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キャロル・ロフ
2011年01月12日

『チョコレート人間劇場』

53「カカオの実を収穫する手と、チョコレートに伸ばす手の間の溝は、埋めようもなく深い。」
    

   『チョコレートの真実』
キャロル・ロフ/英治出版

上に掲げた文は本書の序章の最後の部分からの引用です。

世界のカカオの半分近くを産出する西アフリカ・コートジボワールの熱帯雨林地帯のカカオ農園に取材に入った著者は隣国のブルキナファソ(マリ)から慢性的な飢餓を逃れるためにコートジボワールの山深くに移り住み、国際市場商品であるカカオ生産が中心の共同農園を営む孤立した村をおとずれたのです。

「学校に行っている子供は一人もいないし、電気、電話、診療所や病院といった公共サービスはまったくない」この村の少年たちは「チョコレート」というものの知識をまったく持たぬままその原料であるカカオ生産の労働力として働き、一方でチョコレートを食べる著者の国(カナダ)の人は「それがどこから来たのか知らない」のです。

著者がシニコッソン村の少年たちにそう説明すると、少年たちは答えます。

「それならあなたが教えてあげればいい」

12章で構成されている本書はこのような経過をたどって書かれました。

3000年以上も前に自生するカカオの果実から種を取り出し、すりつぶして脂肪分の多い粘性のペーストとし、これをデンプン質豊富なトウモロコシに加えて食するというオルメカ人のカカオ調理法の紹介に始まる第1章とヨーロッパでの上層階級への普及史である第2章が、工場で多種大量に製造され販売されている現代のチョコレートに至る前史です。

19世紀初頭、オランダ人のコンラッド・バンホーテンによってココアの製法に革命が起こります。 油圧圧搾機による高品質ココアの生産です。

それを利用した新製品が板チョコの誕生で、イギリスのクェーカー教徒のジョセフ・フライによって作りだされたものです。

同じイギリス人のジョン・キャドバリーは自社製品の包装に工夫を加え消費者の感情にうったえる製品として成功します。 彼はマーケティングの重要さに気付いた先覚者の1人だといえるでしょう。

大量に製造・販売が行われるようになると、原料のカカオ生産にも激変が起き、カカオは大企業間の、あるいは国と国との間の政治的なかけ引きの対象にもなります。

その裏面でアフリカの多くの子どもが奴隷同然の生活を強いられているというわけです。

本書の原題は『ビター・チョコレート ― この世でもっとも魅惑的なスウィートの暗黒面の探究 ―』です。

あなたが口にする1片のチョコレートにもさまざまなストーリーが秘められていることを本書は教えてくれます。


関田淳子
2011年01月05日

『チョコレート人間劇場』

52「コーヒーが一般市民の飲み物であったのに対し、カカオは「高貴なる飲み物」とされた。 ヨーロッパ貴族階級では特に朝食前のベッドで飲まれていたという」
    

   『ハプスブルク家の食卓』
関田淳子/新人物文庫

ヨーロッパの歴史や文化を理解するには、ハプスブルク家の歴史研究が欠かせない、といわれます。

ハプスブルク家は「11世紀の初め、スイスのチューリヒとバーゼル間に位置するブルック近郊のハ―ビヒツブルク城を一族発生の地として誕生した」と本書に解説されていますが西洋人名事典には「始祖のグントラムは950年頃ライン川上流から上シュヴァーベン・エルザスにかけて広大な家領を所有」していたと説明しています。

ともかく本書の記述に従えば「11世紀の初め」から「1918年の滅亡まで、約650年間にわたってヨーロッパに君臨した」のです。

1273年にルドルフ1世がドイツ国王に選出された後、ハプスブルク家は巧みな政略結婚を繰り返して統治する領国を拡大し650年間もの長い間ヨーロッパに君臨したのですがそれには「運と結婚政策だけで」なく「一族の栄華を可能にした一要素に“食”も係わっているのではないだろうか」というのが本書のテーマです。

第1章「皇帝たちの食卓」に始まって第2章「宮廷料理の舞台裏」、第3章「華麗なるウィーン宮廷菓子」、第4章「栄華の象徴―食器と銀器の饗宴」と読み進んでゆくと高校の教科書などでは決して知ることのできないヨーロッパ史の1側面に触れることができます。

ことに興味を惹かれるのは所々にはさまれている思いがけない史的事実、エピソードでしょうか。 以下、いく例か抜き書きしてみましょう。

「テーブルには何種類もの料理が所狭しと並べられているが、これらのなかには、祝宴を豪華に見せることが目的で、実際には食べられない模造品の料理も多かった」(第1章/重視された晩餐会での規則)

「(カール六世)はなかでもビーバー、特に生殖器の部分をレモン汁で、またリスやサギの焼き肉にカリフラワーやイチゴを添えて食べることを好んだ」(第1章/精進料理を守った皇帝)

「(17世紀の東インド会社のオランダ商人たちは)醤油を他の日本製品とともに、ヨーロッパ宮廷に非常な高値で売りつけた。 ……ウィーン宮廷だけではない。 フランス宮廷でも肉の味をひきたてる調味料として非常に珍重された」(第1章/統治力はなくてもグルメな皇帝)

第3章ではウィーン宮廷でデザートに伴された宮廷菓子がどのように豊かな進化をとげていったかがたどられています。

内容の豊かな楽しい1冊です。


中島らも
2010年12月29日

『チョコレート人間劇場』

51「ドガキナイがあんまりうれしそうにチョコを食べるので、そのぶん余計に我々は申し訳ない気になって・・・・・」
    

   「チョコと鼻血」/『獏の食べのこし』
中島らも/集英社文庫

中島らもという作家はもうこの世にはいません。 たしか5,6年前(7,8年?)に事故を起こして亡くなったのではなかったでしょうか。

“事故”といっても車の事故なんかではなくて、泥酔してバーの階段を転げ落ちたためだったと記憶しているのですがまちがいかも知れません。

1952年尼崎市生まれのらも氏が「今夜すべてのバーで」という作品で吉川英治文学新人賞を受賞して作家としてデビューしたのが92年ということですから40歳、10代の作家誕生が少なくない近年に比べればやや遅いデビューということになるでしょうか。

掲出分の“ドガキナイ”は同級生で「九州の田舎から出てきて下宿生活をし」ている「赤貧洗うがごとき苦学生」で月末の仕送りが切れるころには餓死寸前になって畳の上でピクッピクッとケイレンしているような男、と説明はつづいています。

“ドガキナイ”のもう1つの呼び名が“八十童貞”で80歳くらいまで女性に縁がない「タラコ唇で水虫持ち」の男、だというのです。 「僕」と金満家の息子でルックスがよくて女の子にバカもてしてバレンタインには始末に困るほどチョコレートをもらってしまう同級生のコーノの2人は、“八十童貞のドガキナイ”をからかってやろうと彼の下宿に出かけます。

ケイレンしながら寝ている“ドガキナイ”の枕元に何十枚というチョコレートをばらまいてやると、彼はチョコと2人の顔を交互に見ながら

「すごいのう。パチンコか?」

といいながらたちまち3,4枚たいらげます。

それを見ながら2人は「尻のすわりが悪くなる」ような気分に襲われます。 2人は“ドガキナイ”が「バレンタインデーというものがこの世にあること」をまったく知らないのだということに気づいたからです。

バレンタインにチョコ1枚女の子からもらえない“ドガキナイ”をそのことでからかおうにも、相手がそういう世の中の流行にまったく無知ではからかいようもありません。

著者は同じエッセイ集中の「不可触球場」の項で「今の企業の方法論というのは・・・・・・無いところにマーケットを造り上げる」というやり方になっており、たとえば「アラスカにクーラーのマーケットを現出させるためには幻想の力を借り」なくてはならず「幻想には形がないが何かに仮託(マップ)する」ことができる、と指摘、次のように述べています。

「愛がチョコレートにマップされることでそこに市場が現出したように」と。


野中柊
2010年12月22日

『チョコレート人間劇場』

50「それから、ガトーショコラもいいですねえ。 上等なチョコレートを使ってあるんだろうな。」
    

   「好き 好き 大好き」/『テレフォン・セラピー』
野中柊/新潮文庫

野中柊は『テレフォン・セラピー』を「真夜中にTELをして、果てしなくおしゃべりをするような。 そんな気持ちでこの本を書きました。」と本の扉で説明しています。

そういうわけですからこのエッセイ集はⅠもしもし? Ⅱそうそう。 それで? Ⅲうん。 わかるよ。 だからね。 Ⅳじゃあ、またね。 きっとだよ。 Ⅴあれから3年。 お久しぶり。 Ⅵありがとう。 さようなら。 といったぐあいに電話の相手に話しかけるおしゃべりが章の見出しに使われています。

引用した文章はⅢの冒頭の「パーティーへようこそ」に続く「好き 好き 大好き」の一節から。

アロマテラピー、ヨガ、呼吸法などなど癒しの方法にはいろいろあるけれど「お菓子作りにもぜったい癒しのパワーがある」と信じる著者は自身でもお菓子作りをするのです。

でも、失敗してヒーリングどころか逆にストレスをためるというようなことにならないためにも「なるべく、シンプルなものから始めるのがいい」とアドヴァイスしています。

著者が作るのはとても簡単なクッキー、プディングなどのほかバナナブレッドをよく作るそう。

「オーブンから出したばかりの熱々のバナナブレッドに、アイスクリームを添えて食べると、ほっぺが落ちそう」なんだというですがあいにく作り方は伝授されていません。

バナナブレッドの作り方なんて、作り方をわざわざ書かなくてもいいほど初歩的なものなのでしょうね。

手造りは面倒という人のために「無理に作る必要もない」「街にはめちゃくちゃ優秀なケーキ屋さんがいっぱいある!」とちゃんとフォローしてくれています。

この文章の眼目はどうやら傷ついた(?)こころを癒すためには「お菓子を食べるのがいちばん」ということのようですね。

別の話題のところ(Ⅱそうそう。 それで?の「たとえ夢はかなわなくても」)では「好きな食べ物を死ぬほど食べて」高熱を下げるという治療法(?)が紹介されています。

この治療法を伝授してくれたのは懇意にしている編集者のひとりで「私が風邪をひいて高熱を出してダウンしている」時でした。

「柊さん、好きな食べ物は何?」

「お菓子」

「じゃあ、それを死ぬほど食べればいいですよ。」

と編集者は柊さんと同じ状態にあった友人がチョコレートケーキを「ワンホール丸ごと食べ、たちまち嘘みたいに熱が引いた」と教えてくれたのです。 で、柊さんの場合は?


酒井順子
2010年12月08日

『チョコレート人間劇場』

49「ホットチョコレートは好きだけれど、ふと気がつくと長いあいだ飲んでいない、ということがよくあります」
    

   「28 ホットチョコレート」/『ひとくちの甘能』
酒井順子/角川文庫

酒井順子という名前から『負け犬の遠吠え』という流行語にもなった本のタイトルを思い出す人が大勢いるのではないでしょうか。

ニュースショウのコメンテイターとして出演しているご本人をよく見たことがあると私は思うのですが。

このエッセイ集のタイトルになっている“甘能”という言葉はたぶん酒井さんの造語でしょう。 同じ音で「官能」という言葉がありますが「生物が生存の必要から具有する生理上のはたらき。 五官の作用の類(『詳解漢和大字典』」のことで「五官」が「視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚」を指すことはご存知のとおりです。

このエッセイ集が春夏秋冬それぞれの季節に食べたくなる計34種類の甘味類(甘いもの)を取り上げたものだということがわかれば「甘能」という言葉の意味もおわかりでしょう。

話題になっている洋菓子、和菓子には酒井さんの推奨する店の名前や住所、電話番号まで文末に紹介されていますから「ぜひわが甘能を満足させたい」と思われたかたには親切な編集といえるでしょう。

筆者がこころ魅(ひ)きつけられたのは春と夏の部の間にはさまっている「甘能紀行 上海」の文章(夏の部の後に「甘能紀行 バンコク」、秋の部の後に「甘能紀行 京都」が収載されている)。

「上海」の紀行文で酒井さんは上海の街を歩いていて「あ」と思ったのは「賑やかな街であればどこでも売っている、糖葫芦(タンフールー)です」と書いています。

「タンフールー」はサンザシの赤い実を1串に10個ほども刺して甘ずっぱい飴(あめ)をかけたもので、それを何十本も刺したわらづとをかついで行商をして歩くのです。

つやつやと光っていて、いかにもおいしそうに見えるのです。

むかし「満州」で子ども時代をすごしたという老人たちは「母親がどうしても買ってくれなかったもの」の1つとして記憶しているのではないでしょうか。

酒井さんはこの「タンフールー」が香港映画「覇王別姫」の中で重要なエピソードの小道具として使われていたことを語っています。

酒井さんご紹介の34種の中には筆者も口にした記憶のあるものもありますし、同じ店で別のものを注文したという残念な(?)お菓子もあります。

さて冒頭に引いたのは冬の部の3番目、全体では28番に相当する銀座の店のもの。

1杯のホットチョコレートにも様ざまな思い、記憶がからむものだということを教えてくれます。


酒井順子
2010年11月24日

49「ホットチョコレートは好きだけれど、ふと気がつくと長いあいだ飲んでいない、ということがよくあります」
    

   「28 ホットチョコレート」/『ひとくちの甘能』
酒井順子/角川文庫

酒井順子という名前から『負け犬の遠吠え』という流行語にもなった本のタイトルを思い出す人が大勢いるのではないでしょうか。

ニュースショウのコメンテイターとして出演しているご本人をよく見たことがあると私は思うのですが。

このエッセイ集のタイトルになっている“甘能”という言葉はたぶん酒井さんの造語でしょう。 同じ音で「官能」という言葉がありますが「生物が生存の必要から具有する生理上のはたらき。 五官の作用の類(『詳解漢和大字典』」のことで「五官」が「視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚」を指すことはご存知のとおりです。

このエッセイ集が春夏秋冬それぞれの季節に食べたくなる計34種類の甘味類(甘いもの)を取り上げたものだということがわかれば「甘能」という言葉の意味もおわかりでしょう。

話題になっている洋菓子、和菓子には酒井さんの推奨する店の名前や住所、電話番号まで文末に紹介されていますから「ぜひわが甘能を満足させたい」と思われたかたには親切な編集といえるでしょう。

筆者がこころ魅(ひ)きつけられたのは春と夏の部の間にはさまっている「甘能紀行 上海」の文章(夏の部の後に「甘能紀行 バンコク」、秋の部の後に「甘能紀行 京都」が収載されている)。

「上海」の紀行文で酒井さんは上海の街を歩いていて「あ」と思ったのは「賑やかな街であればどこでも売っている、糖葫芦(タンフールー)です」と書いています。

「タンフールー」はサンザシの赤い実を1串に10個ほども刺して甘ずっぱい飴(あめ)をかけたもので、それを何十本も刺したわらづとをかついで行商をして歩くのです。

つやつやと光っていて、いかにもおいしそうに見えるのです。

むかし「満州」で子ども時代をすごしたという老人たちは「母親がどうしても買ってくれなかったもの」の1つとして記憶しているのではないでしょうか。

酒井さんはこの「タンフールー」が香港映画「覇王別姫」の中で重要なエピソードの小道具として使われていたことを語っています。

酒井さんご紹介の34種の中には筆者も口にした記憶のあるものもありますし、同じ店で別のものを注文したという残念な(?)お菓子もあります。

さて冒頭に引いたのは冬の部の3番目、全体では28番に相当する銀座の店のもの。

1杯のホットチョコレートにも様ざまな思い、記憶がからむものだということを教えてくれます。


北川悦吏子
2010年11月10日

48「ときどき、本気でこの人いいなあ……と思っている人には、ランク的には五百円でも千円のチョコをあげたりした(それでも領収証は切るけれど……)。」
    

   「バレンタイン営業」/『恋につける薬』
北川悦吏子/角川文庫

今回は季節は秋というのに「バレンタイン」の話題です。

3,4年前(と記憶しているのですが)には本命の男性には手造りのチョコをプレゼントするのがはやっていました(よネ?)。

去年あたりはあえて“男性に”ではなく、“自分へのご褒美として”最高級の材料を買いそろえて、世界でも名だたるチョコレート職人のレシピにそってトリュフなどを手造りしたり、そんな手間暇かけてはいられない女性は日本に進出してきたベルギーあたりの超高級店の超高級製品(当然高価な)を買い求めて帰り、1人静かに楽しむ、という傾向が生じてきたとか……。

北川悦吏子さんが「バレンタイン営業」で書いているのは中扉の日付けで1993年までの話だとわかります。

そのころ「テレビ番組の企画制作をしているにっかつ撮影所のテレビ部」の部員だった北川さんの「最初にやらされた重要な仕事は各テレビ局にチョコレートを配ること」だったと書いています。

1993年というと1989年が平成元年ですから平成5年のことで17年前ということになります。

北川さんたち女子社員は「20や30ものチョコレートを領収書をもらって買」って東京のキイ局を回って配ったのです。 「正真正銘の営業チョコ」だったのですがときには冒頭に引用したように営業効果を度外視する場合もあったのでした。

そんな営業チョコに企画書を包み込んで配ったこともあって、それで通った企画のひとつが『世にも奇妙な物語』シリーズの「ズンドコベロンチョ」という企画だったそうで、東大出のエリートサラリーマンがこの言葉の意味もわからないまま知ったかぶりをしているうちにその名を冠したプロジェクトのチーフに任命されノイローゼにおちいってしまうというストーリー。

「東大出のエリートは草苅正雄さんが熱演」して、「私の出世作」になったと書いています。

バレンタインデーにチョコレートを贈るという習慣を最初に考案したのは神戸のモロゾフで昭和11(1936)年のことだということですが戦後の昭和33年(現天皇と美智子皇后の婚約発表がこの年の11月)にメリーチョコレートが新宿の伊勢丹百貨店で復活させてはみたものの、売れたのはわずかに3枚だけだったと山下真史氏が書いています(『「食」の文化誌』/学燈社)。

バレンタインチョコにも半世紀以上の歴史があるのです。


嵐山光三郎
2010年09月22日

47「ビターチョコレートは、喉をくすぐり、胃のなかがチョコレートの社交界となった。」
    

   『とっておきの銀座』
嵐山光三郎/文春文庫

落語家や役者、物書きなどが月1回集まって開く「東京やなぎ句会」という俳句の会があって、その日出席したメンバーの作った句はむろんのこと、にぎやかで笑声の絶えない会の様子が銀座名店会の出す雑誌「銀座百点」に連載されていました(いまもつづいている?)。

会の名称の「やなぎ」は銀座8丁の街路樹として植えられた柳の木にちなんだもの。 ちなみに「銀ブラ」という言葉が流行りはじめたのは大正4(1915)年頃からだといわれています。

