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キャロル・ロフ
2011年01月12日

『チョコレート人間劇場』

53「カカオの実を収穫する手と、チョコレートに伸ばす手の間の溝は、埋めようもなく深い。」
    

   『チョコレートの真実』
キャロル・ロフ/英治出版

上に掲げた文は本書の序章の最後の部分からの引用です。

世界のカカオの半分近くを産出する西アフリカ・コートジボワールの熱帯雨林地帯のカカオ農園に取材に入った著者は隣国のブルキナファソ(マリ)から慢性的な飢餓を逃れるためにコートジボワールの山深くに移り住み、国際市場商品であるカカオ生産が中心の共同農園を営む孤立した村をおとずれたのです。

「学校に行っている子供は一人もいないし、電気、電話、診療所や病院といった公共サービスはまったくない」この村の少年たちは「チョコレート」というものの知識をまったく持たぬままその原料であるカカオ生産の労働力として働き、一方でチョコレートを食べる著者の国(カナダ)の人は「それがどこから来たのか知らない」のです。

著者がシニコッソン村の少年たちにそう説明すると、少年たちは答えます。

「それならあなたが教えてあげればいい」

12章で構成されている本書はこのような経過をたどって書かれました。

3000年以上も前に自生するカカオの果実から種を取り出し、すりつぶして脂肪分の多い粘性のペーストとし、これをデンプン質豊富なトウモロコシに加えて食するというオルメカ人のカカオ調理法の紹介に始まる第1章とヨーロッパでの上層階級への普及史である第2章が、工場で多種大量に製造され販売されている現代のチョコレートに至る前史です。

19世紀初頭、オランダ人のコンラッド・バンホーテンによってココアの製法に革命が起こります。 油圧圧搾機による高品質ココアの生産です。

それを利用した新製品が板チョコの誕生で、イギリスのクェーカー教徒のジョセフ・フライによって作りだされたものです。

同じイギリス人のジョン・キャドバリーは自社製品の包装に工夫を加え消費者の感情にうったえる製品として成功します。 彼はマーケティングの重要さに気付いた先覚者の1人だといえるでしょう。

大量に製造・販売が行われるようになると、原料のカカオ生産にも激変が起き、カカオは大企業間の、あるいは国と国との間の政治的なかけ引きの対象にもなります。

その裏面でアフリカの多くの子どもが奴隷同然の生活を強いられているというわけです。

本書の原題は『ビター・チョコレート ― この世でもっとも魅惑的なスウィートの暗黒面の探究 ―』です。

あなたが口にする1片のチョコレートにもさまざまなストーリーが秘められていることを本書は教えてくれます。


関田淳子
2011年01月05日

『チョコレート人間劇場』

52「コーヒーが一般市民の飲み物であったのに対し、カカオは「高貴なる飲み物」とされた。 ヨーロッパ貴族階級では特に朝食前のベッドで飲まれていたという」
    

   『ハプスブルク家の食卓』
関田淳子/新人物文庫

ヨーロッパの歴史や文化を理解するには、ハプスブルク家の歴史研究が欠かせない、といわれます。

ハプスブルク家は「11世紀の初め、スイスのチューリヒとバーゼル間に位置するブルック近郊のハ―ビヒツブルク城を一族発生の地として誕生した」と本書に解説されていますが西洋人名事典には「始祖のグントラムは950年頃ライン川上流から上シュヴァーベン・エルザスにかけて広大な家領を所有」していたと説明しています。

ともかく本書の記述に従えば「11世紀の初め」から「1918年の滅亡まで、約650年間にわたってヨーロッパに君臨した」のです。

1273年にルドルフ1世がドイツ国王に選出された後、ハプスブルク家は巧みな政略結婚を繰り返して統治する領国を拡大し650年間もの長い間ヨーロッパに君臨したのですがそれには「運と結婚政策だけで」なく「一族の栄華を可能にした一要素に“食”も係わっているのではないだろうか」というのが本書のテーマです。

第1章「皇帝たちの食卓」に始まって第2章「宮廷料理の舞台裏」、第3章「華麗なるウィーン宮廷菓子」、第4章「栄華の象徴―食器と銀器の饗宴」と読み進んでゆくと高校の教科書などでは決して知ることのできないヨーロッパ史の1側面に触れることができます。

