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食の大正・昭和史 第七回
2008年10月29日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年--- 第七回

                              月守 晋


■ 志津さん小学校に入学

大正6年(1917)、志津さんは小学校に上がった。神戸市林田区の尋常高等小学校である。

明治元年(1868)に外国船の出入りする港として開港された漁村はその後、人が集まり町ができ、明治22年には神戸市へと発展した。市制が施行されたこの年、学区が整備され、葺合(かきあい)区・神戸区・湊川(みなとがわ)区・兵庫区をそれぞれ第1?第4学区と定めた。尋常小学校と簡易小学校はそれぞれの学区に組み入れられ、高等科の課程をもつ尋常高等小学校は第1と第2学区を併せて
1校、第3と第4学区を併せて1校、都合2校設けられることになった。

尋常高等小学校は6年生修了後に、さらに2年間上の課程を学べる学校である。

この当時の小学校は、各学区=各行政区(葺合区、神戸区などの)が設立し、必要となる経費(校舎維持費や教師の給料など)を負担する仕組みだった。基になるのは各区が所有する共有財産(宅地、畑地、山林・原野などで収入の見込めるもの)と家屋税だった(家屋税については話が複雑になるので説明を省く)。

当然のことながら裕福な区があり、そうでない区がある。

志津さんの住んでいた林田区は明治29年に新しく区になったところで、それまでは林田村だった。明治30年以降、林田区は神戸市の工業の中心地として発展し、大正10年には人口が10倍にも伸びた。就学年齢の児童数も増加したが、小学校の設置数も児童数の増加に見合って増えたわけではないので、教室は詰め込み状態になっていた。

志津さんの記憶では「高等科のあった尋常小学校に6年間通った。男女共学で1クラス40人?50人いた」ということだったが、神戸市史(歴史編?近代・現代)によると、林田区の1学級あたりの児童数は大正元年50.51、3年 57.88、6年は62.83である。神戸区の場合はそれぞれ52.66、52.67、52.42 だから、10人近くも多い。

志津さんの記憶違いでなければ、高等科を併設した高等小学校だったので、尋常小学校よりは条件が良かったのかもしれない。

もう一つ考えられるのは、大正3年(1914)7月に始まった第一次世界大戦の時期(終戦は7年11月)は教育の制度、あり方全般について見直しが始まっていて、8年3月末日に?尋常小学校、高等小学校の学区制を廃止し、神戸市営として統一する、?明治中期から行われていた教室不足、教員不足にともなう2部授業の廃止、?理科、図工、手工、裁縫、唱歌などのために特別教室を設けること、などが決められたこと、が上げられる。

この決定によって、教育費は県と市が全般的に負担し、すでに国も7年から義務教育費の国庫補助を実施していたから、教員の待遇が改善されて教員数が増加し、小学校数も8年から12年の間に新設9校、増改築37校と飛躍的に増加、改善された。

神戸市の統計が示すところでは、林田区の1学級の生徒数は志津さんが3年生の年の大正9年は54.9人、5年生の年の11年には51.6人と激減している。

話が脇道に入るが、同じ神戸市の統計で小学校教員の月給平均額の推移を見ると次のようになる。

年度          男子                   女子
大正1年      28円70銭                18円98銭
大正5年      30円20銭                20円32銭
大正7年      53円22銭                26円67銭
大正9年      93円35銭                62円57銭
大正14年      94円82銭                65円70銭

女子教員の月給は男子教員のほぼ3分の2の額であることかがこの表から読み取れよう。

神戸市は以後も教育環境を改善し充実させるためにさまざまな施策を実施している。大正15年には教室不足が解消されて昼夜2部授業が廃止され、各学区に計8校の単立高等小学校が新設された。

さらに大正8年以降、小学校の卒業生に就職する際に必要な知識・技能を身につけさせるために日清戦争後の明治29年から創設されていた湊川、兵庫、神戸各実業補習学校の教育内容も実情に合わせて改められた。週6間制の授業が隔日の3日制に、2年間の学年制が6か月の学科制に、教科面でも英語、法律、機械、製図、簿記など実践的な教科が加えられている。

神戸は外国との貿易・観光の拠点として発展したため川崎・三菱の両造船所をはじめ製鋼・ガス・鉄道などの工場、銀行・商社など関連する近代企業が多数集まっていた。これらの企業が自社の年少未熟従業員の職能アップのために、補習教育校を利用するということもこのころから盛んになっている。

志津さんは後に三菱造船所に勤めることになるのだが、実業補習校の利用にもっとも熱心だったのは川崎造船所で、社費で職工・図工・写真工をはじめ給仕・倉庫番・小使まで補習校で学ばせた。成績の優秀な者には臨時に日給を上げて学ぶことを奨励している。


<参考> 『 新修神戸市・歴史編4』
 『 図説・明治百年の児童史 』


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2008年10月22日

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食の大正・昭和史 第六回
2008年10月22日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---  第六回

                              月守 晋


■ 幼稚園の開設と普及

「幼稚園」という名称を発案したのは中村正直(まさなお・号を敬宇。明治4年『西国立志伝』を翻訳出版し多大の影響を与えた。1832-91)といわれている。世界で最初の幼児教育の施設として1837年ドイツでフレーベルが開設したキンダーガーテンKindergartenを和訳した。