冒頭に引用した『とっておきの銀座』は2年余にわたって「銀座百点」に連載されたものです。

書き手の嵐山さんが小学生のころ母親にくっついて歩いた銀座、大学生になってようやくひとりで行けるようになりヴァン(VAN)のコートをはおってブラブラ歩いた銀座、就職して初任給をはたいて買い物をしガールフレンドと一緒にオムライスを食べた銀座、そして40歳を過ぎていささか金廻りがよくなって遊ぶようになった夜の銀座。

そしていまは、友人や先輩と連れ立って歩き、食事をし買い物をしお茶を楽しむ銀座です。

「お昼ごはんだけで百店以上の店へ行」ったと書いていますが『とっておきの銀座』には和食・洋食・中華といろとりどりの名店が紹介されています。

本道のうなぎではなく鯛茶漬けをきまって注文する「竹葉亭」、歌舞伎の役者衆がごひいきのシチューの「銀の塔」、昼にしか出されない天丼ににんまりしたくなる天ぷらの「天一」、イタリア料理の「サバッティーニ」、ビーフシチューやオムライスが人気の「資生堂パーラー」、中2階がイタリア料理で2階がフランス料理、3階は日本料理と懐石で、4階は中華の揚州料理と多彩に展開している三笠会館、などなど。

食べるだけではなく、作家池波正太郎が愛用していたという紺の角袖のコート18万9千円を買い、桐の一枚板の焼き下駄4725円に鹿革なめしの鼻緒5250円を合わせて買い、竹軸固定式のガラスペンを伊東屋で入手し、Yシャツの残り切れを使ったLサイズのトランクス2835円を「ナカヤ」で2枚買い、といったぐあいに買い物にも励みます。

この銀座案内は2007年6月に単行本化され文庫本の出版は2009年12月です。

銀座は日ごとにといってよいほど街の顔を変えていますが、筆者が「ベルギー仕込みのトリュフ・シャンパン」を楽しんだ「デルレイ」はいまも店を開いているでしょうか。


野坂昭如
2010年09月08日

46「お菓子の木なんて、どんなものだろう、チョコレートの花が咲いて、シュークリームの実がなるのかしら」
    

   『戦争童話集 12焼跡の、お菓子の本』
野坂昭如/中公文庫

日本が当時「支那(シナ)」と呼んでいた中国を相手に、やがてアメリカ、イギリスをはじめ世界の多くの国々を相手に戦争に明け暮れていた時代がありました。

1931(昭和6)年9月の「満州事変」に始まり1945(昭和20)年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏をするまでの15年間です。

この期間を「15年戦争」と呼んでいますが中・高校の歴史教育に欠陥があるのか、「エッ、日本とアメリカが戦争したんですか!?」と驚く若い人が多いことに、この戦争期間中に少年・少女時代を過ごした世代の人間は深い失望感と隔絶感を味わわずにはいられません。

1941(昭和16)年12月8日日本軍がハワイ・オアフ島真珠湾を奇襲攻撃して始まった太平洋戦争は42年6月のミッドウェー海戦後は日本の敗色が濃くなり、45年8月には日本の都市という都市がアメリカ空軍の無差別空襲によって焼野原になっていました。

『戦争童話集』は敗戦の日の迫るこの8月の日本各地で少年達や少女の体験した、この世のものとは思えない、でも実際に起こった奇妙な話が12集められています。

著者の野坂昭如は45年6月の神戸大空襲にあい、4歳の妹を抱いて猛火の中をやっと逃れたという経験がありました。 この妹は食べ物もろくに食べられなかったために栄養失調で死んでしまいます。

野坂は中学1年生の時のこの体験を『火垂(ほた)るの墓』という作品に昇華させました。

『戦争童話集』には並はずれて大きく育ってしまった雄(おす)のイワシクジラが日本の潜水艦を雌(めす)クジラと間違えて恋してしまい、彼女を守るために自分の身にアメリカの爆雷を引き受けて死んでしまう話、殺される運命を象使いの小父さんに助けられ山の中に逃げこんだもののけっきょくは山中深く行方がわからなくなる象の話などが語られます。

食べ物がないために干物のようになって空中に舞い上がってしまった母子の話には、母性の無償の愛の深さに誰もが涙するでしょう。

引用した「焼跡の、お菓子の木」はママがドイツ人のお菓子屋さんから手に入れたバームクーヘンの食べ残しを、ママが花の種子を植えていたように壕の下の土を掘って男の子が埋めて待ちつづけていると、ある日小さな芽が出て、芽はみるみるうちに若木となり大きなお菓子の大木に育つのです。

昭和20年8月15日戦争がやっと終わって、誰もがお腹を減らしているときに、1本だけお菓子の木が生えていて子供たちが鈴なりになって食べ、そのそばを通りながら大人たちはまったく気づかなかった、ということです。


庄野潤三
2010年08月25日

45「家に戻って、炬燵(こたつ)でお茶をいれ、チョコレートを一つ食べる。おいしい。」
    

   『せきれい』庄野潤三/文春文庫

太平洋戦争の対日平和条約が調印され発効した昭和26-27(1951-52)年ごろから作品が認められはじめて「第三の新人」の呼ばれるようになった一群の作家たちがいました。小島信夫、吉行淳之介、遠藤周作、安岡章太郎といった作家たちで庄野潤三もその一人でした。 第三の新人たちの文学に際立っていたのは日常性を強く意識して書いているということでしょう。

庄野は昭和30年1月に『プールサイド小景』で芥川賞を受賞していますが、この作品も家庭の危機と崩壊が淡々と描かれています。

『せきれい』は著者の「あとがき」によると結婚50年を迎えようというころに「もうすぐ結婚五十年を迎えようとしている夫婦がどんな日常生活を送っているかを」書いたのが『貝がらと海の音』(「新潮55」に連載/1996年)、『ピアノの音』(「群像」/97年)そしてこの『せきれい』(「文学界」/98年)と続く一連の作品だということです。

その自解どおり、たとえば「函館みやげ」とメモを1行書き、それに関連するさまざまのディテールが説明されるという独特の書き方が展開されていきます。

たとえばタイトルの『せきれい』は「ピアノのけいこ」という1行メモの後につづく文章によって“ブルグミュラーという作曲家によるピアノ練習曲”だとわかります。

著者の奥さんはピアノを習っていて、姉弟子の絵里ちゃんが小学5年生の時に始めてその絵里ちゃんが今は中学2年生だということなのでもう4年近くピアノを習いに通っているのだということが読者にもわかります。

この小説ともエッセイともつかぬ作品にはよく食べ物のことが書かれています。

たとえば「函館のカレー」とか「伊予の種なし葡萄のピオーネ」、「イギリスパン、胚芽パン、フィッセル(小型のバゲット)、クロワッサン、ガーリックトースト」などのパン類、高田馬場のコーヒー店「ユタのミックスサンド」や「長女のアップルパイ」などなど。

長女の名前が「なつ子」で南足柄に住んでいて父親の誕生日には手づくりのアップルパイが宅急便で届くのです。

小澤征良(指揮者小澤征爾の娘、作家)が『せきれい』を読んでいたら「自分の気持ちが自然に少しずつばたばたすることをやめていくのに気がついた」と書いていますが、結婚50年をすぎた老夫婦の日常にはわれわれとはまったく違った、充実した時間がながれていることを知らされます。

冒頭の文章の「チョコレート」は著者夫婦が用事で「成城」に行き、「石井」で買って帰ってきたチョコレートです。


泉麻人
2010年08月11日

44「チョコミント派の子は『チョコミント』一筋に青春を捧げている場合が多い」
    

   『おやつストーリー』オカシ屋ケン太こと泉麻人/講談社文庫

子どものころに食べたおやつの記憶をいつまでも鮮明に記憶している世代がありますね。 昭和6(1931)年の「満州事変」の年から太平洋戦争に敗戦した昭和20(1940)年までの15年間に子どもの時代を過ごした人たちです。

わたくしもちょうどこの期間に小学生時代をすごしました。いちばん記憶に残っているのはその頃、月に1回子どもがお菓子を売ってもらえる日があり、いつも閉じたままになっているお菓子屋さんの店がその日だけは開いていて、切符とお金をもって行くとお菓子の入った紙袋と引き替えてくれたことです。

中味はなんだか変に粉っぽくてたいして甘味のない小型のおせんべいのようなものと黄な粉を固めたようなものが入っていたと記憶しているのですが定かではありません。

ともかく甘くないお菓子だったという記憶が残っているだけです。

オカシ屋ケン太/泉麻人さんの『おやつストーリー』は1982年の夏から1991年夏までの9年間に、街のお菓子屋さん、コンビニ;駄菓子屋で買って食べることのできたお菓子のうちの320種ほどが時代の風潮やら背景、風景とともに紹介されているのです。

冒頭の文章はその第1ページの「チョコミント症候群」からの引用です。

このおやつストーリーにはチョコレートが主材料・わき役の多種類のお菓子が紹介されています。

たとえば“オカマ”と女子大生に人気があったという「マリブのさざ波」というネーミングのチョコレート(ロッテ)。

ビスケットの裏にチョコレートをコーティングした「キティランド(江崎グリコ)」はOLの間で“ウケがよ”く、3時のオヤツタイムにビスケットに描かれているどの動物がカワイイかを楽しんでいて「蝶ネクタイと耳あてをしたイヌ」が一番人気だとか。

両方とも1982年夏から冬にかけて人気のあった“チョコレート使用”の菓子です。

この他にも石屋製菓の「白い恋人」、ロッテの「ゴーフレットチョコレート」、不二屋の「シガレットチョコレート」、森永製菓の「フィンガーチョコレート」などなど。

さて冒頭の引用文のチョコミントはごぞんじの「サーティーワン」のもの。

「世界最大のアイスクリーム会社」といわれているサーティーワンですがその創業者の息子が家業の継承を放棄して、健康な食生活を追求・研究した結果を一冊の本にまとめています。

『100歳まで元気に生きる!』というタイトルです。

食べ物と“質”との関係を考えるときに役立つのではないかと思います。


阿古真理
2010年07月28日

43「カルビーのかっぱえびせん、昭和39(1964)年。江崎グリコのポッキーチョコレート、昭和41(1966)年。森永の……」
    

   『うちのご飯の60年』阿古真理/筑摩書房/2009年

『うちのご飯の60年』には「祖母・母・娘の食卓」と副題がついています。 著者の阿古さんはノンフィクションライターで生活史研究家と紹介されています。 1968年の生まれです。

この母娘3代にわたる「食生活史」は祖母の土間の台所、母の板の間キッチン、娘のにぎやかな食卓の3部に分かれ上掲の文章は娘のにぎやかな食卓の第11話の冒頭の部分。

この文章につづいて「森永のチョコフレーク、チョコボール、昭和42(1967)年。森永の小枝チョコレート、ヤマザキナビスコのリッツ、東鳩のキャラメルコーン、昭和46(1971)年。……」と昭和50年までに発売されヒットした市販のおやつが列記されています。

著者によれば、著者が「子どものころに出合い、今も愛してやまない市販のお菓子のほとんどは、私が生まれた昭和43(1968)年の前後10年ぐらいの間に出そろっている」そうです。

著者の母は昭和14(1939)年に広島県山縣郡筒賀村(現安芸太田市)で生まれました。 母親の秀子さんは10歳ぐらいのとき、広島市で働いていた一番上のお姉さんをたずねて行ってアイスキャンデーをご馳走してもらいました。 ソーダ色やピンク色のカラフルなキャンデーを喜んで2本も3本も食べているうちに、おなかをこわしてしまったそうです。

筒賀村で著者の母親が食べたおやつはみな著者の祖母の手づくりの干し柿、かち栗、むかご、トウモロコシ、蒸したサツマイモなどで、村のよろず屋が扱いはじめたアンパンやクリームパンが目当てで母親の秀子さんたちは稲の草取りや稲刈りなど親の(つまり祖父母の)手伝いをしたと書かれています。

母親の秀子さんは昭和39年に関西で新婚生活をスタートさせました。 農村風景の残る郊外の賃貸アパートでくらし始めた秀子さんは新婚の3ヶ月間、1日も同じ料理を食卓にのせなかった、といいます。

秀子さんが新米主婦だった昭和40年前後は主婦雑誌の全盛期で、別冊付録は料理本が主流だったのです。

やがて子ども(つまり著者姉妹)を持った秀子さんはホットケーキやドーナツを手づくりでおやつに食べさせるのですが、昭和50(1975)年に1戸建住宅に引っ越すと間もなく念願のガスオーブンを手に入れ、おやつにクッキーやマドレーヌ、ケーキなどを焼き始めます。

著者も手を出してお菓子づくりを手伝い、作り方を教わります。

星やアヒル、ひいらぎの型でマドレーヌより硬いタネを抜いて焼きあげたクッキーは、スーパーで売っているどのお菓子より、お土産にもらう缶入りクッキーよりおいしかったと回想しています。



浜なつ子
2010年07月15日

42先生はチョコレートケーキを一口食べ、「君、これ、ちょっと食べてみさい」
    

   「すきとほった」食べ物/『アジア的生活』浜なつ子/講談社文庫

上掲の文章の後に、「と、シャーロック・ホームズが相棒のワトスンを諭(さと)すような口調でわたしに言った。」と続きます。

“先生とわたし”は「イギリス文学散歩」という連載ものの取材のためイギリスに来ているのです。 ちなみに“先生”は写真家で「風貌に似合わずチョコレートケーキがお好き」な方なのです。

そう言われてケーキを口に入れた“わたし”は「うわっ、これはすごい。実力としていままでで五本指の中に入りますね」

「うん、三本指の中に入れてもいい」

といっても、それほどまずかったということ。

七十日間もの滞在の間イギリス各地で食事をした“わたし”は「次第に「まずいもの」を食べるとうれしくなるという自虐的な精神が生まれるようになっ」ていました。

『イギリスはおいしい』などイギリスの生活・風物をテーマにしたエッセイで著名な“リンボー先生”こと林望さんも、イギリスの食事のまずさについては「わざわざまずくなるように」料理をしていると嘆いておられます。

さて数日後、著者と写真家は『嵐が丘』の舞台となったハワースへ向かいます。 この小説はごぞんじのようにエミリー・ブロンテの作品。 エミリーの姉シャーロットが『ジェイン・エア』の、そして妹アンが『アグネス・グレイ』の著者で3姉妹そろってイギリス文学史上に名を残しています。

『嵐が丘』の舞台となった荒涼たる原野をいい写真を撮るために7,8時間も歩いた翌日、小説の中でペニストンクラッグと名づけられた巨岩を撮影し、昼頃ハワースに戻って来て昼食のために構えの立派なレストランに入ります。 写真家が数少ないメニューの中に“スカンピ”を発見して、

「お、スカンピがある」

「スカンピって何ですか」

「川えびだよ。 イタリアのオルヴィエートで食べたスカンピの網焼きは最高だったな」

というやりとりがあり、店のマスターの「トゥディ スカンピ イズ ベリーグッド」という後押しもあって写真家はスカンピ、著者はチキンを注文します。

やがて2人の前に出されたのは同じ形の幅2.5センチ、長さ10センチの長方形のものが二つずつ。 見た瞬間それが何かがわかったのです。

「おお、ラブリー! 冷凍食品!」

さて見出しになっている「すきとほった食べ物」のこと。 この言葉の出典は宮沢賢治の『イーハトーヴォ童話 注文の多い料理店』の序文にあり、物語の何かが読者の「(心)のすきとほったほんとうのたべものになること」を願っているとしるしているのです。

著者浜なつ子さんにとっての「すきとほった」食べ物はラオスの奥地の村で食べた「カウニョオー」と呼ばれるもち米で、「高原を走る白馬の味」だったそうです。


渡辺怜子
2010年06月30日

41「ハシバミの香りのする濃厚なチョコレートが、グラッパと混ざって口の中で溶けた。」
    

   『フィレンツェの台所から』渡辺怜子/文春文庫

この文庫本の元になった単行本は1992年5月に晶文社から出版されています。 文庫本は2003年の出版ですからほぼ10年が過ぎ、それからさらに7年後の2010年にこの文章を書いているのですから大ざっぱに言って20年も前の本を取り上げていることになります。

だいじょうぶでしょうか? 中味が古臭くなっていないでしょうか?