ことに興味を惹かれるのは所々にはさまれている思いがけない史的事実、エピソードでしょうか。 以下、いく例か抜き書きしてみましょう。

「テーブルには何種類もの料理が所狭しと並べられているが、これらのなかには、祝宴を豪華に見せることが目的で、実際には食べられない模造品の料理も多かった」(第1章/重視された晩餐会での規則)

「(カール六世)はなかでもビーバー、特に生殖器の部分をレモン汁で、またリスやサギの焼き肉にカリフラワーやイチゴを添えて食べることを好んだ」(第1章/精進料理を守った皇帝)

「(17世紀の東インド会社のオランダ商人たちは)醤油を他の日本製品とともに、ヨーロッパ宮廷に非常な高値で売りつけた。 ……ウィーン宮廷だけではない。 フランス宮廷でも肉の味をひきたてる調味料として非常に珍重された」(第1章/統治力はなくてもグルメな皇帝)

第3章ではウィーン宮廷でデザートに伴された宮廷菓子がどのように豊かな進化をとげていったかがたどられています。

内容の豊かな楽しい1冊です。


中島らも
2010年12月29日

『チョコレート人間劇場』

51「ドガキナイがあんまりうれしそうにチョコを食べるので、そのぶん余計に我々は申し訳ない気になって・・・・・」
    

   「チョコと鼻血」/『獏の食べのこし』
中島らも/集英社文庫

中島らもという作家はもうこの世にはいません。 たしか5,6年前(7,8年?)に事故を起こして亡くなったのではなかったでしょうか。

“事故”といっても車の事故なんかではなくて、泥酔してバーの階段を転げ落ちたためだったと記憶しているのですがまちがいかも知れません。

1952年尼崎市生まれのらも氏が「今夜すべてのバーで」という作品で吉川英治文学新人賞を受賞して作家としてデビューしたのが92年ということですから40歳、10代の作家誕生が少なくない近年に比べればやや遅いデビューということになるでしょうか。

掲出分の“ドガキナイ”は同級生で「九州の田舎から出てきて下宿生活をし」ている「赤貧洗うがごとき苦学生」で月末の仕送りが切れるころには餓死寸前になって畳の上でピクッピクッとケイレンしているような男、と説明はつづいています。

“ドガキナイ”のもう1つの呼び名が“八十童貞”で80歳くらいまで女性に縁がない「タラコ唇で水虫持ち」の男、だというのです。 「僕」と金満家の息子でルックスがよくて女の子にバカもてしてバレンタインには始末に困るほどチョコレートをもらってしまう同級生のコーノの2人は、“八十童貞のドガキナイ”をからかってやろうと彼の下宿に出かけます。

ケイレンしながら寝ている“ドガキナイ”の枕元に何十枚というチョコレートをばらまいてやると、彼はチョコと2人の顔を交互に見ながら

「すごいのう。パチンコか?」

といいながらたちまち3,4枚たいらげます。

それを見ながら2人は「尻のすわりが悪くなる」ような気分に襲われます。 2人は“ドガキナイ”が「バレンタインデーというものがこの世にあること」をまったく知らないのだということに気づいたからです。

バレンタインにチョコ1枚女の子からもらえない“ドガキナイ”をそのことでからかおうにも、相手がそういう世の中の流行にまったく無知ではからかいようもありません。

著者は同じエッセイ集中の「不可触球場」の項で「今の企業の方法論というのは・・・・・・無いところにマーケットを造り上げる」というやり方になっており、たとえば「アラスカにクーラーのマーケットを現出させるためには幻想の力を借り」なくてはならず「幻想には形がないが何かに仮託(マップ)する」ことができる、と指摘、次のように述べています。

「愛がチョコレートにマップされることでそこに市場が現出したように」と。


食の大正・昭和史 第百六回
2010年12月29日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第百六回

                              月守 晋


●引揚げ

哲二不在の志津さん一家が1945(昭和20)年8月15日正午の天皇の肉声による「終戦詔書」の放送を聞いたのは疎開先の北朝鮮平壌(ピョンヤン)郊外の小学校の校庭である。