わが国で最初の幼稚園は「学制」が制定されて3年後の明治8年、京都の上京区第30区小学校(柳池小学校)に付設して開園された。「幼穉(チ・おさないの意)遊嬉場」と名づけられたこの施設では定まった課業はなく、1人の女教師に見守られるなか大きな木製の積み木や絵本で自由に遊べばよい、とされていた。

残念なことにこの施設は1年半後に閉園されている。

TVタレントのタモリ氏は入園することになっていた幼稚園を入園前に“視察”に行き、団体遊戯をしている様子を目にして「あんな恥ずかしいことはできないよ」と思って幼稚園に入るのをやめてしまったけれど、行っておけばよかったなと今になって後悔してると発言していたが、幼児の興味を尊重して、1人遊びのできる柳池遊嬉場なら、喜んで通っていたかもしれない。

「学制」領布の4年後、明治9年11月16日に初めて「幼稚園」の名称をもつ施設が東京で開園した。これが東京女子師範学校付属幼稚園である。ドイツ人の松野クララが首席保母を務め、豊田ふゆ、近藤はまらが保母として働いた。お手本にしたのはフレーベルの幼児教育理論とその実践施設であるキンダーガーテンだった。

開園時の幼児数は75名、それが年度末には男児101名、女児数は57名、計158名に増えた。通ってくるのは馬車や人力車に乗せられ、女中や書生につき従われた上流富裕層のぼっちゃん嬢ちゃんばかりだったという。

その後、明治11年にこの付属幼稚園で保父をしていた豊田英雄が鹿児島県の委属を受けて同県の幼稚園施設に尽力し、翌12年には近藤はまが東京芝公園内に近藤幼稚園を設立した。

幼稚園の数は時代が下るとともに増え、明治40(1907)年には全国で園数386、保母数1066人、園児数35,285人にまで伸びている。この数字は大正6(1917)年には園数677、保母1892人、園児55,573人と増加する。しかし、同じ大正6年に神戸全市だけでも学齢児童数(年度末に6歳1日以上に達した児童数)は59,204人を数えるのだから、全国の総児童数からみればほんの一握りの上層富裕家庭の子供しか幼稚園に通わせてはもらえなかったということだろう。

わが国の幼稚園は公立よりも私立を中心に普及した。特にキリスト教や仏教などの宗教団体が布教目的で設立に尽力したことが大きく貢献している。

この稿を書くのにあたって参考にさせていただいた研究書(『図説・明治百年の児童史』上・下/唐沢富太郎著/講談社) には明治期の幼稚園教育の様子を写した写真が収蔵されている。それらは、たとえば明治23年に尾道幼稚園が年令5歳11か月になる小川亀藏少年に与えた1年10か月間の保育修了證、2人がけの長机長椅子を円型に並べてすわっている児童らの写っている華族女学校(女子学習院の前身)付属幼稚園の教場(明治31年11月号の雑誌「少年世界」に掲載された)、着物の上におそろいの白いエプロンを着て女の子は手ぬぐいをあねさんかぶり、男の子は向こう鉢巻きにして、どうやら団体遊戯を演じているらしい13人の児童たち。足元を見ると裸足だとわかる写真など、など。他にも積木遊びをしている日本女子大学校付属幼稚園の教室、蓄音機を聞いている東京女子高等師範学校付属幼稚園の園児たちの写真もある。

明治44年生まれの志津さんが幼稚園に入れてもらえる年令の数え4歳に達したころ、つまり大正3年当時、志津さんが育った神戸市林田区内に公立、私立を問わず幼稚園が開設されていたかというと、たぶん一つもなかったろう。この件については市史などの資料にあたってみてもわからないままだ。

ところで、翌大正4年に、神戸の南京街で老祥記という店が、“豚まん”を専門に売り出した。神戸の中国人町である南京街は、元町通りと栄通りの間にあり、多くの中国人が商店を構えて、当時神戸に住んでいた5500人ほどの中国人の台所を支えていたのである。豚まん1個の売り値は2銭5厘だったとか(古川ロッパ『ロッパ悲食記』)。ちなみに、この年日本で初めて売り出した米国リグレー社のチュウインガムは10銭だった。

志津さんの記憶によると、志津さんが15歳で勤め始めた三菱造船所の売店では、豚まんは1個2銭だったという。


<参考> 『図説明治百年の児童史』 上・下/唐沢富太郎/講談社
 『日本歴史事典』 河出書房


白楂古聿
2008年10月22日


3. 「白楂古聿」・・・って、何?