「スローフード」という言葉を耳にしたことが、あるいは目にしたことがありませんか? スピードに束縛されているファーストライフの狂気から自らを解放するために生まれた運動はまず、ゆったりした時間の中で伝統的な食を復権させるというスローフードという考えを核に運動が始まっています。

『フィレンツェの台所から』が直接スローフード運動と関係があるわけではありませんが、内容はまさに“スローフードな”イタリアの食紀行です。

この紀行には思いがけない知識や面白いお話も随所に挟まれていて、それがこの紀行をいっそう内容豊かなものにしています。

フィレンツェに著者が買ったアパートは向かいに昔、カテリーナ・デ・メディチが幽閉されていた修道院があり、そこから絶叫するような鳴き声のつばめの一群が飛んできて目を覚まされます。 このつばめは日本で目にするつばめとは違う種類の「ヨーロッパあまつばめ」で、つばさが非常に発達しているのとは反対に足が退化していて地上を歩けない。 飛びながら虫を捕食し眠ることができかん高く叫ぶ。

汚染されたフィレンツェの空気をのがれてわたしたちになじみの「スズメ目のツバメ」が消え去った後に、公害に強い彼らが入ってきたのだということです。

イタリア人は野生の動物や鳥類の肉も大好きでよく食べ、著者の友人フランコとマリーザ夫妻の家の冷蔵庫には兎、鶏はもちろん雀まで収納されています。

しかし3人いる息子のうち長男は完全なベジタリアンできんぴらごぼうやお豆腐が大好き。

親の嗜好を子どもに押しつけないのもイタリア流でしょうか。

さて冒頭の文章。グラッパは「葡萄のしぼりかすを発酵させてから蒸留したりリキュールの一種」と説明されています。

著者の娘さんが絵画修復の技術をウィーンの大学で学び、その卆業制作にイタリアの画家レアンドロ・バッサーノの絵の修復をします。 画家の生地はグラッパの産地として有名な土地で、著者はバッサーノとトレヴィーゾを訪れる旅に出て、トレヴィーゾでグラッパ入りのチョコレートも買って、その場で1つ食べてみたのです。
 


小川洋子
2010年06月16日

40「どうしてこんなにおいしく、チョコレートを食べることができるのだろうと、自分で自分を不思議に思った。」
    

   『アンネ・フランクの記憶』小川洋子/角川文庫

映画にもなり、ベストセラーになった『博士の愛した数式』の作家小川洋子が『アンネ・フランクの日記』に初めて出会ったのは中学1年の時で、学校の図書館でした。

「言葉とはこれほど自由自在に人の内面を表現してくれるものかと驚いた」小川さんはすぐに、アンネの真似をして日記をつけはじめます。

28歳の時、雑誌「海燕」の新人文学賞をえて作家として認められるようになり、3年後の1991年「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞、その後も次つぎに重要な話題作を発表しつづけているのですが「なぜ書くことにこれほどの救いを感じるのか、改めてじっくり考えてみて」、言葉で自分を表現することを教えてくれた『アンネの日記』に思いいたります。

1995(平成7)年6月30日、「今でも生きて、言葉の世界で自分を救おうとしている」小川さんはそのきっかけを与えてくれたアンネ・フランクに感謝し「彼女のためにただ祈ろうと願うような思いで」アンネを訪ねる旅に出ます。

その直前に『アンネの日記 完全版』が出版されて旧版で形づくられていた“純真でかわいらしい”アンネ像が破られます。 完全版には性の問題もふくめて「アンネの人間臭さ、激しさ、心の奥の暗闇」も記されていたのです。

小川さんがオランダへ向けて成田から飛び立ったのは1995年6月30日でした。 アムステルダムのホテルには夕方に入り、この旅のコーディネーター兼通訳の女性と打ち合わせをします。

アムステルダムではアンネのユダヤ人中学時代の友人でヨーピーと呼ばれていた人と、アンネの父親オットーの会社に勤め、一家が隠れ家ぐらしを始めると食糧や本などを運んで支援したミープさんの2人に会います。

ヨーピーは『アンネとヨーピー わが友アンネと思春期をともに生きて』を、ミープさんは『思い出のアンネ・フランク』を出版していて共に日本でも翻訳出版されました。

小川さんはアンネとかかわりのあった人たちばかりでなく一家の隠れ家、学校、住まいの近くの広場、アイスクリーム屋などをくまなく訪れ7月5日、ポーランドのアウシュビッツの強制収容所へ入ります。

冒頭の文章は翌7月6日にウィーンで記されたものです。 アウシュビッツを離れるタクシーの中で、小川さんはチョコレートバーを一息に全部食べ、ミネラルウォーターをもらってごくごく飲んだのです。


岸田今日子
2010年05月26日

39「ティラミスも食べたことはあるけれど、こんなに話題になっているとは知らなかった」
    

   『外国遠足日記帖』岸田今日子/文春文庫

70年代に「ムーミン」というフィンランドの女流作家トゥーベ・ヤンソン原作の物語をテレビ局がアニメ化して放映し、子どものみならず大人たちまで夢中になった時期がありました。

主人公のムーミンは河馬そっくりの姿をしていましたが河馬ではなく、「トロール」と呼ばれる妖精です。

TVアニメ「ムーミン」の声を担当したのが岸田今日子で舞台と映画で数々の演技賞を受賞した名優でした。父親が劇作家・小説家の岸田国士、姉は詩人の岸田衿子です。

『外国遠足日記帖』と『スリはする どこでする - 続・外国遠足日記帖』には80年代から90年代にかけて、友人と一緒だったり(吉行和子、富士真奈美)、行き先によっては朗読会の仕事をしながら楽しんだ外国旅行の様子が描かれています。

岸田さんはどうやらあまりチョコレートやケーキ類を口にすることは少なかったようなのですが、旅先で摂った食事については実に個性的な感性でおいしさ・まずさを表現しているのでその面白さを紹介してみようと思います。

たとえばインド旅行のプーナという町ではインドで初めて中華料理を食べに行き、吉行和子さんと2人「菜食主義を守って、お豆腐とか野菜そばとかを食べ」、ゆですぎたスパゲッティのような「そばのスープに醤油をたらしてしみじみと飲」んだりします。

ロンドンのシェラトンホテルでは「もう一度飲んでみたいほど」の「ワイルドマッシュルームのスープ」を、「オテロ」を観る前には“大衆ホテル”のコーヒーハウスで「固形洗濯石けん」のようなチーズに「ただゆでただけのラムのレバー」にこれも「ただゆでただけのニンジンとグリーンピースが山のように乗ったハンバーガー」を食べる羽目に。

フィンランドの旅ではスモークサーモンはどこで食べてもおいしいことを確認し、トナカイの肉は「ちょっと匂いがあってパサパサしている」ことを知ります。

フィレンツェでは南瓜(カボチャ)の花の天ぷらが「サクッとして」おいしいことを知り、ギリシアのクレタ島では「生(な)まのアーモンドは瑞々(みずみず)しくて甘い」ことを知ります。

吉行さんに富士さん(とその娘さん)と行ったスペインのバルセロナのホテルでは、「ピクニック」と称するお弁当を一人ずつ持たされます。これがなかなかのもので3種類のパンを使ったサンドイッチには生チーズ、厚切りハムと野菜がはさんであり、オレンジと洋梨が1個ずつつき、さらにオリーヴのびん詰と紙パック入りのジュースがつくという充実ぶり。富士さん母娘はオリーヴが大いに気に入って、岸田さんと吉行さんの分までぺロリと食べてしまいます。


星野知子
2010年05月12日

38「引率のおばさんと、シャイでおとなしい少年も一緒にキャラメルやチョコレートを食べると、ギクシャクした雰囲気が次第になごんできた。」
    

   『トイレのない旅』星野知子/講談社文庫

NHKの朝のTV連続ドラマ「なっちゃんの写真館」でデビューした女優星野知子はその後、ドキュメンタリー番組のリポーターとしても活躍しはじめました。そしてその時の旅の出発時から帰国するまでの一部始終を秀抜な文章にまとめて高い世評を受けました。

『トイレのない旅』はそうした1冊で、シカン文明の遺跡を訪ねるペルーへの旅、辺境の少数民族のくらしの現状に触れた中国・雲南省への旅、雁の渡りの研究者を取材したシベリアへの旅それぞれのドキュメントです。

冒頭の一節は1992年にシベリアの大湿原で雁の渡りを共同研究することになった日ソの学者グループの研究現場を取材した時のもの。

この旅は御難つづきでまずハバロフスクの飛行場に迎えに来ているはずのコーディネーターが来ていません。カートがないため40個568kgの機材・食料を全員汗まみれになってバスへ運び込むのに2時間もかかってしまいます。

チェックインに1時間もかかったホテルではぬるく塩辛いボルシチにパサパサのパン、油臭いイクラに固いシシカバブ、みずみずしいキュウリだけが取り柄の食事の10人分の代金5500ルーブル/40ドルに、4倍以上にもなる170ドルを請求される始末です。

朝4時半出発予定の飛行機は13時間遅れでやっと飛び立ち2時間後に中継地のマガダン空港に到着しますが、1時間後に出発予定の次のフライトはまたしても大幅に遅れ実際に出発したのは翌朝7時。

実質4時間のフライトに28時間もかかったわけは、どうやら燃料のガソリンが調達できなかったためらしいとわかります。

さて「引率のおばさんと、シャイでおとなしい少年」は、一行の中の1人がロシア語ができないのにどう意思を通じさせたのか、目的地が同じだと知って、勝手に引率者に選んでしまったという2人で飛行機の出発を待つ間ポケットに入っていたお菓子を分け合って食べたという場面。

おなかに何かを入れることができ、空腹をやりすごすことができれば腹を立ててはいられない、というのはどこの国の人でも同じだというわけです。

さて星野さんはタイトル通りにシベリアの大湿原ではあり合わせの木を4本立て、帆布を壁代わりに釘でうちつけた電話ボックスほどのトイレを使い、中国雲南省の農村ではコンクリートの床に穴をあけただけ、仕切りも屋根もない公衆トイレを経験し、シカン文明遺跡の発掘現場では、人目を気にしなければどこでもトイレにしてもよい、ただし藪蚊を避けることができれば、ということを学んだのでした。


吉田修一
2010年04月21日

37「ちょうど端数でもらったチョコレート持ってたから、『食べるか?』ってそいつらにあげたんだ。」
    

   『日曜日たち』吉田修一/講談社文庫より「日曜日のエレベーター」

作家という職業は「よく観る」職業なのですね。吉田修一の芥川賞受賞作『パーク・ライフ』などを読んでいると「観察力に恵まれない者は作家にはなれないな」とつくづく思いますね。それに、観察したものを小説的にディフォルメして再現する能力も必要なのでしょう。

「日曜日のエレベーター」の渡辺は半年ほど前に海運倉庫をクビになり、つなぎではじめた引越作業員もやめてしまって完全な失業状態になって3週間目という30歳。

洋服ダンスに変えてしまっていたマンションの小型システムキッチンを、元のキッチンに戻して、パチンコで勝ったたびにフライパンやなべ、皿やグラスに換えそろえ、ついには3合炊きの炊飯器まで買ってしまいました。

「仕事など探せば見つかる」と楽観してはいるものの、やはり不安を感じるようになっていたからです。

そんな渡辺が習慣になっている日曜深夜のゴミ捨てに10階から降りてきて思い出したのは、このゴミ捨ての習慣がつく原因となった圭子とつき合っていた日々のこと。

圭子と知り合ったのはマンションから池袋駅へ向かう途中にあったレゲエバーで、初めて交した会話が「この世で一番嫌いな場所はどこ?」「デパートの地下食品売場」という質問と答え。

圭子の答えの理由は「簡単」で「あそこにいる人たちが、みんな何か食べることを考えているのかと思うとぞっとするのよ」というものでした。

看護婦になる勉強をしていると渡辺が誤解していた圭子は実は医者の卵で、見事に国家試験に合格して見習いの医者になります。

多忙な圭子が一週間の休みが取れることになり、渡辺の予定も聞かずサンフランシスコ行のチケットを2人分買ってきます。

なぜか、圭子がこの旅行で何かに片をつけようとしていると感じた渡辺は、シャワーを浴びにいった圭子のハンドバッグからはみ出したパスポートを見てしまいます。

そして、パスポートの圭子の国籍が韓国であることを知るのです。

渡辺は別れ話を持ち出す代わりにパチンコ屋で会ったヘンな子供たちの話をはじめます。

上が小学3年生、弟が小学校に上がったばかりという年格好の兄弟はどうやら家出中の身らしく、2人ともリュックを背負い、何日も風呂に入っていないような饐(す)えた臭いをさせています。

冒頭の引用文は渡辺が2人の子供と出会った直後のもの。

予感どおりに、旅行後、それと気づかぬうちに渡辺は圭子と別れてしまうのです。


石田衣良
2010年04月07日

36「ダイがカーテンを開けると、彼女はリボンのついたチョコの箱を胸のまえに両手で抱えた」
    

    『4TEEN〔フォーティーン〕』石田衣良/新潮文庫

学校がおおかたの10代にとって、行っても楽しくない場所になったのはいつごろからのことなのでしょうか。

それはともかく、学校を楽しい場所にするために最善の方法はなんでも話し合える数人の友だちを持つこと、ではないでしょうか。『4TEEN』の主人公テツローは東京都中央区月島の中学生。

月島は隅田川の河口にある明治の埋立地の島で、勝鬨(かちどき)橋を渡ると魚市場で有名な築地とつながっています。

平成の隅田川両岸には20階建て30階建て50階建てのビルが立ち並び、江戸の情緒の残っていた昭和の面影はほとんど残されていません。

さてテツローにはジュンとダイ、それにナオトという同じクラスの親友がいます。

春休みにはいったばかりの月曜日、テツローはマウンテンバイクに乗り、月島駅の「階段をのぼったところにあるマクドナルドのまえ」でジュンとダイを待っています。待ち合わせの場所は「もんじゃ焼きの店が百軒はある西仲通りのほうの出口」です。

最初にやってきたのはジュンで、テツローものとは色違いのトレックのマウンテンバイクに乗っています。ジュンは背が低く、顔の半分くらいはある黒のセルフレームのメガネをかけています。

待っている2人のうしろの自動ドアが開いて、フレンチフライを胸の前に持ったダイが「よう、待った」と太い声をかけてきます。

ダイのあだ名は本名の小野大輔(だいすけ)のダイではなくて、フレンチフライの大中小のダイで、「うしろから見てもほっぺたの肉が顔の横にでっぱっているのがわかる」ほどに太っています。

3人は聖路加国際病院に入院しているナオトの見舞いに行くのですが、頭髪の半分が白髪になっているナオトの病いはウェルナー症候群、早老症という難病です。

このときの見舞いで病状が悪化していることを知った3人は、図書館で調べて「生存曲線」が30代には「滝壺に落ち込む滝のように」急落すると知って、ナオトの誕生日にとびきりのプレゼントをしようと行動を開始します。

3人がお年玉の残りを資金に難行苦行の果てに調達したのは援助交際の女子高生。

誕生日当日、松屋の地下のフォションで買った「リボンのついたチョコの箱を胸のまえに両手で抱えた」彼女がナオトのベッド脇に立つのです。

それから何が起きたかは原作を読んでみてください。作者は2009年、続編ともいうべき『6TEEN』を発表しています。


川上弘美
2010年03月25日

35「湿ったチョコウエハースを、しかたなくわたしは一人で食べた」
    

   「星の光は昔の光」/『神様』/川上弘美/中公文庫

川上弘美『神様』はとても不思議な9編の小編が集められた短編集です。

たとえばこの短編集の冒頭に置かれている「神様」は、
「くまにさそわれて散歩に出る。」
というフレーズで始まります。

「えっ、くま!?」

そうなんです。このくまは雄の成熟したくまで、三つ隣の305号室につい最近越してきて、引っ越しに際しては同じ階の住人には引越し蕎麦をふるまい、はがきを10枚ずつ渡してまわるという実に気遣いのいいくまなのです。

「わたし」はこのくまと散歩のようなハイキングのようなことをしたりして“ふつうに”つきあっていくのですが、その不思議な状況が読み手にはすんなりと受け取られます。

「あとがき」によると『神様』はパソコン通信の第1回パスカル短編文学新人賞を受賞した小説だということで、それは94年のことでした。その2年後には『蛇を踏む』で第115回芥川賞を受賞しています。

2001年に発表した谷崎潤一郎賞受賞の『センセイの鞄』の文庫本の解説(文春文庫/木田元)には川上自身の言として「…私の小説の中では、時間が真っすぐに流れない」という言葉が引用されていますが、『神様』を読んでいると3次元のこの世の世界に4次元か5次元か、異次元の世界がぐにゃりと入り込んできているような感覚に捕われます。

冒頭に揚げたのは、「星の光は昔の光」の中の一節で、チョコウエハースは「わたし」の隣の隣の304号室で大部分の日を母親と2人でくらしている「えび男くん」が来たときのために用意したものなのです。

チャイムをとても柔らかい音で、必ず2回鳴らす「えび男くん」が「わたし」の部屋を訪れなくなって何か月か月日が過ぎ、「わたし」も「えび男くん」のためにチョコウエハースを買うことをやめてしまった1月の半ば、夕方の散歩の坂道で「わたし」は久しぶりに「えび男くん」に再会します。

「えび男くん」に誘われるまま焚き火の匂いのする方へ行ってみると、それは「どんど焼き」の火煙でした。

花のように小さな丸い餅を飾りつけた木の枝が何度か回ってきますが、2人にはその餅が回りません。それを見ていたおじさんがみかんを2個ずつ2人にくれます。

みかんをポケットに歩きながら「えび男くん」は「星は、寒いをかたちにしたものじゃない」「星の光は昔の光でしょう。昔の光はあったかいよ」と言うのです。

「えび男くん」の「えび」が好きなのは、めったに帰ってこないお父さんのほうなのです。


森福 都
2010年03月10日

34 「……男の声は、高級なベルギー産のチョコレートのように上品な苦さと甘さで常に女を酔わせてくれた。」
    

   「アディクティド」/『クラブ・ポワブリエール』/森福 都/徳間文庫

addictedは辞書を引くと「[通例 be ~ed]の型で使われて<人が>[麻薬などに]中毒になる/夢中になる」と説明されています。

作家・森福都は『長安牡丹花異聞(ちょうあんぼたんかいぶん)』で96年に第3回松本清張賞を受賞、同じ年にジュニア小説のジャンルでも優秀賞を獲得してデビューした作家です。

『長安牡丹花異聞』は没落した高級財政官僚の息子が母親に孝養をつくすために月光を受けると怪しく輝く「夜光牡丹」の開発に努めるというストーリーで皇帝主催の花競べ「花賞習元」に一席で選ばれれば5万銭という大金が手に入る。それを偉丈夫の衛士、胡人の美女、そして主人公黄良の3人組が獲得に乗り出すという展開。

森福さんの経歴をみると山口県生まれで広島大学医学部総合薬学科の卒業です。“総合”というからには欧米の薬学だけではなく和漢方の薬学を併せて学ぶ学科なのではないでしょうか。『長安牡丹花異聞』に収載されている他五編の中国古代王朝時代を背景とする奇談を読んでいると、中国の医薬学を歴史的にも奥深く学んだ学徒の消閑のすさびという感じも受けるのです。

さて冒頭の一説は『長安牡丹花異聞』とは打って変わって、自宅で英語の技術翻訳を仕事にしている34歳の人妻流子を探偵役とする連作形式のミステリー短編集の中の1作から引用したもの。

書名にもなっている「クラブ・ポワブリエール」は流子がメールを配信するメーリングリストの名称でもあります。

「アディクティド」の舞台はゲームセンター。「高級なベルギー産のチョコレートのような」声の持ち主はそのゲームセンターの店長、といってもただの店長ではなくて、一流大学経済学部出身、横浜駅周辺に百以上もの不動産を所有する大地主の三男で乗馬とスキーで体を鍛えているという38歳の独身。

この店長の魅力の虜になった友人の環の願いを容れて小学生の少女優里のためにそのゲームセンターでプーさんのぬいぐるみを釣り上げる破目に陥った流子は、やがてこのゲームセンターのからくり解明に到達します。

『クラブ・ポワブリエール』は流子のパソコンメールで配信されるメンバーの書いた「小話シリーズ」に事件が紹介され、それを夫の大野拓也が記述発展させていくといういわば“入れ子式”のストーリーです。

ところで、ベルギー産をはじめとする外国産チョコレートの真の味を知るには、“本物の”“美味しい”チョコレートを数多く味わうのが最善の方法です。


さくらももこ
2010年02月24日

33. 「……私の手にチョコレートを持たせると、彼女は再び今来た道を……」
    

   「バレンタインデーのこと」/『ももこの話』さくらももこ/集英社文庫

さくらももこの名は「ちびまる子ちゃん」の漫画と共に北の端から南の端まで、日本国中にあまねく知れわたっています。

『ももこの話』はそのさくらももこの9冊目(だと思う)のエッセイ集です。文庫本の帯には「あのころ、まる子だった、ももこの話 3部作③」とあります。

つまり『ももこの話』はさくらももこが自分の子どものころを思い出して書き留めた3部作の3冊目というわけですね。

『ももこの話』は「食欲のない子供」に始まって「春の小川の思い出」に終わる15編の“思い出話”集で、「あれっ、これは私のことを書いたんじゃないの!?」と思わず頭を上げて周囲をきょろきょろ見回してしまう人も少なくないかも知れません。