約1か月後、志津さんたちは南下してきた経路を逆に北上して新京に戻ることになった。

平壌から釜山まで南下して船に乗れば1‐2月もあれば日本のどこかの港にたどりつけたはずである。

そうできなかったのは38度線以北の地域がすでに9月から侵攻を開始したソ連軍の管理下にあったためだった。

新京へ帰る無蓋車の旅は途中で何度も中断された。 列車が暗夜の線路で停止するたびに貴金属や紙幣が集められ女性が何人か姿を消した。 機関士やソ連警備兵への貢物であった。

新京の満鉄社宅のわが家にたどり着いてみると、28人もの若者が住みついていた。 北の国境付近からのがれてきた満鉄の機関士や機関助手たちだった。

志津さんたちは奥の一室を空けてもらい若者たちと同居することになった。

翌46(昭和21)年2月、ソ連軍や現地人暴徒の手を逃れて哲二が志津さんたちのもとに戻ってきた。 ソ連軍につかまっていればシベリアへ送られて強制労働をさせられ命を失っていたかもしれない。

社宅ぐらしに戻ってすぐソ連兵の略奪に2度も遭い毛皮のコート類や腕時計などを根こそぎ持って行かれた。 “マンドリン”と呼ばれていた72連発の自動小銃を抱えたソ連兵は腕に5本も6本も腕時計を巻きつけ、電燈に灯をつけようとマッチの炎を近づけた。

志津さん自身が連れ去られそうになり、4人の子どもが母親のからだや両足にしがみついて大声で泣き叫んでやっとことなきを得たということもあった。

敗戦後の新京に連れ戻された志津さん一家のくらしを支えてくれたのは疎開した当日(昭和20年8月11日)の午前中に満鉄が預貯金や積立金の解約をすすめてくれて払い戻された2千数百円の現金だった。

敗戦前ならこれだけあれば一家5人のくらしを2年は持ちこたえられたろう。 しかし敗戦後はソ連による「満州国資産」の強奪ともいえる自国への“搬出”や中国国府軍と共産党軍との内戦を予期させる混乱によって諸物価の値上がりが続いていた。

子どもたちは関東だきの屋台売りやねじりん棒の行商に手を出したがどちらも競争相手が多くて家計の足しにはできなかった。

長男の比呂美は同居していた若者にさそわれて機関区へ“石炭を拾い”に行った。 列車を編成する際に汽関車の罐(かま)でたく石炭を石炭車に積み込む。 その作業中にこぼれ落ちる石炭を拾ってくる、というのは名目で内実は“石炭ドロボウ”にほかならない。

何回目かに監視人につかまり深夜になってただ1人解放されて帰ってきたが、機関区のボスが好運にも哲二の下で働いていたリーさんだった。 リーさんは年2度の大掃除の時には手伝いに来て粟混じりの米飯を丼に3杯も4杯もおかわりする大食漢として子どもたちは親しんでいた。

敗戦翌年の3月から4月にかけて長春・奉天・ハルビンからソ連軍が撤退、中共軍が替わったが短期間のうちに国府軍の勢力下に入ると市内情勢は落ち着いてきた。

そのころから中国側は技術者や医療関係者を留用することを始めた。

旋盤の熟練工だった哲二も一時鉄道工場に呼び戻されて働いていたが4月に日本へ帰国できるという情勢になってきた。 46年4月23日に国民政府から日本人の遣送命令が出され5月7日には壺盧(ころ)島から引揚げ船が第1陣2400名を乗せて出港した。 長春の引揚げ開始は7月8日から始まり、留用を固辞した哲二は志津さんと4人の子どもたちを連れて南新京駅で引揚げ者用の無蓋貨物列車に乗り込んだ。 夜の寒さが身にこたえ始める9月21日の午後だった。

敗戦前後の約1年3か月の間、哲二・志津さんと4人の子どもたちの6人家族は何を口に入れて命をつないでいたのだろうか。

記憶に残っているのは敗戦後初めて食べたコーリャンだけを炊いたボソボソ飯と、荒天の東シナ海を航行する引揚げ者用の米軍の上陸用舟艇の船中で食べた少量の麦とコーリャン・干し大根葉・その他の混じった粥、それに広島で乗り継いだローカル線の車中で末っ子の娘が向かいの席にすわった老婆からたった1個恵まれた真っ白な握り飯の輝きだけである。

