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夏目漱石
2009年07月22日

19. 「別室には珈琲(コーヒー)とチョコレートとサンドヰッチがあった。<中略>
    自分はチョコレートの銀紙を剝しながら、敷居の上に立って、遠くから其様子を
                        偸(ぬす)むやうに眺めていた。」

                     -------  『行人(塵労)』 夏目漱石
                                (漱石その1)


『行人』(こうじん)は大正元年12月6日から「朝日新聞」で連載が始められました。しかし翌年3月、持病だった胃潰瘍が再々発して中断、9月に連載が再開され11月に完結されました。

物語は二郎という青年の口から語られることによって進展していきますが、小説全体は「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」(俗世間のわずらわしい係りあい、の意味)の4部構成になってい、引用したのは「塵労」の1場面です。

二郎のもとへ5月の末、友人の三沢から招待状が送られてきます。富士見町の雅楽稽古所の案内状にそえて是非来るようにとうい三沢の手紙が入っていました。

『漱石全集』(岩波書店、‘94年刊)第8巻の注解には、宮中の舞楽が明治11年11月から麹町富士見町の雅楽稽古所で一般にも随時公開されるようになり、漱石自身、松山中学校時代の教え子で宮内省職員だった松根東洋城(とうようじょう。俳人として多大な功績がある)の口利きで明治44年6月に実際に招待されているそうです。

さえ、三沢は二郎の外にも近い将来、自分が結婚することになっている女性とその兄、そしてもう1人の若い女性を招いていました。それはかねてから三沢が言い言いしていた結婚相手として二郎に紹介するつもりの女性だと思われました。

兄妹と連れの女性の3人は二郎たちの2、3間前に席を占め、二郎には黒い髪と白い襟足がうかがえるばかりで正面からの顔立ちを見定めることは出来ません。

二郎と三沢は手足の動きの単調な雅楽の舞いを何の感興も起こせぬままただ眼に映しているだけですが、演目の変わるごとに変化する紗(しゃ)の大きな袖の下に透ける5色の紋や袖口を括(くく)った朱色の着物、唐綿の膝まで垂らした袖無し様の衣裳などには、まるで夢を見ているような気持ちを味わいます。

舞楽が一段落つくとお茶の時間になり、二郎たちとも別室に移ります。別室には冒頭に引用したように茶菓が用意されていました。二郎はそこで遠くにいる兄妹の連れの女性の様子をうかがうのです。

漱石が京都帝国大学からの招聘や東京帝国大学の英文学教授の席を断って朝日新聞社に入社したのは明治40年4月でした。

胃潰瘍の大出血のために亡くなったのは大正5(1916)年でしたから、小説に専念できたのはわずか10年に過ぎません。しかし漱石によって、日本の文学に初めて“近代的な自我”の追求が始まったといえるでしょう。

ちなみに「行人」を漢和辞典で引いてみると、①道を行く人、旅人 ②使者 ③賓客の接待をつかさどる者、と解説されています。漱石がどの意味で「行人」を題名に採用したのか、まだ定説はないということです。


食の大正・昭和史 第三十五回
2009年07月22日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十五回

                              月守 晋


●関東大震災(3)

臨時震災救護事務局調査による統計によれば全潰、半潰、全焼、半焼による被災世帯数は東京府、神奈川県、千葉県では次のとおりであった。


        全世帯数      全潰      半潰
 東京府   827,000  16,481  23,246
 神奈川   274,300  66,853  61,521
 千 葉   262,600  14,385   7,525

                  全焼      半焼
 東京府           310,371    758
 神奈川            65,029     19
 千 葉               449      -

以上の被災世帯数に埼玉、静岡、山梨、茨城4県のものを合算すると全世帯数2,122,900のうち約
35.8パーセント、592,264世帯が被害をこうむった(神奈川の場合は上記の被災世帯数には津波などによる流失被災が含まれている。)

関東大震災というともっとも被害をこうむったのは東京府下の住民だったと思い込みがちだが、被災世帯数の割合いは東京府で約42.4パーセント、神奈川県で約73.8パーセントであり、最大の被害をこうむったのは神奈川県民だったことがわかる。

作家尾崎一雄は大正9年、父親の死から始まる自伝的回想記『あの日この日』に被災体験を書いている(『あの日この日(一)』講談社文庫/昭和53年)。

郷里の神奈川県下曽我村の実家で、当日、朝寝をした尾崎は11時に母親に起こされ、下隣りの山村政治宅へ出向いた。「一緒にパンを食べよう」と誘われていて、食卓には目玉焼きと輪切りトマトの皿が載っていた。政治氏がバタやジャムをつけて皿に盛った食パンに手を出そうとしたとき、「ミシリ、ガタガタと来た」。「顔を見合してゐるとドカンと突き上げられ、二人共あぐらのまま飛び上がった。つづいて、横ざまに薙ぎ倒された。畳が生き物のやうに動き、部屋中の物が一度に倒れてきた。」

戸外に「抛り出さ」れた2人は梅の木に取りついた。(“曽我の梅林”は現在も観梅の名所として知られている)。

梅の木につかまって独楽(こま)のように振り回されて5分か10分かたったころやっと歩けるようになったので西側の道路に出てみると宗我神社の坂下の御影石の大鳥居が無くなっており足柄、箱根の山々に赤ハゲの山崩れがほうぼうに見えた。

回想記には手描きの略地図が添えられているが、倒壊をまぬかれたのは1軒だけで法輪寺と民家1軒が半壊、尾崎家を含む他の22軒はみな倒壊し死者が子供1名大人2名の3名、自力で動けない負傷者が5名出た。

収録されている小田原警察署の「震災調査表」には戸数340、人口2,090のの下曽我村で死者27名、負傷者480名、生死不明2名を出し、全壊戸数320、半壊15、倒れなかったのはわずかに5戸だけという惨状だった。小田原町では5,155戸のうち全壊・半壊・全焼で4,572戸、88.7パーセントの家屋が被災している。

余震は1日に356回、2日289回、3日173回、4日143回と続き15日を過ぎた頃からやっとひと桁(けた)台に落ちついてきた。

被災者は2日頃から飢えと渇きに苦しみはじめた。平成4年現在神奈川県茅ケ崎市に住み、自伝的回想記『三代を生きる』を出版した香川弥生子さんは震災当時は東京品川に住んでいた。明治44年の生まれだというから、志津さんと同年の生まれだ。

大地震の前にはさまざまな前兆現象が起きるといわれているがその日朝、母親がわざわざ弥生子さんを呼んで「あの赤い太陽はどうしたことだろう」と指さし2人で空を眺めたという。


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