「バレンタインデーのこと」は小題どおりバレンタインデーに小学5年生だったももこが体験した話です。

ももこがバレンタインデーなどという日のあることを知ったのは小学校五年生の冬でした。それまでは、2月の行事といえば「建国記念日」と「うるう年には1日多い」ということを知っているだけでした。

友人に説明させてどんな日だかを知ったももこは「なんて都合のいい日が男子には用意されているんだろう」と「遅ればせながら驚い」たのですが、「好きな男子に好きですよなどと絶対に言えないタイプ」のももこは「チャラチャラと、好いたホレたなどとたわけた事をぬかして、男子なんかにチョコをあげるなんて、そんなみっともないこと私にできるかよ」という態度でした。

バレンタイン当日、「絶対にもらえそうもない風貌の男子」や「絶対フラれそうな風貌の女子」までが色めきたち、休み時間にはろうかをうろうろする多数の女子や教室でそわそわする男子やチョコをもらってニヤニヤする男子を観察しながら、つき合う気もない女の子からのチョコなんかキッパリ断るべきだと思いながら、サッサと帰ることにして急ぎ足で歩いていたももこを「お姉さんっ」という声が呼び止めます。

声の主はいつもももこが面倒をみている下級生の女の子。女の子はももこの手にチョコレートを持たせると、今来た道を逆方向に走り去ります。

家に帰って家族に一部始終、話をすると「それはすぐ何かお返しをしたほうが」ということになって、ベストをつくしてキティちゃんのハンカチを渡すという展開になります。

今年は自分への「ごほうびチョコ」が多かったということですが、あなたのバレンタインデーはどんな日でしたか。


米原万里
2010年02月10日

32. 「ウェハースをチョコレートでコーティングした人気菓子の名「ミーシカ」とは熊の愛称。」
    

       ------------------------------『旅行者の朝食』米原万里 

「ジョークと小咄(ばなし)は、ロシア人の必須教養」だと米原さんは断言しています。さらに「平均的なロシア人ならば少なくとも五百ほど、どんなに生真面目優等生タイプの人であれ、最低三百ほどの小咄の蓄えがなくては一人前扱いされない。」とも。

米原さんはお父さんの仕事の関係で1954~64年までプラハのソビエト学校で学び、その後東京外国語大学ロシア語科を卒業、さらに東京大学大学院でロシア語・ロシア文学修士課程を修め、80年に創立されたロシア語通訳協会の初代事務局長、さらには会長を3年間務めたというロシア語の大専門家。

その米原さんが長年、なぜそのフレーズを耳にしたとたんロシア人がみな「クックック」「ウフフ」、ユサユサとお腹を揺すらせて笑うのかわからなかったことばがありました。

それが「旅行者の朝食」。

この言葉になぜロシア人が“過剰反応する”のか、その謎はモスクワ大学の先生から聞かされたたった1つの小咄で氷解します。

それはどうやら「中味よりも、缶に使われているブリキの品質が上等なので日本の商社がそのブリキ目当てに買いつけるらしいという噂の缶詰」の名称だったのです。

それはとりもなおさずその中味が猛烈にまずい、ということ。

いったいどれほどまずいのか、是非とも賞味したいと思っていた米原さんはあるときロシアに出張した折に、スーパーマーケットで実物を発見します。

「旅行者の朝食」は1種類だけではなく、牛肉ベース、鶏肉ベース、豚肉ベース、羊肉ベース、魚ベースと結構な品ぞろえ。

その中身はというと「肉を豆や野菜と一緒に煮込んで固めたような味と形状」をしているが「ペースト状ほどには潰れていない」、ちょうど「犬用の缶詰」によく似ていたのでした。

米原さんが「旅行者の缶詰」のエッセイをある企業の宣伝誌に書こうとした98年には、もうモスクワの街から姿を消していたそうで、後に残ったのは、

ある男が森の中で熊に出くわし聞かれます。

「お前は何者だ?」

「私は旅行者ですが」

「いや、旅行者はおれだ、お前は旅行者の朝食だよ」

という、まあたわいもない小咄だったと。

かつてロシアの食べ物のまずさは有名な事実で、いろいろな人がそのことに触れていますが、米原さんの発見した「大当たり!!」の安くてうまい掘り出し物の缶詰は「鱈(たら)肝の缶詰」で、グルメを自称するフランス人が「このフォアグラ、かなりいい線いってるよ」とコメントしたほどだそう。


中井貴恵
2010年01月27日

31. 「田園調布のローザのロシアチョコを再び食べたい」
    

 『赤毛のアンを探して』中井貴恵/角川文庫 
 
中井貴恵さんは幼稚園児や保育園児の親、病気や不自由な肢体をもつ児童やその親たち、多くの小学生・中学生、養護施設でくらす人びとや関係者たちには「大人と子供のための読みきかせの会」の代表で朗読を担当しているひととしてのほうがよく知られているのではないでしょうか。
 
でも70歳代以上の年齢のおじさん・おばさんたちは、“あの佐田啓二の娘でワセダを出て女優になったひと”という記憶のほうが強いだろうと思われます。

父親の佐田啓二は伝説的な“美男俳優”でした。

昭和27年4月、NHKはラジオドラマ「君の名は」の放送を開始しました。戦時中、空襲かの東京で出会った若い男女が有楽町の数寄屋橋での再会を約して空襲のため名前を聞く暇もなく別れます。戦後、運命に翻弄されるように二人は再会しそうになりながらすれ違いを繰り返し時が過ぎ去ります。果たしていつになったら二人は再会できるのか、というわけでこのドラマは「放送時間になると銭湯の女湯がガラ空キになる」といわれるほどの大ヒット番組になりました。

「君の名は」は翌28年映画化され映画史上最大の興行収入を上げましたが、主演の真知子役に岸恵子、そして相手役の春樹を貴恵さんのお父さんの佐田啓二が演じ一躍人気俳優におどり出たのでした。佐田啓二は残念ながら37歳という若さで交通事故で死亡しました。

さて『赤毛のアンを探して』は貴恵さんの5冊目の本です。最初の本『ニューイングランド物語』は婚約者の留学先である米国ニューハンプシャー州のハノーバーで結婚生活をスタートさせた貴恵さんが「交通信号が3つしかない」町で1年半を過ごした‘くらしの報告書’です。

この報告書には極上の充実した1年半の日々が、てらいや飾りのない極上の文章で綴られていて読む者に至福の時間を与えてくれます。

その品の良さは『赤毛のアンを探して』までの4冊の著作にもそのまま受け継がれています。

さて冒頭の文章は「東京⇄四国うまいもの便」の項の一節。『ニューイングランド物語』を読んだ四国は香川県の女性から「ピカピカに光った身のしまった目刺し」がおくられてきて始まった東京と四国間の“おいしい物交換便”はやがて、お互いに自分の食べたい物を指定するようになり、四国の女性が貴恵さんにFAXでリクエストしてきたものです。

あなたは「ローザのロシアチョコレート」をごぞんじですか?

貴恵さんのエッセイはいまも文庫本でよめるはずです。


谷村志穂、飛田和緒
2010年01月14日

30. 「『公園通りの石畳』が作られている場所はですね、渋谷ではなく、神奈川県の平塚市だったのです」
    

------- 『お買い物日記』集英社文庫/谷村志穂*飛田和緒

 
『お買物日記』は作家と料理家の、共に30代前半の2人が手に入れたお気に入りの品々を写真入りで紹介してくれる、まぁ、一種の買い物ガイドブックですね。

紹介されているのは全部で46点。日本のものと外国のものもとり混ぜて、といっても『日記』は1と2があるので46X2=92点です。

製造元の名前を聞けば「あぁ」とうなづけるものもあれば「うん?」と遠目になってしまうものもある。「そんなところにそんなものが!」とびっくりさせられるものもある。というわけで、身の回りに余分なものなど置かない、単純明快・簡素第一というひとにも読めばなかなか面白いのです。

たとえば“びっくり部門”の一つがお寺で売ってる日本手拭(てぬぐい)。京都栂尾(とがのお)の高山寺で売られている手拭には国宝の絵巻「鳥獣戯画」がプリントされていて、色合いも深い藍色、薄茶、グレーと3色あるのだそう。

しかしこのお話は“お寺止まり”ではなくて、世良公則のツイストのライブにまで発展するところがミソ。

ところで『お買物日記』1・2で紹介されている92点のうち食品が[1]に11品、[2]に10品。そのうち[1]に2回、[2]2回の計4回チョコレートが取り上げられています。

文章を書いている谷村さんは必ずしもチョコレートに好意的ではなく[1]で紹介されている自由が丘の‘トップ’の「バナナボートケーキ」のページでは、「トップといえばあれかい?あの甘―いチョコレート・ケーキの店かい?」と書いています。

でもこれは谷村さんの思い違いで、“甘―いチョコレート・ケーキ”の店の名は「赤坂トップス」なのでした。それに谷村さんが嫌いなのは“甘―い”チョコレートらしく、「カカオの味がよく効いた、なめらか」な生チョコなどは大好きらしく、和緒先生から聞いていた「公園通りの石畳」の話を旅先で耳にして商品名から連想して渋谷の公園通りの店をたずね回ったり、銀座のデパートに行ったり探しに探すのです。

結局、最終的に料理家の飛田(ひだ)和緒先生が「家中をひっくり返して」かつていただいたチョコレートの中に入っていた小さなカードを見つけて、正しい製造元に行き着きます。

冒頭の一節はやっと見つけたその店の所在地です。

『日記』の[2]には「デメルの金の舌チョコレート」について実に深遠な考察(?)が述べられています。

注:引用したのは2000年出版のものです。


森絵都
2009年12月29日

29. 「アーモンド入りチョコレートのように生きていきなさい」
    

------- 『アーモンド入りチョコレートのワルツ』森絵都/角川文庫 
 
この物語には「エリック・サティ<童話音楽の献立表(メニュー)>より」と副題がついています。

登場人物は4人。語り手の「わたし」奈緒と奈緒の通うピアノ教室の絹子先生、レッスン友だちの君絵、それからもう1人“サティのおじさん”。

“サティのおじさん”の本当の名はステファン。フランス人。緑の瞳、銅色の髪、頭はハゲていないし、ひげだってサティほどふさふさしていない。けれど、絹子先生の最愛の人、音楽家のサティに似ていた。顔の輪郭や瞳の光りかたや今にも笑いだしそうな口もとが。

絹子先生と出会って7回目の春、中学生になっていた”わたし”と君絵がそろってレッスンに顔を出していたある日、ふんわりとよせてくるコロンの香りとともに“サティのおじさん”は突然2人の前に“ぽっかりと”現れたのです。

“サティのおじさん”はそれ以後、2人のレッスンに顔を出しつづけます。そして3人はお互いにお互いを認め合うようになるのです。

ことに君絵は国境もことばの壁もらくらくと越えてあっという間に“サティのおじさん”と意気投合してしまいます。

そのきっかけはピアノのレッスンに来ていてピアノを弾かずにうたってばかりいる君絵に、おじさんがそのわけをただしたときに「あたしは、ピアノよりうたうほうが好きだから、うたうんだ」と答えたことでした。

おじさんは君絵の答えにいたく感動してしまい、「日本にもこんな子がいるなんて思わなかった」と両腕の中に君絵をすっぽりくるみこんでしまいます。

この事があって4人の足どりがそろいはじめた6月、週に1度のワルツ・タイムがはじまり、8月の初め、事件が起きます。

事件の内容とその後の展開はこの物語を読んでいただくことにして冒頭に掲げた句。

クリスマスイブの前日に絹子先生宅で開かれた発表会に夏のある日以来姿を消していた“サティのおじさん”が現れ、発表会後のパーティーがお開きになった後、旅立っていく前に言い残していった言葉なのです。

君絵は発表会でもピアノを弾かずにうたをうたったのです。奈緒の伴奏するサティ作曲の「アーモンド入りチョコレートのワルツ」に合わせて。

 まわるまわる アーモンド
 チョコのなかで くるくるりん <中略>
 きょうも あしたも くる くる ぐる ぐる
 おどりつかれたら たべられてしまうから


江国香織 
2009年12月16日

28. 「私は、夫にチョコレートをもらうたびに、私をよその女でなくしたことへの、夫のお詫びの贈り物だと思っている」
    

------- 『よその女―いくつもの週末』より/江国香織 
 

『いくつもの週末』は、井上荒野(あれの)さんの解説によると“一緒に温泉に行”って“二人で露天風呂に一時間も入”っていて“江国さんのはじまったばかりの結婚生活のことを聞いて”いた話の終わりに「今度この生活をテーマにしたエッセイを女性誌に連載することになっている」と“江国さんが言った”、そのエッセイをまとめたものです。(ちなみに“”内は井上さんの解説文、「」の中が江国さんの話の引用)

全部で16のエッセイがまとめられていますが「結婚してもうじき二年、という秋から、もうじき三年、という秋までのあいだに書いた」と書いています。

著者も著者の夫も、でるつもりじゃなく海にでた、その航海の記録だ、と。

結婚生活は「大きな公園のそばの小さなマンション」で始まった。エッセイの最初の1篇もその公園とのかかわりが語られています。結婚して変わったことのひとつに「推理小説を読む」ということがあって、「結婚してからとりつかれたように」読むようになり、「いまでは、推理小説がなければ妻生活というものはやっていられない、と思う」ほどなのです。

公園の大階段で推理小説をとりつかれたように読むのは推理小説は「最後にちゃんとけりがつく」からで「(私が)たぶん、けりのつかない場所に不慣れだからなのだろう」と。

既婚者は新婚のころの自分を改めて思いかえしてみざるを得ないでしょうね。同じ家に一緒にくらしはじめて初めて相手に感じられる異和感があり、それを説明してわかってもらおうとしても相手はなかなか理解してくれない。「けり」はなかなかつかないものです。

『いくつもの週末』には1篇ごとに、こうした読む者を危険な淵に誘い込む数行がふくまれています。解説の井上さんもこの本は「私たちを落ち着かなくさせる」と書いています。

たとえば次のような文章。

「二人はときどき途方もなく淋(さび)しい」―「月曜日」

「色つきの世界というのはたぶん、この依存と関係があるのだろう」―「色」

「一時の気の迷い、は、我が家における冗句(じょうく)であり真実であり結論であり、…」―「風景」

冒頭に掲げた文章も「…よその女でなくしたことへの、夫のお詫び…」、にドキッとしませんか。


(『いくつもの週末』集英社文庫/‘01年)


阿刀田 高
2009年12月02日

27. 「ジャムよりはチョコレートのほうが高級品である。しかし同じ値段なら、チョコレートのほうがはるかに品質が劣る」
    

------- 『第25話・パンと恋と夢/食卓はいつもミステリー』 阿刀田 高
 

「戦後に食べたコッペパンも忘れられない食品の一つ」と書いています。念のために「戦後」とは満州(中国東北部)事変(昭和16年)に始まり昭和16年12月8日に開戦した太平洋戦争が敗戦に終わった昭和20年8月以後、という意味です。

そのコッペパンを売る店ではジャムとチョコレートを用意してあって、どちらかを選んで頼むと楕円(だえん)形のパンを「上下二枚に切り」、包丁で切断面に平らに伸ばしてぬってくれる。でも、切断面一面には塗ってくれなくて端のほう幅1センチくらいは白いまま残してある、のです。
「近所のパン屋には同級生がいて、彼が店番をしているときは両面にぬってくれる」、つまり、ほかの人が店番のときは片側の面しかぬってもらえないのですね。

代償として著者は夏休みの宿題ノートをいつも貸してやっていたそうで、店番をする同級生のほうも夏休みの終わるころには著者がコッペパンを買いに現れるのを心待ちにしていたのではないでしょうか。パンにチョコレートを2度ぬって、夏休みの宿題ノートの答えが全部手に入るのならもうけものですよね。

このジャムもチョコレートも1斗缶に入っていました。1斗缶は10升(しょう)の分量の醤油や食用油などが入る長方形の缶で、パン屋の業務用のジャムやチョコレートはこの缶に入っていたのです。

「1斗缶に入っていたのはチョコレートをほんの少量だけ入れた混ぜ物だったろう」というのが著者の推察ですが、戦後の食糧事情を考えれば当然そうだったろうと思えますし、誰もが冒頭の文のような判断に達するはずです。商品の質が優れていれば値段も高くなるというのが常識です。「チョコレートと言えば、ハーシーの板チョコは目がくらむほど豪華な菓子だった」とも書いています。

これは阿刀田だけではなく、敗戦後に進駐軍の米兵からチョコレートをもらって食べた経験のある当時少年だった多くの人々の回想に「こんなぜいたくなものを食っているアメリカとの戦争に負けたのは当たり前」だという感想がよくあります。口にしたものが、アメリカ兵の戦場で支給されるレーション(1食分の弁当)のことも多いのですが(レーションにはハーシーのチョコレートがついていた)。

阿刀田高にはミステリーや奇妙な味のユーモアや恐怖小説が数多くありますが、さまざまな分野にわたるエッセイも書いています。

『食卓はいつもミステリー』には45話の「食」に関するエッセイが詰まっています。



藤沢 桓夫
2009年11月18日

26. 「……歩きながらそれを口に入れる。口の端にチョコレートがついていようが一向平気で、……」
    

------- 『心尽しのちらし寿司/大阪自叙伝』 藤沢 桓夫
 

上に掲げた文章の「……歩きながら」の場所は阪神の競馬場で、「口の端にチョコレートをつけ」て一向平気でいたのは菊池寛です。

「文芸春秋」という月刊誌をごぞんじでしょう。毎年2回授賞される文学の芥川賞と直木賞の受賞作品がこの雑誌に発表されます。芥川賞は芥川龍之介の業績を記念して設けられた賞でいわゆる“純文学”で将来を期待される新人作家に、直木三十五の名を冠した直木賞のほうは広範囲のジャンルの書き手の中から将来も長く多くの読者に読まれる作品を書きつづけていけるだろうと評価された作家から選ばれているようです。

この2つの文学賞を創設したのが菊池寛で、昭和2年7月に自殺した芥川とは学生のころからの、直木は三十二の筆名で「文芸春秋」創刊時からの筆者であり、共に長年の友人でした。「大衆小説」という名称は大作『南国太平記』の作家である直木の発案した用語だということです。(『東光金蘭帖』今東光)。

菊池寛は子供のようにすぐお腹をすかす人で、お腹がすくと他人の目などまったく気にせず食べ物を口に運んだそうで、慌てて食べるためか不器用のせいなのかしょっちゅう食べこぼしをして着ているものを汚しました。

