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食の大正・昭和史 第七十七回
2010年05月26日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十七回

                              月守 晋


●朱雀御坊の長屋ぐらし(1)

朱雀御坊の三軒茶屋でスタートした志津さんの新婚生活はまず、共同で使う井戸と便所になれることから始められた。

長屋の内にも小さな流しとガス台がついており、そのうえ“おくどさん(かまど)”までついていた。 しかし志津さんはガス代の節約を考えて薪(まき)を燃やしてくどで煮炊きをすることのほうが多かった。 薪を使えばおき(燃えさし)で消し炭(けしずみ)がとれ、消しずみで七輪(土製のポータブルなこんろ)も使えたからである。 (七輪は「七厘」とも書き、1銭に満たない七厘で買えるほどの木炭で煮炊きに間に合うことからといわれる)。 

薪は哲二が勤めからの帰りに買って運んできてくれた。

京都でも明治期からガス会社が事業を始めており、ガスを家事用に使う家も多かったという。 それでも京都の町にかまどが多く残されたのは、京都・大阪周辺では「かまどは家についたもの」という風習があり「かまどなくして家なしとまで考えており、畳・建具は借家人持ちとする借家であっても、かまどは家とともに貸し与えられる。燃料用のガスが入っていても、この家を借りている住人は、自由にかまどを撤去することはできない。(『台所用具の近代史』古島敏雄/有斐閣)」という事情があり“おくどさんつき”の長屋に住むことになったというわけである。

ちなみに家庭用のガス料金は志津さんが結婚した昭和6年では1㎥当たり7銭5厘だったという(ただし東京ガス:『物価の文化史事典』)。

屋根がついた井戸は手こぎのくみ上げ式ポンプで、周囲が半畳分ほど空き地になっていた。 この空き地が洗たく場になり、米をといだり野菜を洗ったりという日々の水仕事の場所になる。 この井戸を4軒で共同で使っていた、と志津さんはいう。

“井戸端会議”ということばがあるように、顔を会わせれば世間ばなしに花が咲いたことだろう。 志津さんはここを台所代わりにもしていたという。 「薄暗い長屋内の流しを使うより明るくて気がせいせいした」というのだが、七輪を持ち出して煮炊きでもしていれば京都地産の“京野菜”の料理法を教えてもらえるという余得もあっただろう。

「野菜は土を選び、水を選ぶ。 最も適した土地で綿々とつくり伝えられて、京都特有の野菜はできあがった」と『聞書京都の食事』(日本の食生活第26巻/農山漁村文化協会)は地名を冠した次のような野菜をあげている。

聖護院かぶ、聖護院大根
賀茂なす
壬生(みぶ)菜
堀川ごぼう
鹿ヶ谷かぼちゃ

志津さんの娘にいわせると志津さんは「煮物が上手だった」という。 三菱に勤めに出ている間にも養母みきから料理のことは多少は習っていただろうが、京都の長屋に移り住んで井戸端で同じ長屋の小母さんたちから教わったことのほうがむしろ多かったにちがいない。

京都では1年を通して鮮度と味のよい野菜が供給されてきた。 それは精進料理、懐石料理を発達させた寺社仏閣が多いという文化史的側面と相まって、気候や水はけのよい肥沃な土壌といった自然条件にも恵まれているからだと、前掲の『聞書京都の食事』に説明されている。

さらにこうした野菜の食べ方に京都人の生活文化が密接に関係しているのだ、と。

たとえば堀川ごぼうは一家の健康と繁栄を祈って正月料理に欠かせないし、鹿ヶ谷かぼちゃは7月25日の安楽寺のかぼちゃ供養の火に中風(ちゅうぶう)除けとして食べられるのである。


岸田今日子
2010年05月26日

39「ティラミスも食べたことはあるけれど、こんなに話題になっているとは知らなかった」
    

   『外国遠足日記帖』岸田今日子/文春文庫

70年代に「ムーミン」というフィンランドの女流作家トゥーベ・ヤンソン原作の物語をテレビ局がアニメ化して放映し、子どものみならず大人たちまで夢中になった時期がありました。

