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食の大正・昭和史 第十七回
2009年03月05日

食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第十七回

                              月守 晋


●神戸市の米騒動(1)
当時、神戸市兵庫区羽坂通3丁目に住んでいた数え8歳の少女がその眼に焼き付けたのは、6尺棒を持った沖仲士や入れ墨をしたやくざ者たちの集団に、近所の金持ちの家が襲われる光景だった。「金目の品物が2階からぼんぼん投げ捨てられる」のを、志津さんは自宅玄関の格子戸からのぞき見た、という。

神戸市の米騒動の目撃者としては、当時大阪府茨木中学校4年生だった大宅壮一が日記に以下のように書き残している(『大宅壮一日記』青地晨編/中央公論社/昭和46年刊)。

8月13日 火曜日 晴
 -----神戸の鈴木商店が焼かれた。米屋の襲撃は、薪炭商、八百屋、醤油屋、家主、富豪と、どこ
まで及んで行くか知れない。   
青年会が終ると、すぐ上本町の姉の家へ出かけた。電車は上本町二丁目で停ってしまった。姉の
家の前通りは身動きもならぬ程の群衆である。

群衆は姉の家の筋向かいに鈴木商店の宿寮があったためだった。騎兵の発砲が空砲と知って散っていた群衆はふたたび集まり、折からやってきた警察車に関の声を上げて押し寄せ、窓を破った。その群衆を騎馬兵が馬頭を揃えて押し返した。

この後16日の日記には「鈴木商店の焼跡が電車の窓からみじめに見えた」と書いている。大酒家の父と放蕩者の兄に代わって家業を切り盛りした壮一は同じ日に、

「兵士、巡査、在郷軍人、壮丁等の張番をしている辻々を、麦藁帽子を冠り、風呂敷を負うた物騒な
 風体で通り過ぎるのは怖ろしかった」

とも記している。

富山の漁村の主婦たちに始まり、全国の37市、134町、139村(『近代日本総合年表 第3版』岩波書店)にまで広がった米騒動がとくに神戸市で激しかったのはなぜなのか。『新修神戸市史Ⅳ. 歴史』の説明を要約すると、第1次世界大戦の好景気で潤って「人並み」の生活が保障されるかに見えた日雇い労働層も新開地のような歓楽地に、家族そろって着飾って遊びに行けるようになっていた。ところが大正7年7月17日に政府がシベリア出兵もありうると認めたとたん市の小売米価はじりじりと上がり始め、7月2日に1斤
34.3銭だったものが23日37.7銭、30日39.5銭になり、シベリア出兵を宣言した8月2日以降は急騰し、7日には55.3銭、8日には60.8銭と7月2日の約1.8倍にはね上がった。

米価騰貴は軍需を見越した思惑買いや買い占め、売り惜しみによるもので、事情を知った市民の間に商社、問屋、米殻小売商に対する不満、怒りがたまっていた。前掲『神戸市史』によれば、好景気の余慶にあずかれなかった俸給生活者、いわゆる月給取りの中には弁当の代わりにビールびんにお粥を詰めて役所に通勤しなくてはならない者もあったという。

『神戸新聞による世相60年』(西松五郎著/のじぎく文庫)には8月12日夜、社屋を焼き打ちされた神戸新聞社が社会部記者を総動員して姉妹社の神戸社の設備を利用して発行した13日付の平版大型1ページの記事内容が紹介されている。

この記事によると11日夜湊川公園に集まった群集は12日の払暁前、いったん解散した。ところが12日午後6時ごろ、白シャツに足袋裸足、手ぬぐいの鉢巻きという約70名の1隊がどこからともなく公園に入ってくると、夕涼みをしていた者やヤジ馬などがたちまち合流し、3千500名ほどにふくれあがった。

群集は配置されていた私服警官の制止もきかず、亦流のような勢いで北新開地の電車路に繰り出した。


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