食べ物に対しては独特の考え方をもち“天真爛漫”に振る舞っていたようで、藤沢と将棋を指していた時のエピソードが語られています。

将棋を指している間に、菊池が何度も席をはずし床の間の前で何かごそごそしている。「ははぁ、先生、また何か食べているんだな」と察した藤沢が「先生、何食べてるの」と尋ねると「ちらし寿司だよ。これがうまいんだ」という答え。「どこにも売っていない代物なんだ」というそのちらし寿司は、後年『二十四の瞳』を書いた壺井栄からのさし入れで、四国からの帰りの汽車の中で食べるようにと渡されたものだったのです。

「一度に食べてしまうのが惜しくなって、トランクに入れて」おいたそれを将棋の途中で床の間へ行き、2口、3口食べては将棋の席へ戻ってきていたというわけです。

「壺井さんが僕にくれた寿司だから、いかに美味しくても君に分けてやるわけには行かない」というのが菊池寛の弁明だったと書いています。

吉屋信子も京都の講演会で友人が差し入れてくれたおはぎを見つけた菊池が「ピチャピチャといくつも平らげ」たと回想しています(『私の見た人』)。

秘書であり、どうやら愛人でもあったらしい佐藤みどりが信じられないエピソードを紹介しています。寝台車で失ったとうろたえ騒いでいた入れ歯を、菊池寛が自分がはいている靴の中から「あったよ」と取り出したというのです(『人間・菊池寛』新潮社)。

通りかかった小林秀雄が事情を知って「信じかねるような顔で感心して」いたと。


野間 宏
2009年10月28日

25. 「背に負う板チョコが、一枚一枚、鋼チョコレートと思えたそうだよ」
    

------- 『顔の中の赤い月』 野間 宏
 

日本が太平洋戦争に負けた昭和20(1945)年8月15日当時、中国本土や南北朝鮮、台湾、ビルマ(ミャンマー)、マレーシア、インドネシア、タイなどの東南アジア諸国、さらには太平洋の諸島、樺太や千島列島などに軍人、軍属に一般人を含めて約660余万人の日本人がいました。それらの人びとはそれぞれの国、地域を統括する連合国側の管理統制の下で敗戦の翌月から次々と日本に引揚げてきました。[『日本経済再建の基本問題』(外務省調査局/昭和21年9月刊)によれば、敗戦時の在外一般居留民は304万人、軍人347万人である。]

引揚者たちはそれぞれに縁故のある土地に帰り、親兄弟・親類縁者・友人知己を頼って生活の再建を始めるわけですが、それは容易なことではありませんでした。

戦争末期の昭和20年3月から始まり敗戦直前の8月13日まで、広島・長崎両市への原子爆弾攻撃をふくめ、全土の60都市が米空軍の空襲にさらされ、約260万戸の家が焼かれ1,300万人が住居を失っているという状況でした。

もちろん工場などの生産施設も灰になり、ろくな働き場所も残ってはいません。そんな混乱のさ中にある祖国に帰ってきた引揚者・復員軍人たちは、ただ眠る場所を見つけ食べていくために大変な苦労を強いられました。「顔の中の赤い月」の主人公北山年夫は1年ほど前、南方(タイ、ビルマ、ラオス、スマトラ、ボルネオなど)の戦線から復員して、東京駅近くのビルディングの5階にある知人の会社に席を置いています。

同じビルの廊下をへだてた別の会社に堀川倉子という女性が勤めていて、北山は彼女に関心を寄せています。倉子は南方の戦線で一つ星(二等兵、最下級)の兵士として召集された夫を戦病死で失った戦争未亡人です。

著者の野間宏は敗戦前の軍隊がどのようなものであったかということをつぶさに描いた重厚な作品『真空地帯』をはじめ、戦中戦後の時期とその中で足掻きもがき苦しみながら生き抜いた日本人の姿をとらえた数多くの秀作を残しています。

「顔の中の赤い月」にも敗戦後数年を経たばかりの首都東京の生活が反映しています。北山の復員仲間の山沖には定職がなく、闇の商売で生計を立てています。扱うのは板チョコで、1枚を7円50銭で仕入れて8円50銭で田舎の雑貨屋に置いてくる。差し引き1円の儲けで月3千500円ほど稼ぐというのです。その山沖も商売を始めてすぐには売り込むべき土地を間違えて1枚も売れず、冒頭に掲げたようなつらさを味わったというわけです。

敗戦後の闇市場には、進駐軍から横流しされたハーシーとネッスルの板チョコが出回っていました。その一方でさつま芋から作ったグルコースや薬用カカオバター(座薬などに使う)の副産物のココアで作ったまがい物の“グルチョコ”と呼ばれた品物が出回っていました。山沖が扱っていたのは多分、この“グルチョコ”なのでしょう。


内田魯庵
2009年10月15日

24. 「左の手を突いてチョコレートを啜(の)んでゐた加壽(寿)衛は軽く頭を上げて、
     「妾(わた)くし、一生獨(独)身と定めてますの。」」

------- 『「破調」 / 社会百面相』 内田魯庵
 

内田魯庵(ろあん)は明治20年代から大正末まで評論、翻訳、小説、随筆の分野で活躍した文人です。翻訳家としては明治25~26年にドストエフスキーの『罪と罰』2巻を内田老鶴圃から刊行していますし、トルストイやアンデルセン、ディケンズ、ポー、デュマ、ゾラなどの作品を翻訳紹介しています。

魯庵は慶応4年生まれの江戸っ子で、父親は東照宮の警固を勤める御家人でした。この父親は幕府瓦解後、維新政府の下級官吏に転身しますが、地方勤務のため息子魯庵、本名貢(みつぎ)は親戚にあずけられ、築地にあった立教大学でフルベッキらに英語を学びます。大学予備門や東京専門学校にも入りますがいずれも中退、彼の卓越した英語力は結局、図書館を利用して独学で得たものでした。

「破調」を収録した『社会百面相』は現在、上下2巻の岩波文庫で読むことができますが収録されている上下巻30編、下巻7編、計37編は明治33~34年間に24編は週刊誌「太平洋」に、その他は雑誌「太陽」などで発表されました。

これらの作品は当時盛んに書かれはじめていた「社会小説」と呼ばれていたジャンルに属するものですが「労働問題」「官吏」「教育家」「新高等官」「閨閥」などという題名を見れば、書かれた意図を察することができるでしょう。

「破調」はヒロインの友成加寿衛と2人の青年紳士のラブ・ストリーです。加寿衛はヰオリン(ヴァイオリン)の名手で現代的な美人。自転車を乗り回すほどのお転婆でもあるという設定。

この物語が発表された同じ年の明治33年、新聞で“自転車美人”と話題になった女性がいました。後年“世界のプリマドンナ”と呼ばれた三浦環の17歳の時のお話で、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)へ自転車で通学していたのです。この頃、自転車は輸入でしか入手できない高級品でアメリカ産が200円から250円していました。なにしろ東京神田で学生の食事つき下宿代(4畳半)が月額9円50銭から6円50銭という時代ですから超高額です。

さてその加寿衛にことのほか関心を寄せるのが“新ローマンチシズム”の作家春村とその友人木島。

しかし加寿衛を巡るロマンスは発展しません。彼女はパトロンの花咲侯爵夫人に縁談をすすめられた数日後に姿を消してしまいます。そして春村も。

冒頭の一節は花咲邸で接待を受けている場面。板チョコではなくドリンキング・チョコレートを喫しているところで、この頃上流社会では流行っていたとみえます。

ところでドリンキング・チョコレートについてはブリヤサヴァランの『味覚の生理学』に、「うまいショコラを飲みたいなら、一夜前に陶器のコーヒーポットで作らせてねかせておきなさい。するとビロードの舌ざわりが生まれる」と書いてあるそうですよ。


ジョアン・ハリス
2009年09月30日

23. 「わたしが売っているのは、夢、小さな慰め、
               ・・・甘くたわいもない誘惑」

------- 「ショコラ」 ジョアン・ハリス
 

ランスクネ・スー・タンヌ、トゥールーズとボルドーを結ぶ高速道路からほど近い、住民がせいぜい200人ほどの村に2月11日の“告解の火曜日”にヴィアンヌ・ロシェを自称する女性が6歳になる娘アヌークをつれて入ってきます。

母娘はその日から、4年前までブレロー老人がパン屋を営んでいた、荒れ果てた2階建を借りて住みはじめます。

翌朝母娘のもとへやってきた最初の訪問者は地区の主任司祭レノー神父。それももっともで、朝露に光る石畳の道の向こう側が教会なのです。ヴィアンヌはその朝から店の改装を始め、セントヴァレンタイン・デーの14日には壁を真っ白に塗りかえて赤や金色で飾りたてた新しい店を開くのです。

 ラ・セレスト・プラリーヌ
 手づくりチョコレートの店

これがヴィアンヌの開いた店です。
ショー・ウィンドーには飾りたてた金や銀の紙箱、包み、三角袋がところせましと並びガラス皿にはチョコレート、プラリーヌ、トリュフ、果物の砂糖煮、などなど。そしてそれらの中央にお菓子の家。壁はチョコレートがけのパン・デピス(ライ麦、蜂蜜などで作るアニス入りケーキ)、屋根瓦はフィレンツェ風クッキー(ナッツ、ドライフルーツ入りの生地を焼きチョコレートをかけたもの)。チョコレートの樹木にマジパンの小鳥、マシュマロの箒にチョコレートの魔女・・・・。

17日の月曜日にお客は15人、火曜日には34人、ほろ苦い風味のいいホット・チョコレートとさまざまなお菓子の魅力に誘われて客がふえ、ヴィアンヌの店に村人たちが集まりはじめます。しかし母娘の店を歓迎しない人びともいます。その筆頭はレノー神父。祈りにもやってこず、日曜日にさえ店を開ける異端者だ!と。それに建材屋のクレルモン夫妻。カフェの主人ミュスカ。

置き忘れられたような小さな村は、新たな住人が始めたチョコレートの店にそれまでかたくなに守ってきた暮らしをゆすぶられ、村人はとまどいながら心をひらいてゆくのですが、ある日、村を流れる川にジプシーの一群が舟を停めて暮らしはじめ村をさらに混乱におとしいれるのです。

この小説は筋書・登場人物を少々変えて映画化され大ヒットしました。2001年のアカデミー賞に作品賞をはじめ5部門にノミネートされたということです。

文庫本の解説によるとハリスの小説は“オーガニック・フィクション”と呼ばれ、多くの固定読者をつかんでいるといいます。


ジョルジェ・アマード
2009年09月09日

21. 「8日後には、乾燥台の上のココアは黒くなり
               チョコレートの香りを放った」

------- 「カカオ」 ジョルジェ・アマード
 

『カカオ』の物語の舞台は南米ブラジルのバイーア州です。国都ブラジリアは州境の東端に位置し、旧都リオデジャネイロは南に下った大西洋岸。ブラジリアは1957-60年に建設遷都が行われた高原の人工都市です。

ブラジルの主要産物はごぞんじのコーヒー豆ですが、カカオの産出国としても世界有数でした。カカオは赤道を中心に北緯・南緯いずれも20°以内の高温多湿地帯ならどこでも栽培できます。

この物語が書かれたのは1933年、バルガスという政治家がクーデタを起こして独裁的な大統領に就いてから3年後、ということになります。
この物語を読んでいくとカカオの樹の栽培からカカオの実の収穫、ココアを発酵させる貯蔵庫での仕事、ココア乾燥台での作業など当時のココア生産過程を教えられます。

物語の主人公はジョゼー・コルディロという青年。かつては紡績工場主を父にもつお坊ちゃんでしたが、父の死後、工場を伯父に乗っ取られて農業労働者に落ちぶれた身。故郷のセルジッペ州を捨て、バイーア州イリェウスのカカオ農園、“友愛農場”で働いています。

さてある日、主人公の友人コロディーノの身に思いがけない悲劇が起きます。許嫁(いいなずけ)のマグノーリアが農園主のドラ息子に誘惑され、彼を裏切ったのです。

コロディーノは現場を押さえ、農園主の息子オゾーリオに重傷を負わせます。事態を知って激怒した農園主はコロディーノを殺せと輩下に命じますが、コロディーノは労働者仲間の援助で農園から脱出、リオへ逃亡します。そして逃亡したコロディーノから主人公のもとへ、社会改革運動へ参加するようにと誘う手紙がしきりにとどくのです。

作者ジョルジェ・アマードは1912年、彼の“カカオ作品”の舞台となっているバイーア南部のイリェウスで生まれました。『カカオ』は彼が21歳の時の作品で、処女作『カーニバルの国』(1931)につぐ第2作です。

カカオ農園が舞台となっている作品には他に『果てなき大地』、『イリェウスの聖ジョルジュ』、『大いなる待ち伏せ』などがあり世界的にも高い評価を受けています。実際に彼の作品は40か国語以上の言語で翻訳されており、ノーベル賞文学部門の候補に挙げられたこともありました。

南米やアフリカの文学が多くの国語に移されて読まれ、世界の文学に強い影響を与えてきましたが、アマードの作品はその最たるものといえるでしょう。

2001年、89歳で死去。



木下杢太郎
2009年08月26日

21. 「玻璃(がらす)を通し、南洋の
    土のかをりの楂古聿(ちょこれえと)」

            ------- 「楂古聿」 木下杢太郎
 

第3回にチョコレートを詠み込んだ俳句を紹介したことがありました(バレンタインデーの奇襲の白楂
古聿<しろしょこら>---鈴木栄子)。その後、「楂古聿」と表記してなぜ「チョコレート」と読ませるのか、中国音による表記なのだろうかとわからぬまま疑問を呈しておきました。

冒頭に掲げたのは木下杢太郎(もくたろう)の詩の一部です。全体で11行の詩は3段のパートに分かれていて1段目が3行、2段目と3段目がそれぞれ4行、問題の「楂古聿」は2段目の第3行目に当たります。

この詩には作者の前書がついていて、「これがわが初めて作る所の詩なり」と説明されています。発表されたのは明治40年8月、雑誌「明星」に掲載されました。詩人は当時、東京帝国大学医学部の学生で22歳でした。

前書には「もはら外光を画けりといはれたる印象派画家の風にならひ」と詩作の意図も説明されています。

印象主義はごぞんじのように19世紀末、フランスの画家たちが主導した芸術運動で、自然やさまざまな事象から受ける印象を感じたままに表現することに努めました。モネやマネ、シスレー、ルノアール、ピサロ、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホといった画家たち、彫刻のロダン、そして音楽家のドビュッシーらです。

「楂古聿」は大正8年にアララギ発行所から刊行された詩集『食後の唄』に収められました。『食後の唄』には北原白秋が「序」をよせていて、「彼は種々の舶来品---それは珍奇なる多種多様のエチケッテ、南蛮の異聞、ギヤマン、香料、異酒、奇鳥、更紗の類---を吾徒の間に齎らした」と述べています。

杢太郎は明治41年(1908)、白秋、吉井勇らと共に与謝野鉄幹、晶子夫妻の新詩社を離れ「パンの会」につどいます。“パン”はギリシャ神話の牧羊神。森林や田野の守護神です。

パンの会につどった詩人たちは音楽家や美術家たちとも結びあって、耽美的で唯美的な新しい芸術世界を模索するのです。

明治41年12月にはじまった「パンの会」は44年2月に活動を止めます。

杢太郎自身は44年12月に東京帝国大学医科大学を卒業、翌年、森鴎外の意見に従って皮膚科の土肥教室に入り、大正5年9月、南満医学堂教授兼奉天(現瀋陽)病院皮膚科部長として満州に渡ります。「楂古聿」を含む詩集『食後の唄』がアララギ発行所から刊行されたのは先述のように大正8年でした。

杢太郎の生地・静岡県伊東市には記念館があり、杢太郎の描いた「百花譜」の複製はがきを買うことができます。杢太郎は中学生のころ、画家を志したほどの腕前で第一高等学校第3部(医科)に入学してからも専門家について水彩画を学んでいます(ちなみに一高での英語教師は夏目漱石でした)。

記念館の奥には天保6年(1835)に建てられた生家が、当時のままに保存されています。


夏目漱石 2
2009年08月05日

20. 「御茶を上げますと云うから、別室に行って狭い処で紅茶を飲み、珈琲色のカステラと、
     チョコレートを一つ食ふ。サンドヰッチは食はず。(明治44年6月3日)
  「夜、買って来た鑵詰、鶏、ハム、パン、チョコレート。(大正4年3月21日)」
 
                              -------  夏目漱石
                                 (漱石その2)


ここに引用した明治44年6月3日と大正4年3月21日の記事は、岩波書店が96年に刊行した『漱石全集』第20巻(全28巻別館1)からのものです。同書の309ページと466ページに当たります。

漱石が残したぼう大な量の日記、断片はこの全集の第19、第20巻を占めており、漱石文学の研究者・愛読者にとっては作品の生まれた背景を知ることのできる貴重な資料になっています。

さて、記事にあるカステラは天正年間(1573-1582)にポルトガル人によって伝わったといわれ、新しい物好きの信長も口にしているかもしれません。ちなみにカステラは“(スペインの)カスティリャ地方のパン”という意味です。

森永製菓の創業者太一郎がわが邦初の洋菓子製造に着手したのは明治32(1899)年、板チョコの製造販売を始めたのが42年3月のことで、4分の1ポンド(1ポンド=453g)型のものでした。

明治44年6月3日午後、雅楽稽古所の演習に出席した漱石が終わってのち別室で接待を受け、口に入れたチョコレートがどんなチョコレートだったのかは、この日記の記述からはわかりません。しかし、「チョコレートを1つ」という表現からは板チョコではなく、銀紙で包んだ粒状のものが想像されます。

いずれにしろこの時の経験が「漱石その1」で紹介した小説『行人』でそのまま生かされていることがわかります。

漱石は翌43年8月、6月以来病んでいた胃潰瘍の療養のため滞在していた伊豆修善寺温泉の菊屋で24日夜中に大吐血し、一時危篤状態に陥ります。よく知られている“修善寺大患”です。どうにか危機を脱したのは10月のことでした。

これ以後も漱石は毎年胃潰瘍のために床についながらも、小説を書きエッセイや評論を発表しつづけます。

大正4(1915)年3月、漱石は京都旅行に出かけます。19日8時に東京駅を発ち、京都へは7時30分に着いています。引用した記事は21日のもので、「細君曰く大抵のものは食べます」と鏡子夫人についても触れられていますが、東京からずっと同行していたのか、途中で加わったのか、日記の記事からではわかりません。

この旅の間にも漱石の胃は病みつづけており、23日には「腹工合あしく旦天気あし」という記事が表われ、26日にはついに「終日無言、平臥、不飲不食」の状態に陥ります。帰京したのは4月に入ってからでした。