主人公のムーミンは河馬そっくりの姿をしていましたが河馬ではなく、「トロール」と呼ばれる妖精です。

TVアニメ「ムーミン」の声を担当したのが岸田今日子で舞台と映画で数々の演技賞を受賞した名優でした。父親が劇作家・小説家の岸田国士、姉は詩人の岸田衿子です。

『外国遠足日記帖』と『スリはする どこでする - 続・外国遠足日記帖』には80年代から90年代にかけて、友人と一緒だったり(吉行和子、富士真奈美)、行き先によっては朗読会の仕事をしながら楽しんだ外国旅行の様子が描かれています。

岸田さんはどうやらあまりチョコレートやケーキ類を口にすることは少なかったようなのですが、旅先で摂った食事については実に個性的な感性でおいしさ・まずさを表現しているのでその面白さを紹介してみようと思います。

たとえばインド旅行のプーナという町ではインドで初めて中華料理を食べに行き、吉行和子さんと2人「菜食主義を守って、お豆腐とか野菜そばとかを食べ」、ゆですぎたスパゲッティのような「そばのスープに醤油をたらしてしみじみと飲」んだりします。

ロンドンのシェラトンホテルでは「もう一度飲んでみたいほど」の「ワイルドマッシュルームのスープ」を、「オテロ」を観る前には“大衆ホテル”のコーヒーハウスで「固形洗濯石けん」のようなチーズに「ただゆでただけのラムのレバー」にこれも「ただゆでただけのニンジンとグリーンピースが山のように乗ったハンバーガー」を食べる羽目に。

フィンランドの旅ではスモークサーモンはどこで食べてもおいしいことを確認し、トナカイの肉は「ちょっと匂いがあってパサパサしている」ことを知ります。

フィレンツェでは南瓜(カボチャ)の花の天ぷらが「サクッとして」おいしいことを知り、ギリシアのクレタ島では「生(な)まのアーモンドは瑞々(みずみず)しくて甘い」ことを知ります。

吉行さんに富士さん(とその娘さん)と行ったスペインのバルセロナのホテルでは、「ピクニック」と称するお弁当を一人ずつ持たされます。これがなかなかのもので3種類のパンを使ったサンドイッチには生チーズ、厚切りハムと野菜がはさんであり、オレンジと洋梨が1個ずつつき、さらにオリーヴのびん詰と紙パック入りのジュースがつくという充実ぶり。富士さん母娘はオリーヴが大いに気に入って、岸田さんと吉行さんの分までぺロリと食べてしまいます。


食の大正・昭和史 第七十六回
2010年05月19日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十六回

                              月守 晋


●京都の路面電車

新婚当時の哲二の職業は京都市営の路面電車(正式名称は「京都市営電気鉄道」)の修理工であった。

京都はよく知られているように日本の都市ではいちばん最初に路面を営業電車が走ったまちである。

それは明治28(1895)年2月1日のことであり、走らせたのは「京都電気鉄道株式会社」であった。区間は塩小路東洞院から伏見油掛まで6.7kmの伏見線である。同年4月には木屋町鴨東線(京都駅前―木屋町二条―南禅寺)の4.6kmと木屋町二条―堀川中立売間の2.8kmが開通した。その後も路線を延ばしていったが、明治45年6月11日に市営電車が営業を開始、京電と市電の併立時期に入るのだが大正7年7月、市電が京都電気鉄道株式会社を買収し統合された。市電のほうは1435mmの標準軌間だった。

明治28年に初めて京都市内を走った電車は長さ約6m、幅約1.8mの定員16名という小型のもので、車体は木製で開業当時は動力のモーターが1個だったがその後2個に改装された。モーター1個では力不足だったのである。

京電の軌間(レールとレールの間)は1067mmの狭軌で単線、定員はすぐに28人に訂正されているがスピードは時速約10kmだった。現在42.195kmのマラソンを世界のトップランナーなら男性の場合2時間05分台で走るのに比べるといかにものんびりしている。