哲二・志津さん一家6人が哲二の郷里に着いたのは新京を出てちょうど1か月後の10月21日の朝だった。


この連載は今回で一応終わらせていただきます。機会と準備がととのえば、引揚げ後の志津さん一家のくらしの変換をたどってみようと考えています。


食の大正・昭和史 第百五回
2010年12月22日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第百五回

                              月守 晋


●疎開・敗戦

1943(昭和18)年春、哲二は早朝ドアをどんどんたたく郵便配達夫の声で起こされた。 速達は郷里の兄からのもので末弟人士の戦死を知らせるものだった。

人士は整備兵として搭乗していて戦闘中に乗機が撃墜されたのだった。 戦死して海軍兵曹長(へいそうちょう)に昇進されたと述べ場所はフィリピン沖とだけ書かれていた。

哲二は寝間着の上にインバネスを羽織り新京神社に向かった。

日本各地から「満州」に集まってきた満鉄社宅の住人はほとんど宗教とは無関係にくらしていた。 盆などの年中行事はもちろん先祖や親などの年忌を実行する家庭も数少なく神棚・仏壇を備えている家庭はごくまれであった。

そういうくらしを続けていた哲二が人士の戦死を知って何事かを“神”に祈らざるを得なかったのだった。

哲二は昭和17年の春、休暇を取ってわざわざ神奈川県横須賀の海軍鎮守府にいた人士に会いに行っていた。 結果的にこれが兄弟の最後の別れになった。

1944(昭和19)年になると日本の劣勢ははっきりと見えてきた。 ただ、ほとんどの日本人がそれを知らなかっただけである。

『少年の曠野』には「満州」での戦時情報には日系の新聞・ラジオの報道する「皇軍の連勝ぶりや聖戦の美談」などと「ノモンハンでの日本軍の惨敗や中国大陸での日本軍の民衆に対する蛮行エピソード、などのように邦人間にじわじわ流布されるウラ情報」、さらには現地人の間に伝わる「口コミ情報」の3つがあり、最後の口コミ情報は「軍部にだまされながら必勝を信じている日本人」には教えられなかった、と書いてある。

『満州走馬燈』(小宮清/KKワールドフォトプレス)にも同様の体験が語られている。 奉天(瀋陽)でくらし、お茶屋の下働きをしていたチャン少年と友だちになったキヨシ少年はチャンから「日本負ケルヨ、イバル人ターピーズニミンナ殺サレルネ」と聞かされる。 「ターピーズ」は「鼻の高い人」の意味でここでは「ロシア人」の意味である。

1945(昭和20)年8月9日、ソ連軍が国境を越えて「満州」になだれこんできた。 翌日ソ連機の空襲があり南新京駅付近で黒煙が上がった。

志津さんたち新京在住者には知らされていなかったが、前年の昭和19年7月29日の正午過ぎ四川省成都から飛来した米軍爆撃機B29によって鞍山製鋼所と奉天市が空襲をうけていた。 鞍山は9月26日までに5回、奉天も再度空爆されていた。

しかし、こういう情報は一般の日本人居住者には知らされていなかった。 新京の日本人は「無敵の関東軍が守ってくれる」と信じていたのである。

ところがその関東軍は大部分が南方戦線に送られて「満州」はガラ空き状態になっていたのである。 しかも関東軍は防衛範囲を朝鮮との国境を底辺として新京を頂点とする新京―図們、新京―大連を2辺とする三角形内のみを防衛すると決めていた。

つまり、この三角形外の地域に住んでいた開拓団民などは軍によって棄てられていたのである。 しかも軍は空っぽの部隊の穴埋めに開拓団の18~45歳までの男を根こそぎ動員したのである。

志津さんたちに疎開命令が下ったのは9日だった。 2月に吉林鉄道工場に転勤になり主人不在の一家の先導役は比呂美だった。

一家は11日午後、南新京駅から疎開列車に乗り、平壌(ピョンヤン)郊外の農村の小学校に翌々日に到着した。

8月15日、ここで日本の敗戦を知った。


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