参考: 『日本食生活史年表』 西東秋男 / 楽游書房 / 昭和58年
     『明治・大正家庭史年表』 下川耿史 + 家庭総合研究会編 / 河出書房新社 / 2000年


夏目漱石
2009年07月22日

19. 「別室には珈琲(コーヒー)とチョコレートとサンドヰッチがあった。<中略>
    自分はチョコレートの銀紙を剝しながら、敷居の上に立って、遠くから其様子を
                        偸(ぬす)むやうに眺めていた。」

                     -------  『行人(塵労)』 夏目漱石
                                (漱石その1)


『行人』(こうじん)は大正元年12月6日から「朝日新聞」で連載が始められました。しかし翌年3月、持病だった胃潰瘍が再々発して中断、9月に連載が再開され11月に完結されました。

物語は二郎という青年の口から語られることによって進展していきますが、小説全体は「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」(俗世間のわずらわしい係りあい、の意味)の4部構成になってい、引用したのは「塵労」の1場面です。

二郎のもとへ5月の末、友人の三沢から招待状が送られてきます。富士見町の雅楽稽古所の案内状にそえて是非来るようにとうい三沢の手紙が入っていました。

『漱石全集』(岩波書店、‘94年刊)第8巻の注解には、宮中の舞楽が明治11年11月から麹町富士見町の雅楽稽古所で一般にも随時公開されるようになり、漱石自身、松山中学校時代の教え子で宮内省職員だった松根東洋城(とうようじょう。俳人として多大な功績がある)の口利きで明治44年6月に実際に招待されているそうです。

さえ、三沢は二郎の外にも近い将来、自分が結婚することになっている女性とその兄、そしてもう1人の若い女性を招いていました。それはかねてから三沢が言い言いしていた結婚相手として二郎に紹介するつもりの女性だと思われました。

兄妹と連れの女性の3人は二郎たちの2、3間前に席を占め、二郎には黒い髪と白い襟足がうかがえるばかりで正面からの顔立ちを見定めることは出来ません。

二郎と三沢は手足の動きの単調な雅楽の舞いを何の感興も起こせぬままただ眼に映しているだけですが、演目の変わるごとに変化する紗(しゃ)の大きな袖の下に透ける5色の紋や袖口を括(くく)った朱色の着物、唐綿の膝まで垂らした袖無し様の衣裳などには、まるで夢を見ているような気持ちを味わいます。

舞楽が一段落つくとお茶の時間になり、二郎たちとも別室に移ります。別室には冒頭に引用したように茶菓が用意されていました。二郎はそこで遠くにいる兄妹の連れの女性の様子をうかがうのです。

漱石が京都帝国大学からの招聘や東京帝国大学の英文学教授の席を断って朝日新聞社に入社したのは明治40年4月でした。

胃潰瘍の大出血のために亡くなったのは大正5(1916)年でしたから、小説に専念できたのはわずか10年に過ぎません。しかし漱石によって、日本の文学に初めて“近代的な自我”の追求が始まったといえるでしょう。

ちなみに「行人」を漢和辞典で引いてみると、①道を行く人、旅人 ②使者 ③賓客の接待をつかさどる者、と解説されています。漱石がどの意味で「行人」を題名に採用したのか、まだ定説はないということです。


ロアルド・ダール
2009年07月09日

18. 「開店大祭り、どの子にもみんな大サービス、キャンディ・チョコレート・プレゼント」

-------  「魔女がいっぱい」 ロアルド・ダール


「処方第86番<時限ネズミニナール>」を発明した大魔女率いる200人の魔女軍団と、魔女たちにつかまって<時限ネズミニナール>を500滴分も飲まされて、ネズミに変えられてしまった少年とその祖母がくり広げる大活劇、それがダールの「魔女がいっぱい」の物語です。

魔女はいつごろからこの世に現れたのか、といえば人間の歴史とともに古い話です。ヨーロッパやアフリカの人々にとって魔女は大昔の祖先以来、身近に存在するものだった。古代アッシリア人やバビロニア人、ゴール人、ケルト人たちにもなじみの存在だったのです。青銅時代(石器時代と鉄器時代の間、青銅器利用はBC3000年ごろメソポタミアで始まったとされる)のデンマークの“魔女の墓”からはさまざまな呪術用具を収めた壺が発見されているといいます。

この時代の人々に魔女がどれほど身近な存在だったかということは、古代ローマの皇帝コンスタンチヌス1世が「病気や自然災害から人間を守る呪術を禁じるつもりはない」と宣言していることからもわかります。

つまり、魔女たちは人間に害を及ぼす呪術だけではなく、人間の為になる呪術を使ってもいると信じられていた、ということです。

魔女、もしくは魔女と見なされた女性たちを大災厄が襲ったのは16世紀を中心とする約1世紀間で、スイスのジュネーブで1513年に3か月間で500人もの“魔女”が焼き殺されたと記録する旅行記もあるそうです。

さて、ロアルド・ダールの『魔女がいっぱい』の魔女は正真正銘の魔女たちで、子供が大嫌いという連中です。200人もの魔女軍団と戦う破目に陥った7歳の少年は、ノルウェー人の両親の間にイギリスで生まれ、クリスマスを過ごすためにお母さんのお母さんを訪ねる旅の途中、自動車事故で両親を失った少年です。

対魔女戦で少年の最大の味方になるのがこのお母さんのお母さん、つまりおばあちゃんで、なかなかの知恵者。この強力な味方と力を合わせて戦うのです。<ネズミニナール>を1滴たらしたチョコバーを他の子供たちに食べさせないために。他の少年少女をネズミに変えさせないために。

ロアルドダールはイギリスの作家で、「キス・キス」など奇妙な味わいの短編小説を書き始めたのは結婚後のことで、『チョコレート工場の秘密』は傑作として世界中の子供たちに読まれています。『魔女がいっぱい』は1983年に発表され、その年のイギリスの児童図書賞を受賞しています。


《参考》 『魔女狩り』 森島恒雄/岩波新書
     『魔女の素顔』 志賀勝/はまの出版
   


ビートたけし
2009年06月24日


17. 「ただのチョコレートじゃないぞ。食べれば必ず運動会に勝つっていう有難いチョコレートだ」

-------  「ドテラのチャンピオン」 ビートたけし


映画監督として国際映画祭で最高の栄誉に輝き、高い評価を受けている北野武=ビートたけしは、いくつものベストセラーをもつ物書きでもあります。とりわけ彼の書く小説には、上質の人情噺のような味があります。「ドテラのチャンピオン」は『少年』というタイトルでまとめられた3本の短編小説のうちの1本です。

お互いに30歳をすぎ家庭をもったマモルと兄真一の兄弟が2年ぶりに四谷の小料理屋でお酒を飲みます。40歳を過ぎた真一は髪が薄くなっていて、広くなった額に生来の穏やかな性格の雰囲気をただよわせています。その真一が「マモル、コレやってるかい?」のゴルフクラブを握る身ぶりをしてみせます。真一は子供のころからスポーツ大嫌い、オール5の通信簿で唯一体育だけが2、それも先生のお情けで本当は(1)を2とつけてもらっているのです。

この真一のイメージはビートたけしの実兄、北野大教授の面影と重なります。マモルは兄とゴルフ談義をしながら30年近く前の小学生の頃のことを思い出します。

思い出していたのは運動会のときのことで、マモルにとって「運動会は年に1度の自分の本領発揮の舞台だった」のです。

運動会前日、マモルと同じクラス対抗のリレーの選手のユタカ、仲のいいケンジやトオルたちと下校中、ケンジの誘いに乗って4人は“オクメババア”の店に寄ります。「駄菓子、あてもの、メンコ、ベーゴマなどが三畳ほどの店にちょこまか並べられている」というそんな店です。昭和の30年代が終わるころまで、東京の下町には(東京ばかりでなく日本全国のどこの町にも)子供の集まる狭っ苦しいこんな駄菓子屋があったと思います。そんな店が消えていったのは昭和39年の東京オリンピックとその後の都市の再開発の影響です。

マモルたちが店の壁に貼ってある長嶋や川上の写真を見てワイワイ言ってると、オクメバアサンが声をかけます。

「あんたたち、明日は運動会だろ、これ、買え」

「な、何だよ。それ」

「チョコレートだ。だけど、ただのチョコレートじゃないぞ。食べれば必ず運動会に勝つっていう有難いチョコレートだ」

「ウソだぁ」といいながら結局マモルたち4人はオクメババアのさし出すそれを買います。茶色の紙と銀紙に包まれた明治の板チョコと違って、それはマモルたちには読めない漢字の書かれた赤い紙に包まれていました。

1コ20円。

その夜、母親が用意してくれた新品の白パンツに白い半袖シャツ、はだし足袋、赤白のハチマキ、それにオクメババアのチョコレートを枕元にそろえて寝たマモルは翌朝、浮かない顔でぐずぐずしている兄の膝横にも、あのオクメババアのチョコレートが置かれているのを見つけます。

さて、運動会。チョコレートのおかげか、マモルとユタカは首尾よく1位、ノートと賞状をもらいます。1年から5年まで、ずーっとビリだった真一兄ちゃんはどうだったか・・・?


《参考》 『少年』 ビートたけし/新潮文庫(原本は昭和62年、太田出版より刊行された)
   


向田邦子
2009年06月10日

16. 「子供の頃、一番豪華なお八つは、動物チョコレートだった。」

-------  「お取替え」 向田邦子


「寺内貫太郎一家」「七人の孫」「阿修羅のごとく」など高い視聴率を誇る人気テレビドラマの脚本家であった向田邦子は優れたエッセイストでもあり、短編小説の名手でもありました。

週刊文春に連載されたエッセイ「無名仮名人名簿」は、毎週、楽しみに待つという読者の多かった名エッセイでした。

掲出したのはそのうちの1編「お取替え」の中のもので、近所の洋装店で出会った“お取替え事件”の後につづきます。

洋装店での話は月曜日のことで、買物籠片手の中年主婦が土曜日に買って行ったワンピースを別のドレスと強引に取替えて行く。店の主人は「計画的犯行だもんね。たち、悪いよ」と嘆きます。事情がのみ込めずにいると主人が謎ときをしてみせます。つまり、「土曜の夕方、翌日曜に着てゆく外出用のドレスを買う。1回だけ着て月曜日にはそれをちょいちょい着と取替える」のだと。「4月はクラス会だ、子供のピアノだって出る用が多いんだよ」と。

自身では“取替え作戦”を実行したことのない向田は考えます。いったん自分のものにしたものを取替えることに罪悪感を感じるのは、子供の頃の家の教育に原因しているらしいと思い到ります。

来客からいただき物の豪華な動物チョコレートは大きな箱に入っていて、これをいただくと父親は子供たちの前に箱を置き、長男の弟、長女の邦子と順番にひとつずつ取らせます。一番大きなゾウにするか、それとも犬、ウサギにするか、子供たちは迷います。欲張って一番大きなゾウに手を出すと、これが中ががらんどうでがっかりしなくてはならない。こんなとき、子供がどんなに泣いても父親は取替えを認めてくれません。「お前はいま、摑んだじゃないか。文句を言うんなら自分の手に言え」

向田邦子は1980年、初の短編小説「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で第83回直木賞を受賞します。受賞発表の記者会見で、選考委員の山口瞳が「何十年も書いている私なんかよりよっぽど上手いんだからイヤになっちゃう」とボヤき、さらなる話題になりました。

小説家として活躍していくはずだった向田邦子は81年8月22日、台湾の台北発高尾行き遼東航空103便の墜落事故で亡くなります。83年4月に創刊された“フォト・マガジン”「シャッター」には凄惨な彼女の遺体写真が掲載され、論議を呼びました。現在なら“死者のプライバシーと尊厳”を尊重すべきだ、と指弾されるはずです。


《参考》 『無名仮名人名簿』 向田邦子/文春文庫
    『向田邦子・家族のいる風景』 平原日出夫編著/実践女子大学+同短期大学
公開市民講座/清流出版


手塚眞
2009年05月28日

15. 『「そのチョコじゃなくて別の種類」なんてわがままを・・・』

-------  「天才の息子」 手塚眞


手塚治虫が胃ガンをわずらって亡くなったのは1989(平成元)年の2月、もう19年も前のことになります。享年は60歳でしたから、ずいぶんと早死だったなァ、と思わずにいられません。

「鉄腕アトム」が国産で初めてのテレビアニメとしてフジテレビで放送が始まったのが1963(昭和38)年だということですから、もう45年も前のことです。当時のテレビは白黒映像でしたが、あの軽快なメロディーの主題歌が始まると、みんなワクワクしながら画面に見入ったものでした。

手塚治虫のまんが家デビューは1946年、17歳のとき。「少国民新聞」(のちの「毎日小学生新聞」大阪版)に連載した4コマまんがの「マァチャンの日記帳」でした。翌47年には酒井七馬原作の長編「新宝島」を刊行し、40万部というベストセラーになります。以後48年に「ロスト・ワールド」を刊行、50年「ジャングル大帝」を「漫画少年」に、51年「少年」に「アトム大使」を、53年には「リボンの騎士」を「少女クラブ」にと初期の主要な作品をそれぞれ少年少女向き月刊誌に連載をし始めます。

雑誌の連載の他にも毎年、数多くの作品を発表し、超多忙な毎日を送っていました。

講談社に入社して1年余を経た1954(昭和29)年秋、当時“飛ぶ鳥も落とす勢い”の人気まんが「リボンの騎士」が連載されていた月刊誌「少女クラブ」に配属になり、手塚担当を務めた編集者丸山昭がその回想記(『まんがのカンヅメ ---- 手塚治虫とトキワ荘の仲間たち』ほるぶ出版/‘93年刊)で、手塚の当時の多忙ぶりを伝えています。

その頃10本以上の連載をかかえていた手塚の仕事部屋には各社各紙の担当者が、自社の雑誌の原稿を手に入れるために集まってくる。それら“手塚番”の編集者が毎月開くのが“順番会議”、つまり、いたずらに原稿の争奪戦を繰り広げる代わりに、話し合いで日程を調節して(手塚自身の都合には関係なく)原稿を受け取る順番を決める会議だった、と。

調整した順番通りに原稿が出来上がれば何の問題も起きません。が、順序良く仕上がることはほとんどありません。自社の原稿が間に合いそうにない、となると担当編集者はどうするか。他社の編集者に気づかれぬよう手塚をホテルや旅館に“缶ヅメ”にして自社の原稿を完成してもらう。他社の編集者はその“缶ヅメ”先を必死で探索することになります。手塚自身の争奪戦の開始となるわけです。

丸山の回想記には、他社の編集者と手塚が東京都内の仕事場から京都の旅館をへて、九州は福岡にまで脱走したという事件が語られています。

この脱走事件から10年ほどのちの事になるのでしょうか。手塚の長男・眞が編集者に庭の池に突き落とされるという事件が起きました。

眞の著書『天才の息子---ベレー帽をとった手塚治虫』(ソニー・マガジンズ/‘03年)によると、仕事中にも菓子をほおばるほど甘い物好き、特にチョコレートが大好物だった手塚は、夜遅くなって編集者にチョコレートを買って来いと言う。コンビニなんていうもののない時代ですから、編集者のほうは必死になって街中を探し歩く。やっと見つけて持って帰ってくると、手塚は非情にも冒頭に掲げた科白を口にします。編集者はふたたび夜の街に飛び出さなくてはなりません。
やがて編集者たちも自衛策を編み出します。

彼らはあらゆる種類のチョコレートを靴に詰めて持参するようになったのです。それを目にした4才か5才だった眞は編集者に向かって言います。「お前、バカじゃないの」

その結果が“池の中”だったというわけです。


秋野光子
2009年05月14日

14. 「思い切って チョコレートぐらい何とかして
            渡せるやろ 渡しいな な!!」

                   -------  「バレンタインデー」 秋野光子


市立図書館の詩集をあつめた棚で『現代日本生活語詩集』という1冊を見つけました。ぱらぱらめくってみて、いわゆる“方言”で書かれた詩をあつめた詩集だとわかりました。

“方言”ということばではなく“生活語”ということばが使われているのは、「日本各地の方言は、たんなる共通語と対抗するものでなく、その土地の生活に根ざしたことば、すなわち生活語として用いられていることを認めなおしたほうがよい」という観点によるものと編集委員の1人である有馬敲(たかし)氏が「あとがき」で述べています。

冒頭に掲げた2行は大阪府箕面市在住の詩人秋野光子さんの「バレンタインデー」と題した詩。2人の女性の会話が詩になっています。好きな男性のいる1人がバレンタインデーに気持ちをどう伝えたらいいのか、悩んでいます。もし「いらん云いはったら どうすんのん」と。

すると、これに答えてもう1人が励まします。そこまで面倒 見きれん、自分で考えなさい。「あんたが本当にあの男性(ひと)好きやったら 思い切って チョコレートぐらい何とかして 渡せるやろ 渡しいな な!!」

それでも躊躇している前の女性に、多分、同じ会社に勤める同僚と思われるほうの女性が助言します。チョコレートのほかに、「自分の思いを伝える手紙ぐらいは入れておきなさいよ」と。

2人の女性の交わす会話を、そのまま書き取ったようなこの詩は、お気づきのようにいわゆる大阪弁で表現されています。大阪という土地で日常的に使われている生活語で書かれているわけです。共通語で同じような場面を詩にしようとしても、書けないのではないでしょうか。この詩は大阪弁という生活語のもつリズムや呼吸があってこそ詩として成立しているように思えます。

『現代日本生活語詩集』には、Ⅰ北海道・東北・関東/Ⅱ中部・関西/Ⅲ中国・四国/Ⅳ九州・沖縄の4地域、計47人の詩人の詩が収録されています。

日頃、接することのない地方語で書かれているこの詩集を読んでいると、多様さのもつ豊かさとともに、お互いの意思疎通をはかるために果たす言語ということも考えざるをえません。

この詩集には『続編』も出版されています。


《参考》 『現代日本生活語詩集』
     「現代日本生活詩集」編集委員会/発行所:澪標みおつくし/2006年刊 
      


稲垣足穂
2009年04月16日

13. 「・・・地獄の底までぶち抜くいきおいに鉄槌はチョコレットの上に・・・」

                           -------  「チョコレット」 稲垣足穂


おおかたの読者からは読まずに敬遠されながら、少数の熱烈な愛読者を持っていた作家、稲垣足穂はそういう作家の1人でした。

「A感覚とV感覚」に始まる『少年愛の美学』や『一千一秒物語』、『天体嗜好症』、『弥勒』といった作品群は書店で一般的な読者からは手に取ってみてもすぐ元の棚に返されてしまうという扱いを受けていたようです。