実際に開業当時は正式の停留所が設けられてなくどこでも乗れ、「降ろしとくれやす」と声をかければどこででも自由に降りられたのである。

その電車を走らせる運転台には正面にも左右にも囲いがなく、雨のときには雨合羽(あまがっぱ)を着こみ、降雪のときには防寒具を身につけて運転しなくてはならなかった。

しかも京都府の「電気鉄道取締規則」によって「告知人」を乗せていなくてはならなかった。告知人は12歳から15歳くらいまでの少年で会社の直接雇用ではなく、請負いの親方のところから送られてくる。つまり“派遣労働者”だった。

少年たちの仕事は道路の交差するところや通行人の多い街路にくると電車から飛び降りて電車の前を走りながら「電車が来まっせ、危のおまっせ!」と叫ぶのである。明治29年1月現在で21名の告知少年がいたというが、社名入りの半纏(はんてん)を着て昼は旗、夜は提灯を持って“先走り”した。そして電車が無事通り過ぎた後、電車を追いかけて走りふたたび飛び乗るのである。飛び降り飛び乗りに失敗してけがをする少年も多く、会社は再三先走りの廃止を市当局に願い出るが「夜間のみ廃止」が認められたのが31年9月のことであり、電車の前面に救助網を取りつけたりして事故防止に対処したため37年11月にやっと全廃になった。

乗車賃は1区2銭で2区が4銭、半区1銭という区間制だった。3区半だと7銭という計算になる。割安の回数券もあり54区分で1円、60区分も1円だった。通学乗車券は2区間1か月分が1円25銭(大正7年当時ですでに市電になっている)である。

哲二が市電からもらっていた給料がどれほどだったかはわからない。新婚当初、志津さんは哲二から毎月15円渡されていた。15円あれば2人分の生活費としてじゅうぶん足りたし、残業手当もついていたので余裕があった。哲二は煙草は吸ったが酒は下戸で盃1杯飲むと真っ赤になって寝てしまった。ただ賭け事が好きでよく競馬場に出かけた。しかし生活費を喰い込むようなことはなく、たまにもうけたときには生活費の足しにと渡してくれた。

しかし結婚して数か月後、哲二は市電をやめて国鉄(日本国有鉄道、JRの前身)に勤めを変えている。


食の大正・昭和史 第七十五回
2010年05月12日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第七十五回

                              月守 晋


●京都の新居

昭和6年6月、“山崎の小父さん”宅で広島県出身の哲二と仮祝言を挙げた志津さんが結婚生活をスタートさせたのは京都であった。

住まいは当然のことながら借家で、それも三軒長屋のうちの1軒だった。長屋というのは文字通り長い建物を壁で仕切って借家にしたもので、表通りに面さない裏長屋がふつうであった。広さも間口が9尺(約2.7m)、奥行きが2間(けん、1間は6尺、1尺≒30cm)と狭く、前に入口と台所を兼ねた土間、その奥に1部屋の気取って現代風にいえば1Kという借家である。

トイレは共同トイレ、水道は引かれておらず井戸を共同で使う。しかしありがたいことに志津さんたちの長屋は部屋がもう1部屋奥についていて2部屋あった。

しかも家賃が月50銭と格安だった。

これにはわけがあって、哲二は当時京都市営の路面電車の修理工場で働いており、市電の七条千本の停留所に近い「すずめ寿司」で朝晩の食事の世話を受けていた。

ほとんど毎日顔を見せて店の賄い料理を食べ、月々の支払いをきちんとする哲二を店主は信用し何かと世話をするようになっていた。哲二が結婚すると聞いて、地元の事情にくわしい店主が伝手を頼って探し出し斡旋してくれたのである。

志津さんの話では「このあたりは朱雀御坊のあったところ」だという。

現代の京都の市街は基本的に8世紀末に創建された平安京の設計プランが生きている。基盤の目のように整然と区画された平安京の中心に大内裏(だいだいり)の朱雀門から真っすぐ南の羅生門(らじょうもん)まで朱雀大路が通じていた。現在の千本通りである。大内裏を背にして右手を右京、左手を左京と呼んだのである。

