2009年12月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31
プロフィール

ベルジャンチョコレート

カテゴリー
最近のブログ記事
アーカイブ
関連リンク集
食の大正・昭和史 第五十三回
2009年12月02日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第五十三回


                              月守 晋


●志津さんの三菱造船所時代(4)―つづき②

志津さんの記憶では「木村のパン」の他に玄米パンも売っていた。

玄米パンも大正の米騒動から生まれた代用食で、タンパク質やミネラル、ビタミンが多く栄養価の高い玄米を混ぜたパンを食べれば節米にもなり一挙両得だと「玄米パン食」を提唱したのは当時の東京市長田尻稲次郎であった。『近代日本総合史年表』(岩波書店)などには大正8年に「売り出された」と記されている。

志津さんもたまには買って食べたらしく「中に何も入ってなく香ばしい味がした」そうで、大きかったが1個5銭もした。

大正9年入社の職員の回想によると「昼めし」は各人まちまちで「直営の五銭のうどんを食う者、森田食堂の二十五銭の弁当を食う者、藤井のパンを買う者など千差万別であって」とある(『和田岬のあゆみ』上)。

ある設計課員(大正9年入社の手記には「昼食休みには課長食堂の一部に店を開く美人パン屋の前に集まって、ジャンケンで餡(あん)パンを賭け…」とある。造船所に出入りするパン屋は「木村」だけではなかったらしい。

また別の職員(9年入社)の回想からは「みかど」という食堂があって喫茶や来客用の食事を作っていたことがわかる。コーヒーやケーキは執務時間中にも販売されていて値段は5銭均一、伝票にサインして月末に給料から精算された。

この元社員の手記からは社員一般が利用できる「会社直営の食堂」と「請負いの森田食堂、丸芳食堂」があったこともわかる。値段は10銭から15銭と「割安な値段」だったという。

また市電柳原線の切戸町電停近くで営業していた「かき」の専門店は、昼食前に電話で申し込めば50銭でおいしい「かき飯」を出前してくれた。50銭は志津さんの日給1日分である。

『五十年史』には「創業当時から従業員食堂を設け弁当持参者の喫食場にあて、その後専従者に経営させて和洋食・めん類を販売させ」とある。さらに大正11年9月に「工員食堂に炊事設備を設け初めて直営の工場給食を開始し」たとある。はじめは昼食だけだったが11月から残業食も始め、12月からは職員の希望者にも利用させ、その数月平均3万5千食ほどになったとも。こういう過程を経て昭和30年代以降の各企業の厚生施設としての「社員社堂開設」へとつながってきたのだろう。

●志津さんの三菱造船所時代(5)

志津さんは和服に白足袋、下駄ばきという姿で自宅から20分ほどの道を歩いて通勤した。男性に比較すると女性の洋装が一般化するのは敗戦後といってよく、志津さんの通勤姿はこのころの女性のごく一般的な姿であった。『和田岬のあゆみ』(上)に昭和の初め、会計課で高砂海岸に汐干狩に出かけたときの記念写真が掲載されている。30余人のうち女性と判別できるのは4人で、みな和服にはかまを着けている。

孫引きになるが『黒髪と化粧の昭和史』(廣澤榮/同時代ライブラリー/岩波書店)に現代風俗・世相を研究して「考現学」を提唱した今和次郎の調査が引用されている。

これは東京銀座での女性の和服と洋服の比率を調査したものでその結果は以下の通りである。

 大正14年  和服99%(33)   洋服1%(67)
 昭和 3年   〃 84%(39)   〃16%(61)
 昭和 8年   〃 81%      〃19%

 *大正14年の調査対象1180人。( )内は男性の比率。昭和8年は女性のみで調査数は462人。

志津さんも写真の女性たちのように、和服にはかまを着けて通ったのだろうか。


阿刀田 高
2009年12月02日

27. 「ジャムよりはチョコレートのほうが高級品である。しかし同じ値段なら、チョコレートのほうがはるかに品質が劣る」
    

------- 『第25話・パンと恋と夢/食卓はいつもミステリー』 阿刀田 高
 

「戦後に食べたコッペパンも忘れられない食品の一つ」と書いています。念のために「戦後」とは満州(中国東北部)事変(昭和16年)に始まり昭和16年12月8日に開戦した太平洋戦争が敗戦に終わった昭和20年8月以後、という意味です。

そのコッペパンを売る店ではジャムとチョコレートを用意してあって、どちらかを選んで頼むと楕円(だえん)形のパンを「上下二枚に切り」、包丁で切断面に平らに伸ばしてぬってくれる。でも、切断面一面には塗ってくれなくて端のほう幅1センチくらいは白いまま残してある、のです。
「近所のパン屋には同級生がいて、彼が店番をしているときは両面にぬってくれる」、つまり、ほかの人が店番のときは片側の面しかぬってもらえないのですね。

代償として著者は夏休みの宿題ノートをいつも貸してやっていたそうで、店番をする同級生のほうも夏休みの終わるころには著者がコッペパンを買いに現れるのを心待ちにしていたのではないでしょうか。パンにチョコレートを2度ぬって、夏休みの宿題ノートの答えが全部手に入るのならもうけものですよね。

このジャムもチョコレートも1斗缶に入っていました。1斗缶は10升(しょう)の分量の醤油や食用油などが入る長方形の缶で、パン屋の業務用のジャムやチョコレートはこの缶に入っていたのです。

「1斗缶に入っていたのはチョコレートをほんの少量だけ入れた混ぜ物だったろう」というのが著者の推察ですが、戦後の食糧事情を考えれば当然そうだったろうと思えますし、誰もが冒頭の文のような判断に達するはずです。商品の質が優れていれば値段も高くなるというのが常識です。「チョコレートと言えば、ハーシーの板チョコは目がくらむほど豪華な菓子だった」とも書いています。

これは阿刀田だけではなく、敗戦後に進駐軍の米兵からチョコレートをもらって食べた経験のある当時少年だった多くの人々の回想に「こんなぜいたくなものを食っているアメリカとの戦争に負けたのは当たり前」だという感想がよくあります。口にしたものが、アメリカ兵の戦場で支給されるレーション(1食分の弁当)のことも多いのですが(レーションにはハーシーのチョコレートがついていた)。

阿刀田高にはミステリーや奇妙な味のユーモアや恐怖小説が数多くありますが、さまざまな分野にわたるエッセイも書いています。

『食卓はいつもミステリー』には45話の「食」に関するエッセイが詰まっています。



ブログ内検索

ブログ内の記事をキーワード検索
関連リンク
メールマガジン
当ブログを運営する(株)ベルジャンチョコレートジャパンで発行するメールマガジンは、チョコレートをこよなく愛する皆さまを会員として特別なイベントや商品、レシピの紹介などをしています。ご興味のある方は是非ご登録ください。
メールマガジンを購読
メルマガバックナンバー
Copyright (C) 2007 Belgian Chocolate Japan ,Ltd. All Rights Reserved.