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徳川幹子
2009年03月05日

10. 「(チョコレートの銀紙を)食べたあと一生懸命のばして大事にとっておいたんです」
------- 徳川 幹子(もとこ)


徳川幕府最後の15代将軍慶喜には公卿一条忠香家から嫁いだ正室美賀子の他に何人もの側室がいました。しかしどういうわけでか、生まれてきた子は正室、側室を問わず夭逝してしまい、無事に成人したのは維新後移り住んだ静岡で2人の側室、中根幸(こう)、新村信(しんむらしのぶ)が生んだ子どもたちでした。この2人はそれぞれ12人ずつ計24人も生み、そのうちの12人が成人したのです。

『女聞き書き 徳川慶喜残照』(遠藤幸威/朝日文庫)には大河内富士子夫人の談話として、乳房にまで塗ったお白粉の鉛分による中毒、日光浴のできにくい座敷の建築上の問題、それに育児経験のない女ばかりでただただ「オ大切ニ、オ大切ニ」と育てたからだと乳幼児の早死の原因を説明しています。大河内夫人の母親は側室中根幸の生んだ10女・糸子です。大河内夫人の嫁ぎ先は旧高崎藩主家、姑(しゅうとめ)に当たる国子は慶喜の8女です。夫人の話によれば、静岡で生まれた慶喜の子どもたちは果樹園をもつ農家や石屋、質屋、さらには煮豆屋といった町屋や農家に里子として預けられ、5歳になるくらいまでそこで育てられた。それで成人できたのだ、とも語っています。

さて冒頭の「チョコレートの銀紙を一生懸命のばしてとっておいた」という幹子さんは慶喜の5男仲博(母は新村信。ちなみに『広辞苑』を編集した言語学者新村出は信の義弟にあたり、東京帝大生のころ慶喜の姫様の英語の家庭教師を勤めた)、鳥取池田侯爵家の養嗣子になった人の長女ですから慶喜の孫ということになります。

幹子の生家の旧鳥取藩主池田侯爵家は因幡(いなば)・伯耆(ほうき)両国を領する32万石の大名でした。

父親の仲博は職業軍人でしたがからだをこわし退官していました。そのお蔭で銀座をはじめいろいろなところに連れていってもらえた、と幹子は語っています。

銀座へ出るには麻布の家から霊南坂を下り、葵橋の停留所から市電で新橋まで行き、新橋からは徒歩です。市電の線路ぞいには溜池があり、現在は地名とし残っているだけですが幹子が子どものころはまだ埋めたて前で、文字通り大きな池だったということです。

銀座では父親のなじみの洋服店「サエグサ」洋品店の「田屋」、名前は江戸時代そのままでもとびっきりの舶来品を扱っていた「亀屋鶴五郎」などを回り次に明治屋へ。

ここで買ってもらったのが銀紙の包み紙のチョコレート。何に使うというわけではないけれど「銀紙の光沢としみついたチョコレートの香り」が捨てるにしのびなかったといいます。

多分、みなさんにも同じような記憶があるのではないでしょうか。がらや色合いがカワイラシイ、包み紙などを取っておいたことが。

ともあれ、伯爵家のお姫様の、なんともほほえましい思い出です。

《参考》 『わたしはロビンソン・クルーソー』 徳川幹子 /日本図書センター/人間の記録⑨
      『女聞き書き 徳川慶喜残照』 遠藤幸威  /朝日文庫


食の大正・昭和史 第十七回
2009年03月05日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第十七回

                              月守 晋


●神戸市の米騒動(1)
当時、神戸市兵庫区羽坂通3丁目に住んでいた数え8歳の少女がその眼に焼き付けたのは、6尺棒を持った沖仲士や入れ墨をしたやくざ者たちの集団に、近所の金持ちの家が襲われる光景だった。「金目の品物が2階からぼんぼん投げ捨てられる」のを、志津さんは自宅玄関の格子戸からのぞき見た、という。

神戸市の米騒動の目撃者としては、当時大阪府茨木中学校4年生だった大宅壮一が日記に以下のように書き残している(『大宅壮一日記』青地晨編/中央公論社/昭和46年刊)。

8月13日 火曜日 晴
 -----神戸の鈴木商店が焼かれた。米屋の襲撃は、薪炭商、八百屋、醤油屋、家主、富豪と、どこ
まで及んで行くか知れない。   
青年会が終ると、すぐ上本町の姉の家へ出かけた。電車は上本町二丁目で停ってしまった。姉の
家の前通りは身動きもならぬ程の群衆である。

群衆は姉の家の筋向かいに鈴木商店の宿寮があったためだった。騎兵の発砲が空砲と知って散っていた群衆はふたたび集まり、折からやってきた警察車に関の声を上げて押し寄せ、窓を破った。その群衆を騎馬兵が馬頭を揃えて押し返した。

この後16日の日記には「鈴木商店の焼跡が電車の窓からみじめに見えた」と書いている。大酒家の父と放蕩者の兄に代わって家業を切り盛りした壮一は同じ日に、

「兵士、巡査、在郷軍人、壮丁等の張番をしている辻々を、麦藁帽子を冠り、風呂敷を負うた物騒な
 風体で通り過ぎるのは怖ろしかった」

とも記している。

富山の漁村の主婦たちに始まり、全国の37市、134町、139村(『近代日本総合年表 第3版』岩波書店)にまで広がった米騒動がとくに神戸市で激しかったのはなぜなのか。『新修神戸市史Ⅳ. 歴史』の説明を要約すると、第1次世界大戦の好景気で潤って「人並み」の生活が保障されるかに見えた日雇い労働層も新開地のような歓楽地に、家族そろって着飾って遊びに行けるようになっていた。ところが大正7年7月17日に政府がシベリア出兵もありうると認めたとたん市の小売米価はじりじりと上がり始め、7月2日に1斤
34.3銭だったものが23日37.7銭、30日39.5銭になり、シベリア出兵を宣言した8月2日以降は急騰し、7日には55.3銭、8日には60.8銭と7月2日の約1.8倍にはね上がった。

米価騰貴は軍需を見越した思惑買いや買い占め、売り惜しみによるもので、事情を知った市民の間に商社、問屋、米殻小売商に対する不満、怒りがたまっていた。前掲『神戸市史』によれば、好景気の余慶にあずかれなかった俸給生活者、いわゆる月給取りの中には弁当の代わりにビールびんにお粥を詰めて役所に通勤しなくてはならない者もあったという。

『神戸新聞による世相60年』(西松五郎著/のじぎく文庫)には8月12日夜、社屋を焼き打ちされた神戸新聞社が社会部記者を総動員して姉妹社の神戸社の設備を利用して発行した13日付の平版大型1ページの記事内容が紹介されている。

この記事によると11日夜湊川公園に集まった群集は12日の払暁前、いったん解散した。ところが12日午後6時ごろ、白シャツに足袋裸足、手ぬぐいの鉢巻きという約70名の1隊がどこからともなく公園に入ってくると、夕涼みをしていた者やヤジ馬などがたちまち合流し、3千500名ほどにふくれあがった。

群集は配置されていた私服警官の制止もきかず、亦流のような勢いで北新開地の電車路に繰り出した。


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