朱雀は都を守護する四神の一つで南の方位をつかさどり、鳳凰(ほうおう)の姿であらわされる。ちなみに北方をつかさどるのが亀であらわされる玄武(げんぶ)、東方が青龍であり西方が白虎である。

「朱雀」の名称は現在も地名として残っている。七条通りの北側、山陰本線の西側の中央卸売市場や新千本通り、七本松通りにはさまれた一帯である。幕末ころの地図にはこのあたりに「朱雀村」の名称が記されている。

現在市販されている京都市街図を見ると、新千本通りが七条通りに突き当たる七条新千本の信号機を西へ100mほど行ったところに「七条千本」というバス停があり、さらに西へ200行くと七条七本松の信号機、その南に権現寺がある。地図によってはこの権現寺に並んで東側に「朱雀御坊」の名と卍の印を落し込んであるものがある。

志津さんのいう“朱雀御坊”がこれかもしれない。

「坊(ぼう)」は方形に区画された土地のことだが、「寺」の意味でもある。「坊門」はまちの門のことだし、僧侶の住まいを「僧坊」という。

哲二・志津の新婚夫婦が住むことになった長屋はかつて、「朱雀御坊」で雑用に従事していた人たちの住居に当てられていたのかもしれない。

≪参考≫『京都時代MAP』新創社編/光村推古書院


星野知子
2010年05月12日

38「引率のおばさんと、シャイでおとなしい少年も一緒にキャラメルやチョコレートを食べると、ギクシャクした雰囲気が次第になごんできた。」
    

   『トイレのない旅』星野知子/講談社文庫

NHKの朝のTV連続ドラマ「なっちゃんの写真館」でデビューした女優星野知子はその後、ドキュメンタリー番組のリポーターとしても活躍しはじめました。そしてその時の旅の出発時から帰国するまでの一部始終を秀抜な文章にまとめて高い世評を受けました。

『トイレのない旅』はそうした1冊で、シカン文明の遺跡を訪ねるペルーへの旅、辺境の少数民族のくらしの現状に触れた中国・雲南省への旅、雁の渡りの研究者を取材したシベリアへの旅それぞれのドキュメントです。

冒頭の一節は1992年にシベリアの大湿原で雁の渡りを共同研究することになった日ソの学者グループの研究現場を取材した時のもの。

この旅は御難つづきでまずハバロフスクの飛行場に迎えに来ているはずのコーディネーターが来ていません。カートがないため40個568kgの機材・食料を全員汗まみれになってバスへ運び込むのに2時間もかかってしまいます。

チェックインに1時間もかかったホテルではぬるく塩辛いボルシチにパサパサのパン、油臭いイクラに固いシシカバブ、みずみずしいキュウリだけが取り柄の食事の10人分の代金5500ルーブル/40ドルに、4倍以上にもなる170ドルを請求される始末です。

朝4時半出発予定の飛行機は13時間遅れでやっと飛び立ち2時間後に中継地のマガダン空港に到着しますが、1時間後に出発予定の次のフライトはまたしても大幅に遅れ実際に出発したのは翌朝7時。

実質4時間のフライトに28時間もかかったわけは、どうやら燃料のガソリンが調達できなかったためらしいとわかります。

さて「引率のおばさんと、シャイでおとなしい少年」は、一行の中の1人がロシア語ができないのにどう意思を通じさせたのか、目的地が同じだと知って、勝手に引率者に選んでしまったという2人で飛行機の出発を待つ間ポケットに入っていたお菓子を分け合って食べたという場面。

おなかに何かを入れることができ、空腹をやりすごすことができれば腹を立ててはいられない、というのはどこの国の人でも同じだというわけです。

さて星野さんはタイトル通りにシベリアの大湿原ではあり合わせの木を4本立て、帆布を壁代わりに釘でうちつけた電話ボックスほどのトイレを使い、中国雲南省の農村ではコンクリートの床に穴をあけただけ、仕切りも屋根もない公衆トイレを経験し、シカン文明遺跡の発掘現場では、人目を気にしなければどこでもトイレにしてもよい、ただし藪蚊を避けることができれば、ということを学んだのでした。


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