世界で最も短い文学の表現形式といわれる俳句はわずか17文字、17音の短詩です。31音の短歌ならば、6音のチョコレートを1首の中に詠(よ)みこむのは比較的やさしいかもしれませんが、俳句には余裕がありません。

チョコレートを詠みこんだ句を探していると、上に掲げた文字使いの句に出会いました。
これで「しろショコラ」と読みます。

漢和辞典を引いてみますと、「楂」は「いかだ」または樹木の「ボケ」で音は「サ」です。「古」はおなじみの漢字ですから問題はないでしょう。「聿」は「ふで」のことで音は「イツ」または「イチ」。

「ショコラ」はフランス語で「チョコレート」のこと。「楂古聿」でなぜ「ショコラ」と読めるのか。中国語音でしょうか。わかりません。これは鈴木栄子という俳人の句で、1句は「バレンタインデーの奇襲の白楂古聿」と詠まれています。田村ひろじというひとの『お菓子俳句ろん』という本で見つけました。この本には、
  
   春隣子が父に買ふチョコレート
                       御子柴 弘子

という句も掲げられています。

「春隣」の句はわかりいい句です。「春隣」は俳句独特の「季語」というもので、「春がすぐ近くまできている今日このごろ」の意味です。「楂古聿」の句の眼目は「奇襲の」という言葉使いでしょう。チョコレートといえば「こげ茶色」と思い浮かびますが、この句のチョコレートは「白」。そこで「奇襲の」という言葉が生きてきます。

角川書店版の『俳句歳時記』(第4版春)には次の1句が採られています。
 
   いつ渡そバレンタインのチョコレート
                       田畑 美穂女

 若い女性の気持ちそのままの一句です。


at 09:30 | Category : チョコレート人間劇場
食の大正・昭和史 第五回
2008年10月15日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---  第五回

                              月守 晋

ライスカレー、コロッケ、トンカツ、この三つが“大正の3大洋食”といわれているようである。

コロッケについては、志津さんの3男にありありと思い出すことのできる記憶がある。それは夕闇の迫った薄暗がりの台所で、母親が小声で歌いながら揚げ物をしている姿だ。

    ワイフもらって うれしかったが
    いつも出てくるおかずが コロッケ
    今日もコロッケ 明日もコロッケ
    これじゃ年がら年じゅう コロッケ
    アッハ ハッハ ハッハ ハ
    やれおかし

益田太郎冠者(かじゃ)作詞の「コロッケの唄」が実際に世の中に現われたのは大正9年のことだが、どこかペーソスを含んだこっけいな節まわしとあいまって、ことに安月給のサラリーマン層を中心に広まった。

この年、大正9年、東京の割烹講習会が馬鈴薯(ばれいしょ)の料理144種を紹介する料理本を刊行した。

馬鈴薯はそれほど食材として安価で料理がしやすく、どんな料理にも使えてしかも、おいしく食べられるすぐれものだ、ということだろう。

食材といえば、ライスカレーには必ず使われるタマネギは明治4年に北海道開拓使(それまで蝦夷地
<えぞち>と呼ばれていた呼称を明治2年北海道と改め、開拓使という行政府をもうけて農業、資源開発にのり出した)がアメリカから取り寄せて栽培を始めているし、明治19年には東京の洋食店でライスカレーが7銭で食べられたというから、必要な香料(ターメリック)もルーの形でか粉末の形でか輸入されていたに違いない。

トンカツの材料、ブタ肉は牛肉に比べるとこのころから安かった。明治27年に東京の煉瓦亭(れんがてい)がトンカツをメニューに加えたというが、38年の神戸又新日報の記事ではブタの上等肉でも牛ヒレ肉より4割は安く売られている。

トンカツのつきもののキャベツは勧業局が明治7年にぶどう、梨、りんごなどの果樹の苗と共にキャベツやトウモロコシの種子を輸入して各地に配布しており、秋田県内では明治18年に“玉茎(たまくき)”と呼ばれて栽培する農家がふえたという。

つまり、大正の3大洋食の基礎となる食材は明治時代にほぼ調っていたわけで、その食べさせ方、料理法が問題だった。

高価な牛肉のカツレツに代えて安い豚肉を使ったトンカツ、牛肉のミンチ少量をジャガイモをゆでてつぶしたものに混ぜて俵(たわら)形または小判形に丸めて油で揚げるジャガイモコロッケ、そして皿とスプーンを使って食べる洋風汁かけ飯ともいうべきカレーライス、大正の3大洋食はまさに、西洋食に対する日本的対応の精髄であったといえよう。

さて、幼女期の志津さんがどんな日を過ごしていたのか、実は本人にもまったく記憶がなかったために再現することが出来ない。ただ、実父が身近にいないとはいえ、実母には志津さんが6才になるまで、それとは教えられてはいなくても、年齢のずいぶんと離れた姉として接することが出来た。他の兄姉も“末娘”にはやさしくて、志津さんはかわいがられて育ったのだ。

しかし、幼稚園には通っていない。

この国に最初の幼稚園が出来たのは明治9年のことである。東京女子師範学校に開設された付属幼稚園がそれである。男女の区別なく満3才以上6才以下の児童を受け入れ、唱歌、修身、戸外遊び、お話の時間などドイツ式の保育が行われた。入園者は75人で、さすがに裕福な上流階級の子供で占められていた。

幼稚園数はその後も増え、大正元年に533、4年には635になっているが、保育料も年額22円と高額
だった。(次回に続く)

  参考 : 『近代日本の心情の歴史』 見田宗介/講談社


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