足穂の最初の作品は大正11年3月号に発表された「チョコレート」です。当時の文壇の大ボスだった佐藤春夫の推薦で雑誌「婦人公論」に掲載されました。タイトルの「チョコレート」は昭和23年、『ヰタ・マキニカリス』の一編として収載されることになったとき、「チョコレット」と改められました。自身の註解によれば(『稲垣足穂全集2』筑摩書房/2000年)、ある知り合いの夫人の忠告を受け入れた改題だったようです。

「チョコレット」はある朝、ポンピイ少年が街を歩いていて赤い三角帽子をかむった五つ六つぐらいの子供の大きさの人物に会ったところから始まります。その人物は黄いろと真紅色と半々になったズボンをはき、ガラス製と思われる靴をはき、背中に薄い緑色の羽根が生えています。

ポンピイはその男を妖精のロビン・グッドフェロウだと判断するのですが、男はそれに首を横に振るばかりか、ポンピイが次々に挙げるフェアリー一族の名をことごとく否定するのです。そして最後に、「わたしはほうきぼしさね」と答えます。町の人に敬われなくなったフェアリーの丘の住人が、衆議一決、夏の真っ暗な晩に好き勝手な形や光の色のほうきぼしになって空に舞い昇ったのだ、と。

ポンピイはロビンの話がほんとうか確かめるために、ポケットに持っていた錫紙に包んだチョコレットの中に入ってくれと頼みます。するとロビンは見る見る小さくなってチョコレットの中に飛び込んでしまったのです。するとするとチョコレットは、かちかちに固まってしまったのです。

ポンピイはロビンのチョコレットの話を人々に信じてもらうために、鍛冶屋に頼んでチョコレット玉を壊してもらおうとします。ポンピイの願いはかなえられたのでしょうか?それはこの物語を実際に読んで確かめてみてください。

足穂は昭和25年、書肆ユリイカの社長伊達得夫の仲介で交際を始めた篠原志代と結婚します。志代は当時京都の伏見児童相談所に勤務していましたが、「50人の不良少女の面倒を見るよりも稲垣足穂の世話をしたほうが日本のためになると言われたと『夫 稲垣足穂』(芸術生活社/昭47)に書いています。

志代夫人は昭和50年に亡くなり、落胆した足穂は2年後の52年に病没します。

稲垣足穂という流星は志代夫人に保護されていた28年の間、巨大な閃光を放ちつづけたのでした。


《参考》 『現代日本人詩人全集』 第5巻/創元社 
      『日本の詩9 堀口大学・西条八十集』 /創美社


西条八十
2009年04月01日

12. ガッタンコッコ ガッタンコ
   お菓子の汽車が急ぎます
   長い煙突 あるへい糖
   つながる函はチョコレイト
------- 西条八十 「お菓子の汽車」


昭和8(1933)年、東京の夏は「東京音頭」に制圧されていました。この年11月号の雑誌「改造」に評論家の高田保が書いています。「何処(どこ)かの店先でこの1枚をかける。音曲は流れて街路の風に乗って吹きめぐる。

〽ハァ、東京よいとこ チョイト

と来る。するとまず第1に近くの紙芝居の前に集まってゐた子供達がヤートナソレヨイヨイとやりはじめる。通りかかった日支軒の出前持ちがワンタンメンののびるのも忘れてその中へ一枚加はり出す。孫を迎へに来たお爺さんが踊り出し、それを探しに来たお婆さんも一緒になり・・・」と。

東京音頭の熱狂はその次の年も、翌々年も続き、やがて全国で歌われ踊られるようになりました。そして平成の夏に到ってもほうぼうで歌いつがれ踊られつづけていることはご承知のとおりです。

ちなみにこの年、もう1つ大流行したのがヨーヨーで、各地で競技会が開かれ、ヨーヨーの生産は月産500万個に達したといわれています。

「東京音頭」の作詞を手がけたのは西条八十(やそ)で、当時は早稲田大学仏文科の教授でした(作曲中山晋平/歌:小唄勝太郎+三島一声)。

西条八十はそれまでにも「サーカスの唄(うた)」や「涙の渡り鳥」「侍ニッポン」などという映画の主題歌も多く作詞しており、流行歌の作詞家としても著名でした。昭和10年には日本映画史上の大ヒット作「愛染(あいせん)かつら」の主題歌も作詞しています。

しかしもちろん、流行歌の作詞は詩人としての彼の一面にしかすぎません。大正元(1912)年、「早稲田文学」に「石塔」を発表して以来、抒情詩人として、また童謡詩人として高い評価を受けていました。

大正13年には早稲田大学の留学生としてフランスへ渡り、ソルボンヌ大学で2年間学んでおり、その間に詩人ポール・ヴァレリーや多くのフランス詩人と交流しました。彼には『アルチュール・ランボオ研究』という大著がありますが影響を受けたのはステファン・マラルメピエール・ド・ロンサールだといわれます。

さて冒頭の詩は彼の童謡詩人としての業績の一端です。この一節の前の節は次のとおりです。


ガッタンコッコ ガッタンコ
お菓子の汽車が走ります
お鑵(かま)はまるい唐饅頭(とうまんじゅう)
黒いレールは飴(あめ)ん棒


あるへい糖は棒の形をした砂糖菓子です。


《参考》 『現代日本人詩人全集』 第5巻/創元社 
      『日本の詩9 堀口大学・西条八十集』 /創美社


吉田健一
2009年03月18日

11. 「第一日に銀座の喫茶店でチョコレートのソフトアイスクリームを5つ食べ・・・・・」
------- 吉田 健一 「饗宴」


この「饗宴」には現実にくりひろげられた饗宴ではなく、頭の中で可能なかぎり想像力を働かせた結果の饗宴です。どういう状況に置かれている人物なのかというと、胃潰瘍(いかいよう)とか回復期のチフス患者などで、1日に牛乳5勺(しゃく=0.018ℓ、10勺で1合)と麦湯1杯という食事制限が10日もつづいているような人物という設定なのです。(チフスはジフテリアや日本脳炎などとともに法定伝染病に指定されている
11種類の伝染病のうちの1つです。)

胃潰瘍やチフス回復期の病人がもっとも苦しめられるのは、「いても立っても、じっと寝てさえもいられなくなる」ほどの空腹感なのだそうで、それを「想像力を働かせて辛い思いをしているのを紛らわせる」のが有効だというわけです。

吉田健一がこんなことを思いついたのは、アイルランド人の南極探検家シャックルトンが何回目かの探検で、ある離れ島の岩穴で救出を待つはめに陥った。そのとき飢えのあまりに気が変になる隊員がいた一方で、なんなくやり過ごすことのできた隊員もいた。その隊員は毎晩、ものすごいご馳走の夢を見つづけることで乗り切った。つまり、想像力を働かせて辛い思いを紛らせたのだ、というのです。

絶食同然という状況を仮定して、吉田はまず日頃は入ったことのない汁粉屋から空想を開始します。

その汁粉屋には「如何にもこってりした感じの」田舎ぜんざいや、「重箱におこわを詰めて隅に煮染めが添えてある」のや、「松茸と鳥肉の雑煮」などがあり、まずぜんざいを頼み、甘ったるくなった口中を雑煮で直し、その後でおこわを食べ、「少しは何か食べたような気持になる」のです。

しかしこれくらいで満足できるわけはないし、知らない店のことばかり考えていても空想力が鈍る恐れがあるからと、次には円タクを飛ばし新橋駅前の小川軒に入ります。この店は吉田の行きつけの店で、まずオムレツ、次にオックス・テエルのソオスのチキンカツを2人前、さらにマカロニとトマト・ソオスで牛の肝を煮たものなどと想像力を働かせます。

さてこのエッセイ「饗宴」のきっかけになったと覚しい吉田の胃潰瘍を患った友人の話では、外出を許されるようになるとアイスクリイムくらいなら口に入れてもよいという許可が出るそうで、そうなったら「銀座の喫茶店でチョコレートのソフト・アイスクリームを5つ食べる」と冒頭の一節につながるわけです。

この珍奇な空想談がさらに一段と迫力を示しはじめるのは「コットレット・ダニヨオ・オオゾマアル・トリュッフェ・オオズイトル・フリト・マロン・シャンティイ」という長ったらしい料理に話が及んだあたりからでしょう。この世にグルメ、グルマンの“食の本”は多数ありますが、奇抜なという点ではまず屈指のエッセイです。


《参考》 「饗宴」 吉田健一 (文春文庫『もの食う話』所収)


徳川幹子
2009年03月05日

10. 「(チョコレートの銀紙を)食べたあと一生懸命のばして大事にとっておいたんです」
------- 徳川 幹子(もとこ)


徳川幕府最後の15代将軍慶喜には公卿一条忠香家から嫁いだ正室美賀子の他に何人もの側室がいました。しかしどういうわけでか、生まれてきた子は正室、側室を問わず夭逝してしまい、無事に成人したのは維新後移り住んだ静岡で2人の側室、中根幸(こう)、新村信(しんむらしのぶ)が生んだ子どもたちでした。この2人はそれぞれ12人ずつ計24人も生み、そのうちの12人が成人したのです。

『女聞き書き 徳川慶喜残照』(遠藤幸威/朝日文庫)には大河内富士子夫人の談話として、乳房にまで塗ったお白粉の鉛分による中毒、日光浴のできにくい座敷の建築上の問題、それに育児経験のない女ばかりでただただ「オ大切ニ、オ大切ニ」と育てたからだと乳幼児の早死の原因を説明しています。大河内夫人の母親は側室中根幸の生んだ10女・糸子です。大河内夫人の嫁ぎ先は旧高崎藩主家、姑(しゅうとめ)に当たる国子は慶喜の8女です。夫人の話によれば、静岡で生まれた慶喜の子どもたちは果樹園をもつ農家や石屋、質屋、さらには煮豆屋といった町屋や農家に里子として預けられ、5歳になるくらいまでそこで育てられた。それで成人できたのだ、とも語っています。

さて冒頭の「チョコレートの銀紙を一生懸命のばしてとっておいた」という幹子さんは慶喜の5男仲博(母は新村信。ちなみに『広辞苑』を編集した言語学者新村出は信の義弟にあたり、東京帝大生のころ慶喜の姫様の英語の家庭教師を勤めた)、鳥取池田侯爵家の養嗣子になった人の長女ですから慶喜の孫ということになります。

幹子の生家の旧鳥取藩主池田侯爵家は因幡(いなば)・伯耆(ほうき)両国を領する32万石の大名でした。

父親の仲博は職業軍人でしたがからだをこわし退官していました。そのお蔭で銀座をはじめいろいろなところに連れていってもらえた、と幹子は語っています。

銀座へ出るには麻布の家から霊南坂を下り、葵橋の停留所から市電で新橋まで行き、新橋からは徒歩です。市電の線路ぞいには溜池があり、現在は地名とし残っているだけですが幹子が子どものころはまだ埋めたて前で、文字通り大きな池だったということです。

銀座では父親のなじみの洋服店「サエグサ」洋品店の「田屋」、名前は江戸時代そのままでもとびっきりの舶来品を扱っていた「亀屋鶴五郎」などを回り次に明治屋へ。

ここで買ってもらったのが銀紙の包み紙のチョコレート。何に使うというわけではないけれど「銀紙の光沢としみついたチョコレートの香り」が捨てるにしのびなかったといいます。

多分、みなさんにも同じような記憶があるのではないでしょうか。がらや色合いがカワイラシイ、包み紙などを取っておいたことが。

ともあれ、伯爵家のお姫様の、なんともほほえましい思い出です。

《参考》 『わたしはロビンソン・クルーソー』 徳川幹子 /日本図書センター/人間の記録⑨
      『女聞き書き 徳川慶喜残照』 遠藤幸威  /朝日文庫


アルベール・カミュ
2009年02月03日

9. 僕は煙草を二本吸って、チョコレートをひと切れとりにもどって、また窓のそばにきて食べた。
                                  ------- ムルソオ

2005年6月に、心臓の難病で死亡した作家倉橋由美子が青春時代に熱愛した書物がアルベール・カミュやフランツ・カフカだったと69年に発表したエッセイで書いています。

「わたし自身にも青春ということばと結びつくような何冊かの本があって、たとえばカミュの『異邦人』やカフカの作品・・・」だと。

冒頭に掲げたのはその『異邦人』の一節です。

『異邦人』が初めて翻訳紹介されたのは昭和26(1951)年のことです(窪田啓作訳/新潮社刊)。カミュの作品は前年の25年に『ペスト』が宮崎嶺雄の訳で創元社から出版されており、サルトルやカフカの作品とともに、若い世代に大きな影響を及ぼし始めていました。『異邦人』が昭和26年6月に雑誌「新潮」に発表されると直後に東京新聞紙上で広津和郎が批判を開始します(6月12~14日同紙)。広津の批判は『異邦人』の主人公ムルソウの言動について、「心理実験室での遊戯にすぎない」というものでした。

これに対して評論家中村光夫は、ムルソウが何事につけ「何の意味もない」とつぶやくことや殺人の動機を訊ねられて「太陽のせいだ」と答える“不条理な感性”には、切実な現代的リアリティがあると反論します。これが文学史上に記憶される“異邦人論争”ですが、翻訳出版されたものから、あるいは原著に直接接触することによってヨーロッパの新しい文学の波に影響された若い世代が、作家として新しい文学世界を次々に切り開いていきます。

非常に観念的でありながら、奇妙に生なましいリアリティを持つ倉橋由美子の諸作品もまたその好例だといえるでしょう。

さて冒頭の一節---。養老院からの「ハハウエシス」の電報で勤務先から2日間の休暇をもらったムルソウは、アルジェから80kmのマランゴにバスで行き、あふれる太陽の下でなんとか葬儀をすませもどってきます。翌日は土曜日で、海水浴に出かけたムルソウは元同僚だったマリーと再会、一夜を共にします。1人で目覚めた彼は昼食のあと、寝室のバルコニーに椅子をすえ、そこにすわって暗くなるまで、場末の大通りを眺めて半日を過ごします。冒頭の一節はその間にムルソウがバルコニーをたった1度離れたときの理由です。

以後の数週間後にアラビア人に5発のピストルの弾丸を撃ち込んで殺してしまうまでのムルソウの日常が、細部にわたって煩瑣なまでに叙述されてストーリーはつづきます。

やがて法廷で死刑を宣告されるムルソウの物語は、旧い体制・秩序の中で意識できないうちに“異邦人”となってしまった、ごくありふれた平凡な若者の物語で、まさに50年代の日本の若者の物語でもあったのです。

カミュは1960年、自動車事故で死亡します。47歳でした。アルジェリアの貧困家庭に生まれ、給費生として大学を出ました。評論に『シシュフォスの神話』『反抗的人間』があります。


《参考》『わたしのなかのかれへ』 倉橋由美子/講談社
 『戦後日本文学年表---現代の文学別巻』 講談社


杉浦日向子
2009年01月08日

8. 「彼から、あたしがあげたのとおんなしチョコレートケーキ、貰っちゃったんだよね。・・・・」
------- 杉浦日向子 『4時のオヤツ』より


杉浦日向子(ひなこ)が亡くなったのは平成17(2000)年7月22日。まだ若くて、46歳でした。

杉浦日向子は漫画家として出発しました。デビュー作は「通言室乃梅」という作品で、1984年(26歳)「合葬」で日本漫画家協会賞優秀賞、88年(30歳)「風流江戸雀」で文芸春秋漫画賞を受賞しています。

東京JR両国駅前に国技館に隣接して東京都の「江戸東京博物館」がありますが、開館(93(平成5)年3月28日)を記念して雑誌「東京人」が93年の5月号で特集を組んでいます。この特集の中で「こんなにおもしろい江戸東京博物館」という館の紹介記事に歴史家小木新造と共に案内役として杉浦日向子が登場しています。『江戸へようこそ』『大江戸観光』など江戸をテーマにした著作を発表した後で、江戸風俗の研究家としても知られていましたが、根元のところは漫画家だと多くの人が理解していたでしょう。しかし彼女の略歴には、“現在漫画は休筆中”とありますから、仕事のウェイトが文筆のほうに移っていたのかもしれません。

杉浦日向子の名が広く知られるようになったのは、伊藤四郎が座長をつとめたNHKのTV番組「コメディーお江戸でござる」の江戸案内人として登場してからでしょう。

粋な和服に身を包み、ちょっと照れくさそうに微笑みを浮かべながら江戸の住人のくらし、風俗のあれこれを説明する、くるっとした瞳のしもぶくれの顔が思い出されます。

彼女の多才ぶりはエッセイばかりではなく小説でも発揮されています。

冒頭の一節は杉浦日向子33の短編小説を集めた『4時のオヤツ』の中の「デメルのザッハトルテ」からの引用。

3月半ばのある日の午前2時。TVの深夜番組をつけっぱなしにして、ベッドで足の爪を切っている姉のところにOLの妹から電話がかかってきます。クルマがつかまらないから駅まで迎えにきてくれないか、と。場所は東京郊外、中央線沿線の住宅街。連れて帰った妹が「お土産あるのよ」と差し出したのが“デメルのザッハトルテ”。「お父さんとお母さんと、3人で食べてよ」と。

なぜこうなったのか、理由を探る姉に妹が答えます。その部分を引用してみましょう。妹はバレンタインに、本命にチョコをあげていました。


「でさ、今日、ホワイトデーじゃない。お返しに、彼から、あたしがあげたのとおんなしチョコレート
ケーキ、貰っちゃったんだよね。コレ、ソレなんだ」


「思いっきしフラレちゃった」と落ち込む妹を、姉ははげまします。


 「飲も。食べよ。食ってかかるのよ。がーっと食べて太って、グラマーになんなさいな。あんた、やせすぎよ。昔、コロコロしてた頃、もっとずっと積極的で可愛かったよ」


杉浦日向子の死因は下喉頭がん。お酒の好きな人だったといいます。

 《参考》 『4時のオヤツ』 新潮文庫


淡谷のり子
2008年12月24日

7.  この当時は食べ物よりおしゃれにお金を使ってました。
   ・・・・・・そうそう、チョコレートだけは沢山買いました。
                      ------- 淡谷 のり子

“形態模写”の異才コロッケが得意としていた物まねに、ステージに立つ淡谷のり子の模写があります。いやいや、最近はTV番組でもお目にかかれなくなっていますから、「あった」と言うべきでしょうか。

“ブルースの女王”淡谷のり子は明治40(1907)年、青森市で生まれました。

生家は県下でも1、2を争う裕福な呉服商で、19歳の父親と17歳の母親の間に生まれた長女でした。番頭から小僧まで店で働く人たち、乳母や奥女中、中働きや下働きの女中など合わせて70人もの使用人がいたといいますから、大金持のお嬢さまだったわけです。

