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食の大正・昭和史 第三十四回
2009年07月15日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第三十四回

                              月守 晋


●関東大震災(2)

豊中中学校で校庭の草むしりをしていてM7.9の関東大震災の揺れを経験した西山夘三(建築家、東大名誉教授)は、学校では誰かが「地震だ!」と叫んだ程度にしか感じなかったが、矢つぎばやに出た新聞や号外で「大変なことが東京を中心に起こっている」ことをだんだん知ることになった。(『大正の中学生』西山夘三/筑摩書房)

西山が目にした号外には「地震と駿河湾大海嘯」といった見出しがついていた。

「海嘯」は津波のことである。

震源地が相模湾の深度1300メートルの海底にあったため湾南西部の海底に長さ24キロメートル、幅2~5.5キロメートルに及ぶ範囲で100~180メートルの陥没が起き、反対に北東部では100メートル以上の隆起が生じた。

この陥没と隆起の影響で津波が起き周辺の沿岸を襲ったのである。津波の高さは伊豆の伊東で12メートル、三浦半島剣ヶ崎で6メートル、鎌倉3メートル、房総半島の南端布良で9メートル、伊豆大島の岡田港で12メートルを記録した。

鎌倉に住んでいてこの地震に遭遇した当時18歳の中学生だった中村菊三は、「上下左右などというものではなく、目茶苦茶に続いた」揺れが少しおさまった後、海岸に近い長谷に住んでいた姉夫婦の安否をたずねて履物が見つからぬまま裸足で雪の下の家を飛び出した。

途中、潰れた家々から助けを求める声が聞こえてきたが、1人の手でどうにか引っ張り出せる人は助け、1人の手には余る救助不可能と判断した人には「後で」「待ってて」と声をかけるだけにして途を急いだ。とくに瓦屋根の下になっている人は重量がただならぬ上に道具が皆無だったのでどうにもならなかった。

八幡宮の二の鳥居では重なり合って落下している御影石の下になって、中年の男性が「地の中にめりこんでいる」のを見た。

江の島電鉄の由比ヶ浜の停留所では線路の上に女性の死体を見た。着物が濡れ、髪が乱れていて、大津波で押し流されてきたものと思われた。死顔が姉ではないことを確かめて、手を合わせた。

この付近では潰れた家の材木がほうぼうに積み重なって塊になってい、「倒れかかった電柱や垣根には、着物や蒲団、その他色取り取りの物が、とても想像出来ない高い所に引っ掛って」いた。

長谷の停留所裏にあった二階屋の姉の家はみごとに潰れ、庭が濡れていて、津波の到達を想像させた。

姉夫婦の姿を発見できぬまま中村は何となく海の様子を見たくなり由比ヶ浜に出ようと潰れた家屋の残骸がふさぐ途を抜けて稲瀬川の橋まできて驚愕する。

霊山ヶ崎も稲村ヶ崎も半面が赤土むき出しになっており、崩落した土砂が磯一面を埋めつくし、昨日までの美しい緑の色がまったく失せていたのである。

海は「灰色というか薄黒く、どろんとして、小波一つない不気味な静けさ」で、渚は百メートル以上も沖へ広がっており白砂は濡れた灰色に変わり「怪しい形相」を見せている。海に舟は1隻もなく「小坪(鎌倉材木座海岸に隣接、現逗子市小坪)の沖に、見たことのない大きな岩が二つ浮き上がってい」たのだった。(『大正鎌倉餘話』中村菊三/かまくら春秋社)

巨大地震は容易に地形を変貌させる。この地震と同じく「相模トラフ」を災源とする元禄16(1703)年11月23日(西暦では12月31日)の地震では房総半島南部が最大5.5メートルも隆起し「元禄段丘」と呼ばれている段丘を造った。現在の館山市の市街やJR館山駅はこの段丘上に発達しているのだという。


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