をわかっていたし、新しい生命は受胎のその時に始まるということもわかっていたにちがいない。0(ゼロ)歳児とか満年令という考え方よりこちらのほうがごくごく自然ではなかろうか。

それはともかく、1枚の写真が残っている。5cm四方に満たない白黒写真で、小さな火鉢を囲んで3人の大人の女性がすわっており、手前のほうに火鉢と少し離れて、右向きに横を向いて女児がすわっている。3歳ぐらいだろうか。ちゃんと正坐をしており、和服姿だ。肩揚げのしてある羽織か、綿入れを着ている。これがただ1枚、志津さんが生みの母親と写っている写真だという。

第1回に志津さんは傅治・みきの次女・みさの生んだ子だった。みさは鐘紡の工場に働きに出ており、ここで電気関係の仕事をしていた大垣静夫と知り合い実家の2階でくらすようになった。しかし静夫はみきとの折り合いが悪く、志津さんが生まれる1か月前に、ついに家を出されてしまう。ちょうどみきも妊娠していて、みさと産み月が同じだったので、娘みさの産んだ女児を自分の6女として届け、自分の産んだ男の子は翌年、1年遅れで5男として届け出たのだ。

届け出の順序が逆でもよかったはずだが、女の子のほうが成長が早く、家の役に立つのも早いからということだったらしい。志津さんの名前は、せめて名前だけでもと父親にちなんで実母のみさが命名したという。
 
■子育ての儀礼

女児なら生まれて33日目、男子なら32日目に初宮参りをする。近くの氏神様に参るのがふつうだが、都会では名の知れた神社に行くことが多い。

100日目にはお食い初(ぞ)めをする。小豆(あずき)を入れた赤飯を炊いて、1粒でもいいから食べさせる。「歯固め」ともよばれ、新生児が歯がはえるほどに育ったことを祝う儀式だ。

現在では節句といえば女児は3月3日、男児は5月5日と決まっているようだが、地方には七夕(たなばた)や八朔を初節句の替わりに祝うところも残っているらしい。

新生児の初節句はことに、母親の里や親類縁者から雛人形や手まりなどを女児に、幟(のぼり)や天神人形、凧(たこ)などを男児に贈り、盛大に祝う習慣だった。

数え年について触れたが、その時代でも初めての誕生日だけは特別なものとして盛大に祝っていた。誕生日を迎えるころにはほとんどの新生児が歩き始めているが、その児の背中に一升の餅米をついた1升餅を背負わせ、立たせたり歩かせたりして子どもの生長を喜ぶということも行われていた。

成育儀礼の最後を飾るのが七五三だ。地方によって3歳・7歳の女児と5歳の男児とか3歳と5歳の男児と3歳と7歳の女児というふうに組み合わせはいろいろあるらしい。

七五三は江戸時代に始まったといわれ、それ以前には3歳の祝いに「ひも(紐)落とし」とか「おび(帯)」結び」という乳児が幼児期に入ったことを祝う儀式が行われていた。「ひも落とし」は子どもの着物の前合わせが乱れないように身ごろに縫いつけて、後ろに回して背中で結ぶようにしてある「ひも」を取って帯に替えることであり、初めて帯を締めて晴れ着で氏神様に詣でるのが「帯結び」である。両者は同じ成育儀式である。

さて先に紹介した古い写真の中の3人の大人の女性と1人の女児、ことに帯をつけ羽織らしきものを着せてもらっている女児の姿を見ると、あるいは近くの神社に「帯祝い」に行き、戻ってきて一息ついているところとも想像できるのである。

  参考: 『日本を知る事典』 社会思想社
       柳田国男全集/筑摩書房/第11巻他


食の大正・昭和史 第二回
2008年09月24日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年--- 第二回

                              月守 晋

■明治天皇崩御と大正時代の始まり
 
志津さんがあと2ヶ月で満1才になる(当時は数え年だったので、正月を越したところで2才と勘定された)という7月30日、天皇が崩御(ほうぎょ)された。嘉永5(1852)年9月22日(太陽暦では11月3日)生れだから61年の波瀾の生涯をおくられたことになる。20日の『官報』号外で宮内省が発表した病状は「37年以来の糖尿病、39年以来の慢性腎臓病、現在は尿毒症」というものだった。

明治天皇のご葬儀(大喪)は東京青山葬場殿で9月13日に行われたが、その当日、陸軍大将・伯爵・学習院長乃木希典(のぎ まれすけ)夫妻が遺言を残して殉死(じゅんし)した。生方敏郎(1882?1969)の『明治大正見聞史』には天皇崩御と乃木夫妻の殉死に一般の人びとがどのように反応し、一方で新聞がどのように報道したかを具体的に書いていて興味深い(中公文庫昭和53年刊)。
 
■大正時代の開幕

明治天皇が午前0時43分に崩御されると、皇室典範によって嘉仁皇太子が践祚(せんそ)された。践祚式は午前1時に終わり、元号も「大正」と改められ、新しい時代が始まった。

この年7月は連日猛暑が続き、明治天皇崩御前後の十数日はセ氏32°?34°という異常高温だったという。前年から続く米の騰貴は修まらず、7月には1升(=1.5kg)が31銭8厘と過去最高を記録した。小学校では弁当を持参できない児童がふえ、弁当の盗難が多発した。近頃中学生で“ホームレス”になったお笑い芸人の告白本がベストセラーになったけれど、大正初期には低所得者層の家庭が生活を維持できなくなり、一家離散に追いこまれるケースがふえている。

この年雑誌「婦人の友」が老人1人、夫婦に8歳と5歳の子供2人の5人家族、1日の献立費用35銭という条件で1週間の献立を作るという懸賞募集をした。1等賞金5円というこのコンクールの入選作が6月号に発表されたが、1等の献立は味噌汁、豆腐、魚のほかジャガイモのバター焼き、コロッケ、キャベツの漬物などバランスのとれたものだったという。

日露戦争(明治37.2?38.9)の影響が物価にも強く残っていて、明治33年の値段を100として、45(大正元)年には米177、大豆142、小豆176、味噌181、鰹節125、鶏卵130というぐあい。下がっているのは醤油93、牛乳84、たくあん77くらいのものだった。(東京物価品別平均指数/商業会議所調)

当時、大工の日当が80銭で、左官は少しよくて83銭。仮りに大工の家庭で食費に1日35銭かけるとすると、エンゲル係数は44パーセントということになる。家賃や衣服代、水道やたきぎ・炭代など他にも生活経費はかかるので、とても食費に35銭などかけてはいられないだろう。

銭湯の入浴料金が東京で大人が3銭、全国の49都市に普及したガス料金は1立方メートル6銭4厘だった。(『値段の明治・大正・昭和風俗史』朝日文庫)

さて神戸は、1868(慶応4=明治元)年に外国との貿易港として開港して以来、外国文化が居留地の外国人と共に入りこんだために生活文化の面でも“日本最初の”と形容される事柄が多々ある。例えば明治17年に日本初のミネラルウォーター「平野水」が売り出されたし、ゴルフ場はイギリス人たちが六甲山に36年に開設したのが最初である。

  参考: 『神戸と居留地?多文化共生都市の原像』 神戸新聞総合出版センター
       『新聞集成大正編年史』


食の大正・昭和史 第一回
2008年09月10日

食の大正・昭和史 --- 志津さんのくらし80年 --- 第一回


■ 誕生

志津(しづ)さんは明治44(1911)年9月23日、当時の表記で神戸市林田区金平町でこの世に生を受けた。父傅(でん)治、母みきの 6女として10月2日に出生届が出された。

この年1月18日、大審院(最高裁判所)は幸徳秋水(こうとくしゅうすい)ら大逆事件(天皇の暗殺を企てたという冤(えん)罪事件)の被 告24人に死刑判決を下し翌日12人を無期に減刑、24日に11人を、25日には被告人中ただ1人の女性囚だった菅野スガ(31才) を処刑してしまった。年明け早々から波瀾ぶくみの年だったのだ。

この年も前年に引きつづき、米価が高騰して人びとの生活を苦しめた。43年には天明の大飢饉(天明3年<1783>から7年までの5年間)以来といわれる大水害が東北・関東・関西・九州を襲い、米の収穫量が700万トンを割った。

※日本人の1人当たりの米の消費量は、明治30年代に2.8合(ごう)(1升(しょう)=10合=1.5kg)になったという。年間に 直せば1石(こく)=150kgだ(本間俊朗『日本の人口増加の歴史』)。
[※1人当たりの米の消費量は、大正時代の後期にピークをむかえ3.1合に達した(前掲書)]
 
収穫高が減る一方で消費量が増えれば、当然価格は上がる。おまけに取引市場で儲けをねらう買占めが横行し、相場は高騰、暴騰をつづけ 、ついに7月、政府は取引中止を命令する。一方で外国米の緊急輸入を実施、高い国産米を買えない貧困層を救うために輸入外米を売り出した。

明治中期ころから東京では残飯屋という商売が繁盛した。残飯の供給先は士官学校の厨房(ちゅうぼう)や竹橋・赤坂・麻布などに置かれていた陸軍聯隊の兵舎の調理場だった。
朝8時、昼12時半、夜8時と1日に3回担い桶(にないおけ)や醤油樽を大八車にのせて仕入れに回る。買い値は残飯15貫(貫≒3.75kg、15貫≒56.25kg)が50銭。売り値は1貫5?6銭。買い手はどんぶりや小桶を持参して1銭分、2銭分と買ってゆくのである。

味噌汁や漬け物、煮しめなどのお菜も引き取って帰り売りさばいた(『最暗黒の東京』松原岩五郎/岩波文庫)。外米にも手の出ない極貧に苦しむ人びとが買い手だった。ちなみに当時、国産米1升が23銭から
25銭、サイゴン (ベトナム)米はその半値ほどだった。

戦死者だけでも12万人、國の税収の5年分以上を費やした日露戦争(明治37?38年)の影響も強く残っていたし、社会一般のくらし はハードなものだったけれど、いろいろな人がなんとかくらしをもっと豊かな、余裕のあるものにしようという試みを実行に移してもいた。

■ 日本で最初のカフェ開業

明治44年4月、東京銀座の日吉町にカフェ・プランタンが開業。経営者は有名な洋画家だった松山省三(せいぞう)。軽飲料にウイスキー やビール、ビフテキはハンバーグ、マカロニといった料理も出した。コーヒー15銭、ビフテキ25銭、マカロニ20銭という値段だった 。(松山重子『おとうちゃんは女形国太郎』)

プランタンが大繁盛したので同じ年の8月銀座尾張町角にカフェ・ライオン(築地の精養軒の経営)、京橋の南鍋町にカフェ・パウリスタ が開店した。

コーヒーの15銭は当時、もりそば、かけそばの3銭5厘(りん)にくらべればずいぶんと高い。前年の43年11月に横浜市の元町で不二 家が開業しているが、コーヒー、紅茶、デコレーションケーキ、シュークリームなどどれをとってもみな3銭均一だった。カフェは文士や 画家、役者、芸人、新聞記者など大人(おとな)の男たちの集まる場所だったが、一般大衆の感覚としてはコーヒー1杯3銭でも高いと感じたろう。
 


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