食事はもちろん使用人とは別メニュー。祖父母の部屋で3段重ねのお重の料理を食べていたというのですから、TVの江戸時代物のドラマで目にするお姫さまのくらしです。

その生活が火事やら父親の放蕩(ほうとう)やらで生家が没落するするとともに一転します。母親と妹の3人で上京したのがのり子が16歳の大正12年。のり子は東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に入学、昭和4年、7年かけて声楽科を首席で卒業します。女子学生の首席卒業は初めてのことだといわれます。

本人の話によると、上京したときには親娘3人が2年は楽々くらせるほどのお金をもっていたということですが、それが半年でなくなった。経済観念ゼロの母娘だったのです。

そんなわけでのり子が母娘3人のくらしを支えるために学校を休学して働き始めます。仕事は画家のモデル、それもヌード・モデルでした。

報酬は1回3時間で、美術学校が1週間で4円80銭(1回80銭x6日)、個人の画家は7円20銭だったそうで、文字通り裸一貫で月100円以上稼いでいたといいます。ちなみに東京帝国大学の昭和5年の授業料が年間で120円でした(『値段の風俗史』週刊朝日)。

学校を卒業したのり子はプロ歌手として歌い始め、たちまち売れっ子のスターになります。レコード会社のポリドールとも専属契約を結び、700円という大金を手にします。のり子はそのお金を持って銀座へ行き、高価な輸入の(当時は“舶来”という言葉が使われていました)靴や香水を買います。

そしてこの時、その他に買ったのが「沢山のチョコレート」だったというわけです。

家をつぶしてしまった父親は、仕事でよく東京へ出かけ、そのおみやげが三越のマシュマロと干しぶどう、そしてチョコレートだった。

のり子の一番好きだったチョコレートは、サクランボとお酒の入ったウィスキー・ボンボンでした。

昭和62(1987)年8月12日、淡谷のり子は静岡市民センターホールでバースデー・リサイタルを開いています。この年のり子80歳。

淡谷のり子が亡くなったのは平成11(1999)年9月22日。92年の生涯でした。歌のほうは93年末に体調をくずして以来、“休養宣言”をしていました。

太平洋戦争中、淡谷のり子も戦線の兵士慰問に駆り出されましたが、軍歌を決して歌おうとしませんでした。自伝『私のいいふりこき人生』には、彼女の“別れのブルース”を聞いていた若者が、途中でそっと立ち上がって一礼すると出て行く。若者たちは特攻隊の隊員で、彼女のブルースを今生の最後の想い出として、米艦隊に体当りするために出立したのでした。


《参考》『私のいいふりこき人生』
 『昭和の女性一日一史』 岩波書店
  『「食」の自叙伝』 文春文庫


アラン・シリトー
2008年11月28日

6. おふくろはさよならと言うと、陽の降りそそぐ、小石で舗装した道路を戻って行った。
ぼくたちはパイとチョコレートをもらい、バスに案内された。 ------- アラン・シリトー

「疎開」という言葉があります。いま、60代の後半以上の年齢の世代ならば、ご自分が体験なさった方も多いでしょう。岩波国語辞典<第四版>には「敵襲・火災などによる損害を少なくするため、集中している人や物を分散すること」と解説されています。

太平洋戦争(1941(昭和16)-45(同20)年)中の日本では44(昭和19)年8月から学童の疎開が始められ、8月22には沖縄からの疎開船対馬丸がアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、学童700人を含む1500人が死亡しています。疎開中にアメリカ空軍の都市空襲によって両親を失った学童もありました。

ヨーロッパでは1939年9月、ドイツの陸・空軍がポーランドに侵攻し第2次世界大戦が始まりますが、イギリスではその前年の秋、学童にもガス・マスクが支給されました。

1950年代の“怒れる若者たち”を代表するイギリスの作家アラン・シリトーは、ロンドンから180km北西の、ノッティンガム市で生まれ育ちましたが、39年9月、3人の弟や妹とともに疎開を経験します。28年生まれのシリトーはこの年10歳、父親は戦争のおかげで失業から救われたばかりでした。

疎開先はノッティンガムの北、27マイルほど離れた炭鉱町ワークソップで、疎開当日は「子供を運び出すために町じゅうのバスが調達された観」があったと回想しています。

きょうだい4人は4軒の家に割り当てられましたが、シリトーを引き受けてくれたのはサンドヒル街32番地のカッツ家で、主人はリヤカーに野菜や果物をのせて売り歩く行商人でした。夫妻は陸軍の少年兵になっている16歳の息子の部屋を使わせてくれました。

「昼食時間に遅れないように帰宅すること」というのが唯一のルールだったこの家で、シリトーは「新しい気持ちのいい生活に夢中になっていた」といいます。毎土曜日にはお小遣いを3ペンスもらい、アルバートというベッドを分け合う疎開仲間もできます。数週間後、弟妹たちにも再会しますが、みんな土地の人の援助や母親の送金のおかげでノッティンガムを出たときより、小ざっぱりした服装をしていたのでした。疎開バスに乗るとき、シリトーの持ち物といえば鞄と着替えのシャツ1枚、『モンテクリスト伯』の本1冊、紐の切れたガス・マスクのケース、だけの着たきり雀だったのです。

その後彼は学校にも通わせてもらい、国語の作文で4ペンスのほうびをもらったこともありました。

カッツ家でシリトーは良い経験も悪い経験も味わいますが、ここでの生活は3ヶ月で終わりました。

シリトーは15歳から働き始めますが、就職して自転車を買った彼はある日曜日、ペダルを踏んでカッツ家を訪れ、ミセス・カッツにシチューをふる舞ってもらいます。

1957年『土曜の夜と日曜の朝』によって作家として認められたシリトーは疎開した年の28年後、雑誌にこのカッツ家での生活の様子を語ったエッセイを発表し、それがきっかけで、72歳になっていたカッツ夫人と文通によって再会します。ミスター・カッツと死に別れた夫人は再婚し、ミセス・ホールと姓を変えていましたが2度目の夫にも死別して1人ぐらしの身になっていました。それでも、陸軍少年兵だった息子が無事帰還し、彼女は19歳の孫娘を持つ“おばあさん”になっていたのでした。

日本の学童疎開については、多くの人が回想記を書いています。当時の子供たちがどんな日々を過ごしたのか、あなたにも知ってほしいと思います。

参考 : 『私はどのようにして作家となったか』 アラン・シリトー/出口保夫訳/集英社


開高 健
2008年11月12日

6. 「・・・・・・比べると、マリリン・モンローとその骸骨ぐらいの違いがある。」
                                    ------- 開高 健

1965年2月14日午後0時35分、作家・開高健は南ベトナムのジャングルの中にいました。その日は午前4時に起き、5時にベーコン・エッグスと熱い紅茶、アップル・ジュースの朝食を終え、20台の大型軍用トラックに分乗した3大隊500名の南ベトナム軍兵士と共に基地を出発、6時には目的のジャングル入口のゴム林に到着しました。

作戦目的は恐ろしく強力なことで有名なベトコン第303大隊500名を殲滅すること。南ベトナムの大隊にはアメリカの“軍事顧問”と呼ばれた9名の将校・兵士が同行していました。そして日本の、朝日新聞社報道特派員開高健と同社出版写真部員、開高が“秋元キャパ”と呼んでいた秋元啓一カメラマン。

12時半、指揮官のトゥ中佐が大喜びで声を上げます。黒の農民シャツ、ライフル銃弾、ピストル銃弾、30数発の手製・アメリカ製手榴弾(しゅりゅうだん)、数キロの米が隠してあるベトコンの補給庫を発見したのです。南ベトナム軍の兵士たちはピャウピャウパウパウはしゃぎながら木枠の中味を自分たちのバッグの中に入れ、米を地面にばらまき、箱を壊しました。

5分後。周囲のジャングルの至近距離からマシン・ガン、ライフル銃、カービン銃の銃音がひびきました。

開高と秋元カメラマンが行動を共にした第一大隊の200名は、ベトコン、ベトナム民族解放線前側の至近距離からの乱射で生存者17名になっていました。開高と秋元キャパは水を一口ずつ飲みあい、シャッターを押してお互いの写真を撮り、枯葉の上に身を横たえ脱出の機会を待ちました。

太陽の光が薄れ、ジャングルが薄暗くなりかけた6時ころ、生き残った17名は必死の脱出を始めます。作家とカメラマンはバラバラに別れ、再開できたのはその日の深夜近くになってからでした。

作家はこのジャングルでの体験を含む約100日間のベトナム滞在をルポタージュとして「週刊朝日」に連載し、これは後に『ベトナム戦記』として刊行されました。また高い評価を得た小説『輝ける闇』の主調音となっているのも、ベトナムでの体験です。

さて冒頭の一節、何に「比べ」てかというと、「それまで食べてきたチョコレート」です。作家はそのチョコレート、フランス語でショコラをベルギーはブリュッセル郊外の、鬱蒼(うっそう)たる森の中のレストラン、ラ・ロレーヌで味わいました。それは“ダーム・ブランシュ”、白い貴婦人と名付けられたデザートでした。

作家は料理長になぜこんなにうまいチョコレートができるのか、その理由を訊いてみました。料理長の答えは以下の通りです。

まず豆を選ぶこと。極上のものはコンゴ(現ザイール)の植民地時代に開発したカカオ畑から採れる。その豆を温度・湿度を一定に保ったストレージルームで保存する。豆は客が来てから炒ってすり潰す。すり潰すにはドイツとスイスでしか造れない機械でなくてはダメなのだ、と。

  《出典:『小説家のメニュー』中公文庫》
  〈参考〉 『ベトナム戦記』朝日新聞社
       『米国防総省秘密報告書』朝日ジャーナル、1971年8月10日臨時増刊号
       (ニューヨーク・タイムス紙の特報の全訳)
       『ベトナム戦争報告』 D.エルスバーグ/筑摩書房/1973年


at 11:18 | Category : チョコレート人間劇場
白楂古聿
2008年10月22日


3. 「白楂古聿」・・・って、何?

世界で最も短い文学の表現形式といわれる俳句はわずか17文字、17音の短詩です。31音の短歌ならば、6音のチョコレートを1首の中に詠(よ)みこむのは比較的やさしいかもしれませんが、俳句には余裕がありません。

チョコレートを詠みこんだ句を探していると、上に掲げた文字使いの句に出会いました。
これで「しろショコラ」と読みます。

漢和辞典を引いてみますと、「楂」は「いかだ」または樹木の「ボケ」で音は「サ」です。「古」はおなじみの漢字ですから問題はないでしょう。「聿」は「ふで」のことで音は「イツ」または「イチ」。

「ショコラ」はフランス語で「チョコレート」のこと。「楂古聿」でなぜ「ショコラ」と読めるのか。中国語音でしょうか。わかりません。これは鈴木栄子という俳人の句で、1句は「バレンタインデーの奇襲の白楂古聿」と詠まれています。田村ひろじというひとの『お菓子俳句ろん』という本で見つけました。この本には、
  
   春隣子が父に買ふチョコレート
                       御子柴 弘子

という句も掲げられています。

「春隣」の句はわかりいい句です。「春隣」は俳句独特の「季語」というもので、「春がすぐ近くまできている今日このごろ」の意味です。「楂古聿」の句の眼目は「奇襲の」という言葉使いでしょう。チョコレートといえば「こげ茶色」と思い浮かびますが、この句のチョコレートは「白」。そこで「奇襲の」という言葉が生きてきます。

角川書店版の『俳句歳時記』(第4版春)には次の1句が採られています。
 
   いつ渡そバレンタインのチョコレート
                       田畑 美穂女

 若い女性の気持ちそのままの一句です。


at 09:30 | Category : チョコレート人間劇場
フランソワーズ・サガン
2008年10月08日

4. 幾合(デシ)かのぶどう酒と幾片かのホワイト・チョコレートのあいまに、
私はとつぜん思いついた・・・・フランソワーズ・サガン


1954(昭和29)年の日本の読書界では、1冊の翻訳小説が評判を呼んでいました。小説のタイトルは『悲しみよこんにちは』、作家の名はフランソワーズ・サガン、当時、18歳の少女でした。話題を集めたのは、愛する父親を奪われまいとして、父親の愛人をワナにはめて自殺に追いやってしまうという、いわば反社会的な内容もさることながら、書き手がわずか18歳にしかすぎない少女だ、ということでした。

少女の小説は本国のフランスで初版の4500部が1年後には33万部の売れゆきとなり、日本の1年遅れでアメリカでも翻訳されてベストセラーになり、前後して世界各国語に翻訳出版されて読まれました。

フランス本国で54年5月に出版されたこの小説は、それからの5年間で当時の日本円で1億円近い印税をもたらしました。54年当時、日本の公務員の初任給は8700円でしたから、現在の価値になおすと(基本給181400円/08年/人事院)約20億円ということになります。

最初の印税でジャガーのスポーツカーと豹(ヒョウ)の毛皮を買った少女はその後、スキャンダルの女王になります。

友人でもない赤の他人を含めて、大勢の取り巻きのために気前よくキャバレーで小切手をきり、パリに高価な遊び部屋を買います。そして57年、スポーツカーで大事故を起こし「サガン交通事故死」のニュースが世界中を駆けめぐりました。

しかしサガンは奇跡的に命をとりとめ、退院後に出会った20歳も年上の出版業者と結婚します。58年のことで、サガンは22歳。結婚は2年後に破局、この間にサガンの第2作となる『ある微笑』が生まれます。

離婚2年後、2度目の結婚。相手はアメリカ人の彫刻家で、焼き餅焼き。息子の誕生とともに離婚しますが、離婚後、同棲した2人の関係は7年続いたといいます。つまり、結婚にはむかない女性だったのです。

この同棲生活も破局し、サガンは精神安定剤の乱用やアルコールの中毒症に陥ります。さらにもう一つ、救いようのない病いにとりつかれます。

賭博(とばく)、かけ事です。一晩で何億もの大金をすり、フランスでは5年間、カジノから出入り禁止になりますが、外国に遠征してまでのめりこみます。賭博は「精神的な情熱」だというのが、彼女の言いぶんでした。

さて冒頭の言葉にもどりましょう。

事故の傷がまだ完全には癒えていないころ、ある雑誌の編集者の要求に応じて、未完成の戯曲の一部を送り、それが掲載されます。それはサガンが周囲にいる友人たちを楽しませるために書き始めたものだったのですが、全編を完成させろという編集者の説得を検討するために、スイスの山中の村に滞在した彼女は「とつぜん思いついた」のです。

つまり、「この戯曲を私自身にとっても象徴的なものとすること以外に、救いとする手段はない」と。

3週間で書きあげられたこの戯曲『スウェーデンの城』は舞台にかけられて大成功をおさめ、サガンの「演劇との出会い」になったのでした。

「悲しみよこんにちは」というタイトルは、エリュアールの詩の一節です。

参考 : 『私自身のための優しい回想』 朝吹三吉訳 / 新潮社
      『東は東、西は西 --- 戦後翻訳出版の変遷』 宮田昇 / 早川書房


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「お土産は?」「チョコレート」・・・堀口大学
2008年09月24日

「お土産は?」「チョコレート」・・・堀口大学


あの、作家三島由紀夫が若い頃もっとも強い影響を受けたのが堀口大学が訳したレーモン・ラディゲの『ドルヂェル伯の舞踏会』(昭和6年/白水社刊)だったといわれています。堀口大学は大正14年(1925)、フランスの66人の詩人の340の詩を「ただ訳してこれを国語に移しかへる快楽」のためというだけの理由で、自分の感性と好みとを物差しにして選び訳した『月下の一群』(第一書房刊)で、日本の近代詩に圧倒的といえる影響を残しています。

その堀口大学が46歳の昭和13年(1938)夏、野尻湖畔のホテルで1人の少女に出会います。少女はホテル経営者の遠縁の娘で当時18歳。大学はこの少女に一目惚(ぼ)れしてしまいます。

秋風の立つころ、東京へ帰らなくてはならない大学は少女の両親に、一生しあわせにするから迎えに来るまで結婚させないでほしい、と申し込みます。
 少女の両親はもちろん大反対です。両親は娘のために許婚者(いいなづけ)を決めていました。しかし少女は兄1人に見送られて先生を(大学をたずねて野尻湖にやって来る弟子や書生にならって「先生」と呼んでいたのです)追って上京します。
 少女が大学と結婚できたのは、それから1年ほどたってからでした。大学には当時、一緒にくらす女性がいたのです。
 後年、「30才近くも歳の違うひととどうして結婚する気になったの」と娘にきかれた母親になった少女は答えます。
 「金色夜叉の宮さんはダイアモンドに目がくらんだけれど、私はチョコレートに目がくらんだのよね」
 湖畔のホテルに滞在していた大学はときどき帰京することがあり、そのたびに「お土産は何がいい」と少女にたずねました。少女の答えはきまって「チョコレート」だったのです。すると先生は大きな板チョコを100枚もかかえて帰ってきたそうです。

参考: 堀口すみれ子 『虹の館---父・堀口大学の思い出』 かまくら春秋社
               『日本近代文学事典』 講談社


at 06:00 | Category : チョコレート人間劇場
チョコレート買いに地獄へ ---- 寺山修司
2008年09月10日

チョコレート買いに地獄へ ---- 寺山修司


寺山修司が亡くなったのは1983(昭和58)年5月4日のことで、肝硬変と腹膜炎に肺血病を併発したためでした。享年わずかに47。若死です。

1935年生まれの寺山と同時代を生きた者には寺山修司の名は、ことに多少とも文学の途に関心をもっていた者には恐るべき名前でした。
当時「蛍雪時代」という受験雑誌がでていましたが、その詩や短歌、俳句の投稿欄の受賞、入選作の常連が寺山で、天・地・人の3賞を独占ということすらあったくらいでしたから。

寺山が亡くなって10年経った93年12月、彼が「生前に構想した」という角書き(つのがき)付きの同人誌が深夜叢書社から出版されました。「雷帝 Raitei」とタイトルを与えられたこの雑誌にはしかし、「創刊終刊号」と銘打たれていました。つまり、1号ぽっきりの雑誌だったのです。同人は倉橋由美子、齋藤愼爾、宗田安正、寺山修司、松村禎三、三橋敏雄。これには寺山の詩・劇中挿入短歌12首(「わが地獄変」)、単行本未収録作品の19編が掲載されています。

ところがこの3月(2008年)、『月蝕書簡』と書名を付けられて、「晩年に書きためた」という未発表の歌集が出版されました。田中未知編、版元は岩波書店です。

冒頭に掲げたのはその中の一首です。「チョコレート買いに地獄へ行く」、の後に「姉の帯留赤し瀆されにけん」と続きます。
「地獄へ買いに行く」というチョコレートとはどんなチョコレートなのでしょう。そして「瀆されてしまっただろう姉の帯留」へと続く一首でどのような詩世界を作ろうとしたのでしょうか。

前半と後半をどのような想いがつないでいるのか、つかみとれないのです。


at 09:30 | Category : チョコレート